01.蝉が一夏を必死に生きている鳴き声

 蝉が一夏を必死に生きている鳴き声がする午後。閲覧室にいる真琴は、卓に辞書を広げてノートに書き写していた。文字の練習である。
 この世界の文字は読めても、真琴の書く文字は日本語なので、休日はこうして閲覧室に籠って練習をしているのだ。別段こちら側に居着くつもりではなく、長文が書けなくても、いまのところ困ったことはない。が、班ごとに提出する訓練内容を記述したレポートが書けず、いつも真琴が担当するときはペトラに頼んでいた。それでは申し訳ないと思って練習を始めたのであった。

 書き取りを始めて七ページ目に手をつけようとしたとき、古びた木製の戸が開く音がして、何となしに瞳を向けた。
「こんなところにいた。訓練場のほうまで探しにいっちゃった」
 軽く走ってきたのか、顔を赤らめて汗を浮かべている私服姿のペトラだった。息をついて笑みを湛え、真琴のほうに来て手許を覗き込む。
「何してるの? 調べ事?」
「あー、いや」
 真琴は咄嗟にノートを畳んだ。けれど中身が見えてしまったらしく、ペトラが微妙な表情をする。

「真琴って字がとっても下手なんだね。だから私にいつもレポートを押しつけるんだ。納得」
 だから見られたくなかったのだ。日本語ならば綺麗に書けるのだが、知らない文字は難しいのである。書道二段が泣いていると思う。
 下手と言われて多少ながらもショックを受けた真琴は、気を取り直してペトラに向き合った。
「ボクのことを探してたの?」

 ペトラは瞳を緩める。
「うん。兵長に買い物を頼まれてるんだけど、私もいくつか買う物があるから、つき合ってくれないかなって」
 要するに荷物持ちをしてもらいたいようだ。真琴は頷いてみせた。
「いいよ。行こうか」
「でもいいの? 勉強中だったんじゃない?」
「休憩しようと思ってたところだから」
 そう言って真琴は卓子周りを片付け始める。ペトラが辞書を本棚にしまってくれて、そうして二人は閲覧室をあとにしたのであった。

 ウォールローゼの市庁舎前の大広場では、休日にオープンマーケットが開催される。ストライプや水玉のカラフルなテントを纏った店がひしめき合っていて、人の流れも多い。花屋、果物屋、野菜屋など、色とりどりな品物が太陽に照らされて眩く光って見える。
 新鮮で鮮やかな香りを、真琴は胸いっぱいに吸い込んだ。

「ペトラ。試食だって」
 爪楊枝に刺さっている角切りのフルーツを差し出す。
「真琴ってばちゃっかりしてるのね。男の人なのに珍しい」
 と言うペトラも満足げにもぐもぐしている。
「食べてあげないと、ひからびちゃうじゃん」
 試食用のフルーツを頬張ると柔らかくて、そして甘かった。柑橘の香りは購買意欲を煽るというものだ。帰りにでも寄って買っていこうと真琴は思った。

 マーケット通りにある一軒の店にペトラは入った。店内は文房具から生活用品まで揃う万屋だ。
 買い物カゴを持たされた真琴はペトラの後ろからついていく。メモ用紙を確認しながら、彼女は慣れている様子で品物を放り込んでいく。
「ねぇ雑巾って何枚いるの? こんなに要らないんじゃないの」
 用紙やペン、インクの入ったカゴは雑巾の山で埋もれていく。真琴が疑問を投げたそばから新たな雑巾が放り込まれた。

「三十枚だから……って、あれ?」
 棚から取った雑巾を手にしたペトラは、首をかしげてから恨めしそうに振り返った。
「んもう! 途中で話しかけるから、何枚目か分からなくなっちゃったじゃない」
「ごめん、数えるから待って」
 カゴを置き、しゃがみ込んで真琴は一枚一枚数え始める。
「何に使うんだろう……、って愚問だよね」
「兵長の個人的な備品だからね。もちろん兵団の経費じゃないよ」
「雑巾、一枚なんてたかが知れてるけど、塵も積もれば何とやらだからね」

