25.市街地へ出て、ただひたすら2

 かまどに置いている大きい鍋が、ぐつぐつ沸き立つ音を響かせている。
「先にお風呂かな。湯を張ってくるね」
 フュルストは鍋を持って洗面所へ入っていった。温めた湯を持ち運んでを五往復繰り返したところで真琴に声をかける。
「入っておいで。さっぱりするから」

「ありがとう」
 頷いた真琴は着替えを抱きしめて立ち上がった。湯から上がったあとでもいいが、どうしても確認しておきたいことがあったのでフュルストに上目遣いをする。
「ねぇ、聞いておきたいことがあるんだけど。なんでジャケットにナイフを忍ばせたの」
「え!」にわかに瞳を大きくさせて指先で耳の裏を掻く。「まあ、ちょっと試したっていうか。その、悪戯心?」

「試した? 悪戯心? 分かってる? あなたのおかげで散々だったのよ」
 恨めしい眼つきの真琴に、フュルストはばつが悪そうに歯を見せて笑う。
「君の秘密は組織の仲間に迎えるには弱いから。僕としてはさ、裏切らないかどうか、確信がほしかったわけだ」
「それで? 信頼を得ることはできたのかしら」
「うん。亀の甲羅のごとく、充分に口が固いみたいだ」
「命がかかってれば、そりゃ口も固くなるわよね」

 粘っこい真琴の視線を受けて、フュルストは大蛇に首を締め上げられているような錯覚を覚えているかもしれない。居心地が悪くなったか、空気を塗り替えるように彼は声を張り上げた。
「あ!!」
「なによ、急にっ。びっくりするじゃないっ」
 一瞬だけ暴れた心臓を押さえつける。手に伝う心音は激しい。
「何これ」
 真琴の鎖骨部分をフュルストの長い指が突いた。はっとして真琴はそこを手で隠す。

 白い眼のフュルストが問う。
「虫さされ?」
「……そんなとこ」
「何個もあるね」
「そ、そんなにある!?」
 言われて真琴は両手で鎖骨部分を覆って庇う。ばさっと着替えが落ちた。

 屈んだフュルストは落とした着替えを拾い、
「ざっと五個ぐらい。たちの悪い虫だったね」
「……ほんとね」
 泳ぐ眼で真琴は頷いた。

 虫さされということにしたが、原因は路地裏での出来事に違いなかった。リヴァイが顔を埋めてきた付近に、ちくっとした痛みがしきりにあったので、跡を残されたのだとは思っていた。まさか何個もあるなどと思っていなかったが。
 リヴァイに押し倒されたときは逃げるのに精一杯だったが、いまになって思い起こすと胸が高鳴ってくる。陵辱紛いのことをされかけたというのに怒りはなく、身体が熱で火照ってくるのである。真琴は胸許のシャツをぎゅっと引き寄せた。

「なんか悔しいな」ぽつりと声が聞こえて、真琴は瞳を上げた。
「なにがよ」
「その虫に、唇を刺されたことはある?」
「な、ない」
「そう、よかった」
 にっこりと微笑したフュルストは真琴を洗面所へと押し込んで戸を閉めた。「ゆっくりしておいで」と戸の外から聞こえたのだった。

 小さなランプの灯火で周囲が浮かび上がっている。一畳ほどの空間に、真ん中が衝立で仕切られた洗面所は片方がトイレで、もう片方が風呂用に分かれており、仕様は調査兵団の個室と大差なかった。
 何往復もしてフュルストが用意してくれた大きめな木製のタライには湯が張られていた。立ちのぼる湯気の温かみが、なんとなく真琴をほっとさせてくれる。

(大変よね、この世界は。私の家ならボタン一つでお風呂が沸くのに)
 こちらではそうはいかないのだ。電気、ガス、水道、便利なものは何一つない。だが不便に思っていたのは最初のころだけで、順応してしまえば、さほど苦にもならなかった。
 ただ残念だ、と思う。フェンデルの息子の研究が咎められなければ、風呂を一つ用意するのも、トイレも水道も、すべてにおいて便利になっただろうことは言うまでもないだろう。

 背後の戸を気にしつつ、真琴は泥水を吸った軍服を脱いでいく。フュルストが覗きにくるとは思えないが、まさかということもある。よく知りもしない男が一枚戸を隔てた向こうにいると思うと、やはり気が気ではなかった。
 脱ぎ捨てられた衣類の山を見つめて考える。憲兵のジャケットは処分するしかないが、ズボンは調査兵団に帰るのならば軽く洗濯しておいたほうがいいだろうと思った。

