00.夏の暑さがやわらぎ

 夏の暑さがやわらいで過ごしやすい季節がやってきた。昼中はまだ暑いが朝晩は肌寒さを感じる。
 日が暮れて辺りがどっぷりと藍色になれば、秋の虫が一斉に鳴き出す。そんな虫たちの声が掻き消されてしまう賑やかさを纏っているのは、ウォールローゼにある歓楽街である。

 ゆらりと揺れるはオイルランプが放つ影。ときおり視界に入る薄煙は鼻につく紙巻煙草だ。落ち着いた雰囲気の小さな酒場はリヴァイの行きつけだった。
 テーブル席は空いている。が、あえてカウンター席を選んで腰掛けたリヴァイの隣には、今夜の連れであるエルヴィンがいた。

「何にする?」
 カウンター越しから、酒焼けの低い声で注文を伺ってきたのは店の女主人である。年齢を聞いたことはないが四十代くらいだろう。すべてのパーツがボールのように丸い、いわゆる中年太りの女だ。
 一見お喋り好きな女に見えるけれどそうでもない。客が話相手を必要としていないときは長年の経験から察して放っといてくれる。逆に愚痴りたいときは嫌な顔一つしないで、むしろ楽しむかのように相槌を打ってくれる。また、客の秘密を他言しないところも気に入っていた。

 慣れている様子で、エルヴィンが女主人の背後にある酒棚を指差した。
「ウィスキーを頼む。戻ったらまた一仕事あるから水割りがいいな」
 毒々しい朱の口紅を塗った唇で、女主人は了承の意で笑む。次いでリヴァイに両眉を上げてみせた。「あなたは?」と言っているのだろう。
「同じものでいい。だがストレートだ」
「氷はいらないのね、分かったわ」
 二重顎の顔で浅く頷いた女主人が、のったりとした動作で酒を用意し始めた。

 両腕をカウンター上で組んだエルヴィンが気遣わしげな瞳を寄越してきた。
「ロックのほうがいいんじゃないのか」
「好きなように飲ませろ。酔いたい日もある」
 そう言い、怠いので片肘を突いた甲で頬を支えた。
 趣味の悪い指輪を三本の指に嵌めているぱんぱんに膨れた手が、二つのグラスを差し出してきた。
「できたわよ。ゆっくりしていってね」
「ありがとう」
 グラスを手にしたエルヴィンが口をつける前に問いかけてきた。
「で? こんなところへ連れてきて何の話があるというんだ?」

 琥珀色の酒をぐっと胃に流して、リヴァイはグラスを置いた。
 ストレートはやはり強い。一瞬で喉とみぞおちが熱くなった。あまり食欲がなくてまともに食事をとっていなかったせいだろう。空きっ腹ではないが多少隙間風のような感触があるので、このままでは胃を荒らしてしまうかもしれない。
 小皿に盛ってある安そうなナッツを摘む。噛み砕いてから本題を切り出した。

「次の壁外調査だが、真琴を置いていこうと思う」
「ここでないと言えない話だったとは思えないな」
「お前と飲みたいときもある」
「それは光栄だ」
 おどけるように言ってからエルヴィンは口許を緩め、
「だが痛手だな、猫の手も借りたいほどの人員不足なのに。一人置いていくことさえも惜しいのだが」
 面白そうに碧眼を揺らめかせるエルヴィンを、リヴァイは冷めた眼つきで見る。
「惜しいなどと思ってねぇだろ。むしろ邪魔だと思ってんじゃねぇのか」

 くつ、とエルヴィンが喉で笑った。
「置いていきたいのなら構わないが、それなりの理由はあるんだろう?」
 感情を隠している表情がぼんやりと映りこむグラスを、リヴァイは傾けた。ランプの灯火を受けてきらりと反射する。
「あいつを連れていって厄介事が起こると困るだろう」
「厄介事ね。ドジを踏むとかではないんだろう? 裏切り行為を懸念しているのか」
 さらりと放った言葉にリヴァイは眼を見張った。笑みを湛えたエルヴィンが横目した。何もかも見透かした深い瞳だ。

「俺の眼は曇っていないぞ。いつかは参ったな、憲兵団本部でお前と真琴が消えたときは」
 どう出ようかと、タイミングを見計らって言葉が紡げないリヴァイを無視して続ける。
「問題にならなかったのは俺が人肌脱いで謀ったからだ。何しろ憲兵が殺されて、うちの部下が二人して忽然と消えたら怪しまれるのが道理だろう」

