05.なぜお前は男なんだ2

 真琴の脚力なんかでは、すぐに追いつかれてしまうだろうと思うのに、なぜか一定の距離を保って兵士たちは駆けている。ネズミを追いかける猫のように遊ばれているようだった。
 地中から盛り上がっている太い根っこに足を掬われ、真琴は派手に転んだ。隙を狙って一気に足を早めてきた兵士たちに真琴は再び囲まれる。

「鬼ごっこは終わり〜?」
「呆気ねぇなぁ」
「もっと楽しませろよ。気が済まねぇだろ」
 半身を捻り起こして兵士たちを見上げた。矢先に一人が覆い被さってきて、真琴の顎を掴む。

「じゃあ俺たちにも教えてくれる? どうやって兵長を虜にしたのか」
「誤解してるっ。兵士長とボクは、あなたたちが思ってるような関係じゃないっ」
 兵士の胸を強く突いた途端、間髪入れずに真琴は頬を張り手された。じんとする痛みに唇を噛んで耐える。
 舌打ちを混ぜて兵士が吐き捨てた。
「生意気すんじゃねぇよ」
 傍らに膝を突いた兵士が、にやりと笑う。

「おいおい、顔は傷つけんなよ。顔だけで楽しむしかねぇんだからさ」
「それもそうだな」
「馬鹿なことはやめるんだ! 許されると思っているのか、こんなことが!」
 精一杯の気迫で真琴は男を演じた。ここで女だとボロを見せたら、すべてが終わる。

「まだ逆らう気があるんだ」
 後ろで立っている眉間にホクロのある兵士が、両手首を掴んで地面に押さえつけてきた。
「離せ!」
 覆い被さってきた兵士が顔を近づけてくる。
「楽しも〜ね」
 残酷に笑う兵士の表情は、真琴の背筋に悪寒を走らせた。好きにされるわけにはいかなくて、我武者らに暴れる。
「ボクに触れるな!」

「こいつ! おい、押さえろ!」
「やだ! 離せ! 離して!」
 混乱の真っ只中でアニの声がこだました。
 ――男をやっつけるには、急所を狙うのが手っ取り早い。
 膝を曲げて、跨がる男の急所を目掛けて思い切り蹴り上げる。

「いってぇ!! クソ野郎が!!」
 体を丸めて急所を押さえ、兵士は痛がっている。思わぬ反撃で二人が動揺しているあいだに、横に転がって湿った地面に指先を突き、真琴は駆け出す。
 すぐに背後から怒声が轟いた。
「ぜってぇ許さねぇ!!」
「捕まえろ!! 逃がすな!!」

 追われる系のどのホラーよりも勝る臨場感溢れる恐怖心に襲われ、必死に逃げて辿り着いた終点は、クレーターのような崖だった。落ちたら登ってこられそうもなかった。
 違う方向へ逃げようと振り返った真琴は絶望した。兵士たちとの距離がほとんどなく、行き手を阻まれてしまっていた。

「後ろは崖か。どうやら、ここまでみてぇだな」
「諦めて食われちゃいなよ」
「大人しくしてたら可愛がってやらなくてもないぜ」
 にやにやしながら兵士は距離を詰めてくる。
 絶念に捕らわれて、かっと見開いた両眼の視点を揺らすことなく、ゆるゆると首を振る。
「いや……来ないで」
 追いつめられて、じり、と真琴が後退ったときだった。

 小石が転がっていく音がして、同時に真琴の片足が後方に滑った。
「あっ!」
 転瞬する間に、身体がずり落ちていく。咄嗟に縁へ手を掛けた。が、柔らかい地面はもろもろと崩れていき、石の粒が混じった細かい土を掴んだだけであった。そのまま腹這いで滑走するかのように、真琴は崖から滑り落ちていった。

 落ちるところまで落ちて、全身の痛みに眉を顰めつつ崖の上を仰いだ。暗くて視認しにくいが、覗くようにして窺っている三つの影が見えた。
 周囲の状況や自分の状態など顧みず、真琴は上に向かってとにかく救助を求める。

「た、助けを呼んで!! 登れない!!」
 叫ぶが、兵士たちのひそひそ声が聞こえてきた。小さな声は暗闇の中の崖下にいる真琴にも届いた。
「生きているみたいだ、どうするよ?」
「どうするって、降りたら登ってこれねぇだろ。立体機動装置もねぇんだから」
「つーか、俺たちやり過ぎたよな? 発覚したら不味くねぇ?」

