19.海は夢物語2

 転瞬して、瞳に飛び込んできた光景が嘆息を零れさせた。
「わあ」
 まるで一面の天の川のようだった。瞬く星が汲めども尽きぬ宝玉に見えた。空が近くて、手を伸ばせば星を掴めてしまいそうな気がした。
「どうだ、まだ怖いか」
「ううん。リヴァイさんの言う通りね。背中を預けているからかしら、全然怖くないの」
 おそらくそれだけではないと思う。背に触れている温もりが影響しているだろうことを、真琴は感じ取れているだろうか。

「そりゃよかったな。今夜は星がよく見える、怖がって気もそぞろじゃもったいねぇ」
「ほんとよね。伸び伸びした気分で眺めないと損だわ」
 天に手を掲げてみた。素早く掴む仕草をした真琴は星を捕らえようと思ったのだが、しかし宙を掴んだだけだった。自分でしておいて、子供みたいな行為にくすりと笑みを零してしまう。
「残念」

「あ?」不思議そうにリヴァイが視線を投げてきた。真琴は困り眉ではにかむ。
「星が掴めるかと思って」
「掴めるわけねぇだろう。そんなことを試そうと思うのはガキみたいな発想だ」
「私もそう思ったの。だから可笑しくなっちゃって」
 くすくす笑いを束の間したあと、ほっこりとしたと溜息をついた。再び空を見ても、ひしめき合う星空は変わらずそこにあった。うっとりした心地で真琴は言う。
「素敵ね」
「ああ、悪くない」

 真琴は含み笑いする。「あなたに星の善し悪しが分かるの?」
「なんだと? ここから突き落としてやろうか」リヴァイが疎ましげに薄目をしてみせた。
「言ってみただけ。善しと思っていなければ、ここへ女性を連れてこようなんて選択は、まずないものね」
 初めて会ったころの真琴ならば、無慈悲な彼に星の善し悪しなど分からないと本気で思ったのだろう。ゆえにリヴァイに対する印象が、おおむね和らいだということであるが。

 真琴はそっと瞼を閉じた。何となしに生を受けた場所を思い出して、いま一度瞼を開けた。
「やっぱり見事ね。東京ではこんな空は見られないもの。昔は星がたくさん見えたんだろうけど」
 まっすぐ空を見ている真琴のそばで、リヴァイは眉を顰めていた。とうきょう――と口の中で呟いているのが唇の動きから見て取れた。
 頭を片手で支えるふうにしてリヴァイが横になった。微かな詮索の色が口調に含まれる。

「マコの故郷では星が見えないのか」
「全然じゃないけど、ぽつぽつとしか見えないの。空が澄んでいないから冬ですらダメ。大気汚染で空気が汚れているせいね」
 この世界は恐ろしい。後ろを向けば巨人の巣。が、自然にとっては楽園なのかもしれないと、真琴は漠然とそう思った。

「皮肉だとは思わない? 恐怖に包まれた残酷な世界は夜空が美しくて――」
(なんの脅威もない私の世界は、星が見えないのよ)
「何が皮肉なんだ。お前の故郷と比べてか?」
「……うん」
 リヴァイは真琴を訝しがっている。
「言ってることが分からねぇな。どこで見たって星は一緒だろう」
 呟いた声はあまつ風に掻き消されてしまい、真琴の耳には届かなかった。

 腹の上で手を組み合わせ、真琴は穏やかな気持ちで空を鑑賞していた。と、執拗な視線に気づいて瞳を流す。訝しい色はもう消えているリヴァイににっと微笑んでみせた。
「飽きない?」
「飽きない」
 深い想いが潜んでいそうなひたむきな眼差しは、真琴の胸をとくんと波打たせた。地面に広がっている髪束をリヴァイが掬う。
「変ちきなことを言って俺の気を引こうとしてんのか」
「へんてこなことなんて言ってないし」

 恥ずかしくなって真琴は半身を起こした。追いかけるようにリヴァイも起き上がり、真琴を後ろから包むように腰許付近で片手を突く。そして伏せている顔を覗き込んできた。
「言ってる。故意だとしたら計算高い女だ」
「計算なんてしてない」
「ならばもっと狡い。意味深なことばかり言いやがって、俺はもっとお前を知りたくなるじゃねぇか」

