02.七色の虹が大空に弧を描いた1

 何百頭も馬がいる広い厩舎は獣のつんとした臭いが鼻を突く。
 木枠の窓から新鮮な空気が流れてくる午前中。調査兵団で管理している馬の資料を持って、リヴァイは一頭の馬の前で立ち止まった。
 ピンと立っている耳にはJ六〇一一の耳票。つぶらな瞳の周りを纏わりつく蠅を、手で払ってやる。
「こいつしかいない」
 リヴァイは厚手の資料を開いて眼を通し一人呟いた。

 予定されている壁外調査に向けて、真琴に与える馬を選別中だった。壁の外で生き残るために必須なものは機動力。立体機動と馬だ。が、実戦で使えるほど技術が向上しなかった真琴には立体機動はなんの役にも立たないだろう。であるからして、いかに有能な馬を与えるかに重きを置かなくてはならなかった。

 通路には藁などが散らばっており、萎びた人参も転がっていた。それを拾い、リヴァイは不快になって舌打ちをした。
「ったく、掃除が行き届いてねぇ」
 長年雇っていた厩舎の世話番が体調を崩してしまったので、現在は臨時の世話番が馬の面倒をみていた。寝床の藁が汚れたままになっているありさまを見れば、新しい世話番が愛情を持って世話をしていないことが見て取れる。

「悪いな。気持ち悪いだろう、そんな寝床じゃ」
 そう話しかけると、馬は首を下げてリヴァイの手許に鼻を伸ばしてきた。生温かい舌でべろんと手を舐めてきたから、くすぐったくて口許が綻ぶ。
「人参が欲しいのか。少し萎びてるが、あとで腹を壊すなよ」

 食べていいと馬に差し出すと、人間の手まで含まないように優しく人参を咥えた。資料に書いてある通り、乱暴でなく心優しい馬のようだ。加えて厩舎内のどの馬よりも有能に違いないはずだった。
 ただ有能なのだと言い切れないのにはわけがあった。現在、この馬の主がいないことと関係しているのだけれど。

「くせぇ、くせぇ。肥溜めん中にいるみてぇだ」
 嫌気が差しているような口調が通路の先から聞こえてきた。飼葉を抱えた世話番の男である。
「おい」と話しかけるとリヴァイに気づいた世話番は途端に表情を変えた。胡麻すりするかのような愛想笑いに見えた。
「リヴァイ兵士長。いらしてたんですか」
 へこへこと駆け寄ってくる。

「臭いのは、しっかり掃除をしてやってないからだろう。馬のせいみたいな言い方をするな」
「すんません。朝からゴタゴタしててですね。いつもはちゃんとやってるんですが」
 頭に手を当てて世話番は馬の木戸を開ける。
「いまから綺麗にしてやろうと思ってたんでさ」
 嘘くさい笑顔だった。色んな人間を見てきて養ったリヴァイの眼が、この男は胡散臭いと教えてくれる。個人的に気に入らないが、不祥事があったわけでもないから解雇はできない。

 リヴァイは溜息をつくしかない。
「誠意を持って世話をしてくれ。俺たちが壁外で活動できるのも、すべてこいつらのおかげなんだ」
「分かってますって。ちゃんとやってますから心配しないでください」
 世話番はピッチフォークで糞まみれの藁を通路に掻き出した。そして馬の耳票を見て、無駄な手間をかけたとばかりに肩を落とす。
「なんだ……。こいつぁリヴァイ兵士長の馬じゃないですぜ」
「分かってる。どんな奴か見にきただけだ」

「こいつは駄目ですよ。能無しだ」
 掃除が中半端なままで男は木戸を閉めた。いやらしい顔で手揉みをする。
「俺の知り合いに、食肉業者がいるんですが紹介しやしょうか?」
「なんのために」
 一気に胸くそ悪くなってリヴァイの声が低くなった。世話番は怯む。
「い、いや――」

「世話番が余計な口を出すな。馬に関する取り決めは、俺たち調査兵団が下すことだ」
「へ、へぇ……。その通りで」
 へらへら笑いが怪しい、と一抹の不安を抱えながら、
「邪魔したな。掃除を続けてくれ」
 とリヴァイは厩舎をあとにしたのだった。

 考え事をしながらリヴァイは顎をさする。真琴に与えるなら、やはりあの馬しかないと思った。――が、問題をクリアできるかどうかだが。

 ※ ※ ※

 ハンジに連れられて真琴は厩舎を訪れていた。丁度昼食の時間だったようで、たくさんの馬たちが飼葉を食べている。
 一頭の馬の前でハンジが振り返った。
「この子が真琴に与えられた馬だ」
「間近で見たの初めて……。馬ってこんなに大きいんですね」
 見上げて呟いた真琴に、ハンジは眼を丸くしてみせた。
「へ? 初めて?」

