06.恐怖は彼女の汚い部分を浮き彫りに

 それからは無我夢中だった。リヴァイの忠告を守って、リベルタから二度と下馬しなかった真琴は、ときおり襲ってくる吐き気を堪え、そうして半分虚ろなまま、今夜の野営場所になんとか辿り着いたのであった。
 太陽はまだ地平線に沈みきっていないと思うが、四方を木々に囲まれた公園からは、夕暮れの空しか確認できない。こんな広いところでテントを張って大丈夫なのかと、真琴は不安に思っていた。
(巨人が公園に入ってきたら、ひとたまりもないんじゃないかしら)

 背の高い木が円形の厚い砦代わりになっており、外側に見張りも立てているから問題ないとのことらしい。丈夫そうな頃合いの建家がない場合、このように自然を利用して調査兵団は陣を張るのである。
 加えて、巨人は夜になると行動しなくなるという特徴があるので、夜襲の心配はいらないようだった。
(なんだか植物のようね)
 一人用のテントをつたない手つきで張る真琴はそんなことを考えていた。朝は光合成をして、夜になると花を閉じる。
(馬鹿っ。あんな化け物が植物なわけないじゃない)

 もう少しで完成だったのに、支柱がたわんでテントが崩れた。
「あ〜、もう」
 布製の天井を摘んで張り直そうと奮闘しているとき、
「まだ張り終わってねぇのかよ」
 両手に毛布を抱えているオルオが呆れた眼つきで背後から声をかけてきた。
「お前だけだぞ、ちんたらしてんのは。もうみんなテントを張り終えて、飯の準備に取りかかってんのに」

「テントを張るのって初めてでさ。取り扱い説明書もないし」
 後ろに気を取られてまたテントが崩れた。「ああ、またっ」
「ったく、何やらしてもとろいんだな」真琴に毛布を押しつける。「これ、お前のだ」
「ありがとう。持ってきてくれたんだ」
 いやはやという呆れ混じりの仕草で、オルオは真琴のテントに手をつける。
「壁内に帰ったら、テントを何度も張って慣れろよ」

「帰ったら……か」
 テントの四角に杭を打ちつけるオルオの傍らで、毛布を抱く真琴は小さく呟いた。
「無事に帰還できるのかな」
「兵長に何もするなと言われているらしいが、まあ、お前が今日生き延びたのは奇跡だな」
「今日一日だけで結構な被害だったんだよね」
「まさか中央後方の荷馬車班が一台やられるとは予想もしないぜ。左翼から突っ込んできた奇行種を食い止められなかったらしい」

「やっぱり、必ずしも安全じゃないんだ」
 オルオが顔を上げる。「やっぱり?」
「ううん、独り言」首を振って真琴は力なく笑う。
 精鋭班に決まったとき、リヴァイが許せなくて、なぜ荷馬車班で了承してくれなかったのだと責め立てた。あのとき彼が真琴の意を汲んでいたら、被害にあって死んだのが自分だったのだと思うと、ぞっとする。

 立ち上がったオルオが両手をはたく。
「おら、できたぞ」
 真琴が三十分もかかって組み立てられなかったテントを、十分もしないで完成させた。こういうとき、男らしさに女はころっとなびいてしまうのだろうけれど。相手はオルオである。真琴は心の中でくすくすと笑う。(ない、ない)
 困っていたのは本当なので感謝はしている。

「ありがとう。今夜は屋根のある寝場所を諦めるつもりでいたから」
「馬鹿言ってんな。そうそう」
 小ぶりなテントがたくさん連なる広場のほうへ、戻り際にオルオが振り返った。
「水汲み当番やっとけよ」

「ボクの当番は薪拾いだけど」
「ばっか! 俺が無償で手伝うか? 相手が女ならまだしも」
 オルオはとても嫌な笑みを刷いてみせた。そうして去っていく。
「……優しいから可怪しいと思った」
 十分もかからず組み立てられるテントと、重労働の水汲み。どちらが安いか明白である。タダより高いものはなく、結局高くついてしまったのだった。

 食欲がなくて腹三分で夕飯を終えた真琴は、テントの中で鞄の整理をしていた。迷い込んでしまったのか、小型ランプの周りを蛾がつき纏っている。
 部屋着に着替えようと、シャツの釦を外していた。と、テントの入り口を威勢よく捲られる。
「風呂の番もうすぐだぞ。十五分しかないんだから早く来たほうが――」
 顔を覗かせたのはオルオだった。下腹付近まで外してしまっていたシャツを、真琴は真っ赤な顔でたぐり寄せる。

