26.昨夜の大雨が嘘のように

 昨夜の大雨がまるで嘘のように、太陽がさんさんと輝いていた。

 真琴は調査兵団のジャケットを憎らしい思いで見降ろす。世間ではクールビスなどと言われてノージャケットにノーネクタイがかなり浸透してきている。それでも全体の五十パーセントくらいだというのだから意外にも少ないのが現状である。真琴の勤務する会社でも実地してはいるが、世間体を考慮すると、どうしてもジャケットとネクタイ着用でなければ格好がつかない場合があり、営業担当なんかは夏場は暑そうで可哀想なほどだ。

 しかしながら、こちらではクールビスという言葉は一切ないようだった。たとえ真夏の猛暑日であっても兵団は常時ジャケット着用である。ただしインナーは半袖でもいいらしいと聞いたけれど。

 調査兵団本部の正門前で、かれこれ数十分ほど真琴は行ったり来たりを繰り返していた。フュルストに言われて戻ってきたものの、正門をくぐるのを躊躇していたのだ。
 昨夜はフェンデル邸で過ごしたが、本部へは何も連絡をしなかったので、真琴は無断外泊をしたことになっているだろう。加えて心配事もあった。

(まさかと思うけど、いきなり逮捕されたりしないわよね)
 犯人として指名手配されていないかが、躊躇の大半を占めるくらい、ひどく気がかりであった。
(勇気が出ない。やっぱり屋敷へ帰ろう)
 と真琴は踵を返した。

「真琴!」
 緑の並木道に入ろうとしたところで、見知った声を振り返った。本部から正門を出たばかりのペトラが、真琴に向かって軽く手を振りつつ、小走りしてきた。
「具合はもういいの?」
「具合?」
 ペトラの言葉で真琴は思わず間抜けな声が出た。
「兵長から聞いて心配してたの。昨日急に調子が悪くなって、そのまま自宅療養になったんだって?」
 もう出勤しても平気なの? と気遣わしげに真琴を覗き込んでくる。ちんぷんかんぷんであるが、真琴は曖昧に頷いてみせた。

「う、うん。一日安静にしてたら治ったみたい」
「よかった。暑い日が続くから、体調崩しやすいよね。なんか私も首の付け根あたりが怠くて」
 とペトラは準備体操のごとく首を回す。真琴はとても共感できた。陽に当たり過ぎて体力を消耗してくると、すぐ首に不調が表れるからだ。

「そうなんだよね。ボクもすぐ首筋が重くなったりするよ。ペトラも身体には気をつけてね」
「ありがとう。私、お遣い頼まれてるから街まで行ってくるね」
 いましがたと同じように後方に半身を捻って軽く手を振り、ペトラは街の方角へ歩いていく。
「陽射しが強いから、日射病に気をつけてね」
 後ろ姿を見送る真琴は控えめに手を振り返したのだった。

 真琴はどうやら体調を崩したことになっているようである。リヴァイがそう言っていたとペトラは言ったが、なぜ彼はそう嘯いたのか。理由は分からないけれど、とりあえずは兵団に戻っても問題ないように思えた。怪訝が過るものの、正門をくぐって兵舎へ向かうことにした。
 三階へと続く兵舎の階段を昇っていたとき、上から降りてくるリヴァイとばったり会った。真琴を見てきた彼は眉根を上げた。

「もういいのか、体調は」
「えっ、あの――」
 自分よりも上の段にいるリヴァイを見上げている真琴は口籠る。一段一段ゆっくりと降りながら彼が言う。
「違うのか? あのあと、会議室前で待機していた駐屯兵からそう聞いたんだがな。体調が悪いから先に帰ると」

 真琴は眼を丸くした。そんなことを言った覚えはないが、なぜかそういうことになっているらしい。棚から牡丹餅である。
 涼しい顔でリヴァイは首を傾ける。
「それとも食い違いか」
「いえ、その通りなんですっ」ぴしっと背筋を正して述べていく。「ずっと立っていたら何だか倒れそうになってしまって、それで勝手ながら帰宅したんです。家で安静にしてたら治りましたので、出勤してきました」
「そうか。午後の訓練は出られるな?」
「はいっ」
 しゃきっと返答した真琴にリヴァイは頷く素振りを見せ、階段を降りていった。

