06.頬杖をつきながら空を眺めて

 頬杖をつきながら窓を眺めていた。群れをなした野鳥が青い空を羽ばたいてく。
 調査兵団本部の二階にある会議室。その一番後ろの長卓で、暇をもてあましているリヴァイは片脚を揺らしていた。十四時から班長会議だというのに、まだぽつぽつとしか前方に頭が見えないのである。
 リヴァイは舌打ちをした。
(三十分前行動は基本中の基本だろう)
 言わずもがな、リヴァイが会議室へ訪れたときは一番乗りだった。早く来すぎて苛々してしまうのならば、次からは五分前行動にしよう、と風に流される雲を見つつ思ったのだった。

「やあ、隣いいかい?」
 十分前にしてようやく現れた声の主にリヴァイは横目を投げた。
「先約済みだ。お前は目が悪いんだろ。一番前に座れ、ハンジよ」
「嘘をおっしゃる、空いてるくせに。それに眼鏡をかけてるから良く見えますよ」
 椅子を引いて図々しく腰掛けたハンジは、いきなり首を垂れてしおれた。
「空は清々しいほど青いってのに何だか憂鬱だよ」
「そうは見えん。お前はいつも憎らしいほどに能天気だ」
「ありがとう」
 嫌味を褒め言葉に変換してハンジはにこりと笑った。

 前日のうちに班長へ配られた資料をリヴァイは卓の上で捲る。
「俺は別に嫌じゃないが、ゴミが増えることに関して言えば憂鬱だ」
「えー。ブービー賞に当たったら最悪だよ?」
「一昨年は、お前がブービーを引き当てたんだったな」

 ムンクの叫びのようなポーズをしたハンジが顔を突き出してきた。
「もう、そりゃあ、大変、だったよ!」
「分かったから顔を近づけるな」
 言いながらリヴァイはハンジの顔面を手で押しのける。
「今年もお前の班かもしれん。よかったな」
「他人事のように言っているけど、リヴァイが引くかもしれないよ」
「俺が引くわけねぇだろう」
 ふっ、と鼻で笑ったリヴァイは再び窓の外を眺めた。

 五分遅刻してエルヴィンは会議室へ現れた。前方の黒板前で立ち、声を張り上げる。
「では会議を始める」
 黒板には白いチョークでこう書かれていた。
 ――第五回、調査兵団本部一般公開の実施。

 二年に一回だけ、調査兵団は一般公開をして多くの市民に見学してもらうのだ。訓練の様子を見てもらったり、立体機動の疑似体験をしてもらったり、恒例のカレーも提供するのである。
 毎回好評で多くの市民がやってきてくれるのだが、その中には調査兵団に所属している家族も含まれる。普段調査兵団がどういう過ごし方をしているのか、一般市民は想像がつかないだろうから、家族を含めてありのままを見てもらうのだ。
 その目的は、調査兵団に対する国民の理解と関心を深め、より一層の信頼と協力を得るためにほかならない。少々面倒くさいが、兵団は市民の血税で運営されているのだから文句も言えない。

 面白くないのは、このような市民に対するアピールを調査兵団だけが請け負っていることだ。憲兵団や駐屯兵団で行われることはまずない。厄介事はすべて調査兵団に白羽の矢が立つのだから納得がいかないというものだ。
 もう少しエルヴィンにはしっかりしてもらいたい、とリヴァイは思う。しかし三兵団の中で肩身が狭いのも知っているので、致し方ないのかもしれなかった。

 資料を手に取ってエルヴィンが説明を始めた。
「二年に一回ということと、初めての班長もいることだから、順を追って詰めていこう。まず開催日だが、二週間後の今日だ。準備期間が短くて皆には申し訳ないが、何とか間に合うよう調節してくれ」
 班長たちを見渡してから、背後の黒板に向き直ったエルヴィンはチョークを手にした。
「催し物だが、一昨年に実施したものは――」
 言いながらチョークで箇条書きしていく。
「本部見学ツアー、立体機動装置の展示、立体機動疑似体験、日常訓練見学、音楽演奏、カレー」
 一通り書いたエルヴィンが正面に向き直る。
「このほかに追加したいものはあるか? 提案があるのなら挙手をしてくれ」

 班長を見回しながらエルヴィンは問うた。リヴァイの正面に座る若い兵士が手を挙げようとしている。間髪入れずにリヴァイは前の椅子を足で蹴った。途中で手を下げた兵士がおずおずと振り向いたので囁くように牽制する。
「余計なことを言うな」
「す、すみません……」
 冷や汗を垂らして兵士は前に向き直った。
 ハンジが苦笑する。
「容赦ないな」
「面倒事を増やされてたまるか。そうだろう?」
「まあね」

 挙手をする者がいなかったのでエルヴィンは先を続けた。
「ではそれぞれ担当を決めよう。開催前の大掃除は皆でやるとして、ほかを班ごとで分けるのだが、割り振りは」
 再び黒板に向き直って、箇条書きをしたところに数字を書き加えていく。その様子を見届けるリヴァイはぽつりと零した。

「大掃除担当があれば満悦なんだが」
「提案すればよかったじゃん。通ったかもしれないよ」
 資料に目線を落として何気ない感じで言ったハンジの言葉は、リヴァイからしたら目から鱗だった。
「てめぇ、なぜ早くそれを言わない」
「え? だっていま聞いたから」
 きょとんとするハンジに、「気が利かない奴」という念を込めて舌打ちし、リヴァイは前に向き直った。
 黒板に書かれた振り分けはこうだった。