 崖上では嫌な空気が漂っているようだ。兵士たちは保身に走ろうとしている。真琴を見捨てる気だ。
「このまま、ほっとく?」
「証拠隠滅ってやつ?」
「俺たちの将来を考えたら、そのほうがいいかもな」

 真琴の顔は青ざめる。
「見捨てないでよ!! こんなところに置いていかれたら死んじゃう!!」
 救助を求めているにも関わらず、影は一つずつ消えていく。
「待って!! 良心が一欠片でもあるなら助けを呼んできて!! お願い!!」

 最後の影が無情にも消え、崖の上には木しか確認できなくなった。真琴は脱力して肩を落とす。
「嘘でしょう……こんなことって」
 頭が真っ白になって何も考えられなくなりそうだった。けれど必死に思考をとどめる努力をする。
(考えなきゃ、考えるのよ)
 湿気を含んだ草が覆い繁るクレーター状の空間は、三方が崖で一方は闇の森である。

 ほぉ、と鳴くフクロウの声が、やけに不気味に聞こえた。ときおり頭上高く羽根の音をさせて飛ぶ黒い物体に真琴は怯える。複雑な翼の動き方だったのでコウモリかもしれなかった。
 崖の高さは五メートルほどあり、真琴にはどうみても登れそうにない。助けが来ないことを前提にするなら森を抜けたほうがいいのだろうけれど。選択を間違えれば最悪な結果になるかもしれず、決心がつかなかった。

(どうしよう、どうすればいいの)
 鞄に入っている食料を考えれば数日は生きながらえそうだが、暢気に構えてもいられない。少し歩いて様子を見てみようか。そう思って立ち上がり、いまになって足首を痛めていることに真琴は気づいた。
 しゃがみ込んで足首の加減を見る。多少腫れているが骨が折れてる感じではなく、ただの捻挫だろうと決めつけた。

 ほかに痛めている箇所はないかと全身に目を配って、手にしっとりと、加えてざらざらな感触があった。無意識にずっと握りしめていた拳を開くと、赤い土がぼろぼろと零れ落ちていった。手のひらは細かい擦り傷ができてしまっている。
 軍服の表面は滑り落ちたために土塗れで、湿気の含んだ土は濃く染みついてしまっており、はたき落とそうとしても、さほど意味のある行為にはならなかった。

 溜息をついて真琴は項垂れる。歩けないこともないが、無理をすれば痛めた足のせいで命取りになるかもしれない。ならば動かずに助けを待ったほうが懸命だろう。

(遭難の心得って何だっけ)
 体を丸めて、ぼうと考える。
 ――現在地が分からないときは、その場から動かずに体力を温存する。帰れることを諦めない。パニックにならない。

 パニックにならない。これは一番難しいのかもしれない。けれど真琴はもう混乱していなかった。不思議に落ち着いているのは、どうしてなのだろう。と自分でも気味悪く思っている。何もかも諦めたから気分が平常なのか。
(ううん。諦めてなんかない)
 絶対帰る。生きて帰る。助かる自信もないが、助からない自信もない。もしや自分は死なないのでは、とどこかで思っているのである。

(現実じゃないから?)
 真琴のいる場所はどこなのか。
(現実のどこか? 空想の一部? 物語の中?)
 落ち着いてはいるけれど、なんだかどうしようもなく侘しくて、気持ちが沈んでいくのは止められなかった。人間とは恐ろしいものだ。平気で裏切って見捨てられるのである。あの兵士たちは、自分たちが追い込んだせいで、このまま人知れず真琴が死んでしまっても、良心など痛まないのだろう。

 いつの間にかフクロウの声が聞こえなくなって、代わりに小鳥の囀りが聞こえ始めた。空はまだ暗いけれど夜明けが近いのかもしれない。
 行軍が終わったころには、真琴の存在がないことを気づいて捜索してくれるだろうか。それとも、あの三人が巧みに嘘をついて、先に帰ったなどと嘯くのだろうか。

 そんなことを考えて胸に絶望が浸食していくのを感じていたとき、頭上を影が走った気がした。咄嗟に仰ぎ見ると、あきらかに人影であり、そして空を飛んでいた。
 幻かと思って真琴は眼をこする。が、人影はまだ旋回しており、近くの木に立体機動のアンカーを刺して地に降り立ってきた。
 近づいてくる足音が、みるみる安心感を芽生えさせた。目頭が熱くなってくるが一心に押しとどめる。
 しゃがみ込んでいる真琴の目先でリヴァイが足を止めた。無理に笑みを作る。

