23.空を見上げれば灰色の積乱雲が2

 フュルストは憲兵団の軍服を着ていた。サイズは彼に合っているようで変なもたつきなどはない。真琴は自分を見降ろす。即席のジャケットは女である真琴には大きくてぶかぶかだった。

「私って憲兵団のジャケットを着る意味あるのかしら?」
「念のためだよ」
「でも、ぶかぶかなんだけど」
「可愛い、可愛い」
 眼をしならせてフュルストは微笑う。なんだか馬鹿にされている気がして癇に障る。

 廊下を引き返しているので、さきほど真琴を咎めてきた兵士の前を通り過ぎようとしていた。手に汗を握る真琴は俯き加減で通過する。
「おいっ」
 兵士が声をかけてきたので真琴の心臓が跳ねた。
 顔を伏せている真琴に代わり、フュルストが兵士に向き直って対処する。
「何でしょうか」
「もうすぐ見張りの交代時間なんだ。そこにいるから酒でも持ってきてくれねぇか」
 二部屋先の扉を兵士は親指で示す。

「分かりました。つまみはどうしましょうか」
「へへっ、分かってんじゃねぇか。そうだな、干し肉を頼む」
 そう言うと兵士は持っている銃を抱え直す仕草をする。フュルストが歩き出すのを認めて、胸を撫で下ろした真琴も一歩足を踏み出そうとした。

「おい」
 兵士がまた話しかけてきた。フュルストがゆっくりと首を回す。
「ほかに何か?」
「そいつ、どうした? ジャケットがぶかぶかじゃねぇか」

 一瞬眼が光ったように見えたフュルストだったが笑顔を貼りつけて嘯いた。
「僕の部下なのですが、さっき外で転んじゃったんです」苦笑して肩を竦める。「なんとそこは運悪く泥の水たまりで、彼はジャケットを駄目にしてしまったんです。それで急遽僕のを貸したんですよ」

 兵士は眉間に皺を寄せて真琴を睨めつけてきた。
「ドジだなぁ。憲兵団の恥だ」
「まさに泥を塗る、ですよね」
「まあ、いい。とにかく酒を頼むぞ」
 フュルストは兵士に向かって軽く腰を折り、真琴の手を引いて歩き出す。

「露骨に反応するのやめてくれる〜? 肝が冷えるじゃない」
「よく言うわ。充分、肝が座ってるわよ。場慣れしてる」
 フュルストの唇がふっと微笑う。
「リーダーですから」

 なんて無邪気な顔をするのだろうと思っていた。フュルストは二面生を持っているのかもしれない。薄っぺらいハリボテの笑顔と、少年のような無垢な笑顔を併せ持つ。つい毒気を抜かれてしまうが気を抜いてはいけないと自分を叱咤する。
 二階へと続く階段を登り、角を一つ折れたところでフュルストは立ち止まった。廊下に飾ってある立派な銀の甲冑に身を隠して、ちょいちょいと先を指で差す。

「あの部屋」
「何の部屋?」
「師団長の部屋。あそこに僕の探し物があるかもしれないんだ」
 何を調べるのか気になったが聞いてもフュルストは話してくれないような気がした。
 フュルストの指を辿って扉を見る。
「見張りが一人、立ってるわ」

 どうやって欺くのかと思い、フュルストに向き直った真琴は鳥肌が立った。すっ、と細めた彼の瞳に、温かみのかけらさえも見当たらなかったからである。

「こ、殺すのはイヤ。そんなことをするんだったら大声を出すわ」
「手っ取り早いのに」
 扉の横にいる兵士をただ直視したまま呟き、そして真琴に視線を移す。
「なんて顔をしてるの」
「平気でそんなことを考えられる、あなたが可怪しいのよっ」

 不穏な空気を察して唇が震える真琴に、フュルストが疲れたように息ついてみせた。
「わかりましたよ、お姫様。じゃあ予定を変更して一芝居打とうかな」悪戯な色を帯びる瞳を流し目する。「巧くいったら唇くれる?」
「ばっ」
 馬鹿! と真琴が言い終わるのを待たずにフュルストは甲冑の影から這い出ていった。