 ふらふらと壁に寄りかかった真琴は安堵の息をついた。
(よく分かんないけど、一件落着みたい)
 緊張から解き放たれた途端、倦怠感が全身を襲ってきた。
(何だろう、調子悪い)
 階段を登るのも億劫なくらいで身体が重い。それだけ気を張っていたということだろうか。背中を丸めて壁を伝い、真琴はよろよろと自室へ向かった。

 自室へ入って、閉め切った窓を開ける間もなくベッドへと倒れ込んだ。なんだか身体が熱くて、自分の額を触れてみる。
 真琴は溜息をついた。
(言霊ってやつかしら)
 額は明らかに熱を持っていた。体調が悪いという話が本当のことになってしまったらしい。そのまま気を失うように真琴は眠り込んだのだった。

 久方ぶりによい夢だと思っていた。三角屋根はカラフルなマカロン、軒下はフリルのような白いクリーム、壁はビスケット、窓はステンドグラスに似せた雨細工、扉はチョコレート、煙突から漂うふわふわは綿菓子。まるでヘンゼルとグレーテルの世界のような、お菓子の家が目の前にあったのである。
 着用している水色のドレスも、ずいぶんとメルヘンだ。喜々として真琴はチョコレートの扉を開け放った。食卓の上に、たくさんのお菓子の山が皿に盛られており、その食卓もビスケットでできていた。

 真琴は一口サイズのマカロンに手を伸ばした。
(あ――ん!)
 大口を開けて、手に持つマカロンを食べようとしたのだけれど。
(あれ?)
 ところが、口まで僅か十センチというところで、どうしてか腕がこれ以上挙らないのだ。
(なんでー! マカロンまであとちょっとなのに!)

 動かなければ手首のスイングで口に放り込んでやる。そうして勢いよく手首を振ると、見事に真琴の口から逸れて、マカロンは床に転がってしまったのである。
 悔しい!! と、お菓子の家が縦揺れするほどに地団駄を踏んだ瞬間、真琴は夢から覚めたのだった。

 鈍重を感じる瞼を薄く開けると、気持ち悪いくらいに天井がぐるぐると回っていた。そして真琴の隣に人影があった。
「うなされていたが、大丈夫か」
 視線だけを声のほうに動かし、人影がリヴァイだったのだと認識した。ベッドの脇で膝を突き、真琴の手首を押さえつけるように触れている。
「熱があるようだ。脈が早い」

「だからだったんだ」
「何がだ」
 リヴァイが手首に触れていたから、夢の中の真琴は腕が挙らなかったのだ。
「もうちょっとだったのに」
「あ?」
「もうちょっとでマカロンを食べられたのに」
 悔しさを含ませて言うとリヴァイが眉を寄せた。

「まかろん? 何わけの分からないことを言ってやがる。とうとう頭いかれたか」
「頭ガンガンしますけど、まともですから。というかリヴァイ兵士長は、どうしてボクの部屋にいるんですか」
「訓練の時間になっても来ねぇから呼びにきたが、何度蹴っても出ねぇし。扉に鍵がかかってねぇから入ってみれば、お前の顔が真っ赤じゃねぇか」
 リヴァイは立ち上がり、扉に向かって顎をしゃくる。

「医務室で医者に診てもらえ」
「医者は嫌です」 
 真琴は眼で訴え、リヴァイは溜息をついた。
「背中に地割れのような気持ち悪い傷跡――だったか」
「そ、そうです」
 そこまで酷く表現しただろうか、と真琴は首を傾けた。話に尾びれがついてしまったようだ。
 リヴァイは腰に手を当てて緩く首を振る。
「その熱じゃ、誰かの手助けが必要だろう」