「は、早い救助でしたね。まだ夜明け前なのに」
「あ?」
 リヴァイが険の含んだ眼つきに変えた。
「何を言ってんだ、てめぇ。なぜ笑ってやがる」
 冷ややかな口調で言われて怖じ気づきそうになった。彼は不謹慎だと思って怒っているのだ。分かっているのに、真琴の表情は荒唐な笑顔しか作れないのである。
「助けが来なかったら、どうしようかと思って」
 どこかの大根役者のように、わざとらしく、ほっと息をついてみせた。
「ああ、ほんとよかったです。疲労からだと思うんですけど、ぼけっと走ってたら気づかないうちに獣道から外れちゃってて。そしたら、知らないうちに崖から落ちちゃいまして」

 この口は、明るくべらべらと喋った。どうしてか止まらなかった。胸の内の不安を悟られまいと、必死で引き攣った笑顔を向けている真琴は、おそらく滑稽に見えるに違いない。
 黙ってずっと見降ろしていたリヴァイが、突然片膝を突いた。容赦のない強さで、真琴の頬を平手打ちした。
 打たれた衝撃で、真琴の眼が見開いて細かに視点が揺れる。じわじわと痛みだす頬に手を添える。唇から血の味がした。

「周りにどれだけ心配かけたか、てめぇは微塵も考えねぇのか。ピエロみてぇに笑う、ふざけたその口は何だ。神経を疑う」
 突き放すような語調はガラスの破片のごとく真琴の胸に 深く刺さってきた。
「飛び回って探してたのが、クソみたいじゃねぇか」

 唇が震えて、眼に涙が浮き出てくる。零れ出さないよう必死に地面を睨みつける。湿気った草に朝露が光って、まさか涙が落ちたのでは、と不安になった。
 真琴は頑なに口を結んで、リヴァイは見捨てたような浅い溜息をついて立ち上がった。

「今回ばかりは愛想が尽きた」
 真琴は唇を噛むしかできなかった。
 頭上から女の声がして、意識をそっちに向ける。

「リヴァイ!」
 リヴァイは呼ばれた声のほうへ空を仰ぐ。
「ナナバか」
 立体機動を使って地に滑ってきたナナバがリヴァイに駆け寄ってきた。
「よくここが分かったね」
「当てずっぽうだ。お前こそ、捜索に加わってくれたのか」

 いや、と歯切れ悪くナナバは言った。唐突に深く腰を折る。
「ごめん、リヴァイ! 今回のことも、うちの班が関わっていたらしいんだ!」
「――なに?」
 リヴァイは眉を顰めて、ナナバは申し訳なさそうに唇を歪める。
「あの三人から直接聞いたわけじゃないんだけど、同じ班の子が聞いていたらしいんだ。行軍の際に、真琴を待ち伏せするとか何とか、って」
「それは本当の話なのか?」

「真琴に聞けば本当のことが分かると思う」そう言って話の矛先を投げる。「教えてくれるかい?」
 黙り込んでいる真琴の前でリヴァイが膝を突いた。立体機動の収納箱が、がしゃん、と地面にぶつかる音がした。
「どうなんだ、おい」
 と、彼が途端に眼を見張ったのは真琴の顔が真っ青だったからだろう。リヴァイはナナバを振り仰ぐ。

「ここは俺が聞いておく。ナナバは真琴が見つかったことを、エルヴィンに報告しておいてくれ」
「分かった」
 浅く頷いたナナバは、すぐさま飛び去っていった。

 身体を固くして深く頭を伏せている真琴をリヴァイが覗き込んでくる。
「真琴」
 さきほどと違って懇篤の語調で呼びかけてきた。優しく気づかわれると、途端に心臓が沸騰したように熱くなっていく。下唇を噛んで強く手を握り、いまにも泣き叫びそうになるのを真琴は一生懸命に耐えていた。
「本当のことを話せ。何があった? 崖から落ちたのは、あの三人が関係してるのか」

