08.己に戸惑い、そうして腹を立てながら
黒い空の隅に、うっすらと明かりが差していた。月が沈んで太陽が登ろうとしている。
欠伸を我慢できない口許を手で覆い、テントの中から外を覗いていた真琴は顔を引っ込めた。
「すごい霧」
日の出前の作用か。うすら暗い空に、上から白い絵の具をまぶしたような景色だった。一見して見晴らしが悪い。もう少し太陽が昇れば霧は晴れるのか、それとも降雨の前兆か。
再び欠伸が迫り上がってきた。
「こんなときでも欠伸が出るのね」
暢気と言われればそれまでだが。緊迫した状況下であろうと、生理現象を抑えることは不可能らしい。あまり寝た気がしないのもあるけれど。
「眠くてなんだか調子悪いな。大丈夫かしら、今日」
溜息をつき、寝間着として使ったシャツを脱いでさらしを巻いていく。毎日の日課は最初こそ不慣れだったが、いまや手慣れたものである。手際よくさらしを巻き終え、鞄の横に置いておいた畳んであるシャツを広げた。
ふいに尻に振動を感じて、危険を知らせる第六感がどきりとさせた。
「何いまの。――地震?」
振動は徐徐に大きくなり、そして近づいてきていた。瞬時に思い浮かんだのは昨日の日中の出来事だったが、
「まさかそんなはず」
真琴は怖さを緩和させる笑みを零す。と、たちどころに悲鳴が上がる。
「巨人の襲来だ! 囲まれてる!」
シャツの釦を留めていた真琴の手が止まる。すぐさまテントの入り口を捲って周囲に眼を凝らした。入り口の布を掴んでいる手が途端に震え出す。
「どうしてっ。見張りは何をしてたのよっ」
立ち込める霧の上方に、左右に揺れ動いている巨人の顔がいくつも見て取れた。木の砦内に侵入してきた彼らが、ざっと三十体の群れをなして攻め込んできている。霧が濃いために見張り番は巨人の気配に気づけず、陣営内への侵犯を許してしまったのかもしれない。
後ろ手に手早く幕を閉めた真琴は、眼を剥いたまま硬直してしまう。
(だからイヤだったのよっ、こんなところで陣を張るなんてっ)
そら見たことかと誰ともなく責めたくなるのは、窮地に陥ったときに身勝手になる人間の脆さからきたものだった。こうなってから文句を言ったところで後の祭りである。
真琴は急いで着替えを済ませた。外が甚だ騒がしくなっていた。
立体機動装置を装備した真琴はテントの幕の端を触れるも、しかし開けるのを躊躇する。外に出るのが怖かったのだ。巨人の一踏みで容易くぺしゃんこになってしまうであろうテントでも、真琴にとっての隠れ家なのである。
とはいえ、知らぬ間に一踏みにされて命を落とすのも恐ろしく、真琴は鋭く息を吸い込んでテントから飛び出した。
真琴が現実と向き合うのを引き延ばしているあいだに、陣営内はとうに滅茶苦茶になっていた。テントや荷馬車が次々と踏みつぶされ、霧の中で悲鳴や叫びがこだましている。大混乱しているので指揮系統は機能していないようだ。不意打ちの襲撃だったので、録に準備ができていないために被害が甚大になっている。
「どうしたらいいのよっ。退避しなくていいわけっ?」
逃げる場所などないが逃げたくてたまらなくなった。そうして思いしらされる。昨夜の真琴の思いなど、何の重みもない上辺だけのものだったのだ、と。悔しいけれどリヴァイの言う通りだった。
とにかくテントから離れようと一歩踏み出そうとした足は、言うことを聞いてくれなかった。怖くて竦み上がった身体は、地に根を張ってしまって動けなかった。逃げようにも応戦しようにも、これでは行動に起こせない。
(動いて!)