 桶で掬った湯を頭から被ると、乾いた泥が灰色の水となって髪の毛から胸を伝っていった。どれほど汚れていたのだと、思わず苦笑が漏れてしまう。洗髪をして身体を磨き、ようやく清潔を取り戻してタライに足を入れた。汚れを落とすために、だいぶ湯を使ってしまったので、尻をつけたときには腰下しか湯は残っていなかった。

 鎖骨下に小さな内出血の跡を見つけて、なんとなく胸許に触れてみた。鏡がないからこれ以上確認できないが、どれだけの跡をつけられたのか。
(どうしてこんなことをしたのかしら)
 跡を早めに散らしたくて真琴は胸許を強めにさすった。
 リヴァイの考えていることなど分からないが、もう少し若かったなら自分に都合良く解釈していたかもしれない。だからそんなことはあるはずがない、と真琴は言い聞かせていた。期待を裏切られることが怖くて恋愛に臆病になっているからであるが。

(期待ね。 ……なにを考えてるのよ)
 馬鹿な考えを洗い流したくて、湯を掬って顔に打ちつけた。期待をしてどうするというのか。
(そもそも住む世界が違う人じゃない。私はいつか自分の世界へ帰るんだから)
 その希望は捨てていない。愛する人は作らない。自分を引き止めるものは作らない。なぜならば――
(だって帰れなくなる。きっと帰れなくなる)
 ああ、だからか、と真琴は妙に胸がすっきりしたのだった。だから気の置けない友人がいないのだ。この世界と自分の世界に自己防衛という一線を引いているからだったのである。

 戸の軋む音が控えめに聞こえた。戸が開いて背後に人の気配がしたので、真琴は胸許を腕で隠して身を縮ませる。
「やだ、フュルスト! 入ってこないでよ!」
 非難を無視して侵入者は入ってくる。真後ろに人の気配が立った。
「からかってるなら怒るわよ!」

 しゅぼっと音を立て、そばに置いてあったオイルランプの火が消えた。周囲は真っ暗になり、開け放たれた戸の隙間から居間の仄かな明かりがちらつくのみである。
(やだ……なんなの、冗談よね)
 真琴はいま裸であるから、さすがに焦ってしまう。タオルを取って巻きつけるにしても、立ち上がらないと届かないので無理だ。自分を囲むタライだけが僅かな壁だった。

 真琴は語気を強める。
「いい加減にして!! フュルスト!?」
「フュルストというのか、奴は」
 耳に心地よい低音は聞き慣れた声で、戸惑った真琴は自分を強く抱きしめた。
「どうしてリヴァイさんが」
「奴に呼び出された。ふざけた野郎だ」
「フュ……その男の人は、いまいるの?」
「俺が来たときには、お前しかいなかった」

 暗闇に慣れてきた視線を斜め後ろに流すと、リヴァイの脚が見えた。血潮が上昇していって、のぼせに似た感覚が真琴の頭をくらくらさせる。
「で、出てってくれる? 見れば分かると思うけど、私いま入浴中で」
 喋っている途中で背後から息をつく音が聞こえた。

「探した」
 真琴は唇を引き結んで黙り込む。
「薬なんぞ盛りやがって。ふざけた真似をしやがる」
 感情の読めない言葉には、真琴を責めるような刺が含まれているのか分からなかった。リヴァイの息を吐き出すような口調に、どうしてか胸が高鳴っていく。
「……だって。いやだって言ったじゃない。それでも、やめてくれなかったから」
「目の前で唇を奪われて、平気な男がいると思うか」

 思いがけない発言に、真琴の肩がびくついた。恋愛に臆病になっているとしても、ほかの男に唇を奪われて平気でいられないと言われれば、僅かな期待は思い過ごしではなかったのだと確信を持ててしまう。
 吐息のように話す二人と、屋根を叩く雨音と、ときおり跳ねる湯の音。静寂とは言えないのかもしれないが、空間はひどく静かで心臓の音がいやに騒がしかった。

「それ以上は言わないで」
 幾ぶん強い声で真琴は拒絶した。それなりに経験を積んできた大人だからリヴァイの言いたいことくらい想像がつく。だから真琴は線を引いたのである。それ以上は聞きたくなどなかったのだ。聞いてしまったら後戻りできなくなる気がして恐れたのだ。
 背後から衣擦れの音がして、真琴はぎゅっと眼を瞑った。(やだ、来ないで)

「期待外れで悪いが、心驕りもいいところだ」
 そう言い、リヴァイは傍らに膝を突いて真琴の背後から腕を回した。びっくりした真琴は文字通り飛び跳ねそうになり、湯が波のように大きく揺れる。
 とうに乾いている上半身に、リヴァイと密着している部分だけ布が濡れている感触がある。