 扉の横にいる兵士へ向かって堂々と歩いていく。甲冑の影で固唾を呑みつつ真琴は見守る。
 フュルストに気づいた兵士が視線を投げた。
「何の用だ」
「見張りの交代です」
 兵士は胸ポケットから懐中時計を取り出して確認する。
「まだだいぶ早いが」
 兵士は訝しげにフュルストを見る。柔らかい微笑を崩さないフュルストはジャケットのサイドポケットから茶色い物体を取り出してみせた。

「良いのが手に入ったんです。下ではもう盛り上がってますよ」
「おっ、年代物じゃないか。貰っていいのか?」
「僕は生憎下戸なので」
「悪ぃなぁ。じゃあ俺も下で一杯やってくるとするか。上官には言うなよ」
 にやりと笑う兵士はフュルストから茶色い物体を受け取り、代わりにフュルストは銃を受け取る。
「もちろんですよ」
 茶色い物体をジャケットの中に隠すようにして兵士が真琴の前を通過していく。廊下を折れていった。

 甲冑の死角から飛び出した真琴はフュルストに駆け寄る。
「あの兵士さん、とってもウキウキしてたわ。何を渡したの?」
「酒」
 そう言うフュルストの表情は打って変わって冷めていた。
「単純だよね。王を守る憲兵がこんなんじゃ、もうこの国は駄目かも」
 吐き捨てたフュルストは真琴に銃を押しつけて扉の前で片膝を突く。

 見た目よりも重量のある長い銃を恐々と抱きしめ、フュルストを後ろから覗き込む。
「……何してるの?」
「鍵。かかっているから解錠するの」
 サイドポケットを弄るフュルストは銅の針金を取り出し、それを半分に折り曲げる。
 刑事ドラマでよく見る光景を子供のころに真似してみた真琴は、自宅の扉を解錠しようとして巧くいかなかったことを思い出していた。視覚よりも手に伝わる微妙な感覚を捉えて行うものなのだろう。

「できるの?」
「誰に言ってるの」
 言ったか言わないかで錠が回転する小気味よい音が廊下に響く。よいしょ、というふうに立ち上がったフュルストは、手のひらで針金を一度弾ませてから握る。
「簡単、簡単」
 得意げな微笑は、何でもさらっと熟してしまう頼もしさを感じさせ、真琴の鼓動を跳ねさせた。

 例えば一緒に怪盗をしていて、刑事を出し抜き、美術館から高価な絵画をあっさり盗んでみせたような――そうして暗がりの街を逃げながら彼は造作もなく笑って言うのだ。
「ガードが緩いよ、隙だらけだ。そう思わない?」
 けれどガードが緩んでしまっているのは真琴であり、黒猫のような彼に惹かれてしまうのである。

 ドアノブを握って開けようとしているフュルストが真琴を振り返る。
「君は見張りね。……あれ?」
 ぱちりと眼をしばたたいて真琴に顔を突き出す。
「なんか赤いけど、顔が」
「長袖が暑いからっ」
「確かに」胸許のシャツを摘んで仰ぐ。「ご苦労なことだよ。兵団は一年中ジャケット着用だもんね」
「夏季ぐらいシャツだけでもいいのにねっ」
 変な会話。そう思いつつも真琴は不自然に笑う。フュルストを借りてファンタジーを妄想してしまっていた自分を恥じているのだ。
「じゃあ調べてくるから、ここをよろしくね」

 木製の扉は鈍い軋みを上げて閉まった。見上げると、上部中央にユニコーンの彫刻がきらりと光っていた。

(まだかしら……)
 溜息をついた真琴は、すぐ脇の扉を見つめた。フュルストが侵入してから三十分ほど経つが、その倍は経過しているのではないかと思うほど、えらく長いように感じていた。幸い廊下を訪れる者は誰もおらず、真琴は銃を胸に抱くようしてしゃがみ込んでいる。物騒な武器ではあるが、何か抱き込んでいると僅かばかり安心できた。