 本部見学ツアー:五
 立体機動装置の展示:五
 立体機動疑似体験:五
 日常訓練見学:十四
 音楽演奏:一
 カレー:十

 それぞれ必要な班数が書かれていた。
 床に置かれていた茶色い箱をエルヴィンは机に置いた。どうやらクジ箱のようだ。
「この中に、割り振られた分だけのクジ紙が入ってる。引いた者は、それに書いてある項目の担当になるということだ」
 では引いてくれ。というエルヴィンの合図で、後方に座っている班長たちは我先にという感じで席を立ってクジを引きにいく。そんな中、リヴァイは腕を組んでどっしりと構えていた。

 自分も早く引いてしまおうというふうに席を立ったハンジが声をかけてきた。
「さっさと引きにいかなくていいの? ブービーが残ってたらどうするの?」
「最後に引こうが結果は変わらない。それとさきほども言ったが、俺が引くわけねぇだろう」
「その自信はどこから来るのかな、ちょっと羨ましいよ。んじゃ、私は引いてきちゃうよ」

 緊張した面持ちでクジ箱前に立ったハンジをリヴァイは見守る。両目を瞑って箱に手を突っ込んだハンジが、勢いよく手を引いた。祈るように小さな紙を開き、そして満面の笑みをみせた。
 どうやら本人にとっては良い結果だったようだ。そんなハンジを見て鼻を鳴らし、空いてきたからそろそろ行くか、とリヴァイも腰を上げてクジ箱に向かう。

 席に戻ろうとしているハンジがすれ違いざまに歯を見せてきた。
「展示だよ! 楽そうだし、機械は大好きだからラッキーだったなぁ!」
「それはお前の趣味だろう、班員のことを考えろ」

 興味などないからそう返し、リヴァイはクジ箱の前に立った。腕を突っ込む。紙はもうあまり残っていない感じで、箱の底の質感が指に掠った。掻き混ぜることもなく、適当に選んだ一枚を指で挟んで引き出した。のんびりした動作で、四つ折りに畳んである紙を開いていく。

(なっ……)
 「わっ!」と、誰かに突然おどかされたように一瞬痙攣したリヴァイの動きが止まった。傍らにいたエルヴィンが、何気ない感じでリヴァイの手許を覗き込んできた。含み笑いをされたので、速攻で紙を握りつぶすようにして閉じた。
「おめでとう。リヴァイ」
「……望むところだ」

 何だか倒れそうな脱力感があったけれど、平然を保って何とか席に着いた。隣のハンジがにこにこと首を傾ける。
「どうだった? どこ担当?」
 無視をし、リヴァイは頬杖をついて脚を組む。
「ねぇ、どこ担当?」
「うるせぇな。いまからエルヴィンが書くだろう」
 苛々しつつ足を揺らし、前方の黒板を見やった。それぞれ引いた班名をエルヴィンが書き入れている。そして。

 ――音楽演奏:一:二班

 途端にハンジが吹き出す。
「ブービーじゃん!」
 卓を叩きながら笑い転げるハンジの脚を、リヴァイは横からめいっぱい蹴った。
「痛っ!」
 痛そうに片目を瞑っても、ハンジはまだ可笑しそうに笑い続けている。リヴァイは彼女の眼鏡を素早く取って、そうして窓の外に放り投げてやった。

「あ――っ!」と悲壮に叫んだハンジが窓の下を覗き込む。ガックリといったさまで肩を落とした。席に戻って胸ポケットから新たな眼鏡を取り出す。
「今月に入って何個目だろう。あなたに眼鏡を壊されたの」
「いちいち苛つかせるのが悪い」
「だってこれが笑わずにいられるかい?」

 どうも二個目の眼鏡も惜しくないらしい。それも投げてやろうか、と鋭く睨めばハンジは眼鏡をガードした。が、まだ喋る。
「自分が引くわけないとか自信満々に言ってたくせに、引き当てちゃうとか伝説ものでしょ」
「他人事だと思いやがって」
 吐き捨てるとともにリヴァイは顔を逸らして、ハンジは苦笑した。
「あなたそれ、一時間前に同じ言葉を私に言ったんだよ」
「クソっ」
 どうにも身から出た錆だったようだ。

 ※ ※ ※

 リヴァイ率いる精鋭班は、会議の内容を訊くために彼の部屋に集結していた。
 班員のみんなで丸卓を囲い、会議で渡されたものと同じ資料に目を通している。一人だけ、みんなに紅茶を入れているペトラに、真琴は表情だけで礼をした。返すように彼女もにこりと笑みをみせた。
 全員の紅茶を淹れ終えたペトラが席に着くのを待って、リヴァイが重そうな口を開いた。様子をずっと窺っていたが何となく機嫌が悪いように見える。

「二週間後の一般公開についてだが」
 全員がリヴァイに注目するが、どうしてか溜息をついたまま口を閉ざしてしまう。班員同士で目配せする中、真琴は隣に座るペトラに尋ねた。
「一般公開って、ペトラは経験してるの?」
「うん。入団したのが一昨年で、ちょうどその年にあったの」
「じゃあ今回で二回目なんだね」

 紅茶を手に取った真琴は香りを吸い込んだ。赤味の薄い橙色は、マスカットのような爽やかさを放っているので、本日の茶葉はダージリンかもしれない。
「それぞれ何かを担当するんだっけ? 一昨年はなんだったの?」
「カレーだったわ」
「へぇ。ペトラは料理上手だから丁度よかったんだ」