「言ってることと、行動がちぐはぐだと思わない?」
「うるせぇ。人肌が恋しくなるときだってあるだろう」
「そういう日もあるにはあるけど」
 身体が合わさる部分から真琴の熱が奪われていく。それだけリヴァイは冷えているのだろう。
「服が濡れてる。手も冷たいのね」
「そりゃ雨の中を駆け回ってればな」
「ずっと探しててくれたの?」
「だからそう言ったろう」
 抱き込むようにリヴァイが腕に力を込めてきたので、真琴は少し身じろぎをした。

「会ったの? フュル、えっと」
「いや、顔も見ていない。あのクソ野郎、死角から俺の背後にナイフを投げてきやがった」
「そんなことしたの、あの人。怪我しなかった?」
「……掠った」
 小さい呟きは、どこか甘えがあった。言うなれば親の気を引きたい子供のような感じであった。
「え!? どこを!? 大丈夫なの!?」
 心配になって振り返った真琴は、思っていたよりもリヴァイの顔が近くにあって、すぐ前に向き直った。鼓動が速くなっていく。心臓の音が伝わっているのではないかと気になった。

 リヴァイが耳許で言い捨てる。
「空言だ。掠るわけねぇだろう、俺を誰だと思ってる」
「それなら、いいの」
 耳にかかる吐息が熱くて真琴の両肩が尖る。
「ここが分かったのはどうして?」

「ここの地図が柄に巻きつけてあった。着いてみて呆れた。もっと簡略化できたろうに、散々遠回りさせられたからな」
「意地悪されたのかしらね」
 フュルストならやりかねないだろう。真琴を公園で発見する前に、フュルストはリヴァイと接触していたに違いない。
「もとから、そういうふざけた野郎なのか」
「そういう部分はあるかも。おちゃらけたところとか」

 リヴァイの声が低くなる。
「奴の性分を知り尽くしてるんだな」
「知り尽くしてなんて――」
「あいつとはどういう関係だ」
「だからそれは――」

 言えなくて口を濁らせた瞬間、首筋にリヴァイが頭を埋めてきた。
「クソっ、不愉快極まりねぇっ」
 真琴の体温よりも幾らか低い彼の唇が急くように這う。

「やだっ、また注射打つわよっ」
「なめんな。同じ手を二度食らうヘマはしない」
 リヴァイを振りほどこうと真琴は身を捩る。狭いタライの中では限度があり、加えてしっかり抱き込まれていて叶わなかった。
「や、やだぁ」
 嫌がってみせるも、首筋から耳の裏へ伝っていく情熱的な舌を導くように、真琴の首は自然と傾いてしまう。建前だけで緩い抵抗をしていることをずるいと思っていた。

 リヴァイは同じ詰問をしてきた。
「もう一度聞く。奴とはどういう関係だ」
「だからっ」
「そうじゃない! 男と女の関係かって聞いてんだよ!」

 どこか焦れたように怒鳴られて、真琴は一瞬身体を痙攣させた。首筋を唇で強く吸いつかれる感触がして、甚だしい独占欲に胸を鷲掴みされる思いを感じていた。
「……そういうんじゃない」
 安堵したのか。背後でリヴァイの胸が上下する動きが、真琴の身体を通して伝わってきた。誰にも取られまいというふうに嵐を降らせていた彼の唇が落ち着く。
 ぬるい湯を温め直せるかと思うほどに、真琴の身体は熱を発していて、同時に胸を締めつけていた。リヴァイの想いを知りたい気持ちと、知りたくない気持ちの狭間で心が揺れて、つい口をついてしまう。

「どうしてそんなことを聞くの? さっきは期待外れだって言ったのに矛盾してるわ」
「狡い女だ。てめぇこそ、なぜ聞いてくる」
 下唇を噛んだ真琴は視線を横に流した。ぼんやりと浮かぶ衝立を見つめながら、自分で拒絶しておいて、こんなことを聞くなんて本当にずるいと思っていた。 
 ぽつりとリヴァイは言う。
「矛盾しているのは分かってる」
 濡れた頭を伏せる。
「だが大事なものは必要ないんだ」
 と言い切った。

「どうしてなの?」
「執着するものはいらない。邪魔なだけだ」
 どういう意味なのか。真琴が少し首を回せば、すぐそこに漆黒の髪に半分隠れたリヴァイの横顔が見えた。
「好きな人はいらないってこと?」
「それに限ったことじゃないが、いずれにしろ俺にはいらないんだ」
「少し分かる気がする。本当は怖いんじゃないの? 失うことが。つらいからじゃないの? 心が傷つくことが」
「さあな」
 リヴァイは真琴を強く抱きしめてきた。

 仲間思いのリヴァイだけれど、本当は孤独なのかもしれない。真琴とは違った理由で、仲間と一線を引いているのかもしれない。
(違うわ、同じよ)
 恐れていることは同じだった。失うことを恐れて帰れなくなるのが怖い。帰れたとしても、そのあとで傷つくのが怖い。だから、かけがえのないものは作らない。
 思うままに生きられない窮屈さと切なさを、彼も抱えているのだろうか。リヴァイの冷えきった頭に、真琴は自分の頭を垂れた。

