22.空を見上げれば灰色の積乱雲が1

 空を見上げると灰色の積乱雲が広く覆っていた。顔周りを覆う雨よけの外套を両手で掴んで引き寄せ、目深に被る。
 外は雨である。昨日まで熱帯夜だったが雨のおかげで気温が若干下がり、外套を羽織っていても暑さを我慢できる気候だった。

 朝から本部の入り口で真琴は突っ立っている。こうして立ち続けて二時間が経つ。今日が雨で良かった、と真琴は思っていた。雨のおかげで訓練が休みになり、だから真琴はここで待っていられるのである。
 今日が快晴で予定通り訓練があったなら、こんな所で油を売っていられなかったろう。けれど晴れであっても真琴はここで立っていたはずだ。あとでうるさい説教が待っていたとしても背に腹は代えられない。自分の命がかかっているのだから。

(いつごろ来るのかしら)
 溜息をついて前方を見据えた時、一台の馬車がこちらへやってくるのが見えた。二匹の馬に引かれる黒塗りの馬車はそばまで来て止まる。外套を着た馭者(ぎょしゃ)が雨粒を避けるように腕を掲げ、小走りに真琴のもとへと駆け寄ってきた。

「いやー。朝からよく振りますなぁ」
「そうですね」
 話しかけてきた馭者に当たり障りなく真琴は返した。
「団長はまだですかい。ちょっと早く着き過ぎたかな」
「そのようですね」

 エルヴィンは今日、憲兵団本部からの招集を受けていた。真琴が雨の中ずっと待っていたのもエルヴィンを待っているからであり、憲兵団本部へ乗り込めと昨夜フュルストから命令されたからである。だからどうしてもエルヴィンについていかなくてはならないのだ。

「あ、いらっしゃったようですな」
 馭者が言って真琴は後ろを振り返り、そして眼を見張る。
(どうしてリヴァイもいるのよっ)

 入り口の奥から現れたのはエルヴィンとリヴァイの二人だった。エルヴィンが一人で本部へ向かうはずはないのは想定内だった。偉い人なのだから必ずお付きの者がつくだろうとは思っていたが、それがリヴァイだなんて思ってもいなかったのである。
 この計画は巧くいかないかもしれないと、ふとそんな考えが浮上した。
(絶対についていかないと。死にたくないもの)
 後ろ向きな思考を振り払うように頭を振ると、フードに張りつく雨粒が散って頬にかかった。

 意を決して顔を上げ、馬車の近くまで来たエルヴィンに声をかける。
「あの!」
「うん?」
 真琴に気づいたエルヴィンは、どうしてここにいるのかというふうに不思議そうな顔をした。
「憲兵団本部へ招集されているんですよね? ボクにお供させてください」

 エルヴィンは後方にいるリヴァイを振り返る。
「彼に話したのか? 今日だと」
「……いいや」
 問われたリヴァイは真琴を見据えて否定した。
(まずいわ。私が知ってるのは不自然だったかも)
 何とかその場を凌ごうと、真琴は頭をフル回転させる。

「兵士のあいだでは噂で持ち切りでしたよ。今日、蛇の巣へ呼び出される団長が心配だって」
 エルヴィンは眼を伏せて頭を振る。
「誰だ、そんな失礼なことを言った者は」
「それでボク心配で! なので――」
「心配してくれるのはありがたいが、リヴァイがいる。蛇の巣からも無事帰ってこられるだろうから安心してくれて構わないよ」
 笑みを浮かべて言い、リヴァイに目線を投げた。

(それじゃ困るのよ)
 眉根を寄せてちらりとリヴァイを見やる。さきほどから彼による鋭い視線が刺さっていた。昨夜を思い起こせば本日の真琴の行動も怪しく思われているに違いない。
 フュルストから享受された言葉を真琴は言う。

「荷物持ちをさせてください!」
「といっても――」苦笑したエルヴィンは、片手に持つビジネスバッグ大の鞄を持ち上げる。「これだけだからな」
 リヴァイの荷物は何かないかと探ったが彼は手ぶらであった。
 雨ではない焦燥の雫が背中を伝う。ずっと高鳴り続けている鼓動が耳にまでうるさいのに身体は急速に冷えていく。

