21.手持ちぶたさでメモ用紙に落書きを

 班長であるリヴァイの部屋で卓を囲み、来たる次の壁外遠征に向けて精鋭班は会議を行っていた。班編成に関しては特に変更はないようだ。

 卓に置かれている紅茶のポットから花の香りの湯気が室内を漂っていた。輪になっている六個のカップのうち、一個だけティーカップでなくマグカップが紛れている。ベンチに座る女の子の可愛らしい絵つけが施されており、それの取っ手に指を絡めたのはリヴァイであった。男性が使うにしてはずいぶんと少女趣味であるが、恥ずかしがる素振りもなく、至って彼は爽涼なさまである。

(やっぱりリヴァイの袋に入ってたんだ)
 いつかマコと二人で出掛けた時に雑貨屋で購入したマグカップだ。いまリヴァイが使っているマグカップはペアマグカップであり、もう一つはベンチに座る男の子の絵柄で、真琴の部屋の戸棚に収まっている。そして戸棚には使用できずにいるシンプルなティーカップも収納されているのだけれど、こちらが本来リヴァイが選んだものなのだ。要は袋詰めする際に店員が入れ間違えたのである。
(まさか使ってるとは思わなかったけど)
 案外気に入っているのかもしれない。

 卓上では難しい専門用語や技術的な話が飛び交い続けていた。
(ちっとも意味が分からないんだけど)
 議論についていけない真琴は置いてけぼりの状態だった。手持ちぶたさでメモ用紙に落書きをする。なんとなく描いたものはへのへのもへじの顔で、我ながら絵心がないと思っていた時、
 ふと視線を感じて瞳を上げた。咎めるような眼つきでリヴァイが真琴を睨めつけている。
(まずいっ)
 不真面目さ際立つ落書きに気づいたのだろう。慌てて絵を手で隠す。リヴァイは真琴に向かって溜息をつくようにして、そうして卓上にある広げられた書類を手で集め始めた。

「今日はここまでだ」
 そう言い、集めた書類を縦にしてリヴァイは卓の上で角を揃える。班員も立ち上がり、書類を脇に抱えたりして部屋を出る準備をし出す。
 窓を見やれば外は闇で、僅かだけれど端のほうに濃い橙色が落ちようとしているのが見える。訓練が終わった時は茜色の空だったはずだから、小一時間ほど会議をしていたらしい。

 疲れた色を顔に浮かべながらも、厳しい訓練の一日がようやく終わって誰しもどこか晴れやかである。と、椅子から立ち上がったリヴァイが書類片手に面々を見回した。
「このあとだが、手の空いてる奴はいないか」
 言って書机を顎で示す。
「片づかなくて仕方ねぇ。書類整理を頼みたいんだが」
 見ればリヴァイの書机は書類の山だった。前回の遠征から三週間は経っているが、真琴が以前彼の部屋へ訪れた時と散らかりように大差がなく、むしろ増えている。それだけ彼に任される仕事は真琴たちの比ではないということだ。

 途端にエルドたちは個々に眼を泳がせたり、眼を合わせないように伏せ始める。上司の頼み事なのに露骨である。疲れているから、このうえ書類整理をやらされるのが嫌なのだろうけれど。
 リヴァイも何となく空気は察しているはずであるが、いい加減、書机周りを綺麗にしたいのだろう。注意深く見ていなければ見落としていただろう溜息をつく。
「誰かいねぇか」

 リヴァイの目許に浮かぶ彰彰たる疲れの色を気の毒に思い、真琴は控えめに手を挙げた。
「ボクで良かったら手伝います」
 リヴァイの視線が真琴に移る。返答しようと口を薄く開けて、そうして閉じた。思量するように書机へと一度目線を流してから、真琴の隣にいる人物に命令した。
「いや、いい。ペトラ、頼まれろ」
「えっ。……分かりました」
 ペトラがそろりと窺ってくる。複雑な気持ちで挙げた手を胸に抱く真琴は、彼女に小さく笑みを零す。
「……頑張って」
「……うん」

