17.クチナシの想い

 真琴は緩くかぶりを振る。
「私っ」
「言い訳なんざ聞く気はない!」
 リヴァイは取り合ってくれなかった。早い歩調のせいで真琴は踏鞴を踏み続けている。葉巻らしきものや紙クズなど、ゴミがいたるところに落ちている狭い路地を突き進んでいく。子供らの泣き声はもう聞こえなくなっていた。

「ごめんなさい。言い訳なんて言うつもりない。あんな、あんな絶望的に泣かれたら……言葉もないわ」
「地下で哀れみは不要だ。物乞いで生きていけるほど甘くない。自分の手を汚して、盗みでもなんでも死にものぐるいでやっていかねぇと、ここでは生き残れない」
 リヴァイはふいに立ち止まった。悲痛な思いで表情を歪ませている真琴を振り返り、怒気を消した。
「俺もそうやって生きてきた」

「ごめんなさい。私のしたことは、いまここで生きている人たちだけじゃなくて、あなたまでも傷つけたのね」
 絞り出した吐息は震えた。
「親切心のつもりだったけど、自分がただ満足したいだけの偽善だったんだわ。何も知らない、同じ立場にいない私が同情するなんて、おこがましかったのね」
 リヴァイは僅かに顔を逸らした。
「偽善とまでは思っちゃいねぇが」

 犯した過ちに苛まれて瞳を涙の膜が覆ってくる。泣いて許されるのは子供のうちだけだと、真琴は下を向いて耐えた。揺らぐ海面のような視野が、バッグしか持っていない両手を捉える。
(ないっ)
 やにわに瞬きをした拍子に雫が涙袋を伝っていった。嘆願する勢いで真琴は顔を上げる。
「お花を忘れてきちゃったわ! たぶんさっきの所よ!」
 慌てて踵を返そうした真琴の腕をリヴァイが鷲掴んできた。「待て!」はずみのままに顔を巡らせた長い髪が波のように大きくたなびく。

 この期に及んでまだ手前勝手な行動を起こそうとされ、リヴァイは困りきった態であった。
「俺の話を聞いてたのか、お前は! 離れるなと言ったろう! 花なんかどうでもいい!」
「どうでもよくなんかない!」
「俺の母さんとは、お前は縁もゆかりもないだろう! なぜそうまでして干渉してくる!」

 リヴァイの手を払おうとする真琴は泣きたい思いだった。おせっかいだと分かっているが、どうにも心が先を走ってしまうのだ。
「私も分からない! でもきっと、あなたのお母さまだから――、あなたを産んだお母さまだからなのよ!」
 瞠目したリヴァイの手が弛緩した。真琴は背を向け、ワンピースの裾をはだけさせながら、来た道を急いで引き返していった。

 いるだけで伝染病を貰ってしまいそうな吹きだまりに、さきほどの子供たちはもういなかった。不釣り合いに清浄な気を発しているカサブランカの花束が、ぽつねんとしているだけだった。
(よかった、ちゃんとあって)
 愁眉を開いた真琴は、しゃがんで手を伸ばした。指先が花に届く手前で、くたびれた染みだらけの靴が立ち塞がる。仰ぎ見ると、血のように毒々しい口紅を塗った唇を、憎しげに噛んでいる女がいた。

 けばけばしい化粧の女は、派手な顔とは正反対に身形が質素でちぐはぐだった。
「あんたか、うちの息子に大層な菓子をくれてやった女は」
「クッキーや飴のことかしら。ここでのことだったら、確かに私だけど」
 敵意剥き出しの女に真琴は畏縮した。

「余計なことをしてくれたよ。美味い味を覚えちまったうちの子は、もっと欲しいもっと欲しいって、あたしにねだってきた」
 血反吐を吐き出したい感じで言う。
「だけどね、どんなに泣かれたって買ってあげられないんだよ! 一日中男と寝たって、稼ぎは微々たるもんなんだ!」
「ごめんなさい」