 ペトラはこの前も大荷物を抱えて外から帰ってきたことがあった。荷物のわりに重そうには見えなかったので、きっと中身は雑巾だったのかもしれない。リヴァイは年間でどれくらい雑巾を消費するのだろう。それらを兵団の経費で落としていたら、ちょっとした問題になっていると思う。
 数え終わった真琴は顔を上げた。

「二十六枚だった」
「あと四枚ね。これで兵長のお遣いは終わりだから」
 まとめて四枚の雑巾を放り込んだペトラは勘定場のほうへ歩いていく。カゴを勘定台に置くと、店員が眉根を寄せた。
「ペトラちゃん、また雑巾買っていくのかい? いや、うちは儲かっていいんだけどさ」
「うちの上官は綺麗好きでして」
「それにしたって、こんなに必要かね〜?」
 訝しげに雑巾を見やる店員は、数を確認して計算していく。その傍らで真琴とペトラは眼を合わせて苦笑し合ったのだった。

 店を出て、両手に袋をぶらさげた真琴は先を行くペトラに声をかけた。
「次はペトラの買い物?」
「うん。お弁当を作りたいから食材が欲しいの」
「お弁当?」
 ペトラは振り返る。
「明日、合同演習があるでしょ。班員のみんなに、お昼のお弁当を用意しようかなって」
「合同演習?」
 ぽかんとする真琴を見て、ペトラが仕方のない子と言うふうな眼をする。
「まさか忘れちゃったの?」
「……思い出した」

 忘れていた真琴は、いま思い出して顔を引き攣らせた。
 合同演習とは、調査兵団の全員で陣形の確認をしたり、対巨人戦の状況を想定した訓練のことである。それとは別に軍ならではの行軍という項目があるのだが、話に聞くと過酷な内容らしく、体力が持つのか不安に思っていた。

「行軍やだな」
「私もあまり好きじゃない」
 困った顔をして苦く笑うペトラが真琴の肩を叩く。
「でもパワーがつくように美味しいお弁当を作るから、一緒に頑張ろう。ね?」
「うん……」
 腹痛でも起こそうかな、と真琴は回避の理由を考えながら頷いた。

 食品店であらかたの食材を手に入れ、やはり荷物はすべて真琴が持ち、目的もなくマーケットを物色するペトラのあとを歩いていた。
 急にペトラが反転したので踏鞴を踏む。
「わっ! いきなり何!」
「こっちはダメ! あっちを見よう!」
 口許を歪ませているペトラは、真琴の両肩を押して来た道を引き返そうとした。

「ペトラじゃないか!」
 低くて太い声がして、真琴はペトラの肩越しに前方を見据えた。にこやかに手を挙げた少し小太りな中年男が、こちらに近寄ってくる。
 ペトラが小声で囁く。

「早く行こうっ、真琴」
「え。でもペトラのことを呼んでるよ。誰?」
 手の届く位置まで来た男はペトラの背中に向かって笑顔を見せた。
「今日は非番か? ああ、休日は兵士も休みなのか」
 諦めたように息をついたペトラは男を振り返る。

「正確には休日はないんだけど、非番が順番に回ってくるのよ。お父さんは? 買い物?」
 どうやら男はペトラの父親のようだ。
「いやぁ、まぁ、そんなところだ」
 歯切れ悪く言い、片手に持っていた新聞のようなものを後ろ手に隠した。ペトラはすぐさま父親の腕を掴み、何を持っているのか確認して睨んだ。

「また、お馬さん?」
「休みの日ぐらい、いいだろう。楽しみがなきゃ週明けから頑張れん」
 父親は機嫌を窺うようにペトラを見る。
「休みの日だからこそ、お母さんの家事を手伝ってあげなさいよ」
「口うるさいところが似てきたな、お前」
 口を窄めて父親が言うと、ペトラは眉を吊り上げた。
「なにそれー。お母さんの悪口?」
 たじたじした様子で父親は眼を逸らした。