 もっともである。あの日、くだらない体裁と見栄がはびこる会議室をリヴァイは中座した。その際、部屋の外で待機している真琴の姿がないことを別段驚きはしなかったものだ。何となくそんな予感はしていたのだ。そのあとで遺体が白日の下に晒されれば、ふいにいなくなったリヴァイと真琴が一番に疑わしいと思われるのは至極当然のことである。

「やったのは真琴じゃない」
「ならばお前か?」
 悪びれずにエルヴィンは返してきた。リヴァイが鋭い眼光を投げればとふっと笑う。
「冗談だ、俺は信じているよ。ただしお前だけだ。だが真琴に殺しができるとは思っていないがな」
「それならなぜ真琴を疑う」
「お前も疑っているんだろう」
 眼光を緩めないリヴァイを見て、困り顔で眉を上げたエルヴィンが水割りを含んだ。からんと氷が崩れる。
「話す気はないのか」

 問われたリヴァイは押し黙った。エルヴィンとリヴァイが真琴を疑う理由は共通していないが、探るような蒼い瞳にはまだ思うところがあるように見えた。
(何だっていうんだ。真琴を不審に思っている根拠が、何かほかにあるとでもいうのか)
 数種類のナッツが混じった皿から一摘まみしたエルヴィンは、何でもないふうに発した。

「彼が入団してきたときに身辺を少し調査した」
 リヴァイが僅かに眼を見張ったのを見やってから、ナッツを砕く乾いた音をさせてエルヴィンは口にした。
「驚くことじゃないだろう。いくら信頼している相手からの紹介だとはいえ、中途で入団してきた者を無条件で信用するほど俺は生ぬるくないぞ」
「疑う何かが出てきたのか」
 表情の色をがらりと打ち消し、エルヴィンは瞼を下げてグラスを見つめる。
「――いいや」
 態度を訝しく思った。リヴァイは先を促してみる。
「何だよ、もったいぶるな」

 両肘を突いたエルヴィンが重々しく口許で手を組んだ。
「何も出てこなかったんだ」
 釈然としないリヴァイ。氷が溶けて薄い黄褐色になってしまった酒に視点を合わせているエルヴィンが、もう一度告げた。
「ここ数ヶ月のことと貴族の遠縁という戸籍以外、『何も』出てこなかったんだ。おそらく戸籍は最近になって作られたものだろう」
 何が言いたいか分かるだろう? と言いたげに鋭敏な視線を向けてきた。

 ひんやりともしない常温のグラスをリヴァイは無意識に強く握った。ロックにすればよかった。いまは冷たい刺激がほしかったと胸の内で舌打ちした。頭を冷却して物事を冷静に組み立てたいのに、手のひらの温度とさほど変わらないグラスが気持ち悪かったのだ。
「過去がないのか」

 エルヴィンが重く頷いた。この男が凡ミスをするはずはないと心のうちで分かっていながらも、念を押さずにはいられない。リヴァイは難じた。

「手抜かりでもあったんじゃねぇのか。本当によく調べたのか」
「そんな不手際をするわけないだろう、その道のプロに頼んだんだぞ。そいつも眼を丸くしていた」
 驚いて当たり前だ。過去のない人間なんていないのだ。人は産まれてから何らかの足跡を残しながら生きていく。それらをすべて消し去りながら日々を過ごすなどあり得ないのだ。ならば過去がない――この真実は何を意味するのだろう。

 思慮深い瞳でどこを見据えているのか、エルヴィンがカウンターを指で三回叩いた。
「忽然と現れた。――この表現が一番しっくりくると俺は思う」
 そんなことは尚更あり得ない。牢獄のような淀んだ壁の中でどこから突然にして現れるというのか。
 そういえば、とエルヴィンは顎をさすって自分に問いかけるかのように独言した。
「超大型巨人と鎧の巨人も、突如として現れたんだったな」
「確かにいきなりだったが、あれは壁の外から来たんだろうが」
「壁の外……そうだな、うん」
 呟きを呑み込んだエルヴィンは固い表情を解いた。由々しき面持ちで考えを巡らせているリヴァイをちらりと見てくる。

「あえて彼と言い表すが、なぜ分かりやすい嘘をついているのかも興味がそそられるな」
 弾かれるようにリヴァイは眼を見開いた。まるで平手打ちされたみたいに、一気に脳内がクリアになって目が覚めた気分である。
 控えめな笑みをエルヴィンが浮かべた。
「お前のことだ、とっくに気づいているとは思っていたが……やはりか」
 ひどく不快になってリヴァイは舌打ちをした。
「どこまでもタヌキな野郎め」
 顔を逸らして投げやりに酒を煽る。反応に満足したのかエルヴィンは喉で笑ってから口を切った。