「ぎょ」
 馭者します、と言おうとしたが、すでに馭者はいるのだ。申し出たところで受け入れてもらえるとは到底思えなかった。口籠った真琴をエルヴィンが不思議そうに首をかしげて見ている。

(ダメだわ。連れていってもらえる口実が一つも浮かばない)
「もういいかい? そろそろ行かなくては遅れるのでね。気持ちだけ、ありがたくいただいておくよ」
 エルヴィンは馬車に乗り込もうとしている。出発してしまったら終わりだ。まだ席についてない馭者の腕を引き寄せ、真琴は切迫した面持ちで耳に囁く。
「お願いします! 譲ってください!」
「へ? 何を?」
 意味が分かっていなさそうにきょとんとしている馭者を置いて、真琴はエルヴィンに詰め寄った。

「ボクに馭者をさせてください!」
「困ったな、馭者は一人いれば充分なのだが」
 真琴は唇を噛んだ。そうして心の中で罵る。
(馬鹿フュルスト!! あんたの案、全滅じゃないの!!)
 ああ、もう闇に葬られる未来しか残っていないのか。そう思って真琴は項垂れた。
 ――その時である。

「あいたたたた!!」
 芝居かかったような苦痛な声音を、その場にいる全員が振り返る。声の正体は馭者であった。
「腹が痛ぇ!! 三日前に作ったスープがあたったみてぇだ!!」
 苦痛な表情で馭者が腹を抱えて踞る。

 エルヴィンが馭者に困ったように眉根を寄せてみせた。
「この時期に三日前のスープは、さすがに危険だろう」
 冷ややかな眼つきでリヴァイが馭者を見降ろす。
「一週間前から依頼していただろう。体調にも気をつけると言ってたじゃねぇか。なぜ急に腹痛をおこす」
 怖がるように一瞬痙攣した業者は真琴に小さく手招きをする。
「兄ちゃん、兄ちゃん」

 戸惑いつつも真琴は馭者に近づいて目線を合わせた。
「どうしたんですか? 医務室に寄っていきますか?」
「違う違う、腹痛は演技だ」
 小さい仕草で手を振り、
「兄ちゃんの心意気に恐れいったよ。よっぽど団長を心酔しているんだな。だから俺の仕事を譲ってやるよ。団長を守ってやってくれや」
 真琴にしか聞こえない小さな声で馭者は言った。
「おじさん……ありがとう」
 頭を下げると可怪しく思われるので真琴は感謝の気持ちを言葉に込めた。

「おい。虚言じゃねぇだろうな」
 頭上から降ってきた不穏な声に真琴と馭者の顔が青ざめた。声の主であるリヴァイを振り仰ぐ。
「びょ、病人ですよ。そんな言い方ってないと思います」
「仮病かもしれない」
 そう言ったリヴァイは馭者ではなく真琴を睨む。馭者の演技はいかにも嘘っぽかったけれど、真っ先に真琴を疑ってくる彼はやはり怪しんでいるのだろうと思った。

 すでに馬車へ乗り込んでいるエルヴィンが扉口から顔を突き出す。
「しかしリヴァイ、本当に顔色が悪いぞ」
「そ、そうですよ。こんなに青ざめてるんです。仮病なわけないじゃないですか」
 馭者は確かに血の気を失っていた。が、具合が悪いのではなくて目の前のリヴァイが凄んだ結果であろう。馭者には気の毒だが真琴にとっては降って湧いた幸運である。つけいるならいまだ。

 腰を上げて真琴はエルヴィンの前に出た。
「もう出ないと間に合いません。ほかの馭者を用意する時間はないですし、代わりにボクが馬を引きます。お供させてください」
「どうやらお願いするしかないみたいだな。よろしく頼むよ」
 眼を閉じた真琴はほっと胸を撫で下ろした。なんとか道を繋いだ、と安堵したのだった。

 馬車にエルヴィンとリヴァイを乗せて真琴は馭者席に座っている。
「早く出せ!」
 後ろからリヴァイの急かす声が聞こえてきた。真琴が手綱を握って十分ほど経っていたからだろう。
(どうすればいいのかしら。馬車なんて引いたことないんだけど)
 難解な計算を解いているような顔の真琴は、前方で命令を待っている二匹の馬を見つめる。周囲は雨の打つ音しか聞こえない。