 ペトラの言うお馬さんとは競馬のことだろう。父親が手に持つ新聞は、たぶん競馬予想紙かもしれない。この世界にもこのような娯楽はあって、ほかにも賭博があったりするのだが、あまり派手に稼げるものに対しては憲兵団による規制がかかっているらしかった。
 ぼうと佇んでいる真琴に、ペトラの父親は話の矛先を変えた。

「んん? 誰だ、こいつは」
(初対面でこいつ呼び)
 父親の眼つきは、あきらかに仇に対するものだった。
「あの、ボクは調――」
「お前には聞いとらん!」
 言葉を遮った父親はペトラに眼で聞く。
「同僚よ。調査兵団の兵士」
「ふうん。兵団にも、もやしっ子みたいなのがいるんだな」
「失礼でしょ!」

 二人のやり取りを見守る真琴は苦く笑った。以前もリヴァイからもやしと言われたことがあった、と思い出していたのである。筋トレを毎日していても、量をこなさなければ身にならないらしい。
 父親は白い眼で真琴を見て、ぼそりと呟く。

「二人で買い物ねぇ」
「何か言った?」
 すかさずペトラが突っ込み、父親は真琴に見せた表情を隠して、にこやかな色に変えた。
「近くまで来てんだから家に寄っていけ。母さんも喜ぶぞ」
「そうね、せっかくだし。あとお茶もしたいと思ってたし」
 考える素振りをしながら言ったペトラは真琴に微笑んでみせた。
「うちにおいでよ。荷物持ちのお礼にお茶菓子出すわよ」

 親子水入らずを邪魔するのは野暮かもしれない。他人がいては話せないこともあるだろう。真琴が口を開いて断ろうと返事をする前に、ペトラが腕を引いて歩き出した。
「小腹が空いてるなら、軽く何か作るわ」
「そうじゃなくて。ボクはいいよ、悪いし」
「水くさいわね。遠慮しなくていいって」
 ずんずん歩いていくペトラに引かれつつ、後ろを歩く父親に上目遣いすると、思った通りヘソを曲げていた。
「お前は呼んどらんのに……」
「すみません……」
 女親になった気持ちで真琴は頭を下げたのだった。

 ペトラの家は可もなく不可もなく、どこにでもあるような一般的な家だった。戸を開けて玄関の先は居間で、その奥の台所にいた母親らしき女が振り向いた。
「あら、ペトラじゃないの! 珍しいわね」
 母親はタオルで手を拭きながら笑顔でやってくる。
「街で父さんと会ったの? 今日はお休み? あなた最近、兵団ではどうなの?」
 玄関先で矢継ぎ早に訊いてくる母親に、ペトラは困ったように笑ってみせた。
「玄関でする話じゃないでしょう。中に入れないじゃない」
「それもそうね。入りなさいな。――あら?」
 顎のラインに手を添えて母親は首をかしげる。
「もっと珍しいわ。男性を連れてくるなんて」

 母親の視線を受けて、真琴は頭を軽く下げた。
「調査兵団に所属している真琴と申します。ペトラさんとは同僚で、いつもお世話になっております」
「まっ。好感触」
 と独り言を言った母親に、ほんのり頬を染めたペトラが否定する。
「ただの同・僚! だからね」
「お客様なら、こんなところで立ち話だなんて本当に失礼よね。ごめんなさい、お入りになって」

 言いながら母親は居間のほうへ向けて腕を伸ばす。ペトラに促されるまま、真琴は靴を脱いで上がらせてもらい、食卓の椅子に腰を降ろした。
 台所でやかんに火をつけた母親が肩越しに振り返る。

