12.暗い暗い闇の中

 暗い暗い闇の中。
 ただひとり真琴は歩き続ける。
 暗闇に不安が募り、明るいところはないかと探し走り出す。
 前方に深紅の光が見えた。
 やった! 出口だ! 真琴は笑顔になってその深紅を目指し走る。
 深紅は真琴が走らずとも迫ってきた。
 毒々しい深紅に不安にかられ立ち止まった。
 足元がぬかるむ。
 なんだろうと眼を下げて悲鳴を上げた。

 ――いや!
 深紅は血の海だった。
 どろどろの、生暖かい血に足を掬われて尻餅をついた。
 ついたところから、自分の体が沈んでいく。底なし沼のように深く深く沈んでいく。
 脂の混ざった、ぬめりのある鉄臭いそれが、真琴の体に纏わりつく。
 口内に流れ込む血潮は生臭く鉄の味がした。

 ――いやだ! 血の味なんて知りたくない!
 次の瞬間、真琴の体を掴むものがあった。
 それは血の海から自分を掬い上げてくれた。
 助かった! そう思って眼を開いた。
 悲鳴を上げる間もなかった。
 とてつもない巨大な口に喉彦を見た。
 桃色の粘膜の口内に、真琴の半身が押し込まれる。
 ――いやだ! 死にたくない!
 巨大な口がゆっくりと閉じていく。巨岩のような歯が真琴の背に突き刺さる。

 ――嫌ぁ――っ!!

 真琴は飛び起きた。
 こめかみを汗が伝う。寝間着は全身びっしょりに濡れていた。汗にまみれて自分の身体から、もわっと生暖かい湿気に花の香りが混じる。
 心臓が激しく脈を打っていた。掛け布団を握る手が震えている。
「……またか」
 諦めたように、ぽつりと呟く。
 遠征明けから毎日この夢に魘されていた。そうして、このあと決まって訪れること――

「っ!」
 真琴は口を押さえてベッドから飛び降り、トイレの扉を開け放った。
 夢のあとは必ず吐き気に襲われる。知りもしない血の味が口内に纏わりついていた。
 吐く物なんて、もう胃には何もないのに、これ以上真琴から何を搾り取ろうというのだろう。
 喉が痛い。苦しい。
 闇の室内で、ただひとり嘔吐に苦しむ真琴は惨めだった。
 ふらつきながらトイレから出て、サイドテーブルに置いてある水差しを手に取ってコップに注ぐ。口の中をしつこいほど濯いだはずなのに、水はなんだか不味かったが、しかしようやく息をついた。

 控えめに扉のノックをする音がした。
 真琴はそちらに目線をやり自室の扉を見つめる。
「俺だ」
 声の主に訝しむ。
 窓を見やれば、外はまだどっぷりと暗く朝まではまだ遠い。
「開けろ。起きてんだろ」
 夜の静寂を、掠れた声が空気を揺らした。
 こんな状態で顔を合わせたくはない。夜中なのだし、返答しなければ寝ているものと思ってくれるだろう。
 何の用で夜更けに真琴の部屋を訪ねに来たかは知らないが、用件なら朝起きたら訊けばいい。
 黙り込んで無視を決め込んだ。去ってくれるのを待って、真琴は密かに佇む。

 突然大きく軋む音が室内に響き渡った。扉を誰かが蹴っている。
「開けろ!! ぶち破るぞ!!」
 本気で扉を壊そうとしているのが、その蹴る凄まじさで感じる。
 真琴が起きているのがリヴァイには分かっているのだろうか。
 やめてくれ! と耳を塞いでしゃがみ込んだ。胸が張り裂けそうなほど辛くて苦しいのに、なぜこの男は乱暴なことをするのだろう。

 だが男は真琴が出て来るまで蹴るのを止めそうになかった。
 のろのろと立ち上がり、サイドテーブルに置いてあるかつらを掴んで被る。そうして見下ろして、さらしはどうしようと、こんな状況下で冷静な自分がいることに嘲笑した。
 厚手のガウンを羽織れば誤魔化せるだろうと、チェストから引っ張りだした。
 真琴が人前に出る準備をしている間にも、扉は激しく蹴られていた。
 ドアノブを握って、扉の外の人物に控えめに声をかける。

「開けますから……。蹴るのをやめて下さい」
 いきなり扉を開けたのでは、腹に向かって蹴りが飛んでくる、そう思った。
 蹴る音がやんだのを確認して、真琴は僅かに扉を開けた。
 隙間から覗くようにして件の男に問う。
「こんな真夜中に、一体なんの――」
 なんの用ですか、言おうとして噤む。
 リヴァイがするりと部屋に入って来ようとしたから急いで扉を閉めなおす。
 しかし扉は最後まで閉まらなかった。足許を確認するとリヴァイの足が挟んであった。
 いい加減にしてほしい。なんだというのだろう。用件なら廊下でお願いしたい。