「私はね、怖いの。離れたくなくて帰る決心が鈍るのが。帰れたあとで悲しくて泣くのが。だからリヴァイさんと同じように、大事なものは作らないって決めてるの」
「どこへ帰る。お前の家はフェンデル邸以外にないだろう」
「そうだったわね」
「最果ての地へ行くような言い方してんじゃねぇよ」
「ほんとね。大袈裟よね」
 寂しい感情に呑まれつつ、真琴は微笑してみせた。

 溜息をつくようにしてリヴァイは言う。
「奴と手を切ることはできないのか」
 真琴はただ頷いた。
「ならば俺を――調査兵団を裏切るようなことだけはするな」
 喉から絞り出すようにして続ける。
「俺にお前を殺させてくれるな」

 真琴は眼を見開いた。静かな声色からリヴァイの覚悟を感じ取った。真琴が調査兵団を裏切るようなことがあれば、彼は迷いなく真琴を消しにくる。
 真琴は答えることも、頷くこともできなかった。今日のことはリヴァイの胸に納めるつもりなのだろうか。
 真琴が国を裏切ったことは言うまでもないが、調査兵団を裏切ったわけではないと、そう捉えていいのだろうか。あまりにも都合良すぎるが、首の皮一枚繋がったことを喜ぶべきか。

 回答を求めてリヴァイが真琴を軽く揺さぶる。
「どうなんだ」
「そんなの答えられない。だって先のことなんて分からないし」
 あからさまに溜息をつかれる。
「あなたを裏切りたくなんてないけど――」
「裏切りたくない――、か。今日のお粗末具合を見れば、マコに大層なことができるとも思えねぇが」
 冷たい覚悟の色は消えて、リヴァイの口調には緩和の色が帯びていた。裏切りたくないという真琴の気持ちが僅かでも伝わったのだろうか。

 リヴァイが真琴から離れて立ち上がった。
「湯冷めするな。風邪を引く」
 飾り棚にある籐の籠からタオルを手に取って真琴の頭にかけた。ふんわりとした柔らかい繊維が冷えた肌に温かい。

 戸が閉まって周囲は本格的な闇になっても、眼は慣れていたので、さほど困らなかった。腰元の湯は水とまでは言わないが、真琴の体温よりも遥かにぬるくなっていた。身体を拭き、手探りで着替えを済ませてから戸を開けると、居間には誰もおらず、仄かなランプがゆらゆらと陰影を作っているだけであった。

(先に帰っちゃったのかしら)
 隅にある荷物を手にし、真琴は外へと続く扉を開けた。開けた瞬間、雨の音が鮮明に聞こえてきた。そんなに悲しいのか。そう思うほどに、雲は涙を流すように雨を降らせ続けている。
 軒下にリヴァイがいることを眼の端が捉えた。

「帰っちゃったのかと思ってた」
「怪しい店が並ぶ中、一人で帰らせるわけねぇだろう。世間知らずのお嬢様だ。目の前に菓子を吊り下げられて、ほいほいとついていっちまったあげく、置屋に囲われちゃ適わなねぇからな」
「そのぐらい判断つくわよ。お菓子に惑わされたりしないわ」
「どうだか」
 薄目のリヴァイは真琴を見て嫌そうに瞳を眇めた。胸許に手を伸ばしてくる。
「しっかり閉めとけ」
「閉めたはずだけど」
「……見えてる」
 言って真琴の胸許の外套を引き寄せる。リヴァイの言う意味を察した真琴は頬を赤く染めて抗議する。

「忘れてたわ、文句を言おうと思ってたの! こんなに跡をつけるなんてひどいじゃない!」
「足りないくらいだ」
 しれっとしたリヴァイの態度は、真琴を黙らせて唖然とさせるのに充分だった。

 真琴の外套を首許まで紐でしっかり結びつけたリヴァイが瞳を上げた。
「あの男、何か言ってたか?」
「何かって?」
 何も言わずにリヴァイが真琴の鎖骨部分を指先でつついてきた。
「悔しがってた」記憶を掘り起こして首を傾ける。「ような気がする」
「ほう」
 鼻を鳴らしてリヴァイはにやりと頬を吊り上げる。勝ち誇ったような瞳が微かに光ったように見えた。

「なによっ」
「いや」リヴァイはフードを被る。「屋敷へ帰んだろう。送ってってやる」真琴の鞄をさりげなく奪って歩き出す。
 降りしきる雨の中、怪しい煌めきを放つ歓楽街に二つの影は消えていったのだった。


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