07.月が雲に隠れた深夜

 月が雲に隠れた深夜。僅かな篝火を頼りに真琴は野外入浴場へ向かう。
 真っ暗な浴場に誰も居ないことを確認して中へ入る。風呂場独特の匂いと、白い湯煙が真琴の気分を落ち着かせた。
 洗髪をすると、今日の鬱々とした気持ちさえ一緒に洗い流されていくよう。
 湯銭にゆっくりと足を入れる。真琴好みの湯加減に、ほぅと長く息をはいた。
「やっぱ、日本人は風呂よね〜」
 気持ち良さについ独り言が洩れた。

 仮設の浴場とはいえ立派な物だ。洗い場は三人分あるし、湯銭は広々としている。
 真琴は眼を瞑って極楽気分を堪能していた。巨人の巣にいることも、リヴァイと言いあったことも、すべて忘れさせてくれる。
 不意に衣擦れの音と、誰かが入ってくる気配を感じて真琴は肝を潰した。
 慌てて手拭いを頭に巻きつける。ここは男性用の入浴場。かつらは脱衣所にある。髪の長い姿を見られるのは非常に不味かった。
「女湯いけばよかったんだ……。私ってホント馬鹿っ」
 振り分けられた通りに男湯を選んでしまった自分の融通の気かなさに、真琴は項垂れた。

 * * *

「先客がいたのか」
 湯の跳ねる音が控えめに聞こえる。厚い雲に遮られ月明かりもない暗闇の浴場。
 いつもリヴァイは汚れを丹念に洗い流そうと、誰もいない深夜帯を選ぶ。だから思わぬ先客に少々気分を害した。
 洗い場で洗髪をする。爽やかなシトラスの香りがするシャンプーは、リヴァイが贔屓にしている物。良く泡立てて三度洗いしたころには、足元に流れ切らない泡の山ができていた。本当は四度洗いしたかったけれど時間も時間だし、疲れで瞼も重いので諦める。

 続いて身体を洗おうと、台に手を伸ばしたところで動きが止まった。石鹸を用意し忘れてしまったようだ。
 舌打ちとともに独り言が洩れる。
「忘れてきたか」
 おいっ! リヴァイは湯に浸かっている人物に向かって声を少し張り上げた。ちゃぷんと鳴る水の音に相手が応答したと認識する。
「石鹸、持ってるか?」
 リヴァイの問いに相手は何も反応しない。
 聞こえてるんだろうがっ、とリヴァイは更に気分を害して相手に向き直る。刹那、雲が割れて月明かりが湯に浸かっている人物を浮かび上がらせた。それは一瞬だったが印象的に眼に焼きついた。

「――っ」
 リヴァイは後ろ姿に息を呑んだ。
 傷ひとつない抜けるような白い肌。細いうなじは男の物と思えないくらい艶やかだ。噛みついてくれと妖艶に誘っているような錯覚を覚える。最低限の筋肉しかついていない背中は筋張ってなく、触れたらきっと滑らかだろう。
 リヴァイは唾を飲む。咽喉が下がると思ったよりも音が出て僅かに動揺した。

 ――女湯と間違えたか。
 いや、そんなはずはない、とすぐに否定した。直後控えめに湯の音をさせて、件の人物が動きを見せた。
「石鹸なら、ボクのがそこに……」
 白い背中を向けたまま、上擦った声で指を差す人物。その声にようやくリヴァイは自分の部下だと気づく。
「真琴か。……借りるぞ」
「どうぞ」
 指差したほうを確認すると、洗い場の台に桃色の石鹸が置いてあった。
 手に取って、いつもとは違う甘い香りの石鹸に思わず頬が引き攣った。しかしないよりはマシだと、リヴァイは満足するまで念入りに身体を洗った。

 湯に入ろうと脚を沈めると、暗闇の中で真琴がリヴァイから遠い位置へ離れていくのを感じた。
 あからさまな態度が、どうしてか癇に障って突っかかりたくなる。それは子供のころの気に入らないヤツをいじめたくなる衝動に似ていた。
「野郎とふたりで仲良く風呂か。気色悪いったらねぇな」
「で、ですよね! ホント。ボクも気持ち悪」
「あ?」
「……すみません」
 気持ち悪いと言おうとした真琴を、リヴァイは牽制するように遮った。自分が言うのは構わないが、他人に言われるのは我慢ならない。