 することもなく、少し離れたところにある窓を眺めた。薄暗い雲が不気味に空を覆っている。昼を少し過ぎたくらいだというのに、ちっとも明るくなく、むしろ朝より暗くなっていた。風が出てきたのだろう。雨が窓を叩きつけていて、窓ガラスをがたつかせる悲鳴が聞こえ続けていた。
 炭酸の泡が抜けていくように緊張が弱くなってきて、もう一度溜息をついたときであった。廊下の先から踵を鳴らす音がしてきた。慌てて真琴はすっくと立ち上がり、銃を抱え直す。

(憲兵として振る舞えば大丈夫よ)
 己を励ましつつも、みるみる舞い戻ってきた緊張が、銃を握る手を汗ばませてくる。
 足音はこちらに近づいてきている。その音は多少焦っているような、それでいて急いでいるような、そんなふうに聞こえた。

 さらに音がはっきり聞こえるようになって、はっとした真琴は廊下の曲がり角を凝視する。
 甲冑以外は誰もいない。が、早足は確実にこちらにやってきており、しかもその足音に心当たりがあったのだ。
 次の瞬間、曲がり角から飛び出すように現れた人物に真琴は眼を見張った。

(リヴァイ!)
 真琴を見たリヴァイは眼を見開く。すぐさま険しい表情に様変わりさせて駆けてくる。
 頭が真っ白になりかけて数秒息が止まっていた真琴は、リヴァイとの距離に我に返った。(逃げなきゃ!)持っていた銃を投げ捨て、身を翻して駆け出す。
 が、こちらに逃げたのは失行であり、前方は窓があるだけの行き止まりであった。けれど、どちらに逃げようとも関係なかったといえる。距離はあっという間に縮まり、後ろ手を掴まれた真琴は引き倒されていた。
 うつ伏せで倒れた真琴を馬乗りするリヴァイが両肩を掴む。否応なしに仰向けにさせられる。

 真琴の左胸を見てリヴァイは眼を見張った。「憲兵団!?」思い直したようにきゅっと眼を細める。「いや、違うな。他人のジャケットか!」
 一瞬でも憲兵団かと思ったのだろうか。リヴァイが真琴の両肩を握り締める。

「なぜ逃げたっ」
「……痛いっ」
「答えろっ! なぜ憲兵の格好をしている!」
 リヴァイの詰問には答えず、真琴は眼を瞑って顔を背ける。
「ここで何をしていた! 何を企んでいる!」両肩を持ち上げて強く揺さぶる。「なんとか言え!!」

 冷たい大理石に何度も肩を叩きつけられるようにされ、真琴の顔は苦痛に歪む。頭の中は混乱していた。冷たい大理石に頭をつけていても全然冴えない。どうしよう、どうしよう――と、そればかりである。
 と、飄々とした声が廊下に響いた。

「何か騒がしいと思ったら……。乱暴はよくないと思うよ」
 師団長室の扉口に寄りかかるフュルストが腕を組んで微笑んでいた。真琴を床に押さえつけたまま、後方を振り返ったリヴァイは問う。
「何者だ」
「見て分からない?」
 和やかに微笑うフュルストは胸許の紋章を親指で突く。

 リヴァイは警戒に満ちた視線を真琴に走らせる。
「お前の知り合いだな、あいつは本当に憲兵なのか」
 どう回答したらいいものか。ちらりとフュルストを窺えば、狩人が鳥獣を射抜くような視線と絡み合う。黙秘しなければいけないようだ。

 ごくりと唾を飲み込んだ真琴は頭を振った。
「し、知らない。知り合いじゃない」
 リヴァイが胸ぐらを掬い上げて真琴の上半身が浮く。「嘘をつくな!!」
 そうして床に強く叩きつけられた真琴は痛みに悲鳴を上げた。両肩の骨の痛覚がじんじんと身内に響く。