「ちょっと! やめて、下さい!」
 囁き声で小さく叫ぶ。
 背中を扉にあてて押し戻すが、力任せに侵入しようとする男には叶わなかった。勢いよく開け放たれた扉に押されて、真琴は前へ数歩つんのめった。
 リヴァイは扉を閉めると遠慮なく室内に入って来た。
 真琴は俯き加減で振り返る。
「なんなんですか……」
 出た声は泣きそうなほど揺れていた。
「何をしていた」
 目の前の男は洗面所の開け放たれた扉に向かって詰問して、そしてちらりと真琴に視線を投げた。
「寝て……たんですよ。扉の蹴る音で目が覚めたんです」
「洗面所の戸が開けっ放しなのは何でだ」
 真琴は思わず眼が泳ぐ。蹴る音で目が覚めたのは嘘、夢に魘されてしばらく前から起きていたのだから。
 重い口を開ける。

「――さっき、トイレで目が覚めて……」
「扉の蹴る音で目が覚めたんじゃねぇのか」
 真琴は言葉に詰まる。もっとよい言い訳はなかったものかと唇を噛んだ。
「洗面所で何をしていた」
「トイレですよ。ほかになにかあります!?」
 淡々と問いつめるリヴァイが面倒臭くて、真琴は投げやりに返した。
 トイレで何をしていた、そんなことが訊きたくてわざわざ訪ねたのか、人の部屋の扉を壊れそうなほど蹴って。
 両手に腰をあてたリヴァイは呆れたように首を横に振った。
 明かりもない暗い室内でふたりきり。あるのは月明かりのみ。絹のような雲に黄橙色が淡く染める、今夜は月涼しだ。

「みんな寝てるのに、あんな騒音、良くないですよ……」
「毎晩遅くに悲鳴が聞こえりゃ、どっちが迷惑か一目瞭然だろうが」
「――悲鳴?」

 誰の? と思ってリヴァイがまっすぐ真琴を見ているから、きっと自分のことを言っているのだと思った。
 真琴は悲鳴をあげていた、それは夢の中の出来事と思っていた。毎晩目が覚めるのは、夢で巨人に食われる瞬間の絶叫であった。
 ともすれば夢の中の絶叫ではなく現実に発していたのか。
 そういえば、と真琴は自分の喉元を触れる。目覚めたあとは、いつも喉がひりひりと痛かった。あれは叫んだせいだったとでもいうのだろうか。

「悲鳴って、……どんな?」
 リヴァイの瞳をじっと見つめて、真琴は恐る恐る訊ねた。
 無意識な叫び声は女の声であったかもしれない。リヴァイは毎晩だと言った。だとしたら彼は知ったのだろうか、真琴が女だということを。
 リヴァイは唇を薄く開けたまま、無表情な眼つきを真琴に向けている。
 血潮が騒ぎだす。引いた汗が吹き出して、頭皮がひんやりする感触。
「兵舎内で最近、噂がある」
 唐突に何の話だろうと訝しんでリヴァイを見返す。
「幽霊の噂だ。上官部屋の廊下で毎夜毎夜、そいつは現れるらしい」
「ふざけてるんですか……」
 幽霊の話なんて興味がない。真琴が知りたいのは悲鳴のことだ。
 まぁ、訊け。とリヴァイは続ける。
「野太い声が廊下中に響き渡るらしい。男の幽霊だそうだ」
 そう言ってリヴァイは真琴に向かって顎をしゃくる。
「お前だろ」

 肩の力が抜けた気がした。女の声ではなかったのだ。野太い、というのが女として微妙だけれど怪我の功名だった。
「なんだ……。良かった……」
 ぽつりと真琴は呟いた。リヴァイが視線を落とす。 
「で、悲鳴の件だが――」

 リヴァイが言い終わるよりも早く、真琴は頭を抱えて足許に踞った。身内から滲み出る恐怖に震えだす。
「どうした」
 言ってリヴァイも膝を突いた。
 振動が足許から頭まで伝わる。室内の家具が小刻みに揺れて軋みだす。サイドテーブルに置いてある水差しの中身が、踊るように前後左右に揺さぶられて透明な水を天板に飛び散らかしていた。
 リヴァイが天井を振り仰ぐ。
「地震か。たいしたことねぇが、最近やたら多いな」
 おい、とリヴァイの手が真琴の肩を軽く叩く。
「地震が怖ぇとは、どこまでガキなん――」
 はっとしたようにリヴァイが言葉を噤んだ。
 いやだ、気づかないでほしい、知られたくない、と真琴は思った。