「き、着替え中だったのにっ。一声かけてから開けてよっ」
 女であるなら当然の反応に対して、オルオが吐きそうな表情に崩す。
「お前さ。前々から疑ってたんだけど」
(疑ってた!?)
 真琴の心臓が口から飛び出そうになる。性別について確信を突こうというのか。
 が、オルオはしなを作るようにして立てた手を口許に添えた。

「こっちなのか?」
「……ああ、そっちね」
 気が抜けて真琴はほっとした。頷いてしまったので、肯定したようにオルオは取ったらしい。
「まじ勘弁だぜ。やっぱりお前は来なくていい。一緒に風呂へ入んの怖ぇ」
 苦く言い置き、入り口を閉めて消えていった。

 いつの間にか蛾が二匹に増えてしまったテント内で丸襟のシャツを被る。
「大丈夫よ、一緒になんて入らないから」
 遠征の場合、毎日入浴できるとは限らない。今回は野営場所が公園であるから、楽に水を調達できるので仮設の風呂が設けられている。順番は班ごとに回ってくるが、まさか男たちと共に入れるわけないので、みんなが寝静まったあとに行くつもりだ。

 狭いテントの中でじっとしていると、昼間のことを思い出して鬱になってくる。それで外の空気を吸うために真琴はテントを出た。
 闇の広場の数カ所で、見張り番が火を焚いている。火の爆ぜる音と、燃料の匂いが、遠い昔にしたキャンプファイアーを思い起こさせた。

 何となしに散歩をしていたら、砦代わりの木立のほうから何か聞こえてきた。女のすすり泣きのような感じが、夜の暗さと、外側に巨人がうろついているかもしれないことと相まって、不気味さが増す。
(でも、ホントに誰かが泣いてるんだったら、放っておけないわよね)

 音を頼りに木立の中へ入っていく。青いシートで覆われた荷馬車を通り過ぎようとしたとき、一瞬ぞわりと背中の産毛が逆立った。恐々と横目を差し向ける。盛り上がったシートの中身は遺体が積まれていて、それで亡霊の声に呼ばれたのではないかと思ってしまったのである。
 しかしそんなのはホラー映画の見過ぎで、生きた人間の小さな背中が近くにちゃんとあった。草むらで踞る彼女には見覚えがある。

 真琴は後ろからゆっくり近づいて、小刻みに震える肩をそっと触れた。
「どうしたの?」
 体をびくつかせて女は振り仰いだ。真琴は両手を挙げて申し開く。
「ごめんっ。驚かせるつもりじゃなかったんだけど」
「恥ずかしいな」涙を拭いながら女は困り笑いをする。「情けないところを見られちゃった」
「確か索敵支援班で、昼間の奇行種との戦闘時にいたよね。ベリー――でよかった?」
「そこも見られてたんだ。落ちこぼれの真琴――だっけ」
 暗い微笑みだったけれど、それがここにいていいと言われた気がして、腰を降ろした真琴は膝を抱えた。

「ボクこそ恥ずかしいし情けないよ、そんなあだ名が有名みたいで」
「初列索敵で兵長と同じ班なら、それは有名になっても仕方ないと思うよ」
 互いの軽い自己紹介のあとで、ベリーは溜息をついた。
「真琴は泣かないんだね、初めての壁外なのに」

 真琴は眼を丸くした。人間が目の前で死んでも、嘔吐はしたが涙は流れなかった。まだどこか他人事で、現実感が薄いのもある。が、仲間意識が弱いのかもしれず、薄情に思えてきてしまった。
 とりあえずの笑みを浮かべる。
「男だから」
「そうだよね。つらくても男は簡単に泣けないよね」
 ベリーは首を傾ける。
「真琴って、どうして調査兵団を志望したの」

 眼の周りが赤いベリーに、行きがかり上だとはとてもじゃないが言えなかった。彼女が泣いていなかったとしても、生死が絡む壁外でこんな軽率なことを言えるはずがなかった。
 口籠っていると、

「いいの、言いたくないなら。色んな事情があるよね」
 空を見上げたベリーは、また泣くのを我慢するような表情をした。
「私はね、両親が調査兵団だったの。その影響が強かったんだと思うわ」
「ご両親は反対しなかったの? ベリーの入団を」
「どうかな。生きてたら反対されてたのかな」
 真琴は息を呑んだ。ベリーの両親はすでにこの世にいないのだ。

 空を見上げるのをやめたベリーの、伏せ気味の眼が湿っぽく綻ぶ。
「十歳のときに揃って死んじゃったから。でもね、いつも言ってた。私にも大空を見せてやりたい、って。だから私も、両親が見たもの、感じたものを知りたかったの」
「ご両親の成し遂げたかった思いを、ベリーは継いだんだ」
 彼女にはしっかりとした強い意思がある。こうして一緒にいると、兵士としているのが本当に無分別に思えてきて、真琴は自分が許せなくなってくるのだった。

