10.甘い香り、清涼感のある香り2

 扉はすぐに開き、顔を出したのはハンジだった。
「遅かったねー」
「すみません。時間かかってしまって」
「いや、用意させて悪かったね。お湯持って来てくれてありがとう」
 温顔で言い、ハンジは真琴の手にするお盆を取ってローテーブルに置いた。

「失礼します」と小声で呟いて真琴は室内に入っていく。ハンジに促されて、リヴァイの座る正面のソファに腰を降ろす。
「お茶にしよう、お茶にしよう」
 ハンジはクッキーのラベルが貼られた小箱の蓋を開けて、リヴァイは紅茶の茶葉が入っているであろう缶を開ける。
 ふわりと紅茶の香ばしい、フルーティーな香りが部屋中に広がった。
 ドザールスプーンで、ポットに茶葉を入れるリヴァイを見て、とっさに真琴は手を伸ばす。上司にお茶を入れさせるわけにはいかない。

「ボクがやりますっ」
「いい」
「でも……」
「しつこい。俺好みの味がある」
 紅茶にはこだわりがあるらしく、少しうるさいのは知っていたが、上司に入れてもらうのはやはり抵抗がある。
 もじもじしていると、ハンジが真琴の肩にやんわりと触れた。
「いいんだよ。やらせておけば」
 真琴は頷いて持ってきた菓子を皿に出した。ハンジは早速ぽりぽりとつまみ出す。

「うまいね! これ」
「ウォールシーナの出店で売っている、お気に入りのやつなんです」
 言いながら真琴もつまむ。こぶしより一回り小さいチョコレート色の焦げ目がついた菓子は、口に含めば外側はカリカリの食感で内側はむっちりと弾力のある食感。カスタード風味が口いっぱいにとろける。
「うーん。やっぱシーナのお菓子は上品なお味だなぁ」

 口をもぐもぐさせてハンジがうっとりした顔を見せると、目の前に紅茶が出された。そしてお礼も言わずに飲んで、
「また紅茶が合うんだなぁ」
 真琴の前にも差し出される。「ありがとうございます」と小さく言って入れたての紅茶を口につけた。
「おいしい……」
 口の中の甘さと、ほんのり渋めの紅茶が中和されて、何個も菓子を食べられそうだ。

 リヴァイがカップを持ちながら、
「おい、ハンジ。食い過ぎると豚になるぞ」
「明日訓練を頑張れば平気平気」

「いいや」
 リスのようにほっぺたを膨らませるハンジを、冷然と見つめながらリヴァイは組んだ脚に片肘を突く。
「お前は飯もアホなくらい食うんだ。それにいい加減いい歳だろう。一度ついた贅肉は二度と取れないぞ。若いころの気分でいるとあとで泣きをみる」

 どきっとしたのか、ハンジは口をもごもごさせている。中身をどうしようかと悩んでいるのだろうか。だがとりあえずは飲み込むことにしたようだ。

 真琴はリヴァイの言葉が少し気になった。ハンジがいい歳だといったが、いくつくらいを指しているのだろう。
「ハンジさんて、おいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「二十代前半ですか?」
 真琴が答えると、ハンジは両の人差し指で頬を突く。ぶりっこする感じで、
「嬉しいこと言ってくれるなぁ。私ってそんなに若く見えるのかぁ」
 
 リヴァイの瞳がどこか白けた。
「俺と二歳〜三歳しか離れてねぇよな、確か」
「あー! リヴァイ! 私の歳がばれるから、それ以上はやめてね!」
 些か慌てた様子で、ハンジは両手を掲げて何度も交差させる。女ゆえの恥じらいがあるのだろう。考えてみれば、女に対して年齢を尋ねるなど失礼なことだった。
 聞こえない、とでも言うかのように、リヴァイは視線を窓の外に彷徨わせる。
「俺が三十代だから、お前は……」
「だぁぁぁぁ!」

 言葉を遮ろうと喚くハンジの傍らで、真琴は眼を丸くしていた。
 ――三十代……?
 もしかしてそうかなと思ったことはあった。たまの口調が年配のそれだったりすることがあるから。だから基本は二十代として接してきたのに。
 三十代前半か後半かでかなり変わるが、そこはともするとハンジの年齢を誤魔化すために濁らせたのかもしれない。