 発言から、体を売って生計を立てているらしいことが窺えた。女は怒りを訴えてくる。
「欲しい欲しいってあまりに聞き分けないんでね、怒鳴りつけちまったよ! だってこちとら死ぬ気で働いてんだ! 働いたって買ってあげられないんだ!」
 子供を叱ってしまった自分を、おそらく自己嫌悪しているのだろう。女は事態を招いた真琴を責めずにはいられないのだ。
「ごめんなさい、ここでの勝手向きを知らなかったの。本当にごめんなさい」

「あんた、いい身形をしてるけど、ここらの商会のお嬢様かなんかでしょ。底辺の連中に物を恵んで、小汚い小さな世界で女王様にでもなった気? どう? 気持ちよかった?」
 刺々しい言葉だが真琴は甘受するしかない。ひたすら受けとめて頭を垂れる。
 女の目線がちらりと花束に流れた。皮肉じみた唇になる。
「綺麗な花だね。あんたの?」
「ええ。ここに忘れてきちゃったから取りに戻ってきたの」

「へぇ」真琴の頭を見降ろす眼つきがナイフで刺すような鋭さを帯びた。「不浄な地下で気持ち悪いほどに真っ白だ。こんなもの――」
 女の靴がカサブランカを踏みつけようとしている。真琴は身体を滑り込ませて花束を庇う。
「これはダメ!」

「腹立つくらい華美な匂いを放つ花なんか、地下に持ってきてどういうつもり! 手折ってやんなんきゃ気がすまない! そこをどきな!」
 カサブランカに覆い被さる真琴の背中を女が鷲掴んでくる。真琴は眼を瞑って懇願した。
「これだけはダメなの!」

「金持ち気取りやがって! あたしらがどんなみじめな思いをしてるか、あんたには分からないよ!」
 金切り声の女は濡れ顔になっていた。布製の鞄で真琴をばしりと打ってくる。
「ごめんなさいっ、あなたたちを侮辱するつもりじゃなかったのっ。ごめんなさいっ」
 遅れて駆けつけてきたリヴァイを、鞄を打ち振るう女越しに真琴の横目が捉えた。差し迫った顔つきで向かってくる彼に、来るな、と力強く首を横に振る。これは真琴が受ける正統な罰だった。

 頭や背中を何度はたかれようと真琴はその場から動かなかった。女は見降ろし、ぜいぜいと肩で呼吸をしている。
「あたしの前で二度と顔を見せんじゃないよ。今度見かけたら殺してやる」
 息を切らしてそう言い捨て、女は足速に去っていったのだった。

 真琴は半身を起こしてカサブランカを見降ろした。花は潰れておらず、清浄な輝きを放っていた。
「よかった」
 目許を綻ばせて花束を大事に胸に抱く。
 乱れたウェーブの髪を梳こうともしない真琴をリヴァイが遠目で見ていた。心臓を締めつけられたかのような心情で、彼は顔を歪ませていた。

 会話が弾まないまま二人は暗がりの道をゆく。リヴァイの墓へ向かっているのだろうけれど、実は数分前に墓地らしき所を通り過ぎていた。
 問題行動をした真琴の声は負い目のせいで儚い。

「お母さまのお墓へ行くのよね?」
「ああ」
「お墓なら、さっき通り過ぎちゃったけど」
「ただであの墓地に入れるとでも? 母さんが死んだ時に、墓を買えるだけの金が俺にあったと思うか」

 どうやら墓地ではない場所でリヴァイの母親は眠っているようだ。彼がいくつのときに亡くなったのか、父親はどうしているのか、聞きたいことは山ほどあるが憚られた。
 歩き続けて脚に疲れを感じ始めたころだった。仄暗かった街の隅に、忽然と光の斜線が現れたのである。
 三方を黒っぽい崖に囲まれた十畳ほどの洞穴だった。見上げてみると、途方もない高さの天井を穿った先に、小さな青空が見えた。