 紅茶を含んだペトラは渋い顔をした。
「作るのは嫌いじゃないけど、何百人って数のカレーを作ったでしょう。終わったときには、もう匂いも嗅ぎたくなかったわ。しばらく食べる気もおきなかったし」
「まあ、そうなるかもしれないね」
 真琴は苦笑して返した。職業病に近い。ラーメン屋を経営している人間が、せめて外ではラーメンを食べたくないというものと同じなのだろう、と思った。

「その担当って、どうやって決まったの? 団長の指図?」
「ううん。班長が引いたクジで決まったわ」
「クジ引きなんだ」
 二班が何の担当になるかはリヴァイのクジ運にかかっていたらしい。さて、彼は何を引き当てたのか。

 いつまでも口を開かないリヴァイは難しい顔で眼を伏せ続けている。痺れを切らしたエルドが促した。
「兵士長。二班の担当はいかがでしたか?」
 重い溜息をついたリヴァイは、ようやく唇を動かして投げやりに言った。
「音楽演奏だ」
 しばし沈黙が続いた。みんなの様子は、どうしてか頬を引き攣らせている。

 真琴はペトラに上目遣いをした。
「音楽演奏って人気ないの?」
「別名ブービーって言われていて、嫌われどころなの」
 小さい声で囁いたペトラに真琴は首をかしげてみせた。
「そんなに嫌なものかな」

「嫌よ。だって楽器なんか私たちにできるわけないじゃない、準備期間も少ないし。一昨年はハンジ分隊長の班が担当したんだけど、最悪だったんだから」
「どう最悪?」
 ぶるぶるとペトラは身震いする。
「不協和音全開の演奏で、客席からはブーイングの嵐」すとんと肩を落とす。「でもハンジ分隊長の班に限らず、毎回結果は似たようなものらしいわ」

 ふうん。と他人事の真琴は呟いた。
「ペトラは何か楽器できる?」
「できるわけないじゃない。兵団一筋なんだから」
 否定したペトラから視線を外してリヴァイを窺う。沈黙したまま話を進めようとしない。

 全体を見渡しつつ、真琴は少し身を乗り出した。
「この中で、何か楽器できる人はいますか?」
 それぞれが真琴に視線を向けて、リヴァイが口を切った。
「なに仕切ってんだ」
「だって話が進まないんですもん」

 片眉を上げたオルオが口を挟む。
「もん、じゃねぇよ。気持ち悪い。兵長には兵長のお考えがあるんだ。下っ端がしゃしゃり出るな」
「オルオ、気持ち悪いから」
 もんっ、と甲高く真似したオルオにペトラが容赦のない突っ込みを入れた。めげないオルオはニヒルに笑う。
「女房の躾が必要なようだ。このごろ、突っ込みが胸にグサリと刺さって適わねぇ」
「だから似てないよ。オルオがいくら真似したって兵長にはなれないんだから」
「まあ、槍のような突っ込みも親しみがあればこそと思えば、そうでもねぇ」
 格好つけてオルオは鼻で笑った。うるさいと言いたげにリヴァイが大きな溜息をつく。

「お前ら、少し黙れ」
 一言でペトラとオルオが萎縮した。静かになってからリヴァイは真琴に視線を寄越してきた。
「仕切ろうとしたからには、打開策でもあんのか」
「打開策っていうか……」
 頭を掻きながら口を濁らす。リヴァイが眼を眇めた。
「考えなしに口火を切ったのか」
「いえ。ボク、ピアノが弾けるので、みんなは何か得意な楽器あるかなって」

 つと眼を見開いた班員が真琴を注目する。払うように手を振るオルオが、嘘だろ、と言いたそうにせせら笑う。
「弾けるってお前、童謡弾けたぐらいじゃお笑いぐさなんだぜ」
 真琴は唇を尖らす。
「失礼しちゃうな! こう見えても小学生からずっとピアノを習ってたんだ! クラシックくらい、いけるって!」
「しょうがくせい?」
 不思議そうにペトラが首をかしげた。周りを見ると、みんなも同じような眼で真琴を見ている。

 不思議そうな眼で見るのは、真琴がピアノを弾ける事実に対してではないようだった。ペトラが呟いた「しょうがくせい」という、まるで舌足らずな子供が発音したような言葉に対しての眼のようである。
(小学生っていう単語が存在しないの?)
 学校がないわけではないと思う。表現の仕方が違うのかもしれない。向けられる意味深な瞳のせいで、真琴は嫌な汗を掻いている。

 オルオの眼つきが怪訝になっている。
「しょう、がく、せい? ってなんだ?」
「いや、えっと、いまのはね――」
 しどろもどろの真琴を差し置いて、頬杖を突いて観察していたリヴァイが言う。色のない瞳で何を思っているのか。
「脳が腐ってんだろ」
 失礼に言い捨て、
「さておき、ずっと習っていたらしい。たいして不思議じゃない、こいつは貴族の遠縁だからな」

「へぇ! 真琴って貴族出なの?」
 ペトラが喜々として言い、オルオが口を歪める。
「だからひょろひょろしてんのか」
「う、うん」
 曖昧に頷き、妙にカラカラの喉を潤すため紅茶を啜る。ちらとリヴァイを窺うと、まだ真琴を観察していた。彼だけがみんなと反応が違う。不思議そうにもしないし、怪訝そうにもしない。それがかえって不安にさせた。
「……何か?」
「いいや」リヴァイは小さく言って腕を組む。「ピアノが弾ける奴がいる。これは棚から牡丹餅だ」