「……振動、か?」
 小さく呟いたリヴァイに、真琴は肩をびくつかせて露骨に反応してしまった。
 真琴は振動が怖かった。地震ではなく、地響きを轟かせながら足許に伝わる振動を恐れている。どしん、どしん、と巨人がやって来た、そう錯覚してしまうようになっていた。
「――クソがっ」
 片手でこめかみを覆うようにして、首を緩く振るとリヴァイは深く息をつく。

「ほかには。あるだろ? すべて言え」
 真琴は膝を抱いて顔を伏せる。
「夢が……。血の海で、血の味と、巨人に食われて、それで」
「悲鳴の原因は夢か」
 こくりと肯く。
「そのあと、必ず吐く」
 なるほどな。リヴァイは洗面所の開け放たれた戸を見やって肯いた。
「肉が、食べれない。スープのダシの匂いも駄目」
「飯は全く食えねぇのか」
 真琴はふるふると首を横に振った。
「パンとか、甘い物なら、大丈夫」
「そうか。それで全部か?」
「――影がっ」
 ん? とリヴァイが訊いた。
「背後から迫る影がっ、怖い……。人の影がまるで、巨人のようでっ」
「それでか……」
 リヴァイは納得したかのように肯いた。

 夕刻、背後から真琴の元にやってきたリヴァイに脅かされた。その大きく伸びる影を巨人と見紛ったからだった。
「なぜもっと早く相談しない」
 真琴は黙り込む。
 知られたくなかった。大丈夫? と心配されると惨めになった。弱い人間だと思われたくなかった。いや、違う。自分自身が認めたくなかったのだ、精神を病んでいるなどと。
「専属医だっている。奴らも、そっち方面には詳しい」
 それはできない。医者の前に出たら骨格で女だと知られてしまうかもしれない。けれどこのままだとリヴァイに突き出されるかもしれない、医者の前へ。
 真琴は苦し紛れに嘯く。

「せ、背中に、大きな傷があって、見られるのは嫌だし、相手にも気分を悪くさせると思うので、医者はいいです」
「あ? 悠長なこと言ってる場合か」
 第一、背中に傷なんてねぇだろう。とリヴァイは独りごちた。
「え?」
 真琴は伏せていた顔を上げる。腕に眼が圧迫されていたので、なんだかちかちかする。
 いや……。とリヴァイは真琴から視線を外す。
「夜は……。その分じゃ碌に睡眠とれてねぇか」
 真琴は肯いた。
 完全な不眠症ではないが、眠りは浅く悪夢に魘されるので寝た気がしない。おかげで身体の疲労が取れず毎日辛かった。
 リヴァイはおもむろに立ち上がった。
「待ってろ。すぐに戻る」
 リヴァイはそう言うと、足音を立てずに真琴の部屋を出ていった。

 ――結局、全部訊き出されちゃったな。
 真琴は再び顔を伏せて、そうして溜息をついた。
 少しだけ、いや、だいぶ真琴の心が救われた気がする。頑なに話すことを拒否していたが、やはり誰かに相談するというのは大事なことなのかもしれない、と思った。
 けれど相手は誰でもいいわけではない。きっと、リヴァイだから話せた。
 さほど時間もかからずにリヴァイは戻ってきた。

 部屋の隅に座り込んだままの真琴に、リヴァイは膝を突くと手を差し出してきた。
 手のひらには五センチ四方大の透明な袋があった。白いラムネ大の粒が数個、袋の中に入っていた。
 これはなに? と真琴はリヴァイに眼で問う。
「睡眠薬だ」
 真琴の腕を引いて、手のひらを出させてリヴァイは袋を握らせた。
「弱い薬だから癖にはならねぇだろう。初めて飲むのなら良く効くはずだ」
 手のひらに乗るビニールの感触は、当たり前だが重みなどなくて軽かった。
「持ち合わせがいまはこれしかないが、足りなくなったら言え」

 真琴は錠剤を凝視した。
 睡眠薬、なぜこんなものをリヴァイが持っているのだろう。医務室から貰ってきたのではない、いまは時間外なので鍵がかかっており入れないはずだ。
 それに真琴の部屋を出て戻ってくるまで、数分もかからなかった、であるならばリヴァイの部屋に薬はあったということだ。持ち合わせがない、という彼の言葉を合わせれば部屋にあったとしか思えない。
 普通の人なら、睡眠薬なんて縁がない物だ。真琴だって飲んだことはないのだから。