「解散だ。カップはおのおので片づけろ。他人の口がついたカップなど、俺は触りたくない」
 そう言って背を向けたリヴァイはペトラに指示を出し始めた。言われた通りに彼女は書類整理に手をつけ始める。

 ほかの面々に続いて真琴は部屋をあとにした。扉を閉めて廊下へ出るとオルオが真琴に向き合う。
「お前さ、兵長にとうとう失望されたんじゃねぇか。書類整理も任せられねぇほど呆れられてるっぽいよな」
 声を潜めつつ呆れ調子の笑みをみせるオルオ。
「失望ってさ、どん底の下ってあるのかな」
「はあ? 何言ってたんだよ、これ以上底がないからどん底なんだろ」
「すでにどん底だったんだけどな……」
 これ以上失望できないほど評価がどん底だと、いつかリヴァイに言われたことを思い出していたのだ。最近の態度は本当に何なのだろう、と悩みそうになってしまう。

 エルドが顎に手を添える。
「遠征前に、コミュニケーション不足はちょっと心配だな」
「心配なんていらないですよ。どうせ兵長一人で巨人をやっつけちまうんですから」
 へらっと笑うオルオをエルドが窘める。
「そういう問題じゃないだろう、オルオ」
 オルオの発言に胸が悪くなった真琴は唇を尖らせる。
「金魚の糞みたい言い方しないでほしいな」
 若手では実力ナンバーワンといえど年上に対して礼儀がなってなさすぎる。

 安心したように息をついたエルドが、ふいに真琴の頭をぽんっと叩いた。
「一時は心配したが、オルオの嫌みに返せるようになったなら安心だな」
 エルドの一言でオルオとグンタもにやりと笑みをみせた。
「そうこなくちゃ俺も張り合いがないぜっ」
 困り眉で真琴はただ微笑んだのであった。

 みんなと一緒に食堂へは行かずに真琴は自室へ戻った。
「ご飯、ご飯」
 卓に置いてある茶色の紙袋を取ってベッドに腰を降ろす。些か雑に尻を着いたベッドは柔らかくもなく、少し左右に揺れて軋みを上げた。
 紙袋の口から出てきたのはパン。昨日ウォールローゼの街へ出て、パン屋さんで買いだめしたものである。
「今夜はコーン&チーズね」
 焼き立てからだいぶ時間が経ったパンは口に含むと少し固めの弾力があった。食堂の味気ないパンよりかはチーズや卵がのった総菜パンのほうがボリュームがあり、真琴を満足させるに充分であった。

(みんなにかなり心配かけてたようね)
 さきほどのエルドの言葉を真琴は思い返していた。リヴァイにトラウマを打ち明けてからというもの、真琴の心情に変化があった。気の持ちようが楽になり、みんなの前で自然な笑みをみせられるようになったのだ。

 もちろんトラウマが治ったわけではなく、こうして一人寂しく夕食を食べているのも、食堂へ行けば吐き気を催すからなのだが。影も振動もまだ怖いし、悪夢にも魘される。けれど――
(自分の悩みを理解してくれてる人が、一人いるだけでこんなにも心が救われるだなんてね)
 人間は一人で生きていけない生き物なのだろう。だから誰かに自分を預けるのは悪いことではなかったのだ。

 左側の板壁が気になった。隣はリヴァイの部屋で、薄い壁を通して物音と声が聞こえてくる。話し声はぼやけていて内容まではさすがに聞き取れないけれど。
(断ってくるとは思ってたのよね)
 リヴァイが真琴の申し出を断るのは今日が初めてではない。何となく避けられているような違和感は感じていたが、オルオやエルドに指摘されて確信が高まった。

(何か嫌われるようなことをしたかしら)
 以前と接し方が変わったリヴァイに少し腹を立てながらパンを噛みちぎった。咀嚼したパンはやはり固くて、焼き立てだったなら、さぞかし喉を鳴らしたのだろう、と真琴は残念に思ったのだった。

 こつん、と窓のほうから音がした。二回目の音で真琴の眼が正体を捉えた。飛んでくる小石が窓を叩いているのだ。
「何かしら」
 そばまで行って窓を押し開けた拍子に、真琴の顔を目掛けて小石が飛んできた。避ける間もなく耳を掠って室内に転がっていく。
(危ないな! 当たるところだったじゃない!)
 びっくりと苛立ちで胸部がかっと熱くなり、心臓を押さえる。室内に転がり込んできた小石を睨んでから窓の下を覗き込んだ。

 暗闇に浮かび上がる影に真琴は眼を見張る。
「フュル――」
 驚きで叫びそうになった口を慌てて手で押し止めた。
 窓の真下で眉を下げ、顔の前で両手を拝んでいる。たいして悪く思っていなさそうに口角を吊りあげたフュルストの姿があった。
 息漏れ声で叫ぶ。
 ――何してんのよ!