 確かにその通りだった。頭がぐるぐるして、身体は怠くて、水一つ飲むのにも苦労しそうだ。それどころか、何年かぶりの高熱に気持ちもなんだか不安で心細い気もしてきた。
 とはいえ医者だけは困るのだ。触診で女だと発覚してしまう恐れがあるので、医務室で世話になるわけにはいかないのである。

「子供じゃないので、一人でも大丈夫かと思います」
 そう言いつつも、不安が顕著に声に出てしまった真琴を見て、リヴァイはまたも溜息をついた。
「熱がありながらも、その頑迷さには呆れ果てるな」
 そう言ったリヴァイは真琴の腕を引いて半身を支え起こした。と、いきなり小脇に挟むようにして担ぎ上げたのだ。
「え!?」
「仕方ねぇ。俺の部屋のベッドを貸してやる」
 米を担ぐように真琴を抱えたリヴァイは、扉まで歩いて足で蹴り開けた。
「また借りが増えたな。一生返せないんじゃねぇのか、真琴よ」

「い、いいっ、一人でいいですっ。 それに、頼んでもいないのに勝手に貸しを作らないでくださいっ」
 真琴は宙を犬かきする。
「放っておいて死なれても困る。隣部屋から死臭がした日には、俺は立ち直れない」
「風邪ごときで死なないですよっ」
「うるせぇな。諦めろ」
 有無を言わせぬ口調で言い、リヴァイは鋭い眼光で真琴を射抜いて黙らせた。

 自室の扉を開け、抱える真琴をベッドの上に降ろそうとして、考えを巡らせているような間のあとでリヴァイは見降ろしてきた。
「お前、そりゃ外から帰ってきたままか」
「そ、そうですね」
「寝間着はどこにある」
「チェストの下から二段目に入ってますけど」
「二段目だな。そのまま床で待ってろ。ベッドには上がんなよ」

 忠告するように指を差してきたリヴァイは部屋から出ていく。閉まっていく扉に隠れていく背中に、真琴は慌てて言う。
「い、一番下の段は絶対に開けないでくださいね!」
 床で座り込んで待っていると、隣の部屋からガサゴソと何やら音がしていた。下着が納められている引き出しを悪戯に開けられないか、ひどく気がかりで胸に悪い。

 そう時間もかからずにリヴァイは戻ってきて、腕の中には着慣れた真琴の寝間着を抱えていた。
「着替えろ。きたねぇ格好のまま、人様のベッドで寝るな」
「洗濯したばかりだから、そんなに汚くないですけど」
 寝間着を突きつけてきたリヴァイに、尖る唇に不満を滲ませて受け取った。
(受け取ったものの、どこで着替えればいいの。変に恥ずかしがると怪しく思われるわよね)
 思案して寝間着を見つめる。男同士と思っているリヴァイは、ここで着替えればいいと思うだろうけれど、真琴にとっては彼がいると着替えることもままならないのだ。

 真琴はしずしずと上目遣いをした。はっと息を呑んだリヴァイは半開きの唇で真琴を注視している。
「あの……どこで着替え――」
「便所掃除の日課を忘れていた。十五分はかかる。お前は寝てろ」
 真琴の問いに被せるように、いま思い出したとばかりにリヴァイは発した。ほっと息をついた真琴を見届けてから彼は洗面所へと入っていった。

 戸が閉まったのを確認し、真琴は軍服を脱いで寝間着に袖を通した。体型にぴったりの窮屈な軍服を脱ぎ去るだけで、幾ばくか身体が楽になる感覚があった。さらさらな肌触りの寝間着は肌に心地好かった。

 他人のベッドを手で触れ、熱でぼぅとする頭で考えていた。
(本当に、このベッドを使ってもいいのかしら)
 少し躊躇したがしかし、怠い身体がベッドをひどく欲していた。身を預けるようにベッドに横になった真琴は、リヴァイのタオルケットを引き寄せて顎付近まで深く被せた。
 お日様の匂いと、シャボンの匂いに包まれる。それと、安心させてくれるもう一つの匂いがあった。真琴はそれらを閉じ込めるようにして、タオルケットに包まって瞳を閉じた。