「何をしてる! もたもたしてんな!」
 籠った声だったはずが、いきなりクリアに聞こえて振り返る。馬車の小窓からリヴァイが顔を出していた。
「時間が押してる!」
「お待たせしました! いま出ますから!」
(どうにでもなれ!)
 そんな思いで手綱を勢いよく引いた。すると馬はゆっくりと歩き出し、徐々にスピードを上げて駆け出してくれた。

 なんとか出発できた、と些かほっとして前方を見据えた。二匹の馬はまっすぐ進んでおり、本部の正門を通過して市街の馬車道を駆ける始める。
 しばらく一本道でほとんど馬任せに走らせていたが、前方の三叉路で真琴は緊張の唾を飲み込んだ。この先は左へ折れなければならないのである。

(どうやって曲がるの、これ)
 馬には乗れるがそれは乗馬であり、馬車で馬を引くのとはわけが違うのだ。手綱を左寄りに引いて試しに少しカーブさせてみようとするが、
(やっぱり言うことを聞かない)

 焦りが募る。ぐいっと強く手綱を引いてみても2匹の馬は進路を変えない。乗馬だと半身の僅かな傾けで馬は前後左右を判断して駆けるが、馬車に繋がれている馬の操作は異なるようだ。
 何度試みても真琴に馬を操ることは叶わなかった。前方の三叉路はもう目前である。
(お願い! 曲がってよ!)

 祈る思いで全身を使って手綱を左に引っ張る。ようやく願いが叶って馬は左に折れていく。ほっと息をついたがしかし、それも束の間で馬は左に旋回したまま進み続ける。
(ダメよ! そっちは!)
 と胸の内で叫んだけれど遅かった。
 衝撃音と同時に真琴の身体が大きく弾む。馬が馬車道を外れて歩道の縁石に乗り上げたので、舌を噛み切りそうになった。引いている車が引っ掛かり、どうにか馬は止まる。

 雨だから街行く人は少ないが、それでも道を歩いていた人々から悲鳴が上がった。馬車の周囲に人はおらず、事故が起きなかったのは不幸中の幸いであったが。
 震える手で手綱を握る真琴は呆然としていた。大惨事になるところだった。
 背後で車の扉が開く。車から降りてきたリヴァイが馭者席の下から真琴を咎める。

「何してんだ。縁石に乗り上げてんじゃねぇか」
「ごめんなさい……操縦できませんでした」
 青ざめた顔色で真琴は頭を垂れる。
「……本当は馬車なんて引いたことなかったんです」
 素直に謝って馬を操れないと告白するしかなかった。これ以上無理して馬車を進めては、今度は本当に事故を起こしてしまうかもしれず、もう怖くて馬車を引きたくなかったのだ。

 深く息をついたリヴァイは馭者席に登ってくる。
「馭者をやりますだと? できもしねぇのに口から出任せ言いやがって」
 真琴は席を詰めた。もともと一人用に作られた席は狭くて二人が並んで座ると肩がぶつかった。

 リヴァイは真琴から手綱を奪い、方向転換させて馬を走らせ始めた。彼の操縦だと馬は言うことを聞くようだ。
 スピードが上がり、雨が容赦なく真琴の顔面を叩いてくる。顔を流れる雨滴を腕で拭ってリヴァイを見る。何も発しない彼はただ前方を見据えていた。馬を操っている最中なのだから当然であった。

「……降りたほうがいいですよね」
 ぽつりと言った真琴は、ああ、終わった、と思った。できれば痛くない方法で眠らせてほしい、などと鬱なことが頭の中を駆け巡っていた。
「俺にそれを命令する権限はない。お前を連れていくと判断したのはエルヴィンだ。どうしても降りたいのならエルヴィンに許しを請えばいいだろう」
「……団長が心配なので、ついていきたいと思います」
 どうしても降りたくなかったので真琴はそう答えた。

 命令する権限がないだなんて嘘だろう。リヴァイは真琴を怪しんでいるのだから、引きずり降ろしたらいいのに、と思っていた。
 隣に座るのを許しているのはどうしてなのか。疑われていると思ったのは考え過ぎだったのだろうか、と一瞬思ったけれど、その考えはすぐに捨てた。昨夜のリヴァイの行動が明らかに可怪しかったのは言うまでもないからである。
 陰鬱な気分でリヴァイを見ている真琴に彼が吐き捨てる。