 口許に人差し指を添えたフュルストは後ろへ下がるよう手で合図してくる。驚きで暴れる心臓の音を間近で感じつつも真琴は言われた通りに後退した。
 間髪おかずに、大きめの鉤針を先端に括りつけてあるロープが、開け放たれた窓へと投げ入れられた。鉤針が窓枠に引っ掛かると、しっかり掛かったか確かめるようにロープを何度か牽引し、ややしてフュルストが窓から顔を出した。三階の部屋へロープを伝って登ってきたのである。
(信じられない!)

 窓の枠に足を置いたフュルストは、辺りをきょろきょろと見回す。
「入っても大丈夫そうだね」
 室内へと遠慮なく侵入してきた。
「なんで! 何しにきたのよ!」
 真琴は非難の囁き声で悲鳴を上げた。気にもかけずにフュルストは部屋を振り仰ぐ。
「個室を貰ってるんだ。いい待遇だね」
「私の部屋の位置を含めて知ってたくせにっ。そうでなければ小石を投げるなんて、そんな危ない橋は渡れないものねっ」

「下調べは基本中の基本だよね」
 悪びれずに言ってのけたフュルストが悔しくて真琴は唇をきゅっと結んだ。
「一人で寂しく夕飯?」
「どこで食べようが私の自由でしょ」
 皿に乗っている食べかけのパンをフュルストは手に取る。
「君って友達いなさそうだもんね」

 失礼な発言に真琴は顔を歪ませて絶句した。触れられたくない矢坪を射られて言い返せない。
 フュルストはベッドに腰を降ろしてパンを口に運んだ。
「ん、なかなか美味しいね。焼き立てじゃないのが残念だけど。どこで買ったの?」
「それ、私の食べかけ――」
 思わず大声を上げそうになった真琴の口を大きな手のひらが覆う。

「ちょっと、ちょっと」焦るでもなく、ちょんちょんと壁を指差す。「隣、いるんでしょう?」
 唾棄を込めて彼の手を剥がした真琴は頷いた。
「ええ、そうよ」
「右隣はいないんだっけ。前回の遠征で巨人さんに食べられちゃった?」
「失礼だわ。そういう言い方はやめてよ」

 彼の言う通り、前回の遠征前で右隣の部屋には上官が生活していた。フュルストは真琴の身の周りを調査していたに違いない。上官が殉職したことも知っていて、微笑を浮かべて真琴に尋ねてきたのだ。
(嫌な男……)
 真琴は目の前の碧眼を睨んだ。

「全然怖くないんだけど」
 言いながら真琴の垂れる髪の毛に触れる。
「長いんだね。それと思った通り黒髪だった」
 上目遣いでフュルストは覗き込んでくる。真琴は自分の髪を触れる手を払いのけた。
「慣れ慣れしいから」
「いいじゃない、減るもんじゃなし。それに口づけした仲でしょ?」
「……最低。そっちが勝手にしてきたんじゃない」

 平然としているフュルストに真琴は呆れてしまう。怒りの毒気が抜けていくのはどうしてだろう。きっとフュルストの柔らかい笑みのせいなのかもしれなかった。

「一体、何しにきたの? 夜の散歩ってわけじゃないんでしょ」
「散歩も兼ねてたけどね。でも、そろそろ本題に入ろうかな」
 パンを胃袋にしまったフュルストは指についたソースをぺろりと舐める。真剣というには足りない眼差しで真琴を見据えてきた。
「明日、ウォールシーナにある憲兵団本部に三兵団の団長クラスが招集される。君はエルヴィンと供に内部に入って侵入の手引きをしてほしい――僕の」