 真琴はリヴァイに上目遣いする。互いの息づかいが掠れるくらいに顔が近い。得てして甘い情調に呑まれていく。
「あなたのほうが狡いわ」
「なぜ?」
「こんな雰囲気にして……、確信犯よ」
 火照っていく頬をリヴァイの手のひらが触れる。
「どんな雰囲気だよ」
 ひどく熱せられた息漏れ声だった。閉じそうな瞼の隙間から煌めく虹彩。物欲しげな二人の視線は、互いの唇を行ったり来たりしている。

 悪くないと真琴は思った。降ってきそうな星空のもと、世界で一番猛々しい男とキスができたなら、こんなに幻想的なことはない。恋人ではないけれど、今宵は唇を許してしまいたくなる。陶酔という名のさざなみに攫われそうだった。
「だめよ、これ以上顔を寄せたら」
「寄せたら……触れちまうな」
 ――甘美な吐息が唇に触れそうになった刹那、頭の奥で警報が鳴り響いてきた。

 リヴァイは時に真琴の胸を焦がす人。けれど気を抜いてはいけないと、心を許してはいけないと、誰かが叫んでいた。誰かとはもう一人の真琴なのかもしれず、縁を作るな、お前は帰れなくなるぞ――と忠告してくるのである。
 警報が鳴っているのはどうやら真琴だけではなさそうだった。唇が触れるか触れないかのところで、悩ましげに眉を寄せているリヴァイもまた、踏み切れずにいるようだった。公私混淆を恐れているのか。

 惑った末、真琴は身内の忠告を呑んだ。瞳を斜め下に逸らすと、現実に引き戻されたようにリヴァイの双眸が微かに揺らいだ。
 リヴァイの指先が目尻を優しく摘まむ。儚い微笑を帯びた口許から弱い掠れ声が落ちた。
「睫毛がついてた」
「……ありがと」
「ああ」
 そうして顔を伏せ気味に、リヴァイは名残惜しそうに緩徐に離れていったのだった。
 睫毛など本当についていたのか。暗闇で捉えられるものとも思えず、リヴァイは自分の行動を取り繕ったのかもしれなかった。

 男と女が一緒にいれば、恋愛感情のいかんに関わらず、とかく開放的になってしまう。夢のような情景が、一瞬だけ甘やかな情動へ惹起させたに過ぎなかったのだろう。

 どうにもそわそわして座り心地が悪い。こびりついている甘い空気を弾き出そうと真琴は立ち上がった。スカートをばたばたとはためかせて、巨人の住処である外側を向き、遠くを見通せるよう両手で双眼鏡みたいにする。
「ねぇ! 地平線は見たことあるのよね?」
 風が耳にうるさいから自然と腹から声が出る。下から返事がきた。
「ああ。壁の外でだが」
「ここからは見える?」
「壁上からじゃ外側の壁が邪魔して無理だ」

 前方に広がる廃墟は、月が出ていても闇にまみれていて何も見えなかった。
 五年前まで壁外を探査していたリヴァイは、どこまで行ったことがあるのだろう。いつかメッセージ・イン・ア・ボトルを海へ流したいと思っていたことを真琴は思い出していた。自分の世界へ帰れる可能性があるとしたら、ヒントは海にあるような気がするのである。

「水平線はどうだった?」
「すいへいせん? 地平線とは違うのか?」
「そういうことに疎い? 男の人だからかしら」髪を押さえつけて片手で横線を引く。「水平線っていうのはね、海でしか見れないの」
「海か。なるほど、マコの空想か」
 年甲斐もないというふうにリヴァイは軽く失笑した。

「空と海面が接してできる平らな線よ。夜明け前の水平線を一度だけ見たことがあるの。日の出が海上に映り込んで幻想的だった」
「そらすげぇな」
 共感してもらえず、真琴はリヴァイからおざなりにあしらわれてしまう。会話に微妙なズレを感じつつも、
「行ってみたいのよね、海へ」
「本当にあるなら、俺も生きてるうちに拝んでみたいもんだ。まずはウォールローゼの奪還が先だが」

