24.市街地へ出て、ただひたすら1
市街地へ出て、ただひたすら目の前の男の背中を見て走った。
どれくらい走っただろうか、息も絶え絶えで肺が痛くなりだしたころ、リヴァイは真琴を狭い路地裏へと引き込んだ。引き込まれた瞬間に腕を強く振り解かれ、真琴は投げ飛ばされるようにして倒れ込む。
「――痛っ!」
盛大に倒れた身体の下は泥の水たまりだった。咄嗟に顔は庇ったものの、それでも飛び散った泥水が顔面を汚した。のそりと半身を起こして顔を腕で拭う。泥水のせいで前見頃は悲惨な有様になっていた。
振り仰ぎ、自分を見降ろす険を含んだ瞳に真琴は息を呑む。
(追求される)
だがフュルストのことは何一つ話すことはできないのだ。話してしまったら真琴の命はないのである。しかしながら、リヴァイの醸し出す雰囲気からは知らぬ存ぜぬが通るとも思えなかった。
剣呑な空気と無言が続く。雨が叩きつける音だけが、やけに耳に近い気がする。
リヴァイが一歩前に踏み出して、真琴はじりと後退りした。
「あの男は誰だ」
「し、知らない」
「奴はお前のことを知っていたようだが」
恐怖を煽るようにリヴァイは悠々と間合いを詰める。怯える真琴の胸ぐらを掴んで引き起こし、レンガの壁に叩きつけた。
「この期に及んで知らないと、そんなことがまかり通ると思ってるのだとしたら、俺はお前に相当なめられてるんだな」
「や、やめて。なめてなんてない」
胸ぐらを掴むリヴァイの手を、引き剥がそうと抵抗すれば、より強く壁に押しつけられる。
「やめて欲しいのなら正直に話すことだ。俺はお前に、あの男は何者なのかと聞いている」
答えられるはずもなく、左右の建物を二階部分で繋ぐ渡り廊下のほうへ真琴は眼を逸らす。
「奴の名前は。師団長室に何の目的があって忍び込んだ」
口を開かない真琴にリヴァイは溜息をついてみせた。顎を掴んで脅す。
「どうやら痛みが必要らしい」
「やめてっ、乱暴しないでっ」
両手首を頭上で縫い止められ、ぎりぎりと捻りあげられる。骨の軋む痛さに真琴はたまらず悲鳴を上げた。
「い、痛い! やだ、離して! 折れる!」
「ならば、さっさと吐け!」
「知らないって言ってるじゃない! 知らな……言えない、言えないのよ!」
「なぜ言えない! お前は何者だ! あの男は誰だ! どうして一緒に行動している! お前が奴を本部へ引き入れたのか!」
語気を荒らげて捲し立ててくるリヴァイが恐ろしく、真琴の顔が歪む。さらさらと頬を流れるものは涙なのか、分からない。この場の空気をなおさら重くしようと、煽るかのごとく降り続ける雨が、滝のように顔を伝うからであった。
眼を伏せたリヴァイは、雨滴が輪郭を伝う眉間に皺を刻んだ。口を割らない真琴に怒りをぶつけるかのように深く息を吐く。ほどなく、やにわに身体を弄り始めてきたので真琴は身を捩って叫んだ。
「どこを触ってるのよ、やめて!」
「やかましい!!」
存分に怒気を帯びた声は、真琴を怖じ気づかせて硬直させた。
手がかりでも探すように真琴の身体を上から弄るリヴァイは、ジャケットのサイドポケット付近で動きを止める。急くように手を突っ込んだポケットから、きらりと光る物が姿を現した。
愕然といったふうにリヴァイは呟く。
「……なんだってんだ、クソがっ」
人間の命が白刃にべったりと纏っている。パレットを洗い忘れた絵の具のように乾いており、のっぺりとして艶もなく、そして刃にまがまがしいほど赤黒く見えた。手のひら大の血糊のナイフが真琴のポケットから出てきたのだ。
ショックで茫然自失の真琴は濡れた石畳にへなへなと崩れ落ちた。ほとんど考えなしに、かぶりを振ることしかできない。
「わ、私のじゃない」
「ふざけやがって!」
怒りに任せるように叫んだリヴァイは、ナイフを振り上げて投げ捨てようとする。が、何とか押しとどめるように動作を止め、ハンカチを取り出してナイフを包(くる)んだ。証拠として残しておくのか、それとも証拠隠滅のために懐に潜めたのか。
震える真琴は身体を丸めて頭を抱える。
「私は殺してない。信じて、お願い」
ナイフがどうして自分のポケットに入っているのか。付着している血は死んだ兵士のものなのか。疑問だらけで、わけが分からなかった。
頭上から辛辣な声が落ちてきた。
「てめぇは騙されたんだ、あの男に」
(騙された?)