 目の前で誰かの手が振られている。
「真琴〜? そんなにびっくりした?」
 はっとして苦笑しているハンジに向き直る。
「えっ!? あ、いや、すみません」
「なーんで謝るのさ。べつにいいよ」
 正面の視線に気づいて瞳を上げる。リヴァイと眼が合った。無表情で何を思っているのか、彼はすぐに視線を逸らした。
 とりあえずハンジの年齢は、若くても二十代後半と言うことになるだろう。もしかすると。

「ハンジさんって結婚されてますか?」
 ハンジは眼を丸くする。
「え!? してないよ。してたら兵舎住まいしてないって」
「あっ。……そっか」
「適齢期はとっくに過ぎたよな」
 失礼なリヴァイの発言だったが、ハンジは怒るでもなく笑いを混ぜた。

「最近は晩婚化してるんだよーだっ」
 でも、ま。と苦い笑いをする。
「私は結婚はいいやと思ってるよ。強がりじゃなくてね」
 てっきりからかうものかと思ったリヴァイだが、彼は眼を伏せ気味にして静かにカップを口に運ぶ。
 真琴は上目遣いにハンジを見る。
「なんで、ですか?」

「伴侶を失くした仲間を何十人と見てきてね、もう悲惨たらないよ。残された者は本当に可哀想で可哀想で、慰めの言葉すらかけられなかった」
 真琴は相槌を打つ。
「あれを見たら私はいいかなって……。自分が死ぬのはどうってことないんだ。ただ残された者のことを思うと」
 それに、とハンジはカップを置く。
「むしろ大事なものはないほうが、闘いに没頭できる」

 似てる、と真琴は思う。細かな部分は違うのかもしれないが、根底のところがリヴァイと似てると。リヴァイも大事なものはいらないと言った。共通して恐れているのは哀傷。
 結婚すら躊躇させてしまう調査兵団は、罪深いのかもしれない。人間の幸せを奪うのだから。子孫を残すという女にしかできない喜びを味わうこともなく、ハンジは人生をまっとうするのだろう。
 リヴァイもハンジの気持ちをよく理解している。だから普段なら嫌味を言ったりするのに、ただ黙っているだけを決め込んでいるに違いない。

 ハンジは真琴に淡い笑みを見せた。
「真琴は? 好きな子いたりするのかな?」
「え?」
 唐突な質問に動揺して、思わずリヴァイのほうを見てしまった。眼が合って、真琴は誤魔化すように視線を天井に移す。
 ――馬鹿。なんで見てんの。
 胸の高鳴りに気づかないフリをして真琴は答える。

「いませんよ、そんなの」
「へぇ。じゃあ選り好みだ」
 ん? と真琴が疑問符を顔に浮かべると、ハンジはにやりと笑う。
「中性的だって女の子たちから人気だよ、真琴って」
 なんか複雑……と真琴は思いながら、この世界でも草食男子ブームなのかしらと首をかしげる。
「実感はないですけど、ホントだったらありがたいです……」

「真琴は結婚に対してどう思う? 家庭を持ちたいとかあるの」
 真琴は上目遣いをした。女としての素直な気持ちはどう思っているのだろうと思案する。
「そうですね。人間って弱点だらけじゃないですか。完璧な人間っていない。だからひとつの人間になりたくて、人間は寄り添う人を求めるのかなって思うんですけど」

「人間って弱いからね」
 うんうん、とハンジが頷くのを横目で見ながら、
「相手の苦渋を受け止めても、苦にならないほど愛する人ができて、その人に自分を預けられるほど、愛してくれる人がいれば結婚すると思います」
「じゃあまだ独身ということは、そこまでの人には巡り会えていないということかぁ」

 なんとなく視線を落として、真琴は正面の男の、組んだ脚に垂れる筋張った手を見つめた。そうして理想の人と重ねた無意味な思考を、高鳴る血潮とともに無理矢理洗い流す。
 ――この世界で求めても、意味がない。
 なんだか口が重い。湿りがちに真琴は答える。

「そういうことに、なりますね」
「そっかそっか。でもいいと思うよ。結婚するしないに限らず、生き方は人それぞれだからね」
 言ってハンジはリヴァイを見やる。
「リヴァイは私と同じ考えだったっけ」

 俯き加減に真琴は瞳を上げた。視線を伏せたリヴァイはソファーに凭れて腕を組む。
「ああ」
 だが、とリヴァイは言い、伏し目がちな瞳が真琴のそれと一瞬だけ交差した。いつもより色濃い群青だった。
「――お前と同じ主観だというのがどうにも気に入らん」
 片目を細めてハンジを嫌そうに見ると、組んだほうの足を揺らした。