 のんびりした口調でフュルストは言う。
「ちょっと、ちょっと。女性に何てことするのさ、可哀想じゃない」
 奥歯を噛み締めたときのように顔を歪ませ、リヴァイが真琴を睨み据えてきた。
「言えっ、あいつとは知り合いなんだろうっ」
 真琴の胸ぐらを引き寄せて、囁き声でリヴァイが詰め寄る。群青の瞳が怒りに燃えていた。真琴はただ頭を振る。
「いつも間抜けなほどに口を滑らす奴が、ここへきて牢固か」
 何度聞いても口を割らないので問い質すことを諦めたのだろう。リヴァイは再びフュルストを見据える。

「その部屋で何をしていた」
 言ってから、ちらと扉の上部を見やる。ユニコーンの彫刻が艶を放っていた。
「そこは師団長の部屋だろ」
「見張り番……なんて嘘はもう通用しないか」
「やはり兵士じゃねぇな」
 音もなく立ち上がったリヴァイの手がジャケットの内側に消える。
「あれ? 何か隠し持ってる? それじゃあ僕も――」
 リヴァイを不穏な微笑で見据えるフュルストはゆっくり屈み、そうしてズボンの裾から白く光る物を引き出してみせた。

(ダガー!)
 白刃は真琴の前腕よりも少し短い。銀の持ち手は装飾もなくてシンプルなものだった。お飾りではなく、戦闘用に特化した切れ味のよい代物だと窺える。

「僕とやってみる? 楽しいかもよ」
 不気味な笑みを湛えるフュルストがダガーを構える。
 リヴァイの後ろで震える両手を突き、怖じ気づく半身を何とか支えている真琴は頭を振る。
「やめて! 彼は武器を持っていないのよ!」
「そんなことないよね?」
 後ろ脚を下げて前傾姿勢を取ったリヴァイの片手がジャケットから再び現れる。折りたたみ式の小型ナイフを手にしており、さっと振るって刃を露出させた。

 フュルストの口端が嬉しそうに吊り上がる。
「やっぱりね。でもダメじゃない。管内は武器になりそうな刃物類は持ち込み禁止だよ」
「茶のともに、リンゴの一つももてなしてくれんじゃねぇかと思ってな。ナイフがねぇと困るだろう」
「丸ごと出されるとも思えないけど。それに」切っ先を揺らしてリヴァイのナイフを示す。「果物ナイフって感じには見えないよ」
「万能ナイフだ」

 この二人は何の話をしているのだろう、と真琴は絶句していた。警戒を解かないにしてもリヴァイとフュルストは世間話をしているように聞こえた。
 それにしても二人はこんな所で一戦を交えようというのか。とにかく止めなければならない。だが腰が抜けて立ち上がることができず、真琴は這ってリヴァイの前に出ようとした。

「やめてよ、お願い!」
「マコは離れていて。危ないよ」
 フュルストが真琴に微笑む。彼が偽名を口に出すと、面白くなさそうにリヴァイが奥歯を噛み締めたように見えた。歯ぎしりの音がこちらまで聞こえてきそうだった。

 合図もなしに、床を蹴ったフュルストが立ち向かってきた。胴付近を狙って横一線に裂こうとしたフュルストの刃をリヴァイはナイフで受け止める。力比べをしているのか、互いの腕が細かに痙攣している。
 力を入れているフュルストの笑顔はさすがに余裕とまではいかない。若干途切れ途切れに言う。
「こういうことを想定して、いつもナイフを隠してるの?」
「主要幹部が雁首揃えてるってのに、暢気に丸腰でいられるほど俺はお気楽じゃないんでな」
「エルヴィン団長の忠犬ってわけ。言われてみれば、いま襲撃されると国は困っちゃうかもね」

