18.海は夢物語1

 辺りがすっかり暗くなったころ、二人はウォールローゼのカラネス区門前へ来ていた。地上と壁の上とを結ぶリフト前で駐屯兵とリヴァイが交渉している。駐屯兵の男はかなり困った様子である。
 少し離れたところから真琴は二人を見守っていた。何も聞かされずにここまで連れてこられたのでさっぱりだった。
 話が終わったのかリヴァイはこちらへやってきた。そして真琴の手首を強引に引いて、リフトのほうへ再度引き返していく。

「話がついた、行くぞ」
「え? ど、どこへ?」
「壁上だ」
 色気のある隆起した喉仏を動かしてそう言った。駐屯兵がどうして困っていたのか心づいて、真琴は眼を丸くする。
「私はただの市民よ。国の管理下にある壁上に連れていったら拙いんじゃない? 大丈夫なの?」
 真琴は窺うようにリヴァイと駐屯兵の顔色を見比べた。兵士はいまにも泣きそうな顔をしてリフトのゲート前で右往左往している。

「大丈夫じゃないですよ、非常に拙いです」頭を抱えて嘆く。「上官に知れたら謹慎ものだ、最悪除隊かも」
「話なんてついてないじゃない。やめましょう? ひどく困らせてるわ」
 見ていられないほど兵士が気の毒だった。真琴はリフトに乗るのをやめようとリヴァイに働きかける。
「私たちの無理な注文で兵士さんが不幸になったら、取り返しがつかないでしょ」
「頭の固い奴だな、まだうだうだ言ってんのか」
 分からずやと言いたげにリヴァイは駐屯兵に吐き捨てた。

 屋根のないリフトは店員十人ほどで、馬が一頭やっと収まりそうな空間だった。鉄柵のゲートを開閉しようか究極の選択を強要されているような態で兵士は背中を見せる。「うう……」と泣きべその呻きを漏らしていた。
 真琴はリヴァイの袖を引いて非難する。
「あなたまさか脅したりしてないわよね?」
 知らんぷりな感じでリヴァイが斜め下に真琴を見てきた。どうやらぴしゃりと当たったようだ。リヴァイの腕に手を絡ませて後方へ強く引っ張る。

「やっぱりダメよ! 壁上に行きたいとも思わないし、もう帰りましょう」
 リヴァイはびくとも動かなかった。兵士の背中に凄む。
「早く柵を開けろ」
 無理矢理のけて自分でゲートを開けないところがまた狡い、と真琴は思った。無理に乗り込んでレバーを上げさせれば、兵士は逃げ口上を得ることができるのに不憫である。

 そろりそろりと向き直り、兵士は上目した。決断できない彼に、上から見るような眼つきでリヴァイはしれっと言い放つ。
「この方はフェンデル伯爵の令嬢だ。恩を売っとけば、将来出世の足がかりになると思わないか。一生を平で終わりたくはないだろう」
「ちょ、ちょっと何言ってんのよ!」
 真琴は眼を点にして苦情を言う。

 開き直ったのか。責任を押しつけるような弱者の顔つきで、駐屯兵は威勢よくゲートの柵を折り畳んでいく。
「僕に拙いことが起きたら、上が有利に計ってくれるよう擁護してくださいよ」
「べ、弁護しろっていうの? そんなこと」
 大変な役を受けることになってしまい、真琴は打ち消そうとした。リヴァイが背中を押してきてリフトに乗らされる。
 兵士は再びゲートを閉めた。がしゃんと鳴り響いた音にやけくそな感情が表れていた。
「待って待って! 弁護を頼むなら私じゃなくて、この人に」

 リフトの中から柵の外へ手を伸ばすが、兵士はそばにあるレバーを上げてしまった。一度がくんと上下してから、すいすいと上昇していく。
 レバーを引き下げてもらおうと鉄柵から身を迫り出した。兵士の頭頂部が手のひらで隠れるほどの高さまですでに昇っており、足が竦んで真琴は壁側に後退した。

「もう。リヴァイさんのすることってホント」頭を垂れて揺らす。「……信じられないわ。私を巻き込まないでよ」
「久々に意気地のねぇ奴だったな。女に擁護してもらおうなんざ、普通は格好悪くて言わないだろ」
 からかって楽しむような面容でリヴァイは地上を見降ろした。
「彼のことは、あなたが責任を持ってなんとかしてあげてよ。力があるのはおじさまであって、私にはないんだから」
「俺に呆れたか」
「当たり前でしょう」