「はい」頷くと馬が首を伸ばしてきた。真琴は慌てて後退る。「わ! ちょっと怖いから脅かさないでね!」
「……怖い?」
「あ、いえ。動物は好きなんですけど馬は触ったことがないんで」
 小さいころにポニーの乗馬体験をしたことはあるけれど。初めてを前にすると多少怖じ気づいてしまうものだ。
 おっかなびっくりで真琴は馬の顔に手を伸ばしてみた。口許をはむはむさせて寄せてきたから急いで引っ込める。
「わ!」真琴は笑う。「人懐こいんだ。可愛いかも」

 ハンジの笑顔が引き攣った。
「あのさ、念のために聞くよ。まさかと思うけど馬に乗れないなんてこと」首を傾ける。「ないよね?」
 笑ったままで真琴の時が止まった。たらりと汗が垂れそうだ。
 ハンジは頭を抱えて半身を反る。合わせて驚きの声が厩舎中にこだました。
「嘘でしょ――!? どうすんの!!」
 その日から予定をすべて変更して乗馬訓練が始まることとなったのだが――。

「なんでかな〜」
 次の日の昼。食堂で昼食中の真琴は、頬杖をしながらフォークを揺らしていた。周囲はいつもと変わらず騒がしいのに真琴の心情は異なっていた。
 後ろから、ぽんっと肩を叩かれる。振り返るとペトラが盆を持って見降ろしていた。
「隣いい?」
「うん」

 ペトラは隣の椅子を引いて腰掛けた。さっそくパンをちぎって口に放り込み、ちらりと横目を投げる。
「食事、全然進んでないじゃない。何か考え事?」
「うん。馬をね、与えてもらったんだけど」
「パートナーが決まったんだ、よかったじゃない」
「それがね、乗せてくれないんだよね。懐いてくれないっていうか」
 口に運ぶことなく、真琴は何度もスープ皿をつつく。

「よく調教されてても相性があるから。でも大抵乗せてくれるものだけど」
「相性が悪いって感じでもなさそうなんだ。乗馬指導をしてくれてるハンジ分隊長でさえ、背に乗せるのを嫌がったんだよね」
 パンにスープを浸して口に入れ、ペトラはもぐもぐさせて上目した。
「前の飼い主がいたとかない? よくある話よ、新しい飼い主に馴染まないことがあるって」
「それなのかな?」

 そのことについてハンジは何も言っていなかったけれど。実際どうなのだろう、と思いつつ、すっかり冷めてしまったスープを真琴はすすった。今日も肉が少なくて残念である。
「あ!」自分のスープを覗き込んだペトラが声を上げた。「お肉の塊が入ってた〜。真琴にあげるね」
 と言って肉を真琴の皿に落とした。

「いいの?」
「うん。実はダイエット中で」
 小声で言ってペトラは片目を瞑ってみせた。彼女の体型を見ればダイエットなど必要ないことは丸わかりだ。が、「充分細いじゃん」と言ったところで女が満足しないのは、自分も女であるから真琴も承知している。
「ありがとうね」
 食べ盛りの子供のように年中腹を空かせているので、真琴は喜んで肉を頬張った。

「でもこのままだと困るわね、遠征まで日がないのに。壁外で馬なくして私たちは無力だもの」
 そう、壁外での機動力は馬がすべてなのだ。巨人は人間にしか興味がなく、馬や自然のものに対してはなぜか無害なのである。
「どうしたらいいかな」
「兵長に馬を代えてくれるよう、お願いしてみたら?」
 と勧めてきたペトラに真琴はとりあえず頷くしかなかった。

「馬が懐かない?」
 書机で仕事をしていたリヴァイは真琴にそう聞き返した。
「はい。懐かないというよりは、人間を乗せたくないみたいなんです。ボクはともかく、ハンジさんですら振り落とされてしまう始末で」
「それで?」
 リヴァイは鋭い眼つきで見てくる。遠征前の準備で忙しいときに余計なことで煩わせるなと言いたげだった。

 きちんと整理整頓されたリヴァイの書机の前で真琴は考える。与えられた馬は穏やかそうな性格に見えた。体に触らせてくれるし、人間の手からエサも食べる。違う馬に代えてもらえば解決するのだろうけれど、どうして背に乗せることを嫌がるのか気になっていた。
「ちょっと調べてもらいたいんですけど、あの馬の以前のパートナーって、いまはどうしているんですか?」
 こんな組織だから、すでに亡くなっているという怖い答えを予想しているが。