 やっぱり、と思って真琴は密かに溜息をついた。でもこれで良いのかもしれない、と胸の中の深いところで安堵した。
 リヴァイがマコに多少なりとも思いがあるのは、何となく気づいている。でもマコは嘘の人物であって真琴ではないのだし――それに結ばれることは、この先ないのだから。
 だったらふたりして線を引けているのなら、本気になることはあり得ない。もし真琴の引いている線が燃えて消えるようなことがあっても、リヴァイが線を引いているのなら、間違いが起こることはないだろう。

 窓の外は深い群青色。雲ひとつなく満天の星が煌めく。
 晴れでよかったと真琴は思った。今夜は花火大会があるからだ。あまり気は進まないのだが、自分で作った花火が上がるのだと思えば、そうでもないと思う真琴がどこかにいた。
 そろそろ屋上へ行こうと扉のドアを開けようとしたとき、誰かがノックした。

「真琴、いる?」
 扉の外から聞こえる声はペトラだった。真琴がドアノブを捻って開けた先にはペトラの笑顔があった。
「どうしたの?」
「一緒に行こうと思って」
 どうやら真琴を誘いに来てくれたらしい。その気持ちに嬉しく思いながら、ふたりは屋上へと続く階段を昇った。

 着いたときにはもう花火大会は始まっていて、胸に響く低い音とともに空には鮮やかな花が次々と描かれていた。
 芋洗い気味に茣蓙に座る兵士たちのなかで、一塊になっている若い女グループの中のひとりがペトラに向かって手を振った。
 たぶんペトラはそっちに座るのだろうと思って、真琴はどこに落ち着こうかと眼をきょろきょろさせた。するとペトラが真琴の手を引く。

「え。そっちは女の子ばっかりだけど……」
「いいじゃない。みんな気にしないと思うよ」
 それはやはり中性的だからなのだろうか。そう思いながら真琴は女たちに囲まれながら腰を降ろした。
 酒をついでもらいながら、真琴は打ち上げられる花火より、周囲の雰囲気に違和感を感じた。
 ――なんだかお通夜みたい……。

 みんな口数少なく、寂しそうな笑みで空を見上げていた。真琴の知っている花火大会の雰囲気ではないので戸惑う。
 傍らのペトラを見やれば、やはり同様の表情。そしてちびちびと酒を含ませていた。
 響き渡る轟音に掻き消されないよう、真琴はペトラに問いかける。

「なんでみんな寂しそうなの?」
 空を見上げていたペトラは真琴に視線を落とした。
「そっか。真琴は初めてだっけ」
 ペトラは眉を下げて微笑む。
「調査兵団の花火大会はね。いわゆる弔いなの。一年間のうちに亡くなった仲間への」
 真琴は眼だけで先を促す。

「花火大会のたびに、四分の一くらい知ってる顔がいなくなってる。どういう意味か分かるよね?」
「遠征で、亡くなってるから……」
 兵たちを見渡しながらペトラは頷いてみせた。
「来年の花火大会は、また知った顔がいなくなってるかもしれない。ひとつの思い出をみんなで作るとともに、今年観れなかった仲間に対しての供養なの」
 言葉を紡げない真琴にペトラは言う。
「私も来年は観れないかもしれない。もし真琴が来年も花火大会を観れて、そのとき私がいなかったら、花火を観ながら思い出してくれたら嬉しい」

 胸が張り裂けるような痛みに、真琴は言葉を失いそうだった。だけど無理矢理に喉をかっ捌いてでも、伝えずにはいられない。ふつふつと怒りと悲しみが湧いてくるから――どうしてそんなことが言えるのかと。
「そんな悲しいこと言わないで。自分の死なんて想像しないでよ。例え話でも笑えない。嬉しいなんて言われても、困る!」
「なんで、怒るの?」
 ペトラが戸惑いながらも眼を丸くしたから、真琴は口をわなわなと震えさせて絞り出す。
「だって――」

「みんな覚悟してるよ。来年はここにいないかもしれないって。そういう思いでいまここにいるの」
「どうして諦めるのっ」
 ペトラは困ったように儚く笑う。
「諦めてるわけじゃないの。命をかけてるだけなの。分かって?」
 分からない。分かってくれないのはペトラのほうじゃないか、と真琴は悲痛に唇を噛んだ。なぜか泣きそうになってきて空を仰いだ。
 こんな悲しい花火大会があるだろうか。ますます嫌いになってしまいそうだ。