「真琴さん、飲み物どうします? コーヒーか紅茶しかご用意できませんけど。あっ! 麦酒のほうがいいかしら」
「何言ってるのよ、お母さん。真っ昼間から!」
 傍らで手伝うペトラが咎めた。真琴の向かいに座る父親が、競馬新聞を広げながら後ろに声をかける。
「やらんでいい! 俺は酒!」

 なんだか機嫌が悪い。父親として真琴のことが面白くないのかもしれない。これが女だったなら歓迎されていたのだろうけれど。
 居心地が悪い真琴は身じろぎしつつ控えめに声を出した。

「お構いなく。あの、水でもボクは充分ですので」
「やだわ。父さんがいじけてるから、真琴さんたら萎縮してるじゃない。ごめんなさいね」
「いえ、そんなことは。休日にお邪魔してること自体、ホント申し訳ございません」
 語尾が消え入った真琴に、父親は新聞の影から顔をちょこっと出して、
「まったくだ」
 と呟いた。
 引き攣って真琴は項垂れるしかなかった。

 台所で手を動かしている母親がペトラを肘で突く。
「母さんがやるから。たまに帰ってきてまで、手伝ってくれなくても大丈夫よ。真琴さんの相手をしなさいな」
 ペトラはただ頷き、戸棚にある菓子を取り出して真琴の隣に腰掛けた。袋からクッキーを皿に落としているペトラに言う。

「珍しいって言ってたけど、実家に帰るのは久しぶりなの?」
「そういえば、兵長の班に入ってからは全然帰ってないわね」
「遠征前の休暇のとき、帰らなかったの?」
 皿から零れたクッキーを拾ったペトラは口に放り込む。
「うん。休暇を取らなかったから。ずっと自主練してたかな」

 真琴は感心の息をついた。ペトラは真面目で一生懸命である。
 新聞を畳んだ父親が割り込んできた。
「手紙を見たが、兵長ってリヴァイ兵士長のことか?」
「そうよ。前回の遠征のとき、見送りに来てくれた?」
「娘が壁外調査に出るんだ、行かない親はいないだろう。――そうか。あのときの、ちっこいのがお前の上司か」

 真琴は思わず吹き出しそうになるのを堪えて、ペトラは咀嚼していたクッキーを喉に詰まらせる。
「なんてことを言うの、お父さん! 凄い人に対して!」
「いないんだから、いいだろう」
 口を窄めて父親はそっぽを向き、また新聞を広げて読み出した。男の話になると機嫌が悪くなるようだ。
 真琴はペトラに耳打ちする。
「手紙でリヴァイ兵士長のこと、いっぱい褒めたりした?」
「うん、思ってること全部。だって知ってもらいたいじゃない、素晴らしい人だって」
 にっこりとペトラは笑った。
(原因はこれか)
 父親が知らない男に敵意を剥き出しにするのは、おそらく手紙のせいに違いなかった。

 お茶を用意した母親が食卓に盆を置いた。
「しょうもない人ね。酔わせちゃったほうがいいかもしれないわ」
 父親に溜息をついて、それぞれにカップを配ってくれる。白い泡がてんこ盛りの麦酒を差し出された父親は、ぐっと喉を鳴らして飲んだ。
「娘の心配をして何が悪い? 変な虫がつかないように、父親がしっかり眼を光らせにゃならん!」

 そう言って父親は真琴を睨んでくるので、反射的に俯くしかなかった。
(これは彼氏なんて連れてきたら大変ね、ペトラは)
 母親は父親の隣に腰掛け、真琴に向かって手を差し出す。

「コーヒーですけれど飲んで」
「ありがとうございます。いただきます」
 香ばしい香りのするコーヒーにはミルクが入っていて口当たりがよかった。家庭の優しい味だった。

 コーヒーを混ぜながら母親が真琴に微笑んできた。
「うちの娘、兵団ではどんな様子なのかしら? しっかりやってる?」
「それは、もう。一生懸命な方で、ボクが落ち込んでいるときなどは、言わなくても察してくれるような、とても気のつく方です」
「男が落ち込むな。情けない」
 父さん! と父親の手の皮を強めに抓り、誤魔化さすように苦笑する。
「人様の役に立っているのか心配でねぇ」