 斜め背後にいる部下に話しかける。
「風呂に入るのはいつもこの時間なのか」
「いえ。いつもはもっと早いです。今夜は、なかなか寝つけなくて」
 まあ、そうだろうな、とリヴァイは思う。初めての遠征で、今日の様子だと人の死を間近で経験したのも人生初だろう。巨人を前にして失禁してしまう者も少なくない。真琴は嘔吐こそしていたが、精神が壊れないだけマシだったのだ。

「リヴァイ兵士長は、いつもこんな時間ですか?」
「遠征のときはな。本当は一番風呂がいいんだが」
「潔癖症ですもんね」
 くすりと控え目に微笑う真琴に、リヴァイは安心感を覚えた。先刻きつく言い過ぎたからだった。嫌われること自体どうということはないが、鬱々とした気分のまま朝を向かえては遠征に支障がでる。それだけ精神面が生き残ることに必要だということは語るまでもないだろう。

 リヴァイは首を傾けながら、わざと皮肉な口調で言う。
「この時間は貸し切りのはずなんだが」
「……すみませんでした。邪魔しちゃって」
 真琴の口調からは申し訳ないと思っている色がなかった。きっと唇を尖らせていることだろう。
 リヴァイは眼を伏せて僅かに口許を緩めた。
「構わねぇが」
 言って、リヴァイは微かに眼を見張る。
 構わない――。
 不思議に思う。さっきまで先客がいたことに気分を害していたはずなのに。
 なぜだ、と考えて湯を掬って顔に掛けた。そのまま両手で髪を掻き上げる。
 ――くだらねぇ。
 熱い湯の感触が微睡(まどろ)む脳に染み渡った。

 後ろからそわそわと落ち着きのない気配を感じる。
「まだ出ないのか? 逆上せるぞ」
「……長湯が、好きなんです」
 真琴の間抜けな言い訳に含み笑いが出た。
 長湯が好きだと言う張本人は、もう逆上せているだろうに。声がとても弱々しかったからだ。
 当て擦りもここまでにするか、とリヴァイは風呂場をあとにしたのだった。

 * * *

 人の気配がなくなった。
 真琴は赤ら顔でふらふらしながら湯から上がった。視界がちかちか光って脱衣所でしゃがみ込む。完全に逆上せたようだ。
 ――まさかリヴァイが来るなんて……。月明かりが出てなくて助かった。
 少し休んでから着替えを済ませて真琴は風呂場のテントを出た。
 出てすぐ横にリヴァイがいた。乾き切っていない漆黒の髪から雫がひとひら光って落ちた。

「遅かったな。中で倒れてんじゃねぇかと思ったが」
「……心配して、待ってたんですか?」
「涼んでただけだ」
 何とはなしにリヴァイが答えたときだった。知らない男の声が割って入る。
「兵士長……。自分もう入ってもよろしいでしょうか?」
 脇から現れた男は欠伸を噛み殺しながら、眠そうな眼でリヴァイを窺う。
「ああ。お前、明日からはもっと早く入れ。この時間は俺の貸し切りだと知らないのか」
「申し訳ありません。本日の報告書を今日中に書き上げたかったので、つい集中していたらこんな時間に……」
「真面目なのは悪いことじゃないが。そんなの帰ってからでもできるだろう。しっかり睡眠を取ることのほうが遠征時には大切だ」

 注意をされると男は少し唇を緩めて頭を下げた。心配されて嬉しかったのだろう。百戦錬磨なのかは分からないが、リヴァイがカリスマ性を持っていることは確かなので、彼は兵士たちにとってヒーロー的存在なのかもしれない。
「さっさと入ってこい」
 男にそう言い置くと、リヴァイは自分のテントへ向かってゆっくりと歩き出した。帰り道は一緒なので真琴もリヴァイと並んで歩く。

 夜風が火照った身体を優しく撫でる感触に真琴は眼を閉じる。
 ――気持ちいいな。……あれ?
 ふとリヴァイから、ほんのり花の甘い香りがして真琴は首をかしげる。いつもはこんな香りはしない。どうして? と不思議に思ってすぐに気づいた。真琴と同じ香りだと。
 意識すると無性に気恥ずかしくなって真琴は俯いた。
「……リヴァイ兵士長から花の香りって……。似合いませんね」
「同意見だ」
 口にしたリヴァイは顔を顰めていた。


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mokuji
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