 エレベーターのように静かではなく、滑車の錆びれた音と、細かな上下の振動が耳と足許に響いてくる。おっかなくて身を小さくしている真琴に、リヴァイは肘を突き出してちょいと揺らしてきた。怖いのならすり寄ってこいと言いたいのか。

「あらかたが冗談だ。あとで上層部に報告するつもりでいる。奴が拙いことになった場合も、しっかり庇ってやるさ」
「性根が捩じれてるわ。困らせないで初めからそう言ってあげればよかったのに」
「色は直ったかよ」悪びれずに片側の頬筋を吊り上げる。「いいものを見せてやろうってんだ、つまんねぇ顔を引っ込めろ」

 真琴は彼の肘に腕を絡ませた。身体の側面をリヴァイの逞しい片腕に接してやっただけで怖さが和らいでいく。
「いいもの?」
「おそらくいいものだ、心が捻くれてなきゃな」

 だいぶ上まできた時、思いついたようにリヴァイは眼を見開かせた。高所のせいで縮み上がり、彼の腹付近に目線を固定してしがみついている真琴の腕を、やにわに解く。次いで真琴の頭を肩口に引き寄せてきた。
 いきなりのことで、水が飛び散るように鼓動が跳ねた。視界を遮る胸の中で動揺している真琴はどもってしまう。

「な、なによ急に」
「言っとくが勘違いするなよ。抱きしめたくなったんじゃない、単なる目隠しだ」 
 そう言われると愉快でない。おおいに勘違いしてしまったからであるが。服に染みついている清涼な香りを間近で吸い込みつつ、真琴はおたふく風邪のようなほっぺたを膨らませた。
「勘違いなんてしてないわよ」

 一瞬表情が強張るぐらいの上下振動を伴ってリフトは壁上へ到着した。国の中心部に背を向ける形でリヴァイに促されながら真琴は降り立った。巨人に支配されている外側は真っ暗闇だ。
 空からのあまつ風が眼に痛くて、庇うように腕を上げて顔を背けた。
「地上は風なんて吹いてなかったのにっ」

 踝まであるスカート部分がかぼちゃのように大きく膨らむ。捲れ上がるのを気にして膝元を押さえつけると、今度は音を立ててはためいた。
「やだ、飛ばされそうっ」
 強い風に押されて、一歩二歩と真琴の足先が前へ進む。竦んでいる肩に回された手の感触が、しかと掴んできた。

「壁の上は風が強い。ひらひらしたもん着てると本当に飛んでっちまうぞ」
「ありがとう」
 風に攫われないようにリヴァイが真琴の隣で支えになってくれた。先刻もそうだったが、彼がいると突風に吹き飛ばされそうな不安も、温もりのおかげで不思議と消える。

「あなたが言ういいものって、どこにあるの?」
 真琴がそう聞いたのは、正面がブラックホールのような闇しか見て取れなかったためだ。
「巨人が住む街を眺望したってつまんねぇが――」リヴァイはゆるりと反転する。「こっちはどうだ」

 狂ったみたいに舞う長い髪を、真琴は片手で押さえつけた。毛先がリヴァイを襲っていることに気が回らないほど、ぽかんと口を開けて正面に食い入る。
 目前に広がる夜景は言葉を忘れてしまうくらいで息を呑ませた。街を一望できる高さからの眺めは真琴の琴線に触れたのだった。

「薄らと半円に見えるだろう。遠くのほうにある、中心が明るい部分が王都とウォールシーナだ」
 リヴァイがそう言う通り、街の明かりが半円を描いていた。夜という黒く塗りつぶされた中で、輝度の大きい煌めきを放っているのが王都。周囲を無数の明かりが隙間なく囲むはシーナの街。ローゼとの境目の壁で、くっきりと半輪が浮かび上がっていた。

「壁の外側へ行くにつれ、徐徐に明かりが減っていくのが分かるか。ここまで来ると半円も朧だろう。それがウォールローゼだ」
 優しい橙色の光が暗闇の中でぽつぽつと散らばっていた。まさに幻想的な光のグラデーションである。
 光の街に捕らわれているとリヴァイは得意げに言った。
「感想はないのか」

 ようやく魂が戻ってきて、真琴は感銘の息をついた。
「……感動すると人間って声を忘れちゃうのね」
「俺は見飽きたから、いまさら何も感じないがな」
 と言いつつも、真琴の様子に満足したのかリヴァイはほくそ笑んでいる。