「地下街に、こんな汚れのない場所があるだなんて」
 洞穴はこんもりと緩やかな小山になっていた。ふかふかな緑の下生えを踏みしめ、リヴァイは中央で佇む。
 降り注ぐ暖かい天日を独り占めするように真ん中で元気に育つ低木。可憐な白い花を咲かせているのはクチナシだった。
 濃厚な甘い香りを漂わせるクチナシを、彼は寂しげに眼を細めて見降ろした。墓石もない、名前の刻印もない、だけれどもこの下にリヴァイの母親が眠っているのだと、真琴は感じ取ったのだった。

「ここが、お母さまのお墓なのね」
 何も発しないのが答えなのだろう。真琴は低木の前で片膝を突いた。粛々と手を合わせてから、
「お花……、いらなかったわね。こんなにいっぱい可愛らしいお花を咲かせてるんだもの。あなたの言うこと、ちゃんと聞くべきだったわ」

「そうじゃない」ぽつんぽつんとリヴァイが暗く零していく。「花を咲かせてるからじゃない。花をやる価値などないからだ」
 花の中心にある黄色い花粉のおしべを、遠い思いで見つめながら真琴は静かに聞き返した。
「どうして?」

「マコにはあるんだろう、母親との楽しい思い出が」リヴァイは小さく息をつく。「俺にはない。記憶にあるのは、毎日腹を空かせてたことと、暗い部屋で、一人母さんが帰ってくるのを待ってたことぐらいだ」
「お父さんは?」
 リヴァイは吐き捨てるように鼻で笑った。
「さあ? どこの馬の骨とも分からない野郎だろう。母さんは娼婦だった。クズみてぇな客を相手して、俺を孕んじまったんだろうな」

 地下街出身だと知ったときから、まともな暮らしはしていないだろうことは察していた。が、あまりにも真琴の予想とかけ離れていた。
「それで、お母さまはあなたが何歳のときに亡くなったの?」
「五歳だ。客から悪い病気を貰って、最後は痩せ細って死んだ」

「そう」と、睫毛を震わせて受け答えた真琴の発語は吐息のようになってしまった。触れたら怪我をしてしまいそうな、鋭くふぞろいな風穴から望める空に薄雲が張る。すっと温度が下がるとともに周囲が翳った。

 墓の前だというのにリヴァイは口端を吊ってせせら笑う。
「馬鹿な女だ。もともと極貧だったが、俺を産まなけりゃ少しはマシだったろう。誰が父親かも分かんねぇってのに、なんで産んだんだか」
「愛されてなかったと思ってるの」
「火を見るより明らかだ。ちいせぇガキを一人置いて、朝から晩まで店で豚の相手をして、やっと帰ってきたかと思えば、泥のように寝ちまう。親らしいことをしてもらったことはない。おそらくこいつは、産まなきゃよかったと思ってたろうさ」

 墓という名のクチナシを、真琴は痛切な思いで見つめながら斜め後ろで佇むリヴァイに言う。
「朝から晩まで働き詰めだったんでしょう。二人が生き延びるために必死だったのよ。愛してないからじゃない」
「いい子なお前はそう言うだろうと思ってたさ。結局恵まれてるお前には分からない」
 そう吐き捨てたリヴァイは苦しげに眼を伏せていた。

「そうね。生きてきた環境が違うから、全部は分かってあげられない。でもあなたと違うのは、私はお母さまと同じ女だってこと」
「産んだ気持ちが分かるってのかよ」
 澄んだ気流で揺れる厚手な花弁に、真琴は切なく笑んでみせた。
「それも半々かしら、母親になったことがないから」下腹に手を添える。「でも、小さな命を宿ったとき、愛おしく思ったんじゃないかしら。自分の分身に、会いたいって思ったんじゃないかしら」