「違う。道に迷って……それで」
「嘘をつくなっ」
「嘘じゃない」
 辛抱強く聞き返していたリヴァイが、真琴の頑固さに苛立ちを露わにした。

「俺を騙せると思ってんのか!」
 静かな森の中で怒鳴り声はよく響き、それで真琴の両肩が痙攣した。驚いた鳥たちが一斉に飛び立っていくのに合わせ、真琴の遣る瀬なさも爆発して飛び散った。

「尽きたって――」膝をぎゅっと抱え込み、地面に向かって叫喚した。「愛想尽きたって言ったのに! 放っておいてよ!」
「放っておけねぇから探しにきたんだろうが! なぜそれがてめぇには分からない!」

 堪えていた涙が溢れ出して、草原にぽたぽたと落ちていく。小さな葉っぱに落ちた涙の雫は朝露と混ざる。
「なら……なら!!」
 一瞬躊躇したが、
「――犯されそうになった!! そう言えばよかったわけ!?」
 まるで銃で打たれたようにリヴァイの眼が見開いた。真琴は悲鳴のように叫ぶ。
「言いたくない! 言いたくなかった! だって言ったら本当のことになっちゃう! 認めたくない、そんなこと! 気持ち悪かった! 思い出したくないのに! なんで聞くの!?」

 顔を覆って真琴は咽び泣いた。僅かに唇を震わせているリヴァイは恐れるように聞いてくる。
「何をされた。体、触られたのか」
「触らせるわないでしょ、汚い手に! 必死で、我武者らに抵抗したに決まってるでしょ!」

 安堵したような息をついたリヴァイだったが、次に音もなく不気味に立ち上がったときには眼が据わっていた。続いて、刃を装填する音が森の中で無機質に響いたのである。
 リヴァイが不穏な空気を纏って いることに気づいた真琴は瞳を上げた。
「……何をしてるんですか」
「殺してくる」

 殺気を込めてそれだけ言うと、反転したリヴァイは崖の上のほうに向かってアンカーを放った。いまにも飛び立っていきそうだった。
 また森の中で置き去りにされる。そう思って真琴の胸を孤独が襲う。
「待って……、待って! やだ! 一人にしないで、行かないで!」
 泣き叫んで請えば、はっと眼を見開いたリヴァイがトリガーを握る手を見降ろした。一度強く握り締めるような仕草をしてから刃を脱着させて、ぴしゃりと額を打ち、かぶりを振った。

 丸い背中を震わせている真琴のそばで再び片膝を突き、眉間に縦皺を寄せて彼は瞼を伏せた。
「悪かった。いまのお前を一人にしようなどと、俺はどうかしていたらしい。思わず冷静でいられなくなった」
 いいんだと、頭を振る真琴の顎を取って顔を上げさせる。リヴァイはその親指で、血が滲む口の端を拭った。

「お前が頑ななのを忘れていた。聞き出してやらねぇと素直に喋らねぇんだから、たちが悪い」
 痛々しい瞳をし、手の甲で頬を撫でる。
「痛かったか」
 何も言わずに、真琴は瞳を閉じて筋張った手の感触を頬擦りした。いまは縋ってただ甘えたい気分であり、欲をいえば包み込んでほしいと思っていた。

「どうしてほしい?」
「そばに、いてくれるだけでいい」
 リヴァイは苦しそうに息をつく。
「何かしてやりたくて、たまらないんだが」
 びくりと動いた真琴の両肩を見て、リヴァイは遣る瀬なさを滲ませて呟いた。
「なぜお前は男なんだ。女なら抱きしめてやれたってのに」

 胸が締めつけられるような切なさと、くすぐったいような痛みを感じながら真琴は紡いだ。
「男に生まれてしまったものは、どうしようもないですから……」
 どうにもならない嘘をつけば、なんとも表現しがたい表情でリヴァイに重い溜息をつかせてしまった。
「……そうなんだが」

「そんなことを言うから、男色だなんて噂が広まっちゃうんですよ」
 聞き捨てならない言葉だったのだろう。物憂げだった空気がぴりっとしてしまい、リヴァイがあからさまに眉を顰めた。
「なんだそれ。誰が言った、そんなこと」
「……あの人たち」
「あとで殺しておこう」

 リヴァイが本当に処分してしまったかは分からない。けれど、彼ら三人は真琴を置き去りにしたあと、熊に遭遇して重軽傷を負い、加えてエルヴィンから処分を受けた。除隊した三人がその後どうなったかは知らないが、真琴と顔を会わすことはもうないだろうと思われる。


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