「素敵だわ。まるで宝石箱をひっくり返したようね。シトリンのブレスレット、ファイアオパールのネックレス、マンダリンガーネットのリング」ふふっと少女のように笑う。「全部オレンジ色だけど」
 かさ高な眼つきでリヴァイは茶々を入れる。
「満悦のようで結構だが、壁上へ行きたいとは思わないと、さきほど俺を止めたのは誰だったか」
「あれは兵士さんが可哀想だったから」
 足下を見られて真琴はあひるのように唇を突き出した。この景色を見れば、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと後悔してしまう。

「で?」とリヴァイは片眉を上げて続きを促す。ひどく偉そうだ。
「来てみてよかったわ。連れてきてくれてありがとう」
 本当の気持ちだけれど言わされた感が強いので拗ねたような口調になった。それで小さく失笑したリヴァイに、ぐっと肩を引き寄せられる。「今度はなあに?」と彼を見ると、夜空に向かって顎をしゃくった。
「見てみろ。こっちにも宝石だ」

 ゆっくりと首を反らして見上げてみた。さらに琴線に触れる景色があって、真琴は息を詰まらせた。
 黒い空に真白に輝く星。数え切れないほどのダイヤモンドのような星々が頭上に広がっていた。しかしながら圧倒的な輝きは迫りくるような錯覚を生み、呑み込まれそうで真琴を物怖じさせた。
「怖い」
 縋りつくようにしてリヴァイの下襟をきゅっと掴んだのは無意識に近かった。胸許の感触に気づいて、リヴァイは視線を夜空から真琴へと落とす。

「どうした」
「分からない。恐怖とは違うんだけど、見上げていると怖いの、宙に浮いているようで」
 下襟を掴んでいる真琴の手を握り、リヴァイはその場に腰を降ろした。引かれるに任せて自然と膝を曲げた真琴は、スカートの後ろ裾を畳んで横座りした。
「立っているから怖いんだろう」
 後頭部で腕を組み、リヴァイは寝転んだ。半身を捩って真琴は彼を見つめる。

「あなたは平気だった?」
「広い空が怖かったら立体機動はできねぇ。マコが感じたのは低所恐怖症だ。地表から高さもあるから、皆目分からないわけでもないが」
 いつもより至極穏やかだと真琴は思った。暗くて表情は分かりづらいけれど雰囲気でそう嗅ぎ取れた。漆黒の髪は暗闇に同化し、スーツも黒だから輪郭がぼやけてしまう。ただ瞳だけが――群青色の瞳だけが星のように瞬いていた。

 ちらりと見てきたリヴァイの流し目に、どきっとしてしまって喉を詰まらせた。いま真琴の顔は赤く染まっているはずだから夜でよかったと思った。
「飽きないか」
 指摘されて真琴は顔を背ける。見つめ過ぎたための彼の発言だったからである。
「大病を患っているような酷い隈が、ちょっと気になっただけよ」
「健康的でもねぇが、不健康でもないと思うが。……そんなに酷いか?」
 眼の下を指でさすってリヴァイは気にする。真琴は睡眠薬のことを思い出し、向き直って眉を寄せた。

「身体が資本の人だもの、病気ってわけじゃないわよね」
「前回の壁外遠征の疲れが、まだ取れてないだけだ」
「外側の疲れは休めば取れるだろうけど、内側はどうなの? しんどくない? 普段からあまり眠れてなそうに見えるから……」

 真琴に止まったリヴァイの視線は、やがて言い難いように逸れていった。なんでもないよう周囲には振る舞っていても、上に立つ者としての自縄自縛の苦しみが隈に表れているのだろう。
 こんなことを調査兵の真琴が聞けば、きっとリヴァイはおかんむりだ。マコだからある程度許してくれ、僅かに隙もできるのかもしれない。そうした歴然とした差を、少し寂しくも思っていた。

 切なくなってきた気持ちを隠して笑う。
「さては、遅くまで身体を鍛えてるんでしょ」リヴァイの腹をつんと指で突く。「すご〜い。人間離れした固さだわ」
 緊張を解いていた腹への刺激はくすぐったいものだったようだ。ダンゴムシとまではいかないが、身を丸めてリヴァイは口許を緩ませた。

「なんなんだよ、お前とじゃれるために連れてきたんじゃないぞ」
 半分起き上がったついでか、リヴァイはジャケットを脱いで隣に敷いた。ほら、と真琴の手を引っ張る。
「俺のように寝転がって空を見てみろ、怖くないはずだ」
 傍らで真琴も寝転んだ。尻が冷たかった地面に背中をつけたが、リヴァイが着用していたジャケットのおかげで温かかった。


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