「どうでもいいような男が父親でもか」
「ええ。父親が誰とかはきっと関係ないの。お腹の中で命を育てていくのは女だもの。お腹を痛めて産むのだって女だもの」
 痛ましい表情のリヴァイを振り仰いで、真琴は物悲しく微笑みかけた。
「半々だから。あなたのお母さまが、どんな思いであなたを産んだのかは、やっぱりお母さまに聞かないと分からない」

 リヴァイの手をそっと包む。剣を持って闘う勇ましい指は、拳ではなくて元気なくたゆんでいた。
「あなたは、お母さまのことをよく思っていなさそうに言うのね」
「当然だ。汚らわしい娼婦、病気を貰って死ぬようなクズ。不潔でたまらねぇ、嫌悪すら感じる」
 真琴は優しく言い切る。「嘘」
 リヴァイの揺れる瞳に困惑の色が差して、天井は薄雲が流れ出した。

「ここに連れてきてくれたときにね、一番に思ったの。ああ、素敵な場所だなって」
「金がなかったからと言ったろう」

「それは取ってつけた理由よね。清々しくて、空も見えて、暖かい陽の当たる場所で安らかに眠れるなんて、お母さま幸せだわ」
 真琴はゆっくりと立ち上がった。爽やかな風で二人の髪束がそよぐのは、地下街で唯一ここだけなのだろう。
「そういう場所をあなたが選んだの。この場所が、何よりもあなたの胸の内を教えてくれる」
「馬鹿か、そんな綺麗な理由じゃない」
 リヴァイが当惑の顔を逸らした。

 薄雲が風穴の縁に消えゆき、眩いほどの光のすじが、緑の小山へと無数に注ぎ込まれていく。純な輝きは翳りを飛ばす。英雄と誉め称えられる重圧を物語る、ただでは癒えないリヴァイの黒い隈も、いまなら薄らいで見えるような気がした。せめてこの地では調査兵団の誉れではなく、ただの人であり子であってほしい――と願う真琴の溢れる想いが、そう見せているのかもしれないけれど。

「親の愛は無償ってしばしば言うでしょ? でもあれって私はちょっと違うなって思うの。本当は子の愛が無償なのよ。子供から親に捧げる愛は純真無垢なの。命日の時期に咲くクチナシの花のように、真白なのよ」
 唾を飲みにくそうに眉を下げ、リヴァイは真琴の下瞼をそと触れた。

「さっきから、なんでお前は泣くんだ」
 ほろりほろりと涙を流しながら真琴は破顔した。
「分からない、なんでかしら。いまとても胸が温かいの。だからかしら」
 彼は母親を強く求めているのだと思う。表面だけでなんて言おうとも、深層心理では母親を愛しているのだ。真琴には嬉しかった。油絵が完成していくように、リヴァイという人を少しずつ知り得ていくことが、心をほんわかさせてくれるのであった。

 温もりに満たされた手のひらが頬を覆い、リヴァイの親指が眼の下を拭ってくれる。憂いを湛えた表情を歪ませていた。
「美化した憶測で無駄に泣くなよ」
「そう思いたいならそう思ってたら?」
 首を傾けて潸然と微笑すると、生意気だと言いたげにリヴァイは舌打ちをしてみせた。そして真琴が胸に抱いているカサブランカを引っ手繰る。

 クチナシの木の正面で膝を突き、リヴァイは花束を根元に供えた。
「毎年同じ花で飽きてきたろう。よかったな、母さん」
 リヴァイの丸い背中がそう言った。後ろで控えている真琴には、彼がどんな表情をしていたのか見ることはできなかった。けれど面差しが網膜に映ったのは、言葉の物柔らかさから、吹っ切れたように微笑んでいるのだろうと、一存で思ったからだった。

 ――母を慕う無垢な想いはカサブランカのごとく、子に慕われ永眠する幸せはクチナシのごとく、しかしながら一生散ることはない想いなのである。


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mokuji
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