 のったりと意識が浮上してきて、真琴は覚醒した。閉じた瞼の向こう側に、赤っぽい淡い光をちらほらと感じる。
 真琴はゆっくりと瞳を開けた。天井は見慣れたものであるが、身を預けているベッドは他人のものだとすぐに認識できた。淡い光はランプの灯火で、それ以外は暗闇なので夜なのだと分かった。
 半身を起こしてみると、怠かった身体が嘘のように軽くなっており、まるで熱があったなど嘘であるかのようであった。起き上がった拍子に額から滑り落ちたものを手に取る。

(タオルだわ。あの人が当ててくれたのね)
 ほどよく湿ったタオルはリヴァイが用意してくれたのだろう。ベッドの下には水の張ったタライもあった。
 仄かな明かりのするほうへ真琴は視線を動かしてみた。ランプに照らされるリヴァイは、書机に腕を預けて頭を伏せていた。仕事をしたまま寝てしまったのだろうか。
(いくらなんでも風邪を引いちゃうわよね)
 ベッドから降りた真琴はタオルケットを抱えて書机まで移動した。手に持つタオルケットをリヴァイの肩に掛けようとして異変に気づく。

(なんだか呼吸が荒くない?)
 微かに眉間を皺を寄せているリヴァイは、寝ているにしては速めの呼吸を繰り返している。腕に伏した僅かに見える顔は、ランプの灯火のせいかとも思ったが、心なしか赤味がかかっている気がした。
(嘘でしょうっ)
 焦った真琴はリヴァイの額に手を当てた。あきらかに自分の体温よりも高くて熱を発している。
(熱があるじゃないの!)
「リヴァイ兵士長っ」
 リヴァイの肩を控えめに揺さぶる。こんなところで寝ていては悪化させるだけなので、ベッドへ移動させなければならないだろう。
 リヴァイの瞼が微かに痙攣した。機嫌が悪そうな瞳を薄く開いていく。

「起きてる。耳許で大きい声を出すんじゃねぇよ、頭に響くだろう」
「あっ、そうですよね、ごめんなさい。でも熱があるみたいですよ」
 反応があったことにほっとした真琴は息をついた。リヴァイは側頭部に手を添えて怠そうに半身を起こす。
「んなこた分かってる、チクショーがっ」
「頭痛がするんですか?」
 案じて覗き込む真琴に、リヴァイはちらと視線を寄越してきた。
「お前はもういいのか」
 彼は自分のことよりも人の心配をする。
「なんか治っちゃいました」
「単純で羨ましいな」

(それは馬鹿だって言いたいのかしらね)
 体調を崩しても嫌味が健在なリヴァイを冷ややかな眼つきで見る。
「生意気な眼だ。俺は病人だぞ、労われ」
 毒を吐くリヴァイの表情はつらそうで、いつもの棘が少なかった。熱の影響だろう。
 とりあえず病人をベッドに運ばなくてはならないので、リヴァイの背に腕を回して起き上がらせようとした。
「ベッドへ移動しましょう」
「いらねぇ。一人で平気だ」

 真琴の手を払いのけたリヴァイは、重そうに立ち上がって歩き出した。ベッドの前まで来て、全身を投げ出すようにして沈み込む。
「参った」
「昼間と立場が逆転ですね」
 腕に抱えたままのタオルケットをリヴァイに掛けた真琴は、床にある水の入ったタライでタオルを浸し、絞ってリヴァイの額に置いた。
 額のタオルを触れて、冷たさが気持ちよいというふうにリヴァイは眼を瞑った。

「熱なんぞ、ガキのころ以来だな」
「ボクもです。大人になってからの熱って、とてもつらいんですね。思い知りました」
 苦笑して真琴は答えた。
 リヴァイの熱は、おそらく真琴のせいだ。マコを探して雨の中、びしょ濡れで何時間も彷徨ったからだろう。思えば、真琴の熱も昨日のせいだということは言うまでもないが。もしかしたらフュルストもいまごろ、くしゃみをしているかもしれない。