 何か込み上げてきてしまったのか、ベリーはふいにしゃくり出す。髪を二つに束ねている彼女の耳へ、闇夜に光る涙が伝っていく。
「なのに私、逃げたの。巨人から逃げた。もう父と母に顔向けできない」
 真琴はベリーの肩に手をおいた。弱い者同士の馴れ合いでしかないけれど、こう慰めるしかできなかった。
「ベリーだけじゃない、ボクもそうだ。だからそんなに思い詰めないで」

「違うの!」膝に頭を埋めたベリーは、絹を裂いたように痛烈に叫ぶ。「同期が巨人に襲われてたのに逃げた! 襲われたのが私じゃなくてよかったってほっとしたのよ!」
 彼女は膝に頭をすりつけて振る。
「助けってって叫んでたのに! 見殺しにした!」 

 ああ、なんてことだ。悲痛な思いで真琴は眼を伏せた。彼女の逃げたい気持ちも、ほっとした気持ちも分かる気がしたけれど、一番苛むことをベリーはしてしまったのである。その人間の弱さを、巨人に嗤われているのかと思うと、連帯感が弱くとも怒りが湧く。

 ベリーは自分を責め続ける。
「私、自分を許せない! 真琴も私を軽蔑するでしょ!?」
 そう言って泣き崩れた。
 真琴は悔しくて唇を噛んだ。仲間を見殺しにする行為は、人として許されないのだろう。けれど、と思わずにはいられない。けれど悪ではなく、少しでも良心が痛んでいるのなら、許されてもいいのではないか。でなければ、この過酷な世界でどう生きていけというのか。

 しゃくりあげるベリーの背中をそっと触れる。
「ベリー。君が仲間を見捨てても、平気な顔をしてたら軽蔑したかもしれない。だけど違うでしょう? いま流れている涙は後悔の涙なんでしょう? 仲間を救えなかった自分に不甲斐なさを感じてる」
 儚げな丸い背筋をさすった。
「だからボクは君を軽蔑なんてしない。完璧な人間なんていないんだから」悔しい思いを吐き捨てる。「逆にボクは巨人が許せないよ。彼らに憎しみを持ったのは初めてだ。人間の弱さを剥き出しにしてくる巨人が許せない」

「私も悔しいっ。悔しいよ、真琴っ」 
 泣きついてきたベリーを、真琴は強く抱きしめた。ただの慰め合いに過ぎないのかもしれないが、人間だからこそ必要なことだった。
 ひとしきり泣いたベリーは少しだけ立ち直ったように見えた。真琴から離れて、若干照れくさそうにする。
「ごめんね、恥じらいもなく男の人に縋っちゃうなんて」
「いいんだ。それでベリーが少しでも元気になってくれれば」
 仲間を見殺しにした事実が消え去ったわけではないが、弱さを共有したことで、怖いのは自分だけではないのだと、そう改めてくれたらいい、と真琴は思うのだった。

「ありがとう。もう大丈夫だから」
 目尻を拭ったベリーはそう言って腰を上げた。尻についた草を払って真琴も立ち上がる。
「じゃあ、戻ろうか」
 広場に戻ろうと足を一歩踏み出したベリーが、荷馬車のほうに眼を丸くさせて小さく悲鳴を上げた。
「リヴァイ兵長!」

 荷馬車越しに、木に身を預けているリヴァイが立っていた。
「早く寝ろ。明日に疲れを残すな」
「は、はい! 失礼します!」
 姿勢を正したベリーが真琴をせっつく。
「早く戻ろっ」
「う、うん」
 いつから彼はいたのか。気にかかりつつも、ベリーに背中を押されて真琴は荷馬車を横切る。

「人を見て法を説くほど、お前は偉くなったのか」
 横顔にリヴァイのからい口調を浴びた真琴は肩を揺らす。その一言で、ベリーとの会話をおおかた聞かれていたのだと分かった。
 思わず足を止めた真琴の顔を、ベリーが遠慮気味に覗き込む。
「……真琴」
「先に行ってて」
 ストレスめいた微笑でベリーを促した。彼女は後ろを気にしながらも、火の粉が風に舞う広場へ歩いていった。

 腕を組んで真琴を見据えているリヴァイの言い方は攻撃的だった。ベリーへの対応は、ええかっこしいだったかもしれないと思っているので、羞恥と合わさって胸が悪くなってきていた。そんなふうに言われる謂れはない、と真琴は膨れっ面になる。

「盗み聞きなんて、悪趣味です」
「巨人が許せない、憎しみを抱いた――それで?」
 真琴はぐっと両手を握る。
「明日からはボクも――」
「巨人に立ち向かおうってのか。鳥頭はもう忘れたか、俺の言ったことを」

 ――生き残ることだけを考えていればいい。
 それについて考えにふける。そのような自分勝手なことは許されるはずはない。
 緊張気味に張った肩で、真琴はリヴァイにはっきり言った。
「仲間が危ない目に合ってるときに、自分の命を優先して見捨てるなんてことはできません」

 そう言った真琴はしかし、自分の言葉に違和感を伴っていた。はたして本心なのか、本音は一目散に逃げ出したいと思ってやいないか。それだと人道的に反するので、善人ぶっているだけなのか。
(それってただの偽善者じゃない。……違うわ、私は本当にそう思ってるはず)
 未知の恐怖は真琴の汚い部分を浮き彫りにしていく。知りたくなかった本性を曝け出そうとする。

 目線を落として自問自答している真琴に、冷たい眼差しのリヴァイは言う。
「殊勝なことだ」
 完全な嫌味である。反発した真琴が気に入らないらしく、不快感露わな態で腕を解き、幹に凭れていた背を離す。
「お前に何ができる。今日だって録に動けなかったじゃねぇか」

 図星を突かれた真琴は苦い唾を飲み下した。今日の失態を思い起こせば反論などできない。リヴァイが来てくれなかったら死んでいただろう。
 返答を待たずに痛い言葉は刺さってくる。

「道徳心は結構だが、闘う術もねぇのに、妙な感情論で無駄死にすると?」
「無駄死になんかじゃない、きっと未来の一欠片に――」
「無駄死にだ。舌先三寸で、踏み固まっていないお前の表面的な思いなど、欠片にもならない」
「そんなことない」
 足掻くように反論するのはリヴァイの言葉が胸に痛いからだった。
「お前はさっきの兵士に感化された、そうだろう」

 奥歯を噛み締めて、真琴は必死に頭を振る。「違う!」
 振り過ぎて目眩を起こしかけたが、自分を守るために否定せざるを得なかった。握り拳の中身は、ぬめり気のある汗でまみれていた。冷ややかな眼でリヴァイは嫌なことを言ってくる。真琴の内側に土足で入り込もうとしてくる。
 無遠慮な彼を胸の内から追い出したくて、真琴はがなった。
「あなたの言っていることは理に適ってない! 索敵班は言わば討伐班です! 陣形を維持するために巨人と対敵するんです! それなのに何もするなと言う! ならばどうしてボクを最前線にした!」

 リヴァイは僅かに瞳をしばたたかせる。が、惑ったのは一瞬で、次の瞬間には怒りに任せるように幹を上肢で打ち据えた。
「放っておけねぇだろう、落ちこぼれの部下を!」
 揺れる木から落ちていく数枚の葉っぱ越しに、彼は怒鳴る。
「壁外へまだ出したくなかったってのに、否応なく駆り出されちまったんだ! そばに置いとかねぇと、落ち着いてうかうかクソもできねぇ!」

 言われて、おおいに惑ったのは真琴の番だった。戸惑いの瞳を揺らす。
「壁外へ出したくなかったってどういうことですか。どういう意図で、ボクをあなたの班に入れたんですか。そんなふうに言われたら、まるで」
 まるで、守るためにそばにいるのだと聞こえるではないか。だからリヴァイは、芽生え始めてきた真琴の一揆する思いを嫌うのか。

 クソっ、とリヴァイは顔を背けてぼやいた。気持ちの整理がついていなさそうな面持ちで吐き捨てる。
「死ぬのは嫌なんじゃねぇのか。生きて帰りたいんだろう」
 これ以上、真琴は話を長引かせたくなかった。リヴァイと対話していると、本心を引き出されてしまいそうで怖かったのだ。

「……わかりましたよ、今回は大人しくしています。もうそれでいいですよねっ」
 話の矛先を逸らすつもりで、微かに金臭さ漂う周囲に視線をさまよわせて問い質した。
「そもそも、こんな時間にこんな場所で何してたんですかっ。ここには遺体を収容する荷馬車しかないのにっ。ちゃっかり立ち聞きまでっ」

 リヴァイは舌打ちをする。「あとから来たのはお前らだ。うじうじ泣かれてたんじゃ、戻りたくても動けないだろう」
 迷惑げに言い捨てたリヴァイは踵を返して去っていく。

「ベリーよりも前にいたってこと? ホントに何してたってのよ、お化けが出そうなところで」
 遠ざかっていくリヴァイの手には、布の切れ端のようなものが握られていた。それがここの場所と関係があるのかまでは分からなかったけれど。


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