「身体に合わねぇ憲兵団の服を着せて、兵士を殺したナイフを忍ばせたのも奴だろう」
フュルストの仕業だとリヴァイは言う。彼はどうしてこんなことをしたのだろう。真琴は秘密結社の一員であり、いうなれば仲間なのである。調査兵団にいる真琴を、みすみす捨て駒になどするだろうか。今回のように国の機関へ侵入する手引きができたりと、利用価値はまだあるのに簡単に手放したりするはずがない、と真琴は思い込もうとした。
そうでなければ――
「……違う、と思う」
「あ? 何を言ってる。違わない、よく考えろ」
「だって、それじゃ」
折り畳んだ膝に鼻をつけている真琴の瞳は、痛心から見開きっぱなしである。
「そうだ、もともと入っていたのよ。殺された兵士のもので、その人が何か事件を起こしたときのとか」
思いつくままに口をついた言い訳は、真琴自身、言ったあとで違和感を伴った。
「んなわけねぇだろう。どうみたって可怪しいと思わないのか」
「そうじゃなかったとしても、きっと何か、彼にわけが」
「どこまでもめでたい脳みそだ。腐ってんじゃねぇのか」
苛立ったように吐き捨てたリヴァイは片膝を突いた。真琴の両肩を掴んで顔を上げさせる。
「いいように使われたんだ!! もしものときのために、てめぇに保険をかけてたのが分からないか!!」
「そんなことない!」
「ならばなぜ兵士を殺ったナイフを、お前が持ってる!!」
反論をしていて自分でも不条理と思うが、それでも真琴は泣き顔を歪ませて強く言い返した。
「うっかり入れちゃったのよ! そう、そうだわ! たまたまなのよ!」
「あの男が意味もなく不覚を取ると思うのか! 罪を着せようとしたんだ、お前に!」
「違う!!」
「なにが違う!! そこまで言うんなら真っ当な弁解でもしてみろ!! ねぇだろう!!」
どうしても否定せざるを得なく、涙を散らしながら真琴はただ頭を振った。
「違う、違う」
認めるわけにはいかなかったのだ。保険に使われただなんて、そんなの惨めすぎるだろう。
二兎を追う者は一兎をも得ず。別に両方欲しかったわけではないが、計らずもことわざ通りに進む未来に、絶望しか残されていないことが恐ろしくてたまらない。このままでは帰る場所がなくなってしまう。
リヴァイは真琴を激しく揺さぶる。
「言え!! あいつとお前はどういう関係だ!!」
「言えない!」
熱くなっているリヴァイの声が裏返る。
「なぜ庇う!?」
「庇ってるわけじゃ――」
「庇ってんだろうが!!」
リヴァイは真琴を押し倒した。そうして衝動にまかせるように、真琴の胸許を引き裂く。
無情にも繊維が破れる音と同時に、どんより空に釦が弾け飛んでいくのを、真琴は見開く瞳で見ていた。雨を吸い込んで、しめつけを感じなくなっていた緩んださらしを、乱暴に引き下げられる。
首許に顔を埋めてきたリヴァイのシトラスの香りが近くて、頭の隅で警告音が鳴り出した。
「やだ……」
顎に絡みつく熱い舌。雨を含んで僅かに束になったリヴァイの短い髪の毛が、するすると胸のほうへ滑っていく感触がする。
「やめて!! いやー!!」
首を振って嫌がっても、両手で押しのけようとしても、リヴァイはやめてくれなかった。脇の下から背中に回った片腕でがっしりと抱き込まれる。足で蹴り飛ばそうとすれば、彼の脚が挟み込んできて自由を奪う。望んでもいないのに、胸許を何かの生き物のように這う生温かいものが、不快でたまらなかった。
ウエストからシャツを引き出されて、雨で冷えた手を差し込まれる。脇腹から上に辿ってくる肌触りに、身の危険を感じて真琴の背筋が戦慄した。
身を捻った真琴はズボンのポケットから黒い注射器を取り出した。眼を瞑り、そのまま勢いよくリヴァイに刺す。針は彼の脇腹に刺さったようだ。
両眼をはっとさせてリヴァイが顔を上げた。
「何を――した」
「やめてって言ったのに、どうしてやめてくれないの……?」
濡れた顔でリヴァイの下からゆっくりと這い出る。薬が効いてきたリヴァイは、つらそうに瞼をしばたたかせていた。
「……待て、っく」
真琴の肩に触れたリヴァイの手が、ずるりと滑るように垂れていく。脱力していく彼は石畳に倒れ、踊り狂うように打ちつける雨が、背中の紋章をさらに濡らすのだった。
胸許の裂けたシャツをたぐり寄せ、激しい雨と風の中を真琴は歩いていた。全身泥まみれの身形は悲惨なものだった。髪の毛は汚く乱れて、サイズの大きいジャケットは所々裂けていて糸がほつれていた。
顔周りの泥は激しい雨によっていつの間にやら流れ落ちた。二階の窓から飛んだときの細かい切り傷が、頬のあちこちにあるので、綺麗になったというには程遠いが。
人目を避け、なるべく狭い路地を選んで歩いていた。
(どこへ行こうっていうの)
調査兵団へは帰れなかった。忽然といなくなった真琴を、エルヴィンとリヴァイは怪しんでいるだろうからだ。もしかすると、兵士を殺した犯人として指名手配されているかもしれなかった。
(おじさまのところは――)
フェンデル邸はどうだろう、そう考えて首を振った。
(だめよ、絶対だめ)
フュルストは真琴を見限ったかもしれない。リヴァイに任せた時点で捨てられたようなものだったのだ。フュルストのことをリヴァイに何も話さなかったが、彼は信じてくれないかもしれない。そうなれば、必ず真琴を消しにくるだろうし、そこへフェンデルを巻き込むわけにはいかなかった。
(どのみち死ぬなら)
浮上した諦めの考えを、追っ払うようにかぶりを振る。
虚しく空を見上げてみれば、夕刻なのに黄昏ではなく、どっぷりとただ雲が灰黒なだけであった。夏季の湿った雨は、傘もない外套もない真琴を、慰めることもせずに、涙と一緒に頬を濡らすことしか知らなかったようである。
――どうやってここへ辿り着いたのか分からない。誰からも忘れ去られたような、そんな小さな公園の片隅にある大きな木の下で、真琴は雨を凌いでいた。
膝を抱えて天を仰ぐ。樹齢何百年を思わせる立派な太い幹は、たくさんの枝を天に這わせて真琴を雨から守ってくれている。
逞しい幹に寄り添ってみた。
(聴こえる。生き物の声が)
生きている音が聴こえるような気がした。地下から水を吸い上げて、上へ上へとぐんぐん押し上げる、まるで血潮の巡りのような音だった。
視界に揺れるものを捉えて視線を下げた。下草に混じって健気に咲く小さな花の花弁に、一匹の蝶が雨宿りをしていた。
(アゲハ蝶)
両の羽根をゆったりと開閉しながら、雨がやむのを待っているようだ。
触れようと手を伸ばして、やっぱりやめた。むやみに触れたら、おそらくびっくりしてしまう。そうして慌てて羽ばたきだしたら、小さな体は激しい雨に叩かれて死んでしまうに違いない。
(どのみち死ぬなら)
どのみち死ぬのだから、ひっそりとどこかで、川に身投げでもしようか、と一瞬だけ覚悟した。しかし嘘だった。生きたくて、生きたくて、たまらないのだ。死にたくなどないのである。
こんなにも生に執着が強いだなんて、この世界に来るまでは気づかされなかった。同時になんて浅ましいのだと嘆いた。だけれどもこれが人間の本質なのだろう。決して浅ましくなどなく、むしろ人間らしいに違いなかったのだ。
(死にたくない。誰か助けて。……リヴァイ)
顔を伏せて真琴はすすり泣く。泣き過ぎて眼の奥が痛かった。
かさっと下草を踏む音がして、ひどく期待して振り返った。が、望んでいた人ではなかったので途端に悄々した。
「こんな所で何してるの?」
屈み込んでフュルストは窺ってきた。真琴は顔を逸らす。
「何しにきたの」
「ガッカリしたような顔だね。僕で残念だった?」
「ちゃかさないでよ。消しにきたんでしょ」
冷たく言うとフュルストはきょとんとした。
「消されるようなことをしちゃった?」
「何も言ってない。そう主張したとして、あなたはそれを信じるの」
「真琴がそう言うのなら信じるよ」
眼を丸くして真琴は振り仰ぎ、フュルストは柔らかい笑みをみせた。
「そんなに驚くこと?」
「どうして? もしかして、ずっと後をつけてたの?」
「まさか!」大仰に言ってから優しいトーンで喋る。「ずっと探してたんだよ。人類最強さんが一人で街をうろうろしてたから気になってさ」
フュルストは真琴の隣に腰を降ろした。緩んだ口許で息をつき、真琴の目許を触れる。
「泣いてたの? 眼が赤い」
「どうしてなの?」
「うん?」
「どうして信じてくれるの? 殺されたくないばかりに、嘘をついてるかもしれないじゃない」
膝を抱えたフュルストは、枝の隙間からぽつぽつと雨粒が落ちてくる天を仰ぐ。
「眼をみれば分かるんだ。その人が何を考えてるとか、手に取るように」
目は心の窓とはよくいったものだけれど、本気で嘘を通そうとしている相手にも通じるのだろうか。
フュルストは肩を竦める。
「あまり嬉しい特技ではないけど」
「どうして? 有用性があっていいじゃない」
人の気持ちが手に取るように分かるのなら、変にビクビクすることも、勘違いでドキドキすることもない。常に一歩先を歩けるのは楽なのではなかろうか。
フュルストは苦笑する。
「真実をすべて明らかにすることが、良いこととは限らない。知らなければ良いことだってある。信じている人に裏切られるのは悲しいことだ。どんなに小さなことでも、僕にはすぐに分かってしまうから」
フュルストは自分の手のひらを見つめる。
「大切なものが、この手のひらから、いくつ零れていったか。これ以上は勘弁したいな」
「あなたらしくないんだけど。しんみりなんて似合わないと思うわ」
フュルストの微笑に翳りがあったので、真琴はわざと可愛げなく言った。
「んー?」眼を縦に伸ばしてけろりと笑う。「そうだね。雨のせいかな」
秘密結社を立ち上げたからには彼にだって信念があるのだろう。政変を望む心は、一体どういったものなのか。真琴に人の心を読む目があったのなら、彼の心の中を覗いてみたいと思った。
「秘密、教えてくれないわよね」
「僕の?」
フュルストは眼を丸くして、真琴は頷いた。
「ええ。あなたの秘密」
「いつか話せるときが、訪れるかもしれないね」真情の籠った声で言ってから悪戯な笑みをみせる。「おじいちゃんになってるかもしれないけど」
さてと、と言って立ち上がり、真琴に手を差し出した。
「夏期だからって、いつまでもこんな所にいちゃ風邪引いちゃうよ」
「そうね、なんだかすっかり冷えちゃった」
真琴はフュルストに手を伸ばした。望んでいた人の手とは違ったが、大きくてしなやかな手は安心できた。雪山で寒さに凍えながら、救いを求めてポケットを探ったら一本のマッチが出てきたような、そんな温かい手だったのである。
フュルストが用意してくれた外套を頭まですっぽり被って、ウォールシーナからウォールローゼに入った。道中シーナの街では、警戒態勢なのか、憲兵がいつもより多く配置されていたが、二人を咎める者はいなかった。
丁度夕飯時で、民家の煙突から湧き立つ煙に食べ物の匂いが混じっていた。真琴の胃は芳ばしい匂いを拒絶する。手で口許を覆っていたら前を歩くフュルストが肩越しに振り返った。微少に眼を丸くする。
「その仕草は何? もしかして妊娠してるなんて言わないよね?」
吐き気を抑えるのと、心境的に冗談が通じないのもあり、至って冷静に返す。
「違うわ」
「女の子じゃないから分からないけど、そうやって言い切れちゃうものかな。心当たりはあるんでしょう?」
おちょくるでもなく、なぜかフュルストは真琴の首許をしげしげと見る。
「心当たりなんてないわ」
「ふーん」
何だか意味深であるが面倒である。
「壁外調査以来、お肉の匂いがダメになっちゃったの」
合点がいったようにフュルストは手を打つ。
「ああ、それで。部屋で寂しくパンを食べてたのは、そういうことか」
「そうよ」
「いずれにしても友達はいなさそうに見えるけどね」
と笑ってフュルストは前に向き直る。怒る気力もなく、真琴は彼の後ろをついて歩く。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「隠れ家。なーんてね」
目抜き通りを折れると、そこはローゼの街の中でもあまり治安がよくない歓楽街だった。
雨だというのに、そこそこの人が歩いているが、顔ぶれは男ばかりである。誰もが周りを気にするような素振りをみせて、通りにある店へいそいそと入っていくのだ。
店先に出された松明で派手な看板が照らし出されていた。怪しげな色彩を使った看板は、おそらくいかがわしい店のものに違いなかった。
客寄せをしている女の姿もあり、フュルストは途中声をかけられた。
「お兄さん、寄っていかない? 安くしとくわ」
困った笑みを浮かべてフュルストは首を振る。
「そう言われて無一文になったことがあるから、やめておくよ」
と彼は言うけれど、そういう店にはもともと興味がなさそうに見えた。
ネオンなどの煌びやかさはないが、真琴の街でいう歌舞伎町のような所だ。雰囲気が少し不安にさせるものの、真琴はフュルストについていく。
古ぼけた民家が軒を連ねる一郭に、フュルストは足を向けた。一つの民家に入っていく。
「よしよし、まだ来てないみたいだね」
何やら一人で頷いているが、
「ここってヴァールハイトのアジト?」
真琴の質問を受けてフュルストはおどけたように微笑った。
「まさか! こんなにボロいわけないじゃない」
言う通り、みすぼらしい佇まいであった。木造の家は平屋で、真琴が立っている居間と、洗面所であろう戸が一つあるだけである。
四畳半程度の居間は生活感が感じられず、普段からあまり利用していないことが窺えた。最低限の調理器具や食器は揃えられているようだけれど。
独特の家の匂いもしない。少し埃臭いが、まったく手入れされていないわけではなく、蜘蛛の巣などは見当たらなかった。ただし屋根がもう駄目なようで、天井からの雨漏りがひどい。
フュルストは台所から深めの皿を選んで手に取った。
「隠れ蓑として借りてるんだ。こういうときのためにね」
「いくつも借りてるの?」
「まあね」
水滴が落ちる箇所の床に皿を置いた。皿は一定のリズムで楽器のように音を奏で始める。
「君がここを誰かに教えたって足はつかないから」
「別に言わないわよ」
「むくれないでよ」立ち上がり、腰に手を当てて溜息をつく。「でもまあ、ここはちょっとボロすぎだよね。家賃が割に合わないから、近々手放す予定なんだ」
座って。とフュルストにそう言われ、真琴は食卓の椅子を引いて腰掛けた。
「建物はだいぶ古いけど、あまり汚れてはいないのね」
「管理人が掃除してるんじゃないかな」
かまどに火を起こしているフュルストに声をかける。
「何をしてるの?」
「湯を沸かしてあげる。君ってば泥まみれで汚いんだもの」
真琴は首を振る。
「いいっ、いらないっ」
「遠慮しないで。そのままじゃ気持ち悪いでしょ。お茶も飲みたいし、ついでだから」
真琴は黙る。
遠慮をしたわけではなかった。仕切りがあったとしても、一つ屋根の下で風呂など入れない。が、身体が気持ち悪いのは本当だった。乾いた泥が糊のように張りついていて肌が突っ張る感じがあるし、それに土臭い。できれば服は着替えたかった。
「着替えなんて、ないわよね」
「ある、ある。女物も男物もあるよ」
壁際にある箪笥の引き出しを開けたフュルストは物色し始める。
「隠れ家らしく、非常事態に備えて常備してあるんだ。どっちを着る?」
問われて少し考える。いまさら男装する意味はないので女物で事足りるだろうけれど、一応訊いてみた。
「女物でいいわ。ところで私のかつらってどうした?」
「ちゃんとあるよ、ここに。調査兵団のジャケットも」
真琴は俯いた。いまさら、と思った。いまさら調査兵団へは帰れなかった。
「……捨てて」
「え?」
「捨てていい」
言って悲しくなった。調査兵団を捨てる。それは真琴の望んでいたことではなかったか。精神が病むような、あんなつらい組織、おさらばできるのなら大手を振って去ってやる、そんなことを思ったときもあった。けれど――
(なにが私を引き止めるの。どうして悲しくさせるのよ)
命をかけて真琴を助けてくれたベリー。いつも真琴を気にかけてくれるペトラ。意地悪言いながらも心配してくれていたオルオ。つらいときは慰めてくれるエルドにグンタ。未来へ向かって、たとえそれが困難であっても、突き進む調査兵団の仲間。――そばにいてほしいときに、必ず現れてくれるリヴァイ。
顔を覆って真琴はむせび泣いた。走馬灯のようにみんなの顔が浮かぶのだ。
「帰りたくても帰れないじゃない」
大きな手が頭を撫でる。
「大丈夫。帰れるよ」
「帰れないわ」
嗚咽を洩らして頭を振る真琴に言う。憂いの調子だった。
「僕のせいだね、ごめん。でも大丈夫だと思う。きっと帰れる。僕と行動を供にしたのはマコだったんだから。真琴は何もしていない、そうでしょう?」
「そんなの都合良すぎる」
「いいじゃない、たまにはズルしたって。いつも真面目じゃ疲れちゃうでしょ」
抱えていた着替えを食卓に置いたフュルストは、部屋の隅にある鞄を指差した。
「あそこに全部入ってるから、忘れずに持って帰るんだよ」
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mokuji
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