11.風の音がする

 風の音がする。
 ざわざわと葉が踊る。
 木々の枝がゆらゆらと揺れて、樹木と樹木の狭間からのっそりと現れる。
 それはにやりと嗤って、こちらを振り返った――

「ひっ」
 悲鳴を上げそうな口を両手で押さえた。
 膝が小刻みに震える。 
 眼はこれでもかというほどに見開きながら、それを凝視した。そうして安堵したように息をついた。
 ――大丈夫……。あれは違う、大丈夫だから……。
 真琴が見たものは、巨人を模した仕掛けであった。
 正体が分かって波打つ血潮が収まっていくと、今度はひやりとした汗が脇を濡らした。
 ふぅと息をついて真琴は自分の足許をみる。影が大分伸びていた。
 気づけば小さな森の辺り一面が黄丹(おうに)色に染まっていた。

 なんとなく影を見つめる。
 ふと真琴の足から伸びる影に黒く被さるものがあった。それは影の足を覆い、腰元を覆い、縦にどんどん伸びていく。
 象られていく形状に真琴は眼を見開く。
 真琴は咄嗟に後ろを振り返る。

「……どうした?」
 無表情な顔に少しだけ眼を丸くしたリヴァイがそこにいた。
「あ、いや。音もなく現れるものだから、吃驚しただけです」
 収まった血潮が暴れだすのを止めるように胸を手で押さえた。
 真琴が真っ青な表情をしているからだろうか、リヴァイは怪訝な色をその顔に浮かべる。
「訓練中だぞ。このごろ全く集中できてねぇが」
「……すみません」

 刃をしまい、リヴァイは腰に両手をあてて振り仰ぐ。
 つられて真琴も見上げると、木々の合間から四個の影が、追い越し追い越されながらこちらへやってくるところだった。それらは木の枝から華麗に真琴のいるもとに着地した。
「真琴、課題終わらなかったの?」
「最近たるんでるぞ!」
 ペトラが心配そうに訊けば、オルオは露骨に渋い顔をして真琴を批判した。
 真琴は口許を引き攣らせながら曖昧に微笑った。
「体調が悪いんじゃないのか? ……最近、痩せたか?」
 肩に手を添え、真琴の顔を覗き込みながらエルドが懸念した。

 真琴は少し痩せた。その理由は分かっている。
 べつに太ってはいないが、女は体型を気にするもの。
 たいして役に立たないダイエット本を買いあさり、流行のエクササイズなどに手をだしたことがあった。結果はまったく体重には表れず、本棚を占領するダイエット本は、いまや廊下の踊り場に乱雑に山積みされている。
 ここへ流れ着いて念願叶って体重が減ったというのに、ちっとも嬉しくなかった。

 真琴はただ誤魔化すように、強張る口許を無理矢理伸ばして笑顔を作る。
「やだな、そんな顔しないで下さい。連日の訓練で疲れが溜まっているだけですから」
「ったく! やる気のねぇやつがいると、士気が下がるぜ!」
「オルオ! そういう言い方しないで!」
 容赦なく真琴に放言するオルオの脛を、ペトラが蹴った。
 痛ってぇ!! 蹴られた脛を両手で抱えながらオルオはウサギのようにその場で跳ねる。

 真琴はペトラに感謝した。
 平常時なら何ら気にしないが、いまの真琴には受け止めきれない。オルオの言葉に挫けそうになる。
「兵長。本日の訓練はここまでですよね?」
 ペトラに問われるとリヴァイは空を見上げた。
 黄丹は先程よりも濃くなって雲に茜色がかかっている。その隅にはうっすらと紫色が覆い被さる。まだ黄色くない月が姿をみせていた。
「ああ。解散だ」
 リヴァイのひと声で、肩の力を抜くようにそれぞれが背伸びしたり首を鳴らしたりした。刀身を収納する箱をかたかたと鳴らしながら班員は兵舎の方角へ向かい歩いていく。
 自分に向けられる視線がなくなると、真琴はほっとして肩を落とした。あとに続いてとぼとぼと兵舎へ向かう。

「兵長」
 小声で話しかける部下にリヴァイは視線をやる。
「彼、確か中途で入団したんですよね?」
「ああ」
 返しながら、小さくなっていく部下の姿を追うようにリヴァイはゆっくりと歩き出す。
 ペトラもリヴァイの隣に並んで歩調を合わせながら、前方を歩く真琴を見る。
「直接指導をしたのは、兵長だと聞きました」
「ああ」
「……精神訓練は受けたんですよね? 彼」
 ペトラは眉を寄せて心配そうにリヴァイに上目遣いした。