 試すような眼でしばし真琴を見据えてから、リヴァイは一番下の引き出しを開けた。青いカバーの資料を取り出し、組んだ腿の上でぱらぱらと捲り始める。話の流れから、厩舎で管理されている馬のものなのだろう。
 ページを捲っていたリヴァイの指の動きが止まった。じっと見降ろしてから両目を上げる。

「J六〇一一。あの馬に以前のパートナーはいない」
「いない? ではこの前話していた、新しく買った馬の一頭なんでしょうか」
「いいや。あれは兵団にきてから三年目だ。資料によると、そのあいだ一度も人を乗せていないらしい」
 三年もいるのに背に乗ることを許された兵士はいなかったようだ。原因が引っ掛かりつつも、真琴はぼそりと零す。

「そうだったんですか。誰が試してもダメだった子に、ボクが乗れるわけないですよね」
「よく調べもしないで、適当に馬を決めてしまって悪かった」
「あ、いえ」
 大人しく引き下がるような物言いだったので真琴は呆気に取られた。このぐらいで弱音を吐かずに、もっと努力しろと喝が飛んでくると思っていたのだけれど。

「違う馬に代えてやる」
 リヴァイは資料を閉じた。
「こいつは残念だが、近々業者に引き取ってもらわねぇとな」
「業者?」
 ぽかんとしたまま訊くと強い眼力で真琴を見据えてきた。

「食肉業者だ。今回も人を乗せることができなかったら、この馬は処分して肉になるらしい」
「肉って、……そんなひどい」
「仕方ない。役に立たないもんはこうなる運命だ。飼葉代もバカになんねぇからな」
 真琴は原因がずっと気になっていたから、違う馬に代えてやるとリヴァイが口にした時もほっとはしなかった。試行錯誤して心を開いてほしいと、どこかで思っていたのだ。

 リヴァイと交渉する勢いで書机に片手を突く。
「待ってくださいっ。代えなくていいです、あの子でいきますっ」
「無理だ。ハンジから報告を受けたが、お前は貴族出なくせして乗馬ができないんだろう?」
 むぐっと真琴は閉口する。
「背に乗せるのを嫌がる馬に時間をかけている余裕があるか? 懐く保証もない、遠征までに間に合わなかったらどうする」

「ま、間に合わせます」
「下手な同情はいらん。馬を与えてまだ二日だ。情などないだろう」
 諦めさせるようなことを強めに言いながらも、リヴァイは試すような眼つきを変えない。胸に手を添えて真琴は必死に訴えた。

「同情は悪いことでしょうか。殺されちゃうかもしれないんです、助けようと思う気持ちって余計なことでしょうか」
 リヴァイは真琴をただ見据えている。
「あの子と出会ってまだ二日です。どういう気性の子かも、まだ計り兼ねてます。だけど巡り合わせを信じたいんです。リヴァイ兵士長は適当に選んだのかもしれない、でもそれも、あの子とボクにとってはきっと運命だったんです」

「大層なことを言う。もし間に合わなかったとして、壁外調査の随従を免除されるとは思うなよ。慣れない乗馬で挑むお前は、壁の外で死ぬことになる」
「死ぬ気で間に合わせてみせます」
 意気込み過ぎて真琴の声は割れた。

 と、リヴァイは口端をにっと上げた。「いいだろう。ただし期限を設ける。二週間だ、二週間で成果を出せ。駄目だったなら奴は肉だ、いいな」
 二週間でもし成果を得られなかったとしても延長を取ってみせる。真琴は頷いてみせた。

「よし」
 リヴァイが立ち上がった。角に置いてある木製のポールハンガーから外套を手に取る。たなびかせながら羽織って、
「鉄は熱いうちに打てってな。行くぞ、真琴はそれで出られるんだろうな」
「ど、どこに行くんですか」
 戸惑う真琴を置いてリヴァイは扉口で振り返った。

「原因を突きとめなきゃ始まらん。三年前にやってきたときから、あの馬は人間を乗せなかった。ならば要因は育った場所、調教師がいる牧場だろう」
「一緒に行ってくれるんですか?」
「子馬に有望なのがいねぇか、唾をつけてくるついでだ」

 跡づけだと思った。リヴァイは真琴に協力してくれようとしているのだ。真琴は笑顔で駆け寄った。
「ありがとうございます、このままで行けます!」
 そして二人は馬の生まれ故郷、ウォールローゼ南区の片田舎へ向かうこととなった。


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