 些か落胆してしまい、真琴は気抜けた目顔でリヴァイを見降ろした。
「なんだ、行ったことないの? リヴァイさんに色々聞いてみようと思ってたのに」
「は?」
「あなたは壁の外を、どこまで探査したことがあるの?」
 問いの意味合いを汲み取ろうとするかのような、当惑と怪訝の色を半々に宿らせた眼つきをリヴァイが送ってくる。
「どこまでと言われてもな。一週間近く遠征すりゃ、そこそこ奥まで行ってると思うが」

「意外と遠いのかしら」
 前方に向き直って独りごちた。が、巨人と戦闘をしたり避けたりして遠回りしていただろうから、本人が思っているほど奥まで行っていないのかもしれない――と真琴は思っている。
「リヴァイさんが調査兵団に所属していたのが六年前からでしょう。五年前に壁が崩壊してしまったから、壁の外を探査できたのは一年間だけなのよね?」

「一年にも満たないと思う。お前、何を聞きたいんだ」
「それ以前に所属していた兵士さんは、どうかしら」
「は? どうって何がだ」
 リヴァイはもったいぶっているのだろうか、と真琴は思った。
「だから」と歯痒く笑う。「海がどの辺りにあるのか知りたいの。馬でどれくらいの日数がかかるのか」

 返答をもらえないので、真琴はリヴァイに視線を落とした。難しそうな面差しで彼は改めるように訊いてくる。
「例えばだが……知ってどうする」
「行ってみたいって言ってるじゃない。ちょっと海でやりたいことがあるのよね」
「やりたいこととはなんだ」
 真琴は握った拳を瓶に見立てて、人差し指を押し込む所作をする。
「密封できる瓶にね、手紙を入れるの。それを海に流したいの。海は広いから、どこかの浜辺へ流れ着くかもしれないでしょ」

 闇の密度が濃い夜のせいで、リヴァイの表情がどんどん固くなっていくことに真琴は気づかない。だから気楽な構えで唐突にしゃがみ込み、笑顔を差し向けた。
「ねぇ、あなたって泳げる?」
「人並みにはな」
「私ね」両手を口許に添え、気恥ずかしさの色を含んだ笑い眼で言う。「結構な年までかなづちだったの。でもね、海のおかげで少しはマシになったのよ」
 信じられないものを見るようにリヴァイは直視してきた。
「海のおかげ?」

「不思議よね、海って。海水って体が浮きやすいからコツを掴みやすかったみたい」
「それもお前の空想なのか」
「さっきも空想って言ってたけど、何に対して言ってるの?」
「それとも古い文献で得た――」言いかけて再思したかのように、リヴァイは「いや」とかぶりを振る。

 リヴァイは二の腕をぱしっと掴んできた。やや痛い。
「なぜ浮く」
 急かすように生真面目に訊かれ、真琴は「え?」と首を傾けた。せっつく感じて揺さぶられる。
「なぜ浮くんだ」
「塩分濃度が濃いからでしょ、比重が水より重いからじゃない」

「ほかには」
「ほかにって?」
 リヴァイは矢継ぎ早に物問うてきた。口調が窮迫していた。
「海に関することだ。ほかにお前が知ってることはあるかと聞いてる」
「関することって……」
 勢いに圧せられて真琴は困惑した。上目遣いで見聞を述べていく。
「そうね……、雨や雪が降るのは海の水が蒸発して雲になるせい――とか。あとは、すべての生物は海から生まれた――とかかしら」

 真琴の口からすらすら出てくる海の話は、リヴァイからしたらいずれも知り得ないことばかりなのだろう。偽りか真か、計るような恐ろしいほどの真率な表情で、彼がまじまじと見つめてくるのは致し方ない。そんなリヴァイの表情には気づかず、真琴がのほほんとしているのは夜の闇のせいであったのだが。

 真琴は知らなかった。この国は壁の外に興味を持ってはいけないことを。いくつかの古い書物には外の様子を描いたものが存在するらしいが、それが真実であるかは誰にも分からないのだ。徹底している法のおかげか、壁の外の知識を持っている者はほとんどいないからだ。
 この世界の彼らにとって、海は夢物語であり、存在するかも不確かな、真琴の世界でいうアトランティス大陸やムー大陸といったような伝説に近いのである。

 ――別れ際までのあいだ、リヴァイはとんと口数が少なくなってしまった。おそらく海に関する知識が彼を不審にさせているのかもしれなかったが、すべからく真琴は思い至らず、(変なの)と首を捻り続けたのであった。


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mokuji
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