「水分を取ったほうがいいかもしれません。何か持ってきましょうか? 果物とか」
「お前は本当にもう平気なんだろうな?」
 疑わしい眼つきをしてくるので、首を竦めた真琴は眉を下げてただ微笑んだ。
「どういう身体の構造してんだ」

「安静にしてれば治っちゃうものですよ」
 タオルケットをリヴァイの顎の近くまで深くかけ直してあげた。
「ちょっと食堂へ行ってきますね」
 一言添えてから立ち上がる。
「戻ってこなくていい。お前は部屋へ戻って寝直せ」
「遠慮しないでください」
 と言い残して、真琴は静かに部屋を出た。

 廊下を食堂へ向かって歩いている真琴は、不思議な気分に満たされていた。なんだか優位に立ったという昂揚感である。鬼でも風邪を引けば多少弱まるようで、そんな男を見ていると、何とはなしに優しくしてあげたくなってくるのだ。
 真っ暗闇の食堂を、手元のランプだけを頼りに厨房まで進む。台所には、明日に使うであろう下準備済みの食材がトレイに並んでおり、近くには籠に盛られている様様な果物があった。
 数種類の果物からリンゴを選び、慣れた手つきで皮を剥き始めた。艶やかで丸い鮮やかな赤色の皮は、甘酸っぱい香りを辺りに散らしている。

 カットしたリンゴを見て、どうしようか考えていた。
(定番は、すり下ろしよね)
 子供のころ、熱を出した真琴に母親がよくリンゴをすってくれた。すると甘みが増して食べやすくなるから大好きだった。
(懐かしいな)
 母親の優しさを思い出しながらリンゴをすっていると、自然と朗らかな気分になる。一方で、同時になんて不幸な娘なのだろうと、真琴の目許に翳りが差し出した。いつまでも帰ってこない娘を、両親は何と思っているだろう。もう二度と帰ってこないかもしれないと、諦めてしまっただろうか。

「痛っ!」
 真琴は慌てて人差し指を咥えた。ぼうとしていてリンゴと一緒に指まですってしまった。
 擦り傷から滲み出す血潮を見て真琴は思った。リンゴの皮のように艶っぽい真紅の血は、いまを生きている証であった。
(生きていれば、いつか帰れる。諦めてはだめよ、絶対に帰るんだから)
 改めて決意を胸に抱いたのだった。

 盆に擦り下ろしたリンゴの皿を乗せて、真琴はリヴァイの部屋に戻ってきた。書机のランプは、ゆらゆらと優しい橙色の光をまだ発している。
 部屋を出たときと同じ、片脚を曲げた姿勢でリヴァイはベッドにいた。寝てしまったのだろうか。
 ベッドのそばで静かに腰を落とすと、リヴァイが薄く両眼を開けた。

「戻ってくんなと言ったろう」
「だって心配ですから」
「一人で不足ない」
「病気のときくらいは、甘えてもいいと思いますけど」
「お前がそれを言うか。自分の胸に手を当てて考えてみろ」
 言われた通りに真琴は胸に触れてみる。
「心臓の音しか聞こえませんね」
「……呆れるな」
 すっとぼけた真琴にリヴァイが白い眼を寄越してきた。

 真琴は聞かなかったフリをする。
「リンゴをすってきたんですけど食べられますか? 喉が乾いてませんか?」
「頼んでねぇのに勝手なことをしやがって。調子に乗って動いて、熱をぶり返したらどうする」
 意地を張る男を無視して、リンゴの入った皿を掲げて匂いを吸い込む。
「あ〜、清涼な甘酸っぱい香りがする〜。ボクが食べちゃおうかな〜」

 溜息をついたリヴァイは僅かに瞳を下げ、怠そうに半身を起こして壁に寄りかかった。食べる意思表示だと取った真琴はスプーンを手にする。
 一口大のリンゴを掬い、腰を浮かせて腕を伸ばす。
「はい、どうぞ」
 差し出されたスプーンを目の前にし、条件反射といった態でリヴァイが小さく口を開けた。真琴はそっと彼の口許にスプーンを滑らせる。
 リヴァイの咽喉が上下したのを確認して二口目に取りかかった。リンゴをスプーンに掬って、また彼の口許に持っていこうとして瞳を上げる。