「それだけじゃない!」
 懐で食い止めているフュルストの刃を薙ぎ払った拍子に、リヴァイは身を沈ませて斜め上にナイフを切る。
「いつゴキブリが忍び込んでくるか分からねぇだろう!」
 フュルストはひらりと後転してリヴァイのナイフを寸でで避けた。
「侵入者をゴキブリ呼びなんて――あまり聞かないけど、それって君流? ネズミって言い回しのほうが自然じゃないかな」
 腹周りのシャツがはらりと斜めに捲れる。切り込みを確認して彼はにやりとする。
「やるね」
「てめぇもな。そのダガーは見せかけじゃなかったようだ」

 そうして二人のナイフがまたぞろ激しく交差する。真琴は止めに入りたくても入れずにいた。腕に自信がなければ、大振りで振りかざされている彼らのナイフの餌食になりかねない。
 リヴァイの強さは知っているが、フュルストの見事な剣捌きには驚きである。だがこれほどの実力がなければ、秘密結社のリーダーなど到底務まらないのだろうと思えば、不思議ではなかった。

(やっぱり猫)
 戦い方を見ていると、猫の表現はフュルストにふさわしいといえた。柔軟なアクロバティックで鋭いナイフを躱す彼は山猫だ。対して、隙を見逃さずに瞳を光らせ、確実に追いつめていくリヴァイは、群青の毛を纏う狼だった。

 生身を傷つけた様子もなく、勝負がつかない二人は浅く飛ぶようにして再度距離を取る。
「ん?」
 と、緊迫した状況で似つかわしくない素っ頓狂な声を出してフュルストは瞳を瞬かせる。大階段へと続く後方の廊下を振り返った。
 意識を向けた階下から、なんだか騒がしい音がする。忙しくなく駆け回る足音と、人の怒号混じりの声である。ナイフを構えているリヴァイも、意識を前方と階下に向けるような仕草をしていた。

「見つかっちゃったのかな」
 どうでもいいけど――と、そんな感じでフュルストが呟いた瞬間、一際大きな怒声が階下から轟くように聞こえてきた。それはクリアなものではなかったが言葉ははっきりと真琴たちの耳に届いたのだった。

 ――憲兵が一人、殺された!! 本部を封鎖しろ、侵入者だ!!

 リヴァイが眼を見張る。
「てめぇが、やったのかっ」
「さあ」
 とぼけるフュルストを一睨みして、リヴァイは真琴を見返してきた。真琴の着ているジャケットを憎らしげにまじまじと見つめる。
「殺した男のものか!」

 真琴は全身の血液が降下していく感覚を覚えていた。
 しらを切っていたが、これで確実になってしまった。フュルストと真琴が繋がっていることをリヴァイは確信したことだろう。
 これからどういった未来が待ち受けているのか、考えて真琴は震える。到底明るい未来ではないに違いない。

「君とまだ手合わせしていたいけど、そんな余裕はなさそうだね」
 ダガーを器用に回転させて、フュルストは腰ベルトに差し込んだ。リヴァイはじりじりと距離を詰める。
「逃げられると思ってんのか!」
「逃げられるよ、僕一人ならね。悪いけどマコを頼んでいい? ちょっと足手まといだから」
 あ、忘れ物! そう言ったフュルストは、リヴァイの前を素早く通り過ぎて真琴の前で屈んだ。鼻がぶつかり合いそうなくらいに顔を寄せて囁く。
「一芝居のご褒美、もらってなかった」

 鮮やかに真琴の唇を奪ってフュルストは翻す。師団長室の前で勢いをつけるように深く屈み込んでジャンプした。天井の通気口の縁を掴み、軽い身のこなしで反転し、狭い通気口へと滑り込んでいくようにして消えた。
 あまりの手際のよさに真琴は呆気に取られていた。口づけをされたうえに、いつの間にか通気口の格子も外されていたことに驚いていたのだ。フュルストは前もって自分の脱出ルートを確保していたのだろう。

 あとに残された真琴はしばらく呆然と天井を眺めていた。が、階下からの騒音を前にして悠長でいられるはずはなかった。ばたばたと大勢の足音を鳴らし、こちらに近づいてきている。