「これ、どうしたんですか?」
 疑うような眼つきを向ける真琴に、リヴァイは無表情で答える。
「勘違いするな。俺のじゃない。こういうときのために常備しているだけだ」
 そう言うとリヴァイは真琴から視線を外した。
 嘘だ。
 直感だった。人にあげるために持っていたんじゃない。自分が使うために持っているんだ。
 ショックだった。化け物にも屈しない、不屈の精神の持ち主だと思っていた。でもそうじゃなかった。リヴァイも、薬に頼らないと壊れしまう、そんな人だったのだ。

 リヴァイは立ち上がり、サイドテーブルにある水差しでコップに注ぐ。
「悪かった。俺のせいだ」
「……何がです?」
「お前に心的外傷を作った」
 そう言ってリヴァイは真琴にコップを差し出す。
 真琴はそれを受け取らずにリヴァイを睨む。

「怒りますよ。前回の続きですか? また精鋭班に入れたことを後悔とか、そういう話ですか」
「違げぇよ。第一、後悔しているなどと誰が言った。俺は後悔などしていない」
 溜息をついて、リヴァイは真琴と目線を合わせる。
「俺の選択は間違ってなどいない。お前は生きて帰って来れた、そうだろ」
「……死ぬところだった。もっと早く駆けつけて来てほしかった! そうしたらベリーは死ななかった!」
 言ってとても後悔した。リヴァイの顔が、悲痛に歪んでいた。
「……ごめん、なさい」
 真琴は抱えている膝を引き寄せて、顔を埋めて泣いた。

 ――最低だ!
 リヴァイは悪くない。真琴が巨人に打ち勝つだけの力がなかった、ただそれだけのこと。
 自分の罪を人のせいにするだなんて、最低だった。
 もう嫌だ! こんな人間じゃなかったはずなのに……。
「……悪かった」
 謝らないで!
 嗚咽が洩れる。肩が震える。
「なんで泣く」
 頭に温もりを感じる。リヴァイが真琴の頭に手を添えていると分かった。

「俺を責めることでお前が楽になるのなら、全部俺が担いでやる」
 そんなことできない、できるわけない、あなたが潰れちゃう。
 真琴は顔を埋めながら、そうして首を横に振る。
「いいじゃねぇか。恨んでいるんだろ、俺を。ならば打ってつけだ」
「恨んでない」
 真琴はようやく顔を上げた。閉じていた眼を開けると泣き過ぎたのか、熱を持っていた。
 リヴァイは僅かに瞳を瞬かせると、口許を和らげた。
「ひでぇ面だ。朝、後悔するぞ」
「後悔しそうなほど、酷いですか」
 つられて口許を和らげて、真琴は手で涙を拭った。

「ひっ」
 また地震だった。思わず目の前のリヴァイにしがみつく。
「おいっ」
 胸に飛び込むようにしがみついてきた真琴のせいで、膝を突いていたリヴァイは反動で尻をついた。そして手に持っていたコップを気にする。はずみで水が跳ねるように散った。
 掴んだリヴァイのシャツ、触れる身体、暖かさがじんわりと伝わってくる。まだ空間は軋みをあげているのに、不思議と震えが収まってくる感覚を真琴は覚えていた。
「収まったようだ」
 リヴァイが真琴の背中に軽く手を添えてくれた。

 離れがたいと思った。安心をくれる逞しい胸板を手放したくないと真琴は思った。
 初夏用の薄手な綿の風合いのシャツを、両手で強く握ってその首許に顔を埋めた。洗い立てのシャボンな香りがした。
 憮然として溜息をついたリヴァイは、真琴の背に片腕を回して強く引き寄せてきた。
 一瞬どきりと胸がはねた。けれどそれは真琴が警戒する行為ではなくて、強く真琴を引き寄せながら、リヴァイは座った姿勢のまま後退りして壁の隅に寄りかかった。

 リヴァイは真琴をしがみつかせたまま背に回した腕を離す。行き場のない手は床に手をつくことで収まった。
「仕方ねぇ。しばらく胸を貸してやる。借りができたな、でけぇぞ」
「一日で返せますか」
「ふざけんな。年単位だ」
 小さい男、そう思いながら真琴は微笑む。だけどそんなことはない、リヴァイの胸は広く大きかった。
「気分転換に街にでも行って来たらどうだ。休暇をやってもいい」
「ひとりで出かけても、……つまんないですから」
「ペトラを誘えばいい。お前のこと、心配してたぞ」
「……遊びに誘えるような仲ではないので」