「男に見つめられても気色悪いだけなんだが」
「別に見つめてるわけじゃないです」
「狭ぇな。もっと詰めろ、暑苦しい」
「これ以上詰めたら落ちちゃいます」

 まだ昼前なのに分厚い雨雲のせいで周囲は薄暗い。街の喧噪はなく、時折すれ違う馬車の音と、雨の落ちる音だけが響いている。石畳みを打ちつける雨が弾き返されて舞い、それで地面に近いところが白く霞んでいた。

「最近になって避けてますよね、ボクのこと」
 リヴァイの顔を覗き込むようにして訊いた。馬を操っている彼は表情を変えずに答える。
「そうか? 俺はいつも通り接しているつもりだが」
「嘘」
 リヴァイが僅かに眼を瞬かせた。
「そんな嘘、通用しません。明らかに可怪しいですもん。昨日だって――」
 真琴の言葉に覆い被さるようにしてリヴァイは冷たく言い放つ。
「嘘をついてるのはどっちだ」
「う、嘘なんて……」

 託言が見つからず口籠る。同時に、ああ、やっぱり、と思った。やっぱりリヴァイは真琴を怪しんでいたのだ。
 横から冷淡な声が言う。
「いまはまだ追求する気はない。だが裏切るようなことがあれば容赦しねぇ」
 追求しないのは確かな材料がないからで、証拠がないということは尻尾を掴まれていないということか。ただ漠然と疑われているようだ。
 取り繕いの笑みを作ろうとした真琴はしかし、口許が引き攣ってしまって巧くいかなかった。

「まるでボクがスパイみたいな言い方――」
「スパイなどと俺は一言も言ってないが、お前にはそう聞こえたか。何か疚しいことでもあるのかよ」
 真琴の声は揺れる。「あ、ありませんよ。第一、嘘なんてついていませんし」嘘をつくのは難しい。

 リヴァイが寄越してきた視線には疑惑の色が過っていた。
「信じていいんだな」
「も、もちろんです」
「俺にお前を」
 そう言ったきり、リヴァイはその口を閉ざす。遠慮がちに真琴は訊き返した。
「お前を……、何ですか?」
 いや。とだけ言ってリヴァイは再び前方を見据える。
 馬車は進んでウォールローゼとウォールシーナを結ぶ凱旋門を通り、憲兵団本部前へ到着した。

 真琴が見上げている憲兵団本部は、調査兵団本部よりも大きくて立派な建物だった。外壁は煉瓦でなく白漆喰で、青い屋根には天に聳える馬の彫刻が目立っている。いまごろ気づいたのだけれど、馬の額には角が生えているので、ただの馬ではなくユニコーンだったようだ。

 フュルストが見せてくれた見取り図通りに三階建てだった。二人の兵士が入り口である大扉の両脇に立っており、彼らの胸許にはユニコーンの紋章を見て取れた。選抜された選りすぐりの人材らしさがあって勇ましく見えた。不法な侵入者に向けて発砲するためか、兵士は片腕に銃を携えている。真琴の背筋を凍えさせるには充分の威嚇であった。

 馬車から降りたエルヴィンが、降りやまぬ雨粒を避けて額に手を翳す。
「どうやら俺たちが最後のようだな」
「すみませんでした。ボクが未熟なために……」
 大幅に遅れてしまったのは真琴せいである。爪先で雨を弾きながらエルヴィンが歩き出した。
「たいした遅刻でもないさ、リヴァイが飛ばしてくれたからな。荒い運転だったが」
「遅く着き過ぎて、憲兵の奴らに嫌味を言われるのは嫌だろう」
 リヴァイは大風に返し、エルヴィンは苦笑して尻をさする。
「嫌味と尻の痛み、どちらを取ると聞かれたら俺は嫌味を選んだだろうけどな」

 入り口周辺には十台ほどの馬車が止まっていた。本日招集された面々のものだろうと推測できる。
 ここまでは何とかついてこれたが問題はこの先だ。突き出た屋根の下で濡れた外套を脱いでいるリヴァイを盗み見る。
(リヴァイも会議に参加するのかしら)
 リヴァイがそばにいては自由に行動することが難しいだろうから、参加してくれなければ困るのだ。