 ただ前方だけを見ているリヴァイの眼が少し伏せる。
「――いいや」
「そんなっ」
 ペトラが非難の声を上げた。リヴァイは眼を伏せたままただ歩き続ける。腰にぶら下がる収納箱が揺れて腿にあたった。
「屈強な男でも精神訓練を受けなければ、戦場では平常心を保てず病(や)むのにどうしてですかっ?」
「時間がなかった。自分の身を守るため、必要最低限のことだけをさせた」
 ペトラの美しい顔が険しくなり、奥歯を噛み締めながら上官を責める。
「精神訓練は不必要と? それこそ必要最低限ですっ!」
「仕方ねぇだろっ。そんな余裕はなかったっ」

 舌打ちをしたリヴァイにきつめに言い捨てられ、ペトラはばつが悪くなる。隣にいる男は本来こんな言い方をしてよい相手ではないのだ。
「――彼、最近様子がおかしいの、気づいてますか……?」
 リヴァイは憂うように息をついた。
「……隣部屋だからな」

 食堂に充満する、食欲をそそる匂い。一日の訓練を終えた最後の夕食は兵士たちの顔を綻ばせる。
 真琴にはその匂いが辛かった。我慢するように何度も唾を飲む。
 厨房からお盆を受け取ったオルオは嬉しそうに声をあげる。
「うひょー! すげぇな。肉てんこ盛りだ!」
「なんでも、ある貴族からの差し入れらしいぞ。この間の遠征の労いだそうだ。やったな!」
 オルオの後ろに並んでお盆を受け取ったグンタが笑った。彼らはそのまま定位置の長卓子へと進む。

「――っん」
 真琴は調理人から受け取ったお盆の中身を見て、眼を瞑って顔を背けた。込み上げるものを押さえ込むように唾を飲む。
 お盆を受け取り後ろを振り返って、ペトラが真琴に手を振る長卓子へと歩く。
 側まで行くと精鋭班のみんながすでに食べ始めていた。
「うまっ!」
「毎日食えたらいいのにな」
 久しく見ていない肉らしい肉に、誰しも歓喜の声を上げて美味しそうに食べていた。
 真琴は席についてお盆にのった皿を見下ろす。

 チキンスープに肉がごろごろ入っていた。黄土色の肉。芳ばしい動物性油の匂いを放っている。
 酸っぱい唾が真琴の口内から湧き出る。食欲をそそられているのではないと分かっている。肉の匂いが吐き気を誘うのだ。
「……食べないの? 真琴」
 隣に座るペトラが遠慮がちに窺った。
「――食べるよ」
 真琴は無理して微笑って、そう言った。悟られたくなかった。肉に拒絶反応を示していることなど。

 震える手で真琴はフォークを握る。
 ――大丈夫。空腹感はある。おなかは減っているんだから。……食べられる、はず。
 肉にフォークを刺す。刺したところからスープが赤く滲んだ。割った肉が、赤い。
「んっ!」
 強い胃の拒絶に真琴は両手で口を押さえた。もう唾も飲めない。
 からん、と真琴の手から離れたフォークが床に落ちて音を立てた。精鋭班のみんなが不審げに真琴を見やる。

「おいおい……」
 落ちたフォークを拾ったペトラが真琴の背をさする。
「……大丈夫?」
 愛想笑いする余裕はなかった。真琴は苦しげにこくこくと頷く。
「まじかよ……。せっかくの肉が不味くなるだろ」
 嫌そうな顔をして言ったオルオの発言に、真琴は泣きそうになるのを堪えて席を立つ。
「ごめん! 風邪かな。悪いけどボクの分、片付けといてっ」

 絞るように言って、逃げるように食堂をあとにした。食堂を出ても廊下に漂う肉の匂いに吐きそうになった。
 角を曲がって中庭へと続く戸を開ける。
 走って井戸まで行き、青銅の手押しポンプのハンドルを漕いで水を汲み上げる。注ぎ口から流れ出る流水をそのまま手で掬って口を近づけた。
 冷たい水が喉を通るとやっと吐き気は収まった。井戸の縁に手を掛けながら、真琴はそのまましゃがみ込む。

「うぅ……」
 嗚咽が洩れた。
 真琴は肉が食べられなくなっていた。
 調査兵団の食事にはたいして肉は入っていないのが、それでもダシの匂いで吐き気を催すようになっていた。
 否応でも新鮮な肉を想像させる。人間の、てかる白い脂と濃桃色の肉。切断面から滴る真っ赤な血を連想させた。

 こんな世界へ来なければ、真琴は普通の生活を送っていたはずだった。
 筋肉痛に悩まされることもなく、人の死に目を見ることもなく、あんな生々しい映像なんて知らずに、毎日を追われるように都会の喧噪の中で、それなりに楽しく暮らしているはずだった。
「帰りたい……」
 ぽつりと呟いた声は夜の闇に消えた。ただ虫の囁きだけに、真琴は慰められていた。


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mokuji
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