 真琴は自分で言って情けなくなった。気が置けない友人はひとりもいないと改めて思い知らされた。
 リヴァイは唖然といった調子で息をつく。彼の胸部が上下する感触があった。
「寂しいヤツだ、友人もいないとは。哀れで泣けてくる」
 他人に言われて真琴は更に傷ついた。とても恥ずかしいことのように思える。
「……そういう兵士長は友達いるんですか」
 ぐっと詰まる喉の音が聞こえたかと思うと、リヴァイは語を継ぐ。
「さほど変わらないらしい」
 仕方ねぇな……。舌打ちをしてリヴァイは小さく呟いた。
「え?」
 何が仕方ないのか分からず真琴は訊いた。
「なんでもねぇよ。こっちの話だ」
「……そうですか」
 腑に落ちないながらも、真琴は曖昧に返した。

 背中が淋しい、そんなことを思っていた。
 リヴァイは片膝を立てたそれに腕をのせて、もう片方の腕は床へと垂れている、その狭間に真琴が身体を預けていた。
 思えば寛大な人だ。男と信じて疑わない相手に胸を貸しているのだから。それだけでも有り難いのに、この上抱きしめろだなんておこがましかった。
 開け放しの窓から初夏の風が通る。外からは虫のさざめきが聴こえる、鈴のような音と、少し耳をつんざくような音が混じって、それは虫達が奏でる調べのようだった。
 重なり合うところが少し熱い。それは気候のせいなのか、身内から発する熱のせいなのか分からなかった。

 夜の虫達はその姿を潜め、空は薄青に橙の光をまとって、小鳥達が目を覚ます。
 小鳥の囀りに真琴は覚醒する、けれど瞳は瞑ったままで、まだ寝ていたい身体を甘やかした。
 ――久しぶりに、ぐっすり眠れた。
 夢も見なかった。深い深い睡眠だった。身体がリセットされたような、そんな気分だった。
 自分の手が、軽く何かを握っている、それは馴染みのあるシーツの感触ではなかった。それと胸に伝わる血潮の巡り、自分のものではない誰かの鼓動。
 ――……だれ?

 薄く瞳を開ける。顔に差さる朝日の眩しさに些か眼をしばたかせた。
 頭を少し垂れて、眼を伏せているリヴァイの姿がそこにはあった。
 真琴はリヴァイの肩に、頭を凭れるようにして眠り込んでいたらしい。
 たいして驚かなかった。まるでそれが当たり前であるかのような、そんな自然な感覚。もっと胸がどきどきして戸惑うかと思ったけれど、そうでもなかった。

 ――あのまま眠ってしまったんだ。
 しばらく胸を貸してやる、そう言ったリヴァイは、真琴につられて眠ってしまったのだろう。きっと起きたら顔を顰める、真琴はまだぼぅとする頭でそう思った。
 太陽が少し昇って差し込む光の角度が変わり、リヴァイの目許を照らす。
 リヴァイの瞼が僅かに痙攣した。
 ――あっ。起きちゃう……。
 もう少し寝ていて、真琴はそう思う。穏やかな寝顔をまだ眺めていたい。起きたらその瞬間から険しい毎日が待ち受けているのだから。

 薄く開けた瞳をもう一度閉じて、少しぎゅっと瞑ったあと、そうしてリヴァイはゆっくりと瞼を上げる。
 くぐもった音を喉から出して、リヴァイは両目の窪みを片手で押す仕草をした。自分の右肩に重みを感じたリヴァイがその正体を横目で確認する。そして憮然たる面持ちで真琴を眺入ると力なく項垂れた。
「寝てたのか、俺は……」
「……多分」
 リヴァイは頭ごと体重を預けるようにして壁に寄りかかった。寝起きの掠れ声が言う。

「お前は、……良く寝てたようだ。薬など、いらないんじゃないのか」
「ひとりじゃ、なかったから……」
 眼を丸くしたリヴァイは、間髪いれず真琴を押しのけると立ち上がる。そうして嫌そうな顔をした。
「野郎と一晩過ごす羽目になるとはな」
 次いで真琴も立ち上がろうとして、全身に凝ったような違和感を感じた。長時間不自然な格好で寝た身体は、筋肉という筋肉が強張っていた。
 いたた、と老人のように腰を曲げて後ろ手に背中を叩く。
 ちらりとリヴァイを見やれば、不格好ではないにしろ彼も身体が強張ってしまったらしく腰を捻っていた。
「ったく。凝って仕方ねぇ。てめぇのせいだぞ」
「すみませんでした……」
 恨めしい眼つきを寄越すリヴァイに、真琴は困ったように微笑った。


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