 真琴は眼を剥いた。一般人の真琴にスパイの手引きじみたことを要求されても困る。
「む、無理よ! 第一、私は団長の秘書でもなんでもないのよ。連れていってくれるはずないわ」
「そこは君の腕の見せどころじゃない」
 フュルストはにっこり微笑う。撤回してもらおうと真琴は身を乗り出す。
「そんな腕もってない!」
「だからさ、もうちょっと声を落としてくれる?」

 言われて口許を覆って隣の壁を直視した。書類整理が終わったのか、いつの間にか物音はしなくなっていた。夕食をしに食堂へ行ったのか、部屋にいるのか真琴には判断できない。
 隣部屋のリヴァイは普段からあまり物音を立てないので不在か在室かの判断が難しいのだ。であるからして声はやはり抑えたほうがよいに違いなかった。
「考え直して、私に手引きなんて無理だからっ」

 少し呆れたように息をついたフュルストは考えるような仕草をする。
「そうだな。例えば、荷物持ちをしまーす、とか。馭者しまーす、とか。考えれば色々あるじゃない」
「何よそれ。そんな簡単に事が進むとは思えないけど」
「やだな、そこは食い下がってよ」
 フュルストはいたずらっ子のような笑みをみせた。戸惑ってばかりの真琴は疑問を口にする。

「詳しく聞きたいんだけど、手引きってどんなふうに?」
「やる気になってくれた?」
「イヤだと言ってもやらせるんでしょう。どうせ脅したりして」
 真琴は降参めいた溜息をついた。何を言ったって彼は強要してくるのだろう。

 ズボンのポケットから折り畳んである紙を取り出したフュルスト。広げて真琴に見せるように掲げた。
「本部の簡単な見取り図。赤で囲ってある部分があるでしょう」
「うん」
 見取り図を見ながら真琴は頷いてみせた。

 薄茶の藁半紙のような質感の紙には建物の見取り図が描いてあった。それによると憲兵団本部は三階建てであることが分かる。実際に見てみないと分からないけれど部屋数からして調査兵団本部よりも敷地は広いようだ。
 一階と三階の二箇所に赤ペンで丸がついている。一階は廊下の突き当たり部分、三階は広めの部屋にそれぞれ丸がしてあった。
 フュルストは三階の赤印を指差す。

「ここは会議室。幹部の話し合いはここで行われるはずだ」
 次いで一階の赤印に指を滑らせる。
「ここが僕の侵入場所。天井が通気口になっていて外から侵入する」
 疑問符を抱いて真琴は顔を上げた。
「外から? ここまで入ってこられるなら手引きなんていらないじゃない」
「外の警護はそうでもないんだ。問題は中。ありとあらゆる入り口に兵が配置されてるんだ。ここもしかり」
 そう言い、邪魔っけとばかりに赤印を指で弾く。難しい顔をして真琴は彼を見つめた。

「どう手引きしろっていうのよ。悪いけど私、戦闘技術はないから」
 ふっと微笑ったフュルストは語を継ぐ。
「そっち方面はもとから期待してないよ。君の体つきや所作を見てれば、名ばかりの兵士だって分かる」
 反対側のポケットから小指大の黒い物体を取り出してみせた。
「小型の注射器。これを君に渡しておく。プッシュ式でそのまま使えるから」

 彼の手のひらに乗っている黒い筒は三つ。黒といっても少し透けており、中身に液体が入っているのが認識できる。
 注射器だとフュルストは言う。液体の中身はどういった効果のものなのだろう。
(まさか致死性の毒物じゃないわよね)
 真琴は疑いの眼つきで彼を見やった。

「中身はなんなの?」
「君が心配しているような危険なものじゃないよ」
 言って一本の注射器を手で摘み、真琴に向かって翳した。ランプと月明かりのみの室内で液体は揺れ動き、きらりと光った。
「即効性の睡眠薬。打って十秒で夢の中。ただし持続時間は短い」
「これを私に使えっていうの」
「通気口の下に配置されている兵士に、君にこれを打ってもらいたい」
「……ここまで行くのに怪しまれるわ。エルヴィンがそばにいるのよ」
 得体の知れない不安に駆られて真琴の顔が青ざめていく。