 両扉をくぐり、そばで控える兵士に外套を預ける。この兵士は荷物を預かるのが仕事らしく、背後にクロークルームがある。
「管内は危険物の持ち込みは禁止です。刃物などはこちらで預からせていただきます」
「私は所持していない」兵士に答えたエルヴィンがリヴァイを見やる。「お前は?」
「俺もない」
 兵士が真琴を見る。
「ボクも特にないです」
 睡眠薬入りの注射器は、はたして危険物なのだろうか、と自問つつ答えたのだった。

 案内もなく廊下を歩いて会議室へ向かう。
(思ったよりも広いわね)
 シンプルな作りだが内部は広い。迷うことはないだろうけれど、あちこちに見張りらしい兵士が立っているし、もしものときに逃げられるだろうか。目的の廊下には本当に見張りが一人なのかと不安になる。
 三階まで上がって廊下を進み、大きな両扉の前でエルヴィンが立ち止まった。
「君はここまででいい。リヴァイはついてきてくれ」
 ちらと真琴を見てから、「……ああ」リヴァイはエルヴィンと供に会議室へと入っていった。
 
 扉付近の壁沿いには数人の兵士が直立不動で整列している。彼らは付き添いの兵士たちに違いなく、薔薇の紋章は駐屯兵団の者で、ユニコーンの紋章は憲兵団の者だった。
 憲兵団の一人が真琴を睨んできた。お前も整列して大人しく待っていろ、とでも言いたげな眼つきである。
 とりあえず端に並んだ真琴は計画を反芻していた。
(一階へ行って、突きあたりの廊下を曲がった先でこれを使うのよね)
 ズボンのポケットの上から、睡眠薬の液体が入った三つの注射器を握る。硬いごろごろとした感触が、いよいよ決行の時なのだと緊張させてくる。

 深呼吸とともに一度ぎゅっと眼を閉じて、気持ちを奮い立たせて瞳を開けた。
 後退りしながら軽く手を挙げる。「あの! ボク、ちょっとトイレへ行ってきます」
 視線が一斉に刺さったが誰も咎めないのを確認し、真琴は背中を見せて走り出した。大階段を二段飛ばしで一気に一階まで降り、目的の廊下へと走る。

「おい! 廊下を走るな!」
 途中、見張りの憲兵に注意されて真琴は肩をびくつかせた。
「す、すみません」
 声をかけられた理由が廊下を走っていたことによるものだと分かって息をつく。そんな理由でよかった、と内心思っていたら、兵士の次の言葉に肝を冷やすことになった。

「調査兵団の者がどこへ行く。会議室は三階だろう、付き添いはうろうろするな」
「と、トイレへ行きたいんですが、なにぶん広くて迷ってしまって」
 緊張して声が震えた。兵士は廊下の先を指差す。
「間抜けめ! トイレはあっちだ。さっさと済ませてこい」
「あ、ありがとうございます」
 軽く頭を下げた真琴は、もう注意されないよう歩いて廊下を進む。十字路を右へ折れると、少し離れた距離に目的の廊下が見えてきた。

(ここでいいのよね)
 曲がり角で身を潜め、そっと窺う。見張りは一人で、その頭上には通気口らしきものがあり、人間一人が入れる大きさの四角い格子付きだった。
(フュルストはもう侵入してるのかしら)
 通気口を注視してみたが真っ暗で何も見えなかった。そこにいるものと信じて作戦を実行するしかないようだ。

 真琴はポケットから注射器を一つ取り出した。体温が移って、生ぬるくなっている無機質な注射器を見降ろしてから、強く握りしめる。
(何でこんなことをしなきゃいけないんだろう……)
 なんだか泣きたい。まだ実行していないのに後悔に似た感情が胸の内を渦巻く。
 何度か深く呼吸をして震える足に力を込めた。丁度兵士は後ろを向いているので、やるならいましかない。

 勢いよく角から飛び出した真琴は兵士を目掛けて一直線に走った。注射器を持っている腕を振り上げる。ふいに兵士が真琴を振り返った。
 兵士が唖然としていたのは一瞬だけで、真琴を取り押さえようと、すぐさま険しい顔つきになる。真琴の持つ注射器が兵士の肩に刺さったのと、兵士が真琴の首を締めたのはほぼ同時だった。