「ありがたいですね」
 よかったというふうにエルドが頷き、グンタも頷く。
「意外だったな。こりゃ助かった」
 担ぎ上げられている気分で真琴は居心地が悪い。微妙に押しつけがましい調子も含まれているようだ。
「そんな大袈裟ですよ。牡丹餅って……幸運みたいな言い方」

「あ? 弾けるんだろう? 男に二言はねぇよな」
 リヴァイに睨まれた真琴は俯いた。
「弾けますけど。あの〜」真琴は瞳を上げる。「ボク一人に任せないでくださいね。こういうのは、みんなで合奏しましょう」
 周囲が石像のように固まった。ぴしっとヒビが入っていそうな様子から、すべてを真琴に投げ出すつもりだったのだと確信する。
 エルドがおずおずと言う。
「後ろで手拍子……ってのは駄目か?」
「え――……」
 思わず猫背で白い眼を向けてしまった真琴。エルドが決まり悪そうに頬を掻く。

「あ、いや。彼女が見にくるんで、あまり不格好なとこは見せたくないんだ」
「俺んとこも弟たちが来るから、兄を失望させるようなことはしたくないんだよな」
 オルオが珍しく湿りがちに答えた。
 みんな家族が見にくるらしい。苦笑しているペトラに、真琴は伺いを込めた眼を向ける。
「うちも来るって言ってたから、やっぱり恥を掻きたくないな」
 続いてグンタに視線を投げた。
「俺んとこも見にくるつもりでいるらしいんだ。できれば無様な結末は避けたいと思う」

 家族がいないことは知っているが、真琴は一応リヴァイにも視線を投げてみた。半分やる気のなさそうな目顔でじっと見返してきたリヴァイが薄く唇を開いた。
「女でも呼ぶか」

 瞬間真琴は息を詰まらせ、ペトラは持っていたカップを卓に落とした。咄嗟に両手を挙げたペトラが悲鳴を上げる。
「ごめん!」
「わっ!」
 まだたくさん入っていた紅茶は零れて卓に広がり、資料を水浸しにして真琴の腿にも滴っていく。左腿にじんわりと熱さが染み渡ってくる。

 慌てて二人して立ち上がり、ペトラは真琴の濡れた腿を優先して拭く。
「ごめんね、真琴!」
「ううん、いいんだけど。――それ雑巾だから」
 真琴が苦い笑いを浮かべると、手にした雑巾を見やったペトラは顔をくしゃくしゃにさせた。
「ごめ〜ん!」
 傍観していたリヴァイが台布巾をペトラに投げた。
「すみません、ありがとうございます! 兵長」
 キャッチした布巾で拭きなおそうとするペトラを真琴は制した。
「大丈夫。このぐらいすぐ乾くよ」
「ほんとにごめんね、真琴」

 申し訳ない顔をするペトラに真琴は微笑み、一緒に卓を片付け始めた。脚を組んでいるリヴァイを密かに横目で睨めつける。
(イヤな人ね)
 ペトラの気持ちを知っているはずなのに女の話をするのは意地悪だろう。心にとめた女性がいるとは思えないが、遊びで抱いた女性はいるだろうから、まるっきり嘘ではなく、呼ぶとしたらその可能性はあるかもしれないけれど。

 あらかた片付き、落ち着いたところでリヴァイが口火を切った。
「さてどうするか。後ろで手拍子、俺は悪くないと思う」
「え――っ!」
 非難の声を上げた真琴をリヴァイは睨んでくる。
「文句あんのか」
 大ありです、とそんな顔をして真琴は周囲を見回した。
「想像してみてください!」
 言って、単調なリズムで手拍子をしてみせた。ちょっとやる気なさそうな演技を入れるのがミソである。
「こんなんで格好悪くないと言えますか? 恥じゃないと言えますか? ボクはこんな姿を家族に見せたくありません!」
 演技が効いたようで、深刻な顔をしてみんなは思案し始めた。リヴァイだけは引っかからず、「余計なことを」というふうに舌を鳴らしたけれど。

「確かに……」
 深刻な様相でエルドが呟いた。次いでグンタも呟く。
「めちゃくちゃ格好悪い……」
 ペトラが眉を寄せた。
「そんなの見られたら一生の恥だわ……」
「弟に笑われちまうじゃねぇか……」
 顔を青くしたオルオが声を絞り出した。

 そして真琴は顔を引き攣らせていた。演技が効いたのはよかったが、効きすぎて何だか自分が格好悪くみられてしまったような感覚に陥ってしまったのである。
(そんなにひどい演技だったかしら)
 ちらりとリヴァイを窺えば鼻で笑われてしまった。

「けどなぁ」些か不安げにエルドが口にする。「楽器なんて、みんなできないぞ」
「大丈夫です。別にヴァイオリン弾いて、って言ってるわけじゃないですし。簡単な楽器はたくさんありますよ」
 急に真琴は思いついてペトラに向き直った。
「歌って好き!?」
「えっ。結構好き――なほうかな」
 恥ずかしそうに答えたペトラを見て、真琴はさりげなくガッツポーズをした。合奏の方向が定まってきていた。

 リヴァイの指が卓を叩いた。
「おい、何を考えている」
「ペトラを歌い手にして、みんなで伴奏ってどうですか?」
「え!? 無理、無理!!」
 首を振るペトラの肩を真琴は激励してあげるように叩く。
「やれるよ!」

「お前の自信はどこから来る」
 呆れた口調のリヴァイは、しかし考えを巡らすように顎に手を当てた。
「だが、悪くないかもしれん」
 たちまち耳まで赤くしたペトラは口をぱくぱくさせる。そんな彼女をリヴァイは有無を言わせぬ瞳で射抜いた。
「やれ」
「……はい」
 上官に命令されてはペトラは頷くしかなかったろう。

 リヴァイが呟いた。
「狙うか」
「狙う?」
 真琴は首をかしげる。
「各項目に市民から投票が入る。その中で一位を狙う。たいした賞じゃねぇが」
 賞を取る。目的を与えられるとやる気が湧いてくる。が、逆に巧くいくだろうかと不安にもなってくるものだ。
 資料を手に取ったリヴァイの椅子が音を立てた。立ち上がり、
「今日はここまでだ。真琴は演奏する曲目と、ぞれぞれに割り当てる楽器を考えろ。俺は手拍子でいい。解散だ」
 と言い、書机の椅子を引いて腰掛けたリヴァイに真琴は尋ねた。

「ピアノって本部にあるんですか?」
「第三備品室にあるはずだ。埃を被ってるだろうがな」
「確認してみます」
 頭を下げた真琴は退室しようとしているペトラを呼び止める。
「ペトラ! このあと時間ある?」
 振り向いたペトラが首をかしげてみせた。
「予定はないけど、なあに?」
「一緒に図書館へ行こう!」
 暖炉の上にある置き時計をちらりと見て、自分の資料を掻き集めていく。
「もうすぐ閉館しちゃうね、急がなくちゃ」
「何の用で行くの?」
「楽曲探しに!」
「……明日でも良くない?」
 のり気じゃないペトラに苦笑して、資料を小脇に抱えると彼女のもとに寄って背を押す。
「思い立ったが吉日なの!」
「えー。よく分からない〜」
 押されながら戸惑い顔で振り返るペトラに構わず、退出を促して廊下に出た。
「ちょっと門のところで待ってて。確認したいことがあるから」
 早口でそう言うと、ペトラは躊躇しつつも頷いて真琴に背を向け、去っていった。
 廊下を駆け出そうとしたとき、閉めたはずの扉が間髪入れずに開いて真琴に声がかけられる。

「第三備品室の場所、知らんだろ」
「リヴァイ兵士長……」
「こっちだ」
 早めの歩調で歩き出したリヴァイを、真琴は眼をぱちくりさせながら駆け足で追う。辿り着いたところは本部の一階だった。
 年季の入った戸を開けると、室内は暗くて埃臭かった。何かの道具と思われるものすべてに白い布がかけられており、被っている埃具合からして普段からほとんど足を運ばない部屋と思われた。
 オイルランプを目線の高さで翳すと、室内の端にひときわ大きい物体に布がかけられていた。リヴァイがまっすぐ進み、その布を摘んで滑らすと、現れたものは彫刻が施された飴色の鍵盤楽器だった。

「ピアノじゃない……」
 真琴が呟くとリヴァイが眉を顰めた。
「あ?」
 真琴は近づいて鍵盤に触れてみる。二段鍵盤になっていて、白鍵と黒鍵が逆になっていた。
「チェンバロって知ってます? 仕組みはピアノと同じなんですが違うものといっても過言じゃないんです」
「ちぇん、ばろ?」
 棒読みで聞き返したリヴァイに真琴は苦笑してみせた。男の人にピアノのあれこれを話したところで、興味がないのなら知っているはずもないと。
 鍵盤を指でなぞる真琴を見て、リヴァイが表情を消した。
「お前、あまり変なことを言うな。頭の可怪しいヤツだと思われる」
「変なことなんて言ってませんよ。リヴァイ兵士長が知らないだけです。ペトラなら知ってるかもしれませんよ」
「……ならいいが」
 くすっと笑った真琴から、合点がいかなそうにリヴァイが視線を逸らした。
 ドの音を出してみると、予想していたが音程が大幅に低かった。それ以外を覗けば、壊れている箇所もないしとくに問題なさそうだ。
「音が変ですね。調律が必要みたいです」
「自分でできるんだろ?」
「無理ですよ。専門職の人じゃないと……」
 リヴァイは溜息をついて、
「早急に手配しておく」
「お願いします。じゃあ、ボクはこれで失礼します。ペトラを待たせていますから!」
 言いながら急ぎ足で退出していく真琴の背に、廊下を走るなと小言が飛んだ。

 煙のような薄い雲に茜色が染まる街。真琴とペトラは早歩きで図書館に向かった。
 閉館十五分前で滑り込んだふたりに、受付の男は少しばかり迷惑そうな顔をみせた。けれども気にしないで音楽関係のコーナーに向かう。館内は本から発せられる独特な匂いがした。

「ペトラは歌劇って好き?」
 ずらりと列をなす本棚を見上げながら、後ろからついて来るペトラに伺う。
「好きよ。この前の非番の日に、友人と観にいってきたばかりなの。アウレリア歌劇がいま熱いのよ」
 乙女な顔をするペトラを横目で見やって、真琴は目的の本棚で立ち止まった。整列された本に指を滑らせていく。
「アウレリア、アウレリア……」
「え!? 無理よ! 歌劇なんて無理!」
 ペトラは眼を丸くする。
 真琴は目当ての楽譜を背伸びしながら、指で引っかけるようにして手に取った。
「ほんとはジャズとかがいいかなって思ってたんだけど、あのピアノだと歌劇じゃないとたぶん合わないと思うんだ」