 フュルストは三つの注射器を丸テーブルに置いた。緩やかに転がって天板の上で三つはばらける。
「大丈夫、君は会議室には入れない。一人になるチャンスはすぐに訪れる。三階から一階に手早く移動するんだ。駐屯兵団からも付き添いの兵士は来る。調査兵団の君が彷徨いていたって誰も怪しんだりはしないよ」
 後退りしたい心情で真琴首を振る。
「やっぱり、む、無理だわ。ほかの人に頼んで」
「それはできない。君にしか頼めない。……どうしても嫌だと言うのなら」
 そう言い、真琴の襟ぐりを掴んで引き寄せる。いつも飄々としている彼の眼つきが凄みのあるものに変わった。
「消えてもらうまでだけど」

 低く囁かれて真琴は恐怖した。今夜は熱帯夜なのに背中がぞくぞくと冷えた。
 掴んだ襟ぐりを離してフュルストは苦笑する。
「怖がらせちゃった」
「……侵入の目的は」
 皺になった襟元を手で伸ばして真琴は彼に聞いた。

「ちょっとしたガサ入れ。あそこじゃないと調べられないことがあるんだ。会議室に主要の幹部が集まってるあいだに、ゆっくり調べられる絶好の機会ってわけ」
 丸テーブルに転がっている黒い筒を、不安な思いで真琴は見つめる。立ち上がったフュルストが肩を叩いてきた。
「大丈夫、一瞬で寝ちゃうから。廊下に配置されてる兵士は一人だけだから君でもできる」
「……そうかしら」
 無理そうでもやるしかなく、手引きをするまでの手順を頭の中で組み立ててみようと試みるが、経験のないことを想像しようとしても脳が混濁するだけだった。

 フュルストが真琴の腕を掴んで引き寄せる。
「明日、待ってるから」
 囁きとともに真琴の頬に柔らかいものが触れた。咄嗟に突き飛ばして汚いものを拭うように頬を手でこする。
「ちょっと! 一度ならず二度までも!!」
「それってこっちの台詞なんだけどな」
 呆れた口調で言ったフュルストが窓枠に足を掛けた。肩越しに振り返って唇に人差し指を添える。
「何度も静かにしてって言ったよね? 君ってば学習能力ないね」

 言ったか言わないかのうちに扉を荒々しくノックする音が響く。
 はっとして扉を振り返れば真琴の揺れる髪の毛が頬をくすぐった。廊下から、「開けろ!」とリヴァイの怒鳴り声がする。
「どう言い逃れするのか見物(みもの)だけど、僕は退散しちゃうから残念だな」
 フュルストの声を振り返るが、もう件の人物はそこにはいなかった。開け放たれた窓だけが風もないのに揺れているだけだった。

「開けろ! ぶち破るぞ!」
 もう一度扉を振り返った真琴は慌ててかつらを被った。急いでドアノブの鍵を外すと、真琴が開けるよりも先に廊下の人物が扉を開け放ってきた。
「な、なんでしょうか」
 真琴を無視してリヴァイはその場を見回す。部屋に遠慮なく入ってきた。

 いましがたまでフュルストがいた部屋なので、真琴の心臓は飛び出そうなほどに激しく鼓動を打っている。するともなく握った手は汗を掻いていた。
 落ち着かなくて泳いでしまう視線が、丸テーブルに置いてある物を捉えて眼を見張った。
(注射器が!)
 一見それっぽく見えないけれど真琴の部屋にあるのは不自然に見えた。それだけ異質で無機質だったのだ。

 リヴァイが注射器に気づけば必ず問い質されるだろう。巧く誤魔化せたとしても、手に持って少し良く見れば怪しい物だと勘づかれる可能性がある。
(隠さないと!)
 目線を注射器からリヴァイに移す。窓の外に身を乗り出している背中が訝しげである。そして移動し、洗面所へ繋がる扉を開けて舌打ちをした。