半泣きの思いで脳に命令するが信号は足に伝わらなかった。手も足もでず、煙霧の中を立体機動で巨人と対敵しているさまを傍観していた。
真琴の周囲が急に暗く陰る。背後から覆われるように、薄い大きな影が差していた。前方に伸びる真琴の影を呑み込んで、歪な人型を象っていく。
真琴が振り返るよりも早く、巨大な手のひらで半身を強く鷲掴みされていた。悲鳴を上げようとした声は、さらに締め上げられたために途切れる。
無邪気に真琴を掴んだ巨人は屈んでいた体を起こす。地上から真琴の足が離れて、めまぐるしく景色が回転する。巨大な指に思わずしがみついて、ひどく後悔した。人間と同じように体温があって、少し固めの皮膚が、吐き気を催すほど気持ち悪い感触に思ったからだった。
動きがやんで、真琴は固く瞑っていた瞼を開けた。目の前には残虐に嗤う巨人の顔。
(私を食べるの)
訪れる死を前にすると、人間は一瞬恐れを捨てて冷静になれるものらしい。真琴を捕らえた巨人に吟味するようにじっと見つめられ、それから、ゆっくりと大きな口が開かれていくのを、ただ動く絵を鑑賞するような気分で見届けていた。
巨大な歯の羅列。粘り気のある糸を引く口内。毒々しい真っ赤な舌。
食われる瞬間の映像が真琴の脳裏を過ったが、悲鳴は出なかった。丸みを帯びた歯が、斬首刑の死刑台のようにいまにも降りてくるのを、ただ待つ。
――死ぬんだ、私。
※ ※ ※
思いがけない巨人の襲撃により、破壊の嵐が吹き荒れている陣営内をリヴァイは走り回っていた。丸腰で巨人に追いかけられている兵士に出くわす。即座に立体機動に移り、夢中で追いかけ回している巨人のうなじをえぐった。
両膝をがくがくと震わせ、恐怖を貼りつけた面容の兵士に言う。
「撤退だ。公園の入り口へ急げ」
「は、はいっ」
震え声で返答した兵士は大慌てで駆け出していこうとした。私服姿に素手の彼を停止させる。
「待てっ、立体機動装置はどうした」
「取るものも取りあえずだったので」
「そんなんじゃ入り口に辿り着くまでにやられる」
何かを探して瞳を彷徨わせ、そうして口から血を吐いて倒れている兵士に目をつけた。傍らに膝を突き、圧迫死したと思われる彼の立体機動装置を剥ぐ。
取り乱しもせずに装置と収納箱を取り去っていくリヴァイを見て、兵士は喘ぐ。
「それは、死んだ仲間のです……。それを俺につけろと言うんですか……」
「そうだ」
「そんなっ――自分が生き延びるために、死んだ同志から追い剥ぐなど、できませんっ」
兵士は首を振り、リヴァイが突き出した装置を受け取るのを拒む。
「同志だと思うのなら、生き延びる意味をはき違えるな。お前はこいつに生かされたんだ。無念に散ったこいつの意思を継ぐために」
喝を入れるように兵士の胸に装置を押し当てた。
視線を下げた兵士は、相克が満ちる面で横たわる兵士を見つめた。少しして、凛々しい顔つきで敬礼をみせた。
「お前の分まで俺は生きるよ」装置を受け取って装備し始める。「すみませんでした、兵長っ」
まだ半分も行き届いていない伝令を拡散しなければならないのに、リヴァイは退避していく兵士を繁雑な心理状態で見届けていた。死んだ兵士の傍らに再び膝を突き、血で汚れた顔周りを綺麗にしてやる。
「間に合わなくて、すまなかった」
死人から装置を剥ぐことに迷いは一切なかった。生き延びさせるためにリヴァイがした行為を、生きる兵士と死んだ兵士は冷たく思ったろうか。
あの兵士が装置を受け取ることを拒んだ気持ちは理解できるし、詮ずるに人間らしい純粋なものだったのだろう。躊躇もなかった自分を、リヴァイはときおり責めたくなる。上に立つ者として甘さはあってはならないのだが、ときおり苛まされる。壁外へ出るたびに人間性が失われていくようで、課せられた使命をときおり窮屈に思うのだった。
ところどころで小さな火事を起こしている陣営内を駆け回り、退避命令を知らずに応戦し続けている兵士たちに伝達をしていた。巨人を討伐したばかりのペトラとオルオが降り立ってきた。
「兵長! 状況はどうなっているんですかっ?」
その言いようでは彼らも伝令を聞いていないのだろう。
「エルヴィンから退避命令が出た。黄の煙弾も上がったはずだが」
「この霧ですから」
視界が悪い周辺をペトラが見渡す。
「俺たちは、全員の退避が完了するのを見届けてから退去だ」
「分かりました」
雄々しく頷いたオルオにリヴァイも頷き返し、去ろうと背中を向けた。僅かに後ろ髪を引かれて振り返る。
「お前らは二人だけか」
「はい。ですが、さきほど西のほうで、エルドさんとグンタさんを見かけました」
欲しい答えではなかった。口を開きかけて、私情のような気がしたリヴァイは発語を押し止めた。
ペトラは首をかしげる。
「兵長?」
「いや」リヴァイは厳しげに態を取りなす。「常に二人三脚を心がけろ。なるだけ一人になるな」
「はいっ」
二人が返事をして、今度こそリヴァイはその場をあとにした。
混乱のさ中でも巨人の討伐は進んでおり、生きている巨人と遭遇するよりも、死んでいる兵士のほうが目につくようになった景色で、ふいに眼を剥いたリヴァイは全力で駆け出した。土塗れで崩れているテントを引ん剥き、その下で横たわっている兵士の肩を掴んで転がす。
一瞬息を呑んだのは、まさかと思った人物ではなく、兵団の一兵士だったからである。焦っていた自分に内心驚いてもいて、僅かでもほっとしてしまったことに己を殴りたくなった。
(俺がしていることは贔屓か? ありえん、そんなことは絶対に許されない)
どの兵士も命は平等で尊い。それなのに、殉職した兵士に対してほっとしただなんて、なんたることか。
だからリヴァイは聞けなかったのである。オルオとペトラに、「真琴を見かけなかったか」と聞けなかったのだ。
あちこちで力尽きた兵士を縫うようにして再び駆け出す――伝達が最優先であるはずなのに、どこかで真琴を探している己に戸惑い、そうして腹を立てながら。
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mokuji
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