 首が締まって真琴は呻く。
「……うっ」
「貴様! 一体何をした!」
 真琴の手から転がり落ちた黒い物体を見て、兵士が恐れと憤怒の表情で真琴を睨む。両手で首を締め上げてくる。
「何だこれは!! 何かの薬か!? 毒か!? 毒なのか!! 俺を殺そうとしたのか!?」
「ちが、毒じゃッ……ぁ、ううッ」

 苦しくて喘ぐ真琴は、首を締める兵士の手と、自分の肌のすきまに指を捩じ込んで気道を確保しようとする。身長差で爪先が浮いてしまっている足をばたばたさせて抵抗し続ける。
 十秒がとても長く感じた。咽喉が狭まって息ができない。首から上だけ気圧が下がってしまったかのような圧迫感と、吐き気を伴っている。
(早く効いてきて!)
 と真琴は祈った。
 意識が白くなりかけたとき、兵士の手が緩んだ。虚ろな瞳でふらつき始め、そうして崩れ落ちた。

 痛む喉を押さえて真琴もがくっと崩れ落ちる。
 間髪入れず、頭上から金属の音がした。格子を外したフュルストが顔を出しており、華麗に廊下へと降り立った。
「ちゃんとできたね。えらい、えらい」
 真琴の頭を撫でてから眠りこけている兵士の腕を掴んだ。引きずる兵士を手近な部屋へ入れる。

 真琴は締められた喉をさすって息を整えるのに精一杯だった。頭上に影が差したのは、ようやく呼吸が整ってからで、頭に僅かな抵抗を感じたときには、髪を引っ張られてかつらを取られていた。巻き込んでいた髪の毛が弾んで肩に垂れる。
「何をするのよ」
 彼を振り仰いだ真琴は全身を硬直させた。忘れもしない鉄臭さ、フュルストから血の臭いがしたのである。

「一人二役できるって便利だよね。かつらは預かっておくよ。あと、これに着替えてくれる?」
 固まった真琴など気にも留めずにフュルストは茶色のジャケットを差し出してくる。胸許にユニコーンの紋章つきだ。
「っ血」
「え?」
 震える指で真琴は自分の頬を示す。それを見たフュルストが顔の同じ箇所に手を滑らせた。
「ああ」
 手のひらを冷ややかな眼で見つめて不適に微笑う。
「ついちゃった。気をつけたのになぁ」

 ロボットのように固まった身体で、真琴は兵士を押し入れた部屋を振り返る。半開きの扉の隙間から、兵士だろう男の足が廊下にはみ出している。はみ出しているの足だけではなく、真紅の血がじわじわと廊下へ広がっていたのだ。

 血潮が騒ぎ出して動機が激しくなってきた胸を眼を瞑って押さえた。急激に込み上げてきた吐き気を我慢できず、端へ駆け寄って真琴は嘔吐する。
「つらそうだ。可哀想に」
 踞る真琴の背中を優しくさするフュルストの面容は慈愛じみていた。口許を拭って真琴は彼を睨み据える。
「誰のせいでっ」
「君を血に弱くさせたのは調査兵団でしょう。僕のせいじゃない」
「そういう問題じゃない! どうして殺したのよ!」

 慈愛の顔を引っ込めたフュルストは冷たい眼つきで言う。
「彼らは殺されても文句は言えないよ。君が知らないだけ」
「だからって人を殺していいわけない!」
 聞き分けのない子供を見るように溜息をつき、フュルストは真琴の腕を掴んで引き起こす。
「全部吐いた? もう大丈夫だね」
 言い、無理矢理真琴のジャケットを剥いで憲兵団のものを引っ掛けてくる。
「ここにいつまでも留まっていたって良くない事態になるだけだよ。さあ、目的を済ませちゃおう」

(なんて恐ろしい男なの。ヴァールハイトって平気で人殺しをするような集団なのかしら。断りきれなかったとはいえ、だとしたら私は大馬鹿者だわ)
 そう思いながらも大人しく憲兵団のジャケットに袖を通した。温もりが残っているジャケットは、いましがたまで生きていて、そしてもう死んでいる人間のものだ。このうえない気持ち悪さに、再び込み上げてきた吐き気を必死に押しとどめる真琴は、自分の腕を引くフュルストを恐れ混じりに見る。
(冷酷冷徹)
 脳裏に浮上した言葉は、目の前の男にふさわしい烙印だった。


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