 真琴の胸に焦燥と畏れの念が入り混じる。床を突く震える両手を見つめ、泣きそうな声でリヴァイに言う。
「憲兵に……突き出すの」
 見降ろすリヴァイはややして舌打ちをした。真琴の腕を掴んで引き起こし、廊下の突き当たりを目指して走る。そこには窓がある。
「しっかり走れ!」
「腰が――抜けちゃって」

 ほとんど引きずられるようにして窓の前へ辿り着いた。
「少し下がってろ!」
 と言ったリヴァイは急を要していて余裕がないのか、真琴の肩を押す力に遠慮がなかった。脚を振り上げて窓を蹴り飛ばす。押し開きの窓は勢いよく開き、両壁に叩きつけられ、ガラスが割れて散った。細かい破片が飛んでくるのを真琴は腕を掲げて顔を守る。
 窓枠に足を掛けたリヴァイが振り返って手を伸ばす。

「ずらかるぞ!」
「む、無理よ! 窓から飛び降りるっていうの!? ここは二階よ!」

 真琴は顔を引き攣らせて後退りする。立体機動装置があれが可能だろうけれど、いまはないのだ。こんもりと茂った低木が窓の下に見えたが、たいしたクッションになるとは思えなかった。

「無理などと言ってる場合か!」
 不安から胸の前で手を組んでいる真琴の腕を、リヴァイが手荒に掴み寄せる。ぶつかるようにして彼の胸許に飛び込んだ真琴の腰を強く抱く。
「怪我したくねぇなら、しっかりしがみついてろ!」

 リヴァイが窓の枠から身を乗り出した。言われた通りに彼の首回りに腕を回して真琴は抱きつく。
 ふわり、と妙な浮遊感がしたと思ったら、落下していく重力に全身が強張った。ジェットコースターに乗っているような内臓が浮く感覚だ。

 葉擦れの音が耳許で下降していき、そうして二人は着地した。低木の尖った枝が、頭や、腕や、脚に容赦なく刺さってきて痛かった。それでも落下の衝撃はなかった。庇われるようにリヴァイの胸の中に真琴はいたからであった。
 真琴の腰を支えながらリヴァイが半身を起こす。痛そうに少し眉を顰めており、頬の切り傷から僅かな血が滲み出ている。

「ついてねぇ、チクショウ」
「あの、大丈夫?」
「二階から飛び降りて平気な面してたら、そりゃ超人だろうな」
「……ごめんなさい」

 外は相変わらず雨が降っていた。降り立ってから、さほど時間は経っていないのに、服は雨を多分に吸い込んでいて重い。肌に張りつくシャツが気持ち悪かった。
 雨音が響く中、それとは別の喧噪があった。おそらく憲兵たちが犯人探しに躍起となっているのだろう。

「姿を見られたら終わりだ。その前に脱出する」
 立ち上がったリヴァイが真琴の腕を引いて走り出した。

 本部の敷地内は砂道で、朝から降り続ける雨の影響でぬかるんでいて走りにくかった。ときおり水たまりに掬われて、つんのめりそうになりつつも真琴は懸命に走った。
 建物の裏手のほうへ進み、敷地を囲む塀のところでリヴァイは立ち止まる。
「ここを登る」
 灰色の塀は二メートルあるだろうか。よじ登るには梯子が必要かと思ったが、そばに植えてある立ち木を足場代わりに使うようだ。
 木登りなどできないので真琴は不安になる。

「こんな……登れないわ!」
「ならば大人しく捕まるか。兵士を殺った罪は重い。磔の刑ってところか」
 恐怖に真琴の顔が歪む。
「そ、そんなのはイヤ」
 リヴァイは苛立った口調で急かしてくる。
「それならお嬢様ぶってんじゃねぇよ! さっさと来い!」

 木の枝に足を掛けているリヴァイが手を突き出してきた。震える手を伸ばすと、彼にがっしりと握られた。そしてリヴァイの補助を受けて、かろうじて塀を超えることに成功したのだった。


[ 58/154 ]

*prev next#
mokuji
しおりを挟む
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -