09.人間らしくあってほしい

 巨大な歯がぎっしりと詰まっている口内を、突如としてアンカーが突き破った。たいして痛くもなさそうな体貌で、あんぐりと口を開いたままの巨人の黒目が、ぎょろりと横に動いた。
 頬を貫通している黒いワイヤーの先にはベリーがいて、彼女は空中で刃を構える。
「待ってて、真琴! いま助ける!」
 猛進してきたベリーの刃が巨人の腕の肉を裂く。払い落とそうとしてくる大きな手を避けて、剣の舞のように何度も何度も切り裂き続ける。

 ベリーが巨人の気を引いてくれているのを無駄にしてはならない。十五メートル級の巨人と戦闘を長引かせては危険な気がした。半身を締め上げてくる苦しみから脱しようと、真琴は気色悪い指に両手を押し当てる。渾身の力を込めて突っ張るが抜け出せない。
「ダメだ、抜けそうもないっ」
「諦めないで! このまま裂き続けて腕を落とすわ!」

 めそめそしていた昨夜の彼女とは別人だった。必死な形相に戦慄は垣間見えるも、ベリーは自我を強く保って立ち向かう。
 が、死を顧みないベリーの気迫は何か悪いことが起きそうで、真琴の胸を騒がせる。
「一人じゃ無理だっ、何とか耐えるからベリーは応援を呼んでくるんだっ」
 上半身は一向に抜け出せないので、巨人の手と身体のあいだに腕を捩じ込んでみるが全然入っていかない。抜き身の刃でもいいから収納箱から取り出せれば、それで憎い手を突き立てて逃げる手段に繋がるかもしれないと思ったのだが。

 必死過ぎて真琴の声が耳に入っていないのか、ベリーは攻撃をやめない。
「お前なんかに仲間を殺させない! 人間を見くびるな!」
 凄みのある雄叫びとともに振りかぶった刃は、肉に奥深く食い込み、巨人の白い骨が露出した。真琴を鷲掴んでいる手の握力が途端に弛緩する。
 緩んだ手から落下した真琴は、充分な受け身も取れずにテントを潰して全身を地面に強打し、のろのろと横転した。ばらばらに千切れてしまいそうな痛みが身体中を巡り、身を縮こめる。
「――くっ」

 ベリーはまだ闘っている。逃げるなり加勢するなりしないと、二人揃って巨人の餌食になってしまう。悠長に痛みを逃している場合ではなかった。
 震えを起こす痛みで力抜けしている両肘を突き、半身を起こしていく。不安定にがくがくと身震いしている両肘を堪え、四つん這いになる。脇に収納してあるグリップを引きだそうとしたけれど、地面から手が離れなかった。両手でなければ萎えている身体を支えられそうにない。

(こんなんじゃ加勢できないっ)
 すべてにおいてベリーの足手まといになっていることが、苦痛でたまらなかった。助けてもらう価値などない気がした。もうどうしたらいいか分からなくなってくる。
「真琴、動ける!?」
 空から呼びかけられて、頭の整理はついていないがとにかく何か応えようと、真琴は顔を上げかけた。
「動けるなら逃げて! なるべく遠く――」
 続けて発したベリーの声が不自然に途切れた。と、脳天にぽたりと落ちてきた一滴に、真琴は一瞬びくんと痙攣する。

 地肌に触れた雫は冷たくも熱くも感じられなかった。しいていえば人肌で、落下してきた微かな感触を捉えただけだった。だから雨かと勘違いしたのは、まばたきを一回するかしないかの、そんな短い合間のことだった。
 人肌の一滴に続くように、それはぼたぼたと次から次へと降ってくる。途端に硬直したのは、地面を打ちつけている滝が潤沢で赤かったからだ。真琴の両手も真っ赤に染まっていき、降ってくる量が増えるほど、生温かさを明確に感じ取れ、僅かなぬめり気を感触として与えてくる。

「あ……あ……」
 声にならない声でわななく。真琴の頭上で巨人と闘っていたのはベリーだった。ともすると、真琴を濡らす赤い液体を降らせているのは彼女しか考えられなかった。
 全身を巡る血液が急速に騒ぎ出して、海鳴りのような音が耳の中でうるさかった。
(イヤ……怖い……知りたくない……この意味を知りたくない)
 と怖がるも、恐る恐る振り仰いだ。悪夢のような凄惨たる光景を目にして、誘発された悲鳴は声にならず、代わりに金臭い空気を鋭く吸い込んだ。

 巨人の口許付近で鷲掴みされているベリーは下半身がなく、噛み千切られた胴の切断面から滴っているのは、駆け巡る行き場を失った血液だった。味覚などなさそうで、巨人はただ残虐だけを楽しんでいるように見えた。大きな唇からはみ出ている彼女の片脚が、咀嚼する動きに合わせて揺れ動く。
 まばたきを忘れて、人間が捕食される光景を見開いた瞳で眺めていた。おおむね流れきったであろうベリーの血液が、降り始めの雨粒のようにぽたりぽたりと真琴の額や頬を叩く。

 下半身だけを捕食した巨人は、ゴミであるかのようにベリーを放り投げた。宙を舞う彼女を真琴は眼で追う。
(嘘、嘘よ)
 鈍い音を立ててベリーは地面に落ちた。おもむろに立ち上がって、覚束ない足取りで駆け寄っていく真琴を巨人が追いかけようとしてきた。ようやく応戦にきた三人の兵士によって阻まれる。

 驚愕に見開くベリーの両目、操る者がいない傀儡のように仰臥している彼女を見降ろし、真琴は両膝からくずおれた。
 息を吐くことができなくて、これ以上の酸素を肺は欲していないのに息を吸うしかできなかった。息苦しく、胸に強い圧迫感を感じており、初めて経験するが過換気症候群に違いなかった。

 ベリーを見つめる真琴は、緩徐にいやいやと首を振る。
(やだよ、ベリー……。死なないで……)
 おびただしい彼女の血が地面に広がりつつ、吸い取られていく。
(死なせない……。死なせない!)
 ベリーの胸に両手を当て、躍起になって心臓マッサージを始めた。立ち膝での全身運動で息苦しさがさらに増したが、心臓マッサージをやめるわけにはいなかった。

 ベリーには両親の意思を継ぐという立派な思いがあったのだ。そんな彼女の未来を断ち切らせたくないと真琴は思っていた。
 ――本当にそれだけか?
 もう一人の真琴がそう囁いた。純粋な思いだけで必死に心肺蘇生を施しているのか、ときつく問い質してきた。

 お前を助けたせいでベリーは死ぬのだ。事実を受け入れるのが怖いか。誰かに責められるのを怖がっているのか。ベリーの死を一生背負っていかなくてはならないのが嫌か。だからお前は彼女を生かそうと、死に物狂いで心肺蘇生を行うのか。
(違う!)
 痛切にかぶりを振りまくれば、さらに「違わない」と己が指弾する。真琴の心を呵責が打ち砕いていく。

 ――ああ、イヤだ。自分が嫌な人間に染まっていく。

 ※ ※ ※

 地響きを打ち鳴らす振動に気づいて、リヴァイは霞みがかかる視界を見渡した。近くに巨人がいるに違いない。
 暴れる巨人に対して三人の兵士で対抗しているのを見て取った。すぐさまリヴァイも応戦しようとして、ふと足を止める。暴れ狂う巨人の斜め後ろのほうで捉えたのは、座り込んでいる真琴の背中だったのだ。
 三人がかりでも手間取っていた巨人を力任せに打ち取って、リヴァイは真琴のもとへ駆けつけた。

「真琴! 退避命令だ!」
 そのままの勢いで、兵士に救命措置をしている真琴の肩を掴んで振り向かせる。振り向かせた瞬間、リヴァイはぎょっと瞳を瞠目させた。
 頭から爪先まで、真琴の全身は血だらけだった。どこか虚ろな表情をしており、それが喪失感を煽る。生きているのに死んでいるかのように見えた。

「負傷したのかっ」
 膝を突いたリヴァイは、手探りで真琴の身体を確認していく。血糊が張りついている頬に両手を添え、健康に脈を打つ首許に滑らせ、力抜けした肩と胸許と脚と、出血箇所がないかを探る。両肩で大きく息をして過換気症候群を起こしていることを除けば、たいした怪我は見当たらなかった。

 リヴァイは我知らず、あからさまに安堵の息をついた。が、であるならば、この血は一体誰のものなのか。
 真琴の顔は乾ききった血が糊のように貼りついており、ジャケットはどす黒い血で染まり、加えて、真琴から発せられる濃い鉄錆のような臭いは凄まじかった。
 外傷がないのだから他人の血である可能性が高いけれど。
(どうしたら、バケツの水をひっくり返したように血を浴びる)
 怪訝に思ってリヴァイは眉を顰めた。

「とにかく退避だ、気をしっかり持て」
 と、真琴の背中をそっと触れた。それで真琴は思い出したように呟いた。
「だめ……。心臓マッサージをしなきゃ……」
 目の前の女兵士に向き直り、一心不乱に心臓マッサージをし出す。
「……何をしてんだ、真琴」
 慣れているはずの悲惨な現場で、リヴァイは放心しかけていた。真琴の行為を早く止めてやらなければならないのに、鬼神のようなさまで救命措置を施している姿に戸惑っていた。

 何発目かの黄色の信煙弾の音が微かに耳に入り、一拍遅れてリヴァイはようやく行動に移せた。
 掴んだ肩を揺さぶり、意味のない行為を取りやめさせようとした。
「よせっ」
「……死なせないから」
「やめろっ」
 肩を引いて制しようとしたリヴァイの手を、鬱陶しげに真琴は払う。
「邪魔しないで!」
 兵士の全身に血液を送ろうと、胸をマッサージし続ける真琴の血まみれの両手を、包み込むように強く掴み止める。
「真琴! それ以上は可哀想だ!」

 重なり合う手を見降ろす真琴の双眼が、大きく見開いた。打ちのめされたように呟く。
「……温かい」
 それはリヴァイの手のことだろう。真琴の手も温かい。まだ鮮やかな真紅を帯びる血は、地表に広く滲んでいる。けれど、その下の女兵士の胸は冷たかった。それで、生きる者と死んだ者を認識したのかもしれない。
 真琴の血塗れの顔が泣きそうに歪んでいく。

「……どうして温かいの」
「そいつが、もう死んでるからだ」
 ぐったりと横たわっている女兵士は人形のように見えた。過呼吸で息を詰まらせながら、真琴はゆっくりと視線を向けてきた。聞き取りにくい詰まり声で言う。
「ボクが、し、死なせたんです。ボクのせいなんです」
 それだけでは分からないので、リヴァイは眼を細めて先を促す。
「捕まって、それでベリーが助けにきてくれて、それで、それで」

 調査兵団では、よくあることだった。仲間を助勢して、逆に命を落としてしまう。
 乾いた血を溶かしていく真琴の涙は、兵団に入団して初めて仲間を失ったとき以降、リヴァイの両眼から溢れたことのないものだった。みんなが経験していることだから、お前も割り切れと諭すのは、どうにも安易に思えてきてならない。それでも、重い負担を解放してやるには言ってあげたほうがいいのだろう。

「それは真琴のせいじゃない」
 物悲しく眉を寄せて発した声は優しい響きで、おそらく白々しくなると思っていたのに丸きし異なり、こんなにも慈愛の精神があろうとはリヴァイ自身、露知らずだった。涙腺が崩壊していく真琴の揺れる瞳を、まっすぐに見つめる。
「こいつは兵士として、ただ立派に生きたんだ」
「……立派な兵士」
 リヴァイは頷いて、光のないベリーの目許に手を翳す。

「お前を助けることで、人生をまっとうしたんだろう。昨日の後悔からきっと救われたはずだ。こいつの顔を見ろ、安らかじゃねぇか」
 瞼を伏せてあげたベリーの表情は物和らげに見えた。
「余るほど部下を失ってきた俺には分かる。この顔は、お前のせいだとは思っちゃいねぇよ」

「本当に?」
 救いを求める眼差しで縋るように聞き返してきた。ああ、と頷いて、真琴の頬を伝う涙をリヴァイは指先でこする。
「だから自分を責めるな。責め続ければ、それは侮辱になる。こいつはそんなの望んじゃいない」
「……はい」
 涙を拭って、真琴は小さく頷いてみせた。心を整理するのは一筋縄ではいかないだろうけれど。

 それなのに、血糊混じりでべとつく真琴の涙がついた自分の指を、親指で撫でるリヴァイはこう思う。この先も真琴が兵団に居続けるのならば、悲しみに暮れる日々も同様に居続けることになる。けれど、こうして自分を責めて、葛藤し続けるのをやめてしまうような日は訪れないでほしい。いつでも迷って、人間らしくあってほしい。自分のように泣けなくなることだけはあってほしくないと、リヴァイは願うのだった。

 過呼吸を起こしている真琴を、自分の胸の中に引き寄せる。哀愁漂う空気と切り離すように外套で閉じ込め、真琴の頭を強く包み込んだ。
「ゆっくりだ、ゆっくり息を吐け」
 頼りない背中を優しく撫でる。意識して、真琴が一生懸命に息を吐き出そうとしている。
「上手だ。焦らなくていい、そうだ、そのまま呼吸を落ち着かせていけ」

 霧が晴れ、辺りは太陽に照らされ、広場の残虐さが露わになる。ぼろぼろになったテントや、いたるところで上がる炎の中、悲しみを共有するように強く抱擁し合う二人の姿が、舞い散る小さな燃え殻越しに見えたのだった。


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