 彼の注意が逸れているあいだに丸テーブルに素早く駆け寄り、真琴は注射器を掻き集めるようにしてズボンのポケットに押し込んだ。
 無事に隠せた、とほっと息をついて振り返る。鋭い眼つきでリヴァイがこちらを見ていたから、真琴は一瞬痙攣して固まってしまう。
(見られた!?)
 隠すところを見られたのか。見られたとしたらとても怪しかったに違いなく、ポケットの中身を取られて最後まで追求されるのだろう。そして睡眠薬だと知られた日には真琴に言い逃れなどできる自信がない。そうしたら秘密結社のことも発覚し、口を割った真琴はフュルストに消され、フェンデルも道連れになるのだろう。
 無意識にズボンのポケットを握る。小さな三つの注射器はポケットの中でごろごろと動く。

 リヴァイが低く言う。
「声がしたが」
「き、気の」
 気のせい、と言おうとして口を噤んだ。下手な嘘は不利になる。声がした、とリヴァイが言うのならば本当に聞こえのだろう。

「ご」
 声が詰まった真琴にリヴァイは不審げに聞き返してくる。
「ご?」
「ゴキブリが出たんでっ、びっくりしてつい叫んでしまいましたっ」
「一度ならず二度までも?」

 一字一句聴こえていたとは驚きである。それだけ真琴の上げた声は大きかったのだろうけれど。
 リヴァイが徐々に距離を詰めてくる。嫌な汗をこめかみから垂らしつつ真琴は喘ぐ。

「そ、そうなんですっ。き、昨日もゴキブリが出たのでっ」
「ほう」
 目の前に立ったリヴァイが真琴のこめかみを触れる。
「汗がすごいが」
「こ、今夜は暑いですから」
「窓が開いているのも、そのせいか」
 真琴はぎごちなく頷いた。

 リヴァイはベッドへと視線を流す。睨むように見つめてから、いきなりベッドを蹴り上げた。真琴は驚愕に肩をびくつかせる。
 下から持ち上げるように蹴られたベッドは大きな音を立てて反転した。ベッドで死角になっていた床板を睨み、リヴァイが舌打ちをする。

「ゴキブリが潜んでいるかと思ったんだが」
「ま、窓から飛んでいきました」
「そのようだな」

 真琴は違和感を伴っていた。フュルストをゴキブリに置き換えると会話が成立しているような気がしていたのだ。
 思えばリヴァイの行動は意味深である。確かめるように室内を見回したり、用もないのに洗面所を見たり、何かを探しているような感じがしてならない。
(まさか疑われてる?)

 だとしたらいつから疑わしいと思っていたのか。フュルストと接触したのは今回で二度目なのに知る機会はあったのか。
 そういえば、と真琴は思った。そういえば初めてフュルストと会ったあの日、公園で誰かにつけられていると言わなかったか。あれはフュルストを尾行しているものと解釈してしまったが、いま思えば真琴が尾行されていたのかもしれなかった。
(それは誰に?)

 真琴はリヴァイを見た。彼はまだ納得いかないのか、もう一度窓を検めている。
(リヴァイだわ)
 どうしてもっと早く気づかなかったのか、と真琴の口内に苦いものが広がっていく。
 フュルストと会った帰り道に本部の手前でリヴァイに遭遇したではないか。あれは偶然ではなく、真琴の跡をつけていたに違いない。どうしてリヴァイが真琴を遠ざけるのか、そうすれば喉のつかえが取れる。書類整理の手伝いをさせないのも怪しまれているからなのだろう。

 が、すべてのつかえが取れるわけではなく疑問が残った。フュルストと初めて会った日に、どうしてリヴァイは真琴を尾行できたのだろう。以前から怪しんでいなければ尾行は成立しなかったと思う。
(いつから? 彼の態度が可怪しくなったのはいつからなの?)
 記憶をまさぐるが思い出せなかった。

「邪魔したな」
 思考に耽っていた真琴はリヴァイの声で顔を上げた。彼を眼で追えば扉が閉まったあとでだった。
 脱力してその場に崩れ落ちた。無惨にひっくり返されたベッドを見て何となく溜息をつく。注射器に気づかれなくて良かったと、ただそれだけをほっとしていたのであった。


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