「真琴を置いていくことは了承した。――で? 俺にこれだけ喋らせておいてお前はだんまりなのか?」
 エルヴィンの面に愉快な色が帯びた。グラスを女に差し出してリヴァイは二杯目を催促する。
「概ねてめぇと均しい見解だ」
「嘘だな」
 確信を持って言い切られ、リヴァイはただ瞳を光らせて見据える。

「身辺調査のような面倒なことを、お前がするとは思えない。憲兵団本部であの日何があったんだ?」
「何もない。腹が痛いと言うから連れて帰ったまでだ」
 動揺を捨て去ったリヴァイは淡々と返し、エルヴィンは嘘っぽい笑みの瞳で問い詰めてくる。
「入り口を通った奴はいなかったらしいぞ。あとは二階の窓が割れていたそうだが」
「碌にしゃんとしねぇ酒びたりな門番の意見など、信憑性がねぇ。窓は風で割れたんだろう、嵐だったからな」

 鼻から息を出すようにしてエルヴィンが笑った。
「口が固いな。まあ、だからそばに置いてるんだが。しかし隠されてばかりでは、いざというときに助けてやれないぞ」
「大事にはなんねぇよ」
「そうか、ならば真琴のことはお前にまかせる。だが調査兵団に仇なすのなら――分かってるな?」

 冷厳な態度を見せたエルヴィンと眼を合わせず、厳粛な顔色で頷こうとした。が、操り人形になって脳天を糸で引っ張られているのか、顎を引くことが困難だった。
 エルヴィンが言っていることは裏切ることがあれば始末しろという意味だ。リヴァイ自身も真琴に忠告したはずだけれど、どうして頷けないのだろう。

「用は終わりだな」
 リヴァイの返答をさほど気にしていないエルヴィンが腰を上げた。勘定をカウンターに置く。外套を引っ掛けて帰ろうとする彼を女主人がとめた。
「遊んでいったら?」
 そう言って二階に続く階段を差し示した。

 吹き抜けになっている二階はカウンターと並行して廊下に手すりが設けられており、その先に扉が並んでいる。扉の中は個室になっていて娼婦が待機しているのだ。このような酒場のスタイルはここら辺では珍しくない。

 苦笑してからエルヴィンは首を振った。
「仕事が溜まっていてね、とてもそんな気にはなれないな」
 では先に帰るよ。とリヴァイに言い残して店を出ていった。

 リヴァイは二杯目を一気に煽ってグラスを置いた。傍らのカウンターに置きっぱなしの勘定を見やる。どうやら二人分の金を置いていったようだ。
(足りるな、俺が払う必要はねぇか)
 幾ばくか余ると思うが釣り銭はチップだ。立ち上がり、椅子に引っ掛けていた外套を手に取った。帰ろうとすると、さっきと同じように女主人が声を掛けて奨めてきた。

「遊んでいきなさいよ。最近めっきりご無沙汰でしょう?」
「気分じゃない」
 反吐が出そうな感じで吐き捨て、リヴァイはカウンターから離れようとした。確かに最近女を買っていない。酒を飲みに店へ来ることはあっても、二階へは立ち寄らずに帰ることが多くなった。

 もっともらしい理由は疲れているからだが、もともと睡眠が浅い体質では疲労感が蓄積しやすく、もうずっと昔から疲れっぱなしなのでただの言い訳のような気がした。性欲が失せたわけでもないのに、どうしてか女を抱く気分になれないのである。
 なぜなのかと自問しているリヴァイは身内を分かっていない。――自分の中を旅していけば厳重な鍵が掛けられている扉を見つけられる。その扉の向こうにいる眩しい女に心を絡めとられているせいなのだと、いつ気づくのか。

 断ったのにも関わらず女主人はまだ奨めてくる。
「新しい子が入ったのよ」
 二階に向かって声を張り上げた。
「アンナ――っ!」

 女の声で扉から顔を出した若い女が、手すりに腕を預けて見降ろしてきた。興味はなかったが何となく見上げた瞬間、微かに瞳をしばたたかせてしまった。
 ほんのり透け感のある白いロングドレスを纏った、豊潤な身体つきの女。肩から胸に垂れるまっすぐな髪の毛は黒髪だった。

「……東洋人」
「なかなかの上玉だろ」
 ぽつりと呟いたリヴァイの反応を見て、満更でもなさそうに女主人は唇をしならせた。
 見とれてしまっているが、女の身体や顔が好みだからではなかった。色白さと黒光する髪にただ瞳が奪われていたのである。
 心ここにあらずで、押し寄せる白波のように二階への階段を登っていた。「毎度あり」と女主人の声が背後に掛かったが聴こえていなかった。