「心配なさるようなことはないと思います。みんなから頼られていますし。今日だって、ね?」
 と真琴はペトラに目配せをする。
「兵長のお遣いだったの。そこで、ばったりお父さんに会っちゃったのよ」
「人の娘を顎で使いやがって」
 ぶつぶつ文句を言う父親の手を母親はまた抓る。手の皮は指の跡がついてしまったようだ。
「そう。必要とされているのなら安心だわ」
 優しく笑みを零す母親に真琴は相槌を打った。
「はい」

「そうだわ、ペトラ。あなたに譲りたいものがあったの。母さんの部屋に来て」
「なあに?」
 席を立った母親のあとに続いてペトラも奥へいってしまい、居間には真琴と父親だけが残された。重い沈黙と、新聞をただ捲る無機質な紙の音だけが居間を支配している。
 後ろめたいことなど何もないのに、どうしてこんなに窮屈なのか。と真琴が身じろぎしていると、新聞を置いた父親は威厳を保ちつつも不安そうに呟いた。

「つき合ってるのか、娘と」
 真琴は眼を点にして首を振る。
「そういう関係ではありません。ペトラさんも言っていた通り、ただの同僚です」
「本当だな? 嘘をついてたら針千本、呑んでもらうぞ」
 呑まなくていい自信がある。はっきりと頷いた真琴を見て父親は安心したように息をつき、身を乗り出してきた。

「いるのか?」
「――は?」
 質問の意味が分からなくて聞き返す。父親はペトラの入っていった戸に視線を投げて親指を立てた。
「いるのか?」
 たぶん彼氏がいるのかどうかを聞いているのだろう。真琴は曖昧に首をかしげる。
「そういう話をしたこともないし、噂とか聞いたこともないですから、たぶん、いないと思いますけど」
「本当だな? 針千本」

「お父さんっ。それはちょっと確信ないですから困ります」
 遮るように真琴は割って入った。情報に自信がないし、さすがに自分に関係のないことで針を呑むわけにはいかない。
 が、真琴の失言で父親は機嫌を崩す。
「俺は、お前のお父さんじゃない!」
「……すみません」
 もはや項垂れるしかなかった。

 大きく息をついた父親は、表情を心配そうな色に変えて椅子に深く寄りかかった。
「別にな、娘の連れてくる男すべてを、目の敵にしようってんじゃないんだ」
 何も言わないほうがいいと思って真琴は上目遣いだけをする。
「ただ、調査兵団だけは駄目だ」
「ペトラさんも調査兵団ですが」

 遣り切れないというふうな溜息を父親はつく。
「優秀だったんだ、娘は。主席ではなかったが、訓練兵団を十位以内で卒兵してな。てっきり憲兵団に入るものと手放しで喜んでいたんだが」
「……なのに、ペトラさんは調査兵団に入ってしまった」
「五年前の悲劇を、二度と繰り返したくないからだと本人は言っていたな」
「悲惨でしたから」
 眼で見たわけではないが、真琴は巨人に襲われる街を想像しながら頷いてみせた。

「そのときに幼なじみを失くしていてな。けれど、まさかそれを引きずって調査兵団に入るなんぞ、わしらは思わなかったから心底驚きもしたし、反対もした」
「でも、彼女は意思を貫き通した」
「まったく、母さんに似て頑固だ」
「その。調査兵団の男だけは駄目とは、どういう?」
 上目で問うと父親は肩を落とした。

「まだ結婚には早いと思っているが、親としては娘の幸せを祈らずにはいられないもんだ。孫も拝みたいしな」
「調査兵団でもそうでないとしても、彼女が好きになった人なら誰でも――って言ったらあれですけど。望んでいる人と一緒になるのが、幸せなんじゃないでしょうか」