「……真琴?」
 気遣わしげなペトラの声で、余計に顔が歪んでいく。
「幸せ、望んでいないの? ボクとペトラは歳変わらないでしょ。好きな人と結婚とか、夢みたりしないの? 来年いないかもしれないだなんて、そんなこと」
 美しい花火がひどく憎らしかった。藍色のなかで、耳障りな爆音を伴う鮮やかな色を睨みつけて真琴は続ける。
「僅かな幸せのために、また来年も花火を観ようって思えないの」
「泣かせないで真琴……。これが私の選んだ道なの」
 そう言って、目許に光るものをそっと拭うペトラの顔は、悲しげだった。

 望んでいないわけじゃない。人並みの幸せを。だけど信念を持って調査兵団に入ったペトラは、きっと大切な何かを捨てたのかもしれなかった。
 ――駄目だ。こんな花火大会、観たくない。
 すっと真琴が立ち上がって去ろうとすると、後ろからペトラの呼び止める声が聞こえた。無視して屋上の出口に向かった。そして
 出口付近で丁度やってきたリヴァイとばったり鉢合わせする。

 軽く会釈だけしてすれ違おうとした真琴の腕を、リヴァイが掴んできた。
「どうした」
「べつに」
 上司に対して失礼な物言いになった。悲しみと何かの嫌悪感が混じり合って、冷静じゃなかったからだろう。
 振り払おうとする真琴の腕を、リヴァイはさらに強く掴んでくる。掴まれた部分から冷えていくのを感じていた。

「想像した花火大会とは違ったか」
 びくりと真琴は肩を揺らした。
 きっと街ではいまごろ、誰しも花火を楽しんでいることだろう。なぜ調査兵団の花火大会だけ、こんなに物悲しいのか。

「逃げるな」
 感情なく言い、リヴァイが掴んだ真琴の腕を引き寄せて、正面に向き直らせようとしてくる。勢いのままに振り向いた真琴は、自分の髪が頬をくすぐって不快に眉を顰めた。うざったかった。
「逃げる?」

「お前も調査兵団のひとりだろ。ここにいる、義務がある」
 逃げる……。俯いてもう一度呟いてから、言葉の意味を呑み込んだ。そうして真琴は瞳を上げて、きつく言い切る。
「逃げる? 逃げてるのはどっち? ボクじゃない。あなたたちだ」
「なんの話をしている」
「命の捉え方の話」

 リヴァイは眼を見張る。真琴は眼に力を入れた。そうしないと涙が零れてしまいそうだったから。
「なんで最初から諦めるの」
 悠然としてリヴァイは答えた。
「諦めてなどいない」
「生きるのを諦めてる」
「違う」

 落ち着き払った、その眼に感情が乱される。真琴は眼を瞑って唇を噛んだ。
「違くないっ。ペトラは命をかけてると言ったっ。覚悟をしてると言ったっ」
「なぜお前はそれを、生きることを諦めてると結びつける」

 いやいやするように真琴は頭を振る。
「だってそれは死ぬ覚悟じゃない!」
 額に手を添えて、リヴァイが重く溜息をついたのが見えた。
「お前、そう言ってペトラを責めたんじゃないだろうな」
 ぎり、と拳を握る真琴を見て、リヴァイはもう一度溜息をついた。
「どうすりゃ分かってもらえるのか……」
 そう言ってリヴァイは真琴の腕を引きながら近くの手すりに凭れた。
「よっぽど恵まれていたんだ、お前は」

「そうやって誤魔化さないでほしい。命に対する観念の違いでしょう」
「ならば、どう言えば納得する」
 思い詰めた調子で真琴は吐露した。
「生きる、覚悟をしてほしい……」
 リヴァイは眼を見開いて、そして顔を少し逸らした。
「ぐうの音も出ねぇな。そもそもが違う。心臓を捧げてるわけだからな」
 やっぱり受け入れてもらえなかった。相容れない……。

 空は大輪の花を咲かせるのに、ここはお葬式のようで。哀愁漂うこの場から消え去りたいのに、傍らの男は掴んだ手を離さないから。
 零れそうな涙を空を仰ぐことで呑み込んで、夜空を彩る派手な花々を、何とはなしに切ないと思いながらただ眺めた。
 咲き誇る花火は儚く散る。永遠に咲き続ける花もなければ永遠の美しさもない。同じ花火は作れないという一期一会に、ここにいるみんなの命が重なって悲しかった。