 狭い個室でベッドに腰を降ろし、アンナが湯浴みを済ませるのを待っていた。膝の上で組み合わせた手を何となしに見降ろしているリヴァイは、帰ろうかと思い直していた。アンナが消えてからというもの、徐徐に心が凪いできてしまい、そうなると途端に抱ける気がしなくなってくる。――が、アンナを見れば心にさざ波が立ち、やはり欲しくなってしまうようだった。

 薄いネグリジェを纏ったアンナが洗面所から出てきた。
「あなたも入るでしょう? いま新しいお湯に代えてもらいますから、もう少しお待ちくださいね」
 化粧台から香油を手に取って首許につけようとしている。素早く立ち上がったリヴァイは、アンナの手から香油を奪ってそばの丸テーブルへ乱雑に放った。
「なんで」
 眼を丸くしたアンナにリヴァイは言い放った。
「余計な香りはいらない。石鹸の匂いで充分だ」
 言いながらベッドへと手を引くと、アンナは慣れているだろうに頬をぽっと染めた。

 とにかく急いていて、アンナをベッドに組み敷いた。鮮やかな唇を無視して首許に顔を埋める。
「待って、あなた湯浴みがまだ」
「待てない。店へ来る前に兵舎で風呂に入ってきた。汗も掻いてねぇんだ、いいだろうが」
 焦らすこともせず、邪魔なネグリジェを半分苛立ちながら乱暴に剥いでいった。圧しようとする強引さは、アンナを娼婦という立場から普通の女に変えてしまったようだ。

「押しが強い人ね。本当はダメなのに」
「店のルールなんぞで興ざめさせるな。娼婦だろう、客を楽しませろ」
「香油くらいは付けさせてほしかったわ。――んんっ」
 うるさいので、たわわな両の乳房を揉みしだき、強く吸って黙らせた。
 余計な匂いはいらなかったのだ。身体から放つ石鹸の甘い香りと、黒髪から醸し出す花の香りだけでいいのである。香油など塗られたら、それこそ脳裏を過る女ではなくなってしまう。重ならなくなってしまうからだ。

 ――それからは求めることに夢中になっていた。燭台から放たれる弱い明かりしかない狭い室内の壁で、男と女が欲をぶつけ合う影絵が動めいていた。
 アンナの唇から零れ出ている甘い果実のような喘ぎ声が、脳裏の女とだぶってしまう。
(アイツも切なく喘ぐのか)
 しっとりと汗ばむアンナの白い腕が、産まれたままの姿で貪るリヴァイの首に絡みつくと、妙に愛しく感じてしまう。
(アイツもこうして男を求めるのか)

 アンナを転がしてうつ伏せにさせた。ほどよく豊かな腰を引き寄せ、熱く滾っている欲望をぶつける。快感がたまらないといったふうに背中を反らし、甘い声で鳴き続けているアンナのうなじに口づけを落としていく。
 盛りのついた獣然で、抜けるような白い背中にリヴァイはしがみついてアンナを求め続けた。汗と一緒に蒸発しているのか、香り立つ黒髪に唇を落としていく。そうしてうなじから背筋に沿っても唇を滑らせていった。

 身体の深いところから本能がほとばしりたいと暴れ、リヴァイの眼球をちかちかさせてきた。肌と肌の密着をいっそう強くさせる。すべすべな肩に噛みつきながら、咆哮じみた低い唸りとともに燃える淫欲をアンナに吐き出した。
 久しぶりの交合は全身をすこぶる怠くさせた。荒く息を切らしているリヴァイは、ベッドに崩れてしまったアンナの背中にあるホクロをそっと触れる。情事のあとは身体の熱が落ちていつも心が冷めきるのに、どうしてか今夜はほっと胸を撫で下ろしていたのだ。

 ――アイツはこんなところにホクロはない。ならば抱いたのはアイツではなかった。
 自分でも嫌悪するほどの薄汚い欲望を放ったのが、あの女ではなくてよかったのだとリヴァイは息をついたのである。

 半身を起こしたアンナがシーツを巻きつけ、甘い余韻が残る唇を開いた。
「あなた、女の名前を口ずさんでたわよ、ずっと」
 意想外な言葉を気怠げに囁かれてリヴァイはひゅっと息を呑んだ。彼女は妖艶に微笑む。
「驚いた顔ね。まさか無意識だったの? 私は別に気にしないわ。好きな女を重ねて抱きにくる客は多いし、よくあることだもの」
 本当に気にしていないようで、長い髪の毛を払って仕事は終わりだとばかりに洗面所へ入っていった。

 無気力さが身体に満ちる。ベッドに身体を投げ出して、小さな窓から覗く藍色の空を眺めた。今宵は不気味に赤い下弦の月だった。


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