 チェンバロはピアノと違って、音の強弱の差がないので表現するのが難しい。なのでアーティキュレーション――つまりある音から次の音へどのように繋げていくのか、区切るのか伸ばすのかをはっきりさせることで、メリハリをつける演奏技法が求められる。であるからして、ピアノと感覚が違うので真琴も猛練習しなければならないだろう。

 ペトラが肩を尖らせて抗議してくる。
「いやだからね! 歌わないからね、私!」
 ぱらぱらと楽譜を捲って、どう説得しようかと真琴は苦笑していた。ここは三白眼で脅すしかないかもしれない。
「リヴァイ兵士長なら有無を言わさず、やれと命令しそうだけど」
「……いい性格してるわ、真琴」
 恨めしい眼つきをするペトラに、真琴は困った色をして笑いかけた。
「初めてなのはペトラだけじゃないから。ボクもちょっと、このジャンルを弾くの初めてだし、ピアノも勝手が違うから不安でいっぱいなんだ」
 だから、と真琴は首を傾ける。
「一緒に頑張ろう」
 柔らかく笑った真琴を見て、ペトラは眼を瞬かせた。

「真琴、変わったね……」
「え?」
「真琴って私たちのこと、信用していないのかなってずっと思ってたの。巧く言えないんだけど、何だか見えない壁を感じるっていうか……悲しいなって思ってたの」
 真琴は眼を見張った。信用していないのとは違うが、ほとんど的を得ていたから。自分を守るため、無意識に親しい人を作るまいとしていたことを、感じ取っていたのだろう。寂しそうな表情で語を継ぐペトラに、申し訳ない思いで胸が詰まっていった。

 ペトラは続ける。
「でも安心した。ようやく心を開いてくれたんだ、って」
 微笑みが優しさに満ちていたから、真琴の瞳が自然にしなっていく。
「ごめんね……。それと、ありがとう……。演習のときのお弁当、ペトラの気持ちがとても嬉しかったんだ」
「ううん。これからは嬉しいことも辛いことも一緒に分かち合っていこう。私たち、仲間じゃない」
「そうだね……」
 眼を伏せ、真琴は淡く笑みを見せて静かに囁く。
「……だから歌劇、頑張ろうね」
「それとこれとはちょっと……」
 そう言ってペトラは項垂れたのだった。

 兵舎に戻って風呂から上がると、もう就寝の時間だった。ベッドに横になって窓から見える三日月を眺めていた。
 なんだろう。妙な昂揚感でわくわくしてしまっており、なかなか寝つけなかった。明日からの練習が楽しみで仕方ない。みんなでひとつのことをやり遂げようとしていることに胸が高ぶる。
 今夜からでも練習したかった。が、ピアノの音程が不安定では意味がないと、気持ちを押しとどめた。
 ぼぅと月を見つめていたら、いつの間にか微睡んできて真琴は夢に落ちていった。

 一般公開日が迫っていても訓練はいつも通りに行われていて、少ない休憩時間や睡眠を削りながら、調査兵たちはおのおの準備を進めているようだった。
 二班も例外ではなく、毎夜の合奏練習で寝不足のせいか欠伸を連続させていた。
 あれだけ嫌がっていたペトラだが、彼女の歌唱力はたいしたもので、聴いたことのある曲を選曲したのもあってか上達が早かった。

 練習初日に、エルドがリュートを持参してきたものだから、真琴は驚いた。聞けば彼は多少リュートを嗜んでいるらしく、触ったことのない楽器をやらされるのなら、馴染みのあるものがよいと言った。それならば会議の日に、どうして楽器など弾けないと嘘をついたのかと聞き返せば、恥ずかしかったからだと肩を竦めたのだった。
 しかしながらその事実は大変助かった。楽器経験者がふたりもいて、ペトラも歌唱に申し分ないとあらば、充分すぎるほどだった。

 問題は残りの三人で、困ったことに音楽に対してめっぽう弱く、簡単な楽器を与えたのに練習を積み重ねてもいまいちだった。
 グンタにはシンバルを、オルオにはトライアングルを担当してもらっているのだが、肩に余計な力が入ってしまい音の粒が揃わなかった。

 さらなる問題はリヴァイだった。彼にはティンパニを担当してもらおうと思っていたのだが、触ってもくれなかった。自分は手拍子でいいと言い張り、にもかかわらず手拍子もせず、ただ近くで椅子に座って傍観しているだけだったのだから。
 ならば深夜まで続く練習に参加をする意味がないと思うのだが、リヴァイは毎夜顔を出したのだった。これはもう、真琴とペトラとエルドで、何とか綺麗に纏めるほかないのかもしれない。

 今夜の練習も終わり、解散となって全員が備品室から去っていく中、真琴はまだピアノの前にいた。
 オイルランプだけの薄暗い空間で、懐かしい旋律が流れる。いつも練習の終わったあとは、こうしてひとりの時間を楽しんで真琴は好きな曲を奏でていた。
 お世辞にも、あまり上手とは言えない英語が室内に流れる。