 ――あ。
 真琴の作った花火玉が夜空に咲いた。群青色の花は思っていた通り地味だった。
 ――でも私は好き。
「悪くない」
「え?」
 眼を丸くして真琴は振り向いた。視線に気づいたリヴァイが横目をよこす。
「なんだ。俺が花火を褒めちゃ可笑しいか」
 ふるふると真琴は首を振った。
「花言葉は縁と絆……」
「なんの話だ」
 怪訝に首をかしげるリヴァイに、真琴はただ淡く笑みを見せた。

 次に夜空に咲いた花は花ではなくて、しんみりする周囲にほんのちょっとだけ笑みを誘った。
「めがね……」
 呟いた真琴の言葉通り、なんとか眼鏡に見える花火が空に打ち上げられたのだった。
 眼鏡といえば、すぐに思い浮かべるのはハンジだ。彼女の悪戯心だろうか。
「毎年湿っぽくて適わねぇからな」

 その言葉でリヴァイの作成した花火玉なのだと分かった。黙々と作っていたのはこれだったようだ。
 ざわ、と笑みがところどころに上がって、誰かがハンジをからかう声がする。その楽しげな声に、収まった涙がまた込み上げてきてしまって真琴は慌てて上を向いた。

 眼鏡は連発して何個も上がる。それを追うように真琴の作った花も。
 最後の花火が散って夜空には煙だけが残っているとき、エルヴィンが凛々しく立ち上がった。
「来年も皆で花火を観よう。ひとりも欠けることは許さない」
 凛とした声だった。

 顔が歪む真琴を見ながらリヴァイは囁く。
「お前と同じ思いのヤツがいたようだ」
「知ってて、黙ってたんですか」
「さぁな」
 あなたはどう思っているの。そう聞きたかったが、きっと聞くまでもないと口を閉ざした。
 悲しい花火大会。だが来年まだここに真琴がいたならば、またみんなで一緒に花火を見たいと、そう思った。

 花火大会のあとは、全員でウォールローゼにある河に向かった。これも毎年恒例だという。真琴は何しにいくのか分からないままただ後ろからついていく。
 河に近づくにつれ人の影が多くなってきた。そして眼に飛び込んできた光景に真琴は息を呑んだ。
 天の川のようだった。夜のせいで黒い河にたくさんの星が煌めいていた。それは星ではなくて、橙色の蝋燭の明かり。

 ――灯籠流し……。
 この時期は日本でいう、お盆の時期にあたるのだろうとようやく知った。果たして灯籠流しという言葉が通じるのかは疑問だけれど。
 調査兵たちは河辺に寄って、手に持つ和紙のようなもので囲まれた蝋燭を河に放つ。風もない今夜は、ゆらゆらと静かにゆっくりと流れていく。
 どんな思いで灯籠を流すのだろう。そう思うと胸が熱くて同時に締めつけられた。
 そのときだった。真琴の傍らにいたリヴァイに声がかかったのは。

「お久しぶりです」
「ああ」
 女の声にリヴァイは振り返って、やや抑えめの声で返した。
 ――あれ? この人って。
 花屋の女店員だった。女は翳りのある笑みを見せる。
「またこの時期が来ましたね。例のお花、用意しておきます」
「ああ。頼む」
 短く言うと、リヴァイは河辺のほうにゆっくりと歩いていった。
 ――例の花?
 女は真琴に向き直って会釈した。

「一昨日はどうも」
「いえ、こちらこそ。――あの、お知り合いだったんですか?」
 控えめに訊けば女は頷いた。
「ええ。私の夫が……リヴァイさんの部下だったんです」

 だった……。聞かなくてもなんとなく分かった。女が大事そうに持っている灯籠と、寂しそうな目許を見れば。
 女は河に瞬く明かりを眺めながら続ける。

「もう三年になります。月日が経つのは早いわ。あの人がこの世からいなくなってしまったときは、毎日ときがとまったかのように、一日が地獄だったけれど」
 真琴は女の眼に浮かぶ雫をただ見つめた。
「その、いまは……立ち直れたんですか……?」
「絶望に呑まれて河に飛び込んで死んでしまおうと思ったときがあったの」
 息を呑んだ真琴に、女は安心するような笑みを見せる。