「どうかしましたか? 酸っぱかったですか?」
 リヴァイが苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、真琴は不思議を装って首をかしげた。
「甘いですよね? 試食して確かめたんですけど」
「――阿呆か、てめぇっ」
 腹の奥から絞り出すように言ったリヴァイに、皿とスプーンを奪い取られた。
「自分で食べられますか?」
「ガキじゃねぇんだっ」
 機嫌が悪くなってしまったようだ。
(怒ってるっ)
 可笑しくて我慢できず、真琴は吹き出した。口許を押さえて笑みが零れてしまうのをひた隠す。

 リヴァイが真琴を睨む。
「てめぇ、わざとか」
「だって、素直に口を開けるなんて思わなくて」
 なんとか笑みを呑み込んで真琴は答えた。

 ほんの悪戯心で試したことが、こんな可愛い結果になるなど思ってもみなかった。あまりにも簡単に引っかかったものだから、真琴は可笑しくてたまらないのだ。
 渋面ながらも黙々とリンゴを食べているリヴァイを見て、真琴は胸にほっこりとした何かを感じていた。
「食ったぞ」
 仏頂面でずいっと差し出されたのは、綺麗に食べ尽くされた皿だった。受け取った真琴の頬は微笑んでいる。完食してくれると、こしらえた者にとっては限りなく嬉しいものであるし、水分を補給してくれたことで安心もした。

 機嫌が斜めのまま、再びベッドに横になったリヴァイの額に、絞りなおしたタオルを乗せた。横目してきたリヴァイは、甲斐甲斐しくタオルケットを掛け直してあげたり、サイドテーブルに水差しを用意している真琴を、しばらく見つめていたようだった。少ししてから薄い唇が囁く。

「……悪くない」
「え?」寝たままでも飲めるように、コップにストローを差していた真琴はリヴァイに向き直った。
「いや、何でもねぇ」タオルケットを引き寄せて壁側へ寝返りをする。「寝る。お前も部屋に戻れ」
 そうして、すぐさまリヴァイは参ったように舌打ちをした。
「クソっ。てめぇの匂いが染みついてやがるっ」
「汗を掻いてたのかもしれません。気持ち悪いですよね、シーツを代えましょうか?」

 申し訳ない気分で真琴は提案した。目を覚ましたときに、寝間着が汗でびっしょりだったことを思い出したのである。おそらくシーツも多分に汗を吸ったことだろう。潔癖症のリヴァイからしたら、他人が使ったあとのベッドは我慢ならないのではないだろうか。
(でも私は、あなたの匂いは全然イヤじゃなかった。睡眠薬であるかのように心地好く眠れたのに、あなたは違うのね)
 ややあって、背中を見せたままのリヴァイが苦しげに腹を上下させた。溜息を零したのだろう。

 語気には嫌気の色があった。
「頼むから、もう出ていけ」
「でも――」
「率直に言わねぇと通じないのかよ。はた迷惑だと言っている」
 背中全体から放っているリヴァイの拒絶にショックを受けて、真琴は俯いた。
「……何かあったら壁を叩いてくださいね。すぐに駆けつけますから」

 小さく呟いた真琴は、リヴァイの部屋をあとにした。
 自室に戻ってベッドに腰を降ろし、隣の壁を思って手を添える。大空に舞うたくさんのシャボン玉が、小さな音を立てて割れてしまっていく寂しさを感じていた。晴れやかだった心が、急にどんよりと曇ってしまった気分だった。

(男に看病してもらったって嬉しくないわよね。気持ち悪く思われたのかもしれない)
 どうしてこんなに落ち込むのか。そんな気持ちに気づかないふりをして、真琴はベッドに潜り込んだ。
 男装していることを、初めて強く後悔した夜だった。


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