 真琴が綴る歌はザ・ビートルズの【Let it be】。この曲は中学生のころに、学園祭でクラスのみんなと合唱した歌だった。伴奏は真琴が担当したのだが、本番までは苦労の連続だった。
 人前で歌うことや、全員で連帯することが恥ずかしい年ごろの男子は、ふざけてばかりできちんと歌ってくれない。クラスの中で幾ばく大人びたグループの女子たちは、高見の見物で協力的でなかったり。放課後は習い事があるからと、練習を後回しにする優等生など。とにかく纏まりがなくて最初は不安だらけだった。
 けれど何度かみんなで話し合い、ときには言い合ったりした結果、良い方向へ向かい本番では大成功で拍手喝采。そのあとの団結力と、やり遂げたという達成感は清々しいものだった。

 いつかを懐かしく思い、気持ちよく口ずさんでいたとき。
「早く寝たほうがいいんじゃねぇのか」
 入り口からかけられた声に、真琴は俄に頬が赤くなる。歌を聴かれてしまっただろうかと、恥ずかしく思ったためだった。原曲キーで弾いていたので、声に関しては心配はしていないけれど。
「ノックくらいしてもらいたかったです」
「なぜ俺がお前に気を使わなければならない」
 唇を尖らしていると、リヴァイはピアノのそばまでやってきた。
「日中欠伸ばかりしやがるのは、遅くまでピアノを弾いているせいだ」
「このピアノに指を鳴らしておきたいだけです。それに欠伸をしているのはボクだけではありません」
「減らず口をたたきやがって」
 言いながらリヴァイは、近くにある丸椅子を引っ張って真琴の隣に腰を降ろした。そしておもむろに鍵盤を叩きはじめる。
 節くれ立った指が奏でるメロディに、真琴は眼を丸くした。
「Let it be……」
「何を喋っているのか分からん」
「――え?」

 真琴の歌っていた曲を、リヴァイが奏でているのにも眼を剥いたが、それと同時に言っている意味が通じていないらしいという事実に眼を剥く。
 指を滑らせながらリヴァイは静かに言う。
「毎夜お前が歌う言葉は、俺には分からない。何の言語を喋っているのかも」
 衝撃の事実に真琴は血の気が下がっていく。奏でていた歌は自動で翻訳されていなかった。知らない言語だとリヴァイは言う。では彼の耳には英語で聞こえていたのだろうか。

 これはどういったことなのだろう。どのような可能性が考えられるのだろうか。
 日本語は翻訳されているのに、英語は翻訳されていない。
 しかしたぶん真琴が英語を聞いても、それが英語なのだろうなとは分かっていても意味までは理解できず、ひいては何を喋っているのか分からないだろう。
 要するに真琴が理解できていないから、という部分が関係しているとは考えられないか。口ずさんだ英語は理解して歌っていたわけではない。英語にカナで振ってある発音と、CDで実際にLet it beの曲を聴いて丸暗記しただけであって、これは英語を" 理解 "しているとはいえないのでは。

 ともすれば日本語はどうして翻訳されているのか。これは真琴の中に深く根づいている言語だからなのだろうか。あるいは喋っている言語は、本当に日本語なのだろうかと疑ってしまう。
 視覚情報で入ってくるこの世界の文字は知らない文字。そしてこちらの人間はその言語を喋っているのだろうから、翻訳という言葉で片付けてしまうには世にも不思議な現象だ。つまり物事を有耶無耶にしておかないと、あとで首を締めることになるかもしれない。

 心臓の音がバクバクする。その音を耳で感じながら真琴は口を開く。
「昔に滅びた民族の民謡だったみたいです。ボクって貴族の家系じゃないですか、そういう文献が残っていて楽譜があったので、えっと」
「800年の歴史があれば、それも不思議ではないのかもしれん」
 苦し紛れの嘘に、リヴァイは眼を伏せ気味にして何でもないふうに告げた。
 溜飲を下げた真琴にリヴァイが訊いてくる。
「どういう意味の歌なんだ」
「題名は ” あるがままに “ って意味です」
「お前にぴったりの言葉だ。胸に刻んでおけ」
「それってボクがつむじ曲がりって言いたいんですか……」
 こちらに首を回したリヴァイが、露骨に遠い眼つきをしてみせた。
「絶句ものだな。どう見ても素直じゃねぇだろ」

 また唇を尖らした真琴を無視して、リヴァイは先を促すように顎をしゃくってくる。
「そうですね、歌自体が何を伝えているのかというと……。苦しいときや悩んでいるときは、神様が訪れて救いの手を差し伸べてくれるよ。導いてくれるよ。だから囁く言葉どおりに、あるがままにしておきなさい。って感じでしょうか」
「ほぅ。悪くない」
 掠れた声に気分をよくし、ゆっくりとした手つきで真琴は曲を奏で始めていく。どうしてか心が穏やかだ。自分の好きな歌を、褒めてくれたから嬉しかったのかもしれない。
「ボクの救いの神はあなたですね」
 傍らで息の詰まる気配がしたが、気にせず続ける。
「いつも……助けてくれる。駆けつけてくれる」
「いや。俺はいつも間に合っていない。いつも後手に回ってるじゃねぇか」
 息を吐くように告げた言葉は、後悔の響きがあった。だからそれは違うというふうに、真琴は緩く頭を振ってみせる。