「でもね。そのとき、お腹にあの人の赤ちゃんが宿っていることに気づいたの。だから死ぬことを踏みとどまれたし、いまもこうして毎日忙しく生きてる」
「お子さん……三歳?」
「来月ね。あの人の生き写しみたいにやんちゃなのよ」
 女は幸せそうに目許を緩めた。
 悲しみを乗り越えて、いまを必死で生きている片割れがいる。喪うという絶望のその先に、代わりに得た新しい命を抱えて。

 真琴は女に視線を向ける。
「さっきの、花って……?」
「毎年この時期にね、たくさんの切り花を買っていかれるのよ」
「なぜ?」
「亡くなった調査兵のお墓に供えるために。――でもね」
 真琴はただ頷いてみせる。

「ふつうは毎年、必要な花の数が増えると思うでしょ? それだけ調査兵は命を落としているんですもの」
「そう、ですね。少なくとも去年の倍の花の数は、要りますよね……」
「でもね。決して倍にはならないの。毎年多少上下するけど大体同じ分だけ買っていくわ」
 どうしてだと思う? 女が真琴に対して首を傾けたので、分からないと緩く首を振った。

「背負いきれないからだと私は思うの。あの小さな背中では、すべての兵士の魂を背負っていけないからだと思うの」
 そう言って、少し遠目に見えるリヴァイの背中を女は見つめる。
「だから一年の今日を区切りにして、兵士の魂たちとお別れするのね。一年……、遺族にしたら短すぎるわ。もっと心に留めておいてほしい。だけどあの人にそんなことを望んだら」
「潰れてしまう……」

 女は頷く。
「私ね、花屋を始めて六年目なのだけど、そのときからあの人ずっと花を買い続けているのよ」
「……六年も」
「できる? そんなこと。――普通は死に慣れてしまうものじゃないのかしらって思うの。人が死ぬということに涙を流すこともしなくなれば、無感情にもなってしまうものなんじゃないかって」
 でもあの人は。と女はつらそうに息をはいた。
 「六年よ。六年も……。だからね、私の夫をあの河のランタンとともに、一年で背中の重荷から切り離したときも、感謝こそすれ非情だなんて思えなかった。思えなかったのよ……」
 ほろりと女は涙を流した。

 真琴は頷くこともできずに、ただ黙って聞き入るしかなかった。だって頷いたら涙が零れてしまう。河辺にいるリヴァイの背中が、とても小さく儚げに見えて、まるで悲鳴をあげているように見えた。
 ――女だったなら……。マコだったなら……。
 マコだったなら、その背中を抱きしめてあげられるのに。包んで代わりに泣いてあげられるのに。

 女は灯籠を持って河辺に向かっていく。そしてふいに振り返った。
「命を大事にね。悲しむ人がいるということを忘れないで」
 それだけ言うと去っていった。
 一昨日の、女の調査兵団に対する激励は本音だったのだと、真琴は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 灯籠を受け取って、さり気なく真琴はリヴァイの傍らにしゃがみ込んだ。
 リヴァイはまだ灯籠を流しておらず、じっと蝋燭の炎を見つめていた。無表情だったが、顔に映り込む蝋燭の明かりと揺らめきが、なんだか悲しげだった。

 真琴が隣にいることに、ようやく気づいたといった感じでリヴァイは瞳を寄越した。
 寂しげに真琴は微笑む。
「少しだけ、余裕があるんです……。少しだけなら預かるから……。だから、一緒に……」
 そう言って真琴は灯籠を河に差し出す。するとリヴァイも、ゆっくりとした仕草で灯籠を河に手放した。

 ふたつの灯籠は寄り添いながらゆらゆらと流れていって、やがてたくさんの魂の灯火へ紛れ込んでしまい、どれが自分たちの灯籠なのか分からなくなってしまった。
 言葉足らずな真琴の真意を、リヴァイは気づいただろうか。
 ちっぽけな存在の真琴では、苦しみも悲しみもほんのちょっとしか受け止めてあげられない。けれど少しでも分けることで楽になるのなら、救われるのだと信じて。

 おこがましいのかもしれない。それに真琴が勝手に分けてもらったと思い込んでいるだけ。なのに。
 胸の中は苦しみと悲しみばかり。その中で弱い明かりだけど蝋燭が灯る。それはきっと、たったひとさじの幸せの光なのかもしれないと、真琴は思った。

 お盆が過ぎればあっという間に夏季は過ぎ去り空は秋晴れ。真琴がこの世界へ来てから、半年の月日が経とうとしていた。


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