「青いな」
 言い切った父親は真剣な眼をした。
「娘の幸せを願うなら、調査兵団の男は駄目だ。いつ死ぬか分からんような男に、大事な娘をくれてやれるはずがない」
「死ぬって決めつけなくても。それに彼女だって調査兵団の一人なんですよ」
「矛盾はしている。だが娘が壁の外で死ぬようなことは一切考えていない」強めに言う。「考えられるわけないだろう」

 おそらくこれが、調査兵団に入った娘や息子を思う純粋な親たちの気持ちなのだろう。死ぬことなど微塵も思っていない。いや、思っちゃいけないのだ。それだけ切実なのである。

「それを前提にしてだな、調査兵団の男は駄目なんだよ。お前は幸せにできるか? 女を? お前が死んだあと、残された女房と子供はどうする?」
 神妙な面持ちで、真琴はただ唾を飲み込んだ。本当は女であるが分からなくない。
「娘の泣く顔を見たくねぇんだ。親なら娘を思って、将来を心配するのは当たり前のことだろう」

 その通りだった。最愛の人が亡くなったとあらば、必ずペトラは悲しんで泣くだろう。そのような姿を見る親は、きっとつらいに違いないのだ。だから調査兵団の男はペトラの結婚相手になる選択肢にないのだ。
 けれど、何が本当の幸せなのか真琴には分からない。父親が言った通り、まだ青いからなのかもしれないが。
 俯き加減で真琴は呟いた。

「もし……もし彼女が好きになった人が調査兵団の人で、結婚したいと頭を下げてきたら、反対して追い返すんですか? それは幸せを奪うことにはなりませんか? ペトラさんは泣くんじゃないんでしょうか」
 つらそうに顔を歪ませた父親は額を掻く。
「そういうことになっても俺は信念に従って――、しかし想像すると、たまらんな」
 そう言って頭を垂れた父親は、半分泣いたような顔でぼやいた。
「……なんで調査兵団になんか入ったんだか」

 それが本音なのだろうと真琴は思った。ペトラはとても良い子だ。けれど、親をこんなに心配させるペトラは、いくら強い信念があろうとも親不孝なのかもしれなかった。
 それからは二人してずっと、ただ俯いて時間の経過を待ったのだった。

 黄昏の染まる街を、ペトラと真琴は兵舎へ向かって歩いていた。父親と真琴が彼女の将来のことを話していたなどとは露ほども知らず、ペトラは上機嫌で鼻歌を歌っていた。

「機嫌がいいね。お母さんと何かいいことあったの?」
「見せちゃおっかな〜」
 にこにこしているペトラは首許に光る鎖を引き出し、真琴に見せる。
「これね、お母さんのなんだけど、子供のころからずっと欲しかったんだ。さっきくれたの」

 夕暮れの陽を受けてキラリと光る銀のネックレス。先端に眩く輝いている黒い石があった。もしかするとブラックダイヤモンドかもしれない。

「ちょうだい、ってずっと言ってたんだけど、大事なものだからってくれなかったのに。今日、家に寄ってよかった〜」
「それ、どうしていまになってくれたんだろう」
「なんでだろう? 気まぐれかな?」
 首をかしげてペトラは笑う。

 ブラックダイヤモンドはヘマタイトという黒い鉱石を加工したものである。生命力にあふれる石で、身代わりという意味があるらしい。
 自分の母親を思い出して、真琴は眼を細めた。
「ペトラ。親を泣か――」
 言いかけて口を噤んだ。

 大事なものを、どんな思いで母親がペトラへ託したのか。真琴が言うまでもなく、彼女がよく知っているはずだ。
「何か言った?」
「ううん」首を振って真琴は切なく唇を綻ばせる。「さあ、早く帰ろうか。みんなが待っている所へ」
「うん。みんなが待っている所へ帰ろう」
 微笑んだペトラは真琴の片手から袋を取って、腕を大きく振りながら前に向かって歩いていく。
 二つの細い影が、マーケット通りに長く伸びていったのだった。


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