「助けるって二種類あると思うんです。ひとつは直接的なもの、これは危機から救うとかそういう意味ですよね。もうひとつは精神的なもの、こっちは気遣いとか思いやりでしょうか」
「後者で助けられてると……そう言いたいのか」
「改めて言うと照れますね」
 はにかんでから、真琴は感謝を込めて嫣然(えんぜん)と微笑む。
「いつも助けてくれて、ありがとうございます」
 瞳を瞬かせてリヴァイが息を呑んだ。
 言った言葉は本心だが、あとから恥ずかしくなってしまった。だから、してやったりといった感じで真琴はにやっと笑う。
「ボクって素直じゃないですか!」
「槍が降るんじゃねぇか、明日」
 嫌そうに言うと、リヴァイも真琴の弾く伴奏に合わせてメロディを奏でていく。さっき驚いたことの質問をしてみる。

「なんでピアノ弾けるんですか」
「毎夜下手糞な歌を聴いてたら、馬鹿でも覚える」
 下手糞……。黙認できない言葉だったが、それよりも毎夜という言葉が気になる。真琴は鍵盤を押す手をとめ、
「まさか毎晩、盗み聞き!?」
「人聞きの悪いことを言うな。部下の管理は上官の仕事だ」
 右と言えば左と言う男に、何を抗議しても無駄かもしれない。真琴は溜息をついて本題に戻す。
「でも毎夜聴いて覚えてしまったからといって、馬鹿でも弾けないと思うんですけど……」
「揚げ足をとるな」
「だって……」

 手つきを見れば分かる、ピアノを幾ばくか齧っていることくらい。地下街で暮らしていたとマコのときに聞いたのもあって、あのような環境に恵まれない場所とピアノが、どうしても結びつかないのだ。
 真琴が呆然と見つめていると、リヴァイは鬱陶しげな眼つきを投げてきた。
「しつこい。一通り何でもできるだけだ」
 迷惑そうな雰囲気を醸し出しているリヴァイから、真琴は溜息をついて眼を逸らした。突っ込まれるのが嫌だったのなら、始めから弾かなければよかったのに――と、いじけながら。

 頬を膨らませていたら、突として柔らかい皮とはいえない指に抓られた。
「いったぁい! 何するんですか」
「躾だ」
 言いながらリヴァイは引っ張ってくるものだから、意地悪な手を払い落として、真琴は赤くなっているだろう頬をさする。ことのほか痛かったため、目尻に涙が溜まっていた。
「恨みでもあるんですか」
 さする手を、リヴァイにやんわりと退けられて、代わりに手のひらで頬を覆われる。
「嫌じゃないか」
「――え?」
 暖かくしっとりとした感触に、真琴は片目を瞑って、リヴァイは眼を細めた。
「俺に触れられて嫌じゃないかと訊いている」
 どういう意味で訊いているのだろう。当惑の眉を寄せて真琴は答える。
「べつに……」
「気持ち悪くないか、人間の手の感触が。おぞましくないか、人間の温もりが」
「気持ち悪くなんてな」
 はっとして真琴は言葉を切った。もしかしていつかの行軍のおりに、襲われたことに対しての恐怖心を確かめているのであろうか。

「トラウマになっているか……気にしているんですか?」
「気にもする。影が怖い、振動が怖い、肉は食えねぇ。これ以上心的外傷を増やしたら、精神異常者だろう」
 ふっと真琴は笑みをこぼして、優しい手に自分の手を添えた。そろりと剥がす。
「大丈夫みたいですよ。上官は心労が絶えませんね」
「やっかいごとを持ち込むのは、お前ぐらいだけどな」
 溜息をつくように言うと、リヴァイは手首を返して真琴の手を包んでくる。だから手を離そうと思って、さりげなく肘を引くが、思いのほか強く握られているようだった。
 真琴は胸がざわざわする感じと、軽い嫌悪感を覚えていた。やはり噂は本当だったのだろう。リヴァイは男色に違いない。
 疑惑と軽蔑の混じった眼つきで横目すると、リヴァイが呆れた表情をしてみせた。

「お前の脳内は何を考えている」
「だって……」
「言ってみろ」
 凄まれて痛いほどの握力で握ってくるから、真琴は払うように何度も腕を振った。
「痛い! 痛い! 言ったらもっと痛いと思いますから、言いたくないです!」
「ふざけたことを妄想するからだ」
 怒気混じりに吐き捨てたリヴァイが、やっと手を解放してくれた。真琴は痺れた手をグーパーしてほぐす。
「ピアノが弾けなくなったらどうするんですかぁ」
「このぐらいで手が使い物にならなくなるようじゃあ、鍛錬が足りないんだろ」
 支離滅裂なリヴァイの発言に、呆れてものが言えなかった。

 不貞腐れている真琴をリヴァイが肘で突いてくる。
「歌え」
「やですよ」
 即答するとリヴァイに睨めつけられた。
「嫌がるペトラに歌を歌わせているくせに、己は嫌だと言う。自分勝手なヤツだと思わないか」
「だって下手糞って言ったじゃないですかっ」
「四の五の言わずさっさと歌え」
 命令口調で言われて納得いかないが、従わないと帰してくれなさそうだ。ゆるりと眠気も襲ってきて、真琴は欠伸を噛み殺しながらピアノを弾き、そして歌詞を紡いでいった。
 傍らでは腕を組み、眼を伏せて聴き入ってるリヴァイがいた。歌い終わったあとで眠りこけてたら頬を抓ってやろう、そんなことをふと思った。


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mokuji
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