01.わだかまりを誰かにぶつけたかっただけ

「ん〜……」
 兵舎の自室。ベッドの上で掛け布団に包まりながら、真琴は壁側に寝返りをした。さきほどから寝ることに集中できないでいるのだ。
 十秒もしないでまた反対側に寝返り。頭を向けている南向きの窓は一つしかないのに日中陽当たりが良い。けれど柄なしのカーテンの隙間が真っ黒なので、いまは夜中だと分かる。

「だめだ。朝まで我慢できそうにない」
 眠りたいのに眠れない。そんなもどかしい気分で起き上がり、掛け布団を剥ぐ。シーツの上で脚を滑らせ、ベッド脇に置いてある靴を履いた。
 かつらを被って真琴は部屋を出た。ひたひたと暗い廊下を歩いて向かうのは、トイレではなく厨房であった。

 あくびが出そうになって真琴は口許に手のひらを添えた。すっきりしない生あくびが一つ出た。
「夕飯のスープ、なんであんなにしょっぱかったの。塩加減を間違えたのかしら」

 厨房の調理人たちは、質素な材料をやりくりして、いつも美味な食事を提供してくれる。だというのに今晩のポトフはべらぼうに塩辛かった。火にかけている大きな鍋の湯気が暑くて、調理人の勤しむ汗が滴り落ちでもしたか。
 夜中になって喉が砂漠のようになってしまった真琴は、水を飲むためにこうして物音しない廊下を歩いているのであった。

 オアシスまで数メートルとなったとき、食堂の入り口から微かな明かりが漏れていることに気づいた。
(誰もいないと思ってたけど、念のためにかつらを被ってきてよかった)

 自室を出るときはかつらを装着するのが習慣づいていた。不思議なもので、頭に乗せた途端、直列回路と並列回路のどちらかを選ぶように気持ちが男装に切り替わるのである。男装時はおそらく直列回路で電池を使用している。神経を尖らせておかねばならないのでパワーが必要だけれど、逆に消費も激しい。

(誰がいるのかしら)
 真琴は入り口の影から食堂の中を窺う。卓上ランプの明かりを顔面にちらつかせ、食卓で座っている人物が確認できた。
(やっぱりお水は朝まで我慢ね)
 粘っこい苦味のある唾を飲んで、真琴は忍び足で回れ右をした。と、中から廊下へ声が飛んできた。

「こんな夜中にどうした」
 リヴァイの声で、真琴はぎくりと身体を揺らした。足音が近づいてくる気配を感じていたのか。入り口から食堂のほうへ覗き込んだ影も伸びていたのかもしれない。
(誰かまでは分かってないわよね。無視して帰っちゃおう)

「真琴か。こそこそしてないで、こっちへ用があるなら入ってくりゃいいだろう」
(バレてた……)
 目敏い。どうして気づいたのだろう、と真琴は首を捻りたい。去る機会を奪われたので、おずおずと食堂へ足を踏み入れた。

「水を飲みにきたんです。喉乾いちゃって」
「晩飯があとを引いてるのか」
「はい」と俯きがちに靴音を鳴らす真琴と、リヴァイの視線は合わさらない。彼の目線は手許の文庫本に落ちていた。暗い影のほうが場を占める、頼りない灯火に包まれて、読書をしているようだ。かさりとページを捲る音がする。

「ついさっきも、水を取りに兵士がやってきた」
「……そうですか」
 真琴の態度はよそよそしい。社交界以降、なんだか普通に接しづらくて他人行儀になってしまっていた。リヴァイの態度から察するに、マコが真琴であると露見していないことは確かだと思っているが。

 彼の後ろを通り過ぎて真琴はそそくさと厨房へ入っていった。頬杖を突いたリヴァイが横目で観察していたとは気づかなかったけれど。
 水差しとコップを手に入れて、やはり俯きながらリヴァイの前を通り過ぎようとした。「では失礼します。おやすみなさい」

「待て」
 呼び止められて真琴の肩がびくっと跳ねた。伺うようにリヴァイを見ると、座れというふうに顎をしゃくった。
「なんでしょうか。眠いんですけど」
「いいから少しつき合え」
 酒を飲んでいるわけでもないのに何につき合えというのだろう。話でもあるというのか。

 仕方なしにリヴァイの正面の椅子を引いて腰掛けた。目的である水分を取るためにコップに水を注ぐ。
 リヴァイの口は動かない。真琴が一杯飲み干しても、伏せ気味の顔は開かれた文庫本を見ていた。が、眼が一点を注視しているので読んでいるようには見て取れなかった。
 手持ち無沙汰なので真琴は二杯目を注ぐ。こぽこぽと涼しげな音が鳴る。
(……なんなの、この間)

 リヴァイが一言も発しないまま時間は流れる。
(これじゃあ次はトイレで目が覚めちゃう)三杯目の水を飲み干した時だった。
 しんと静まり返っている空間でリヴァイの微かな息づかいが静寂を破った。
「近頃よそよそしいが、俺を恨んでいるからか」
 真琴は一回ぱちりと瞼を閉じた。リヴァイの体勢は変わっておらず、相も変わらず目線は文庫本にある。
 リヴァイは真琴のよそよそしい態度に気づいていたようだ。けれど――

 真琴は首をかしげる。
「恨む? なんのことですか。唐突過ぎて分からないんですけど」
 眉の下や下唇の下に陰影が落ちている顔をリヴァイは上げた。言いづらいことなのか、唇が小さく開いたかと思えば閉口する。
「リヴァイ兵士長?」

 彼は文庫本を閉じた。伏し目だったリヴァイの瞳とようやく合わさる。
「お前を――最前線につかせたことに対して聞いた」
 真琴の時が数秒止まる。思考を乱されたあとで乾いた半笑いが出てしまった。
「なんでそんなことを聞くんですか」
「どう思ってる」
「聞いてどうしようというんですか」

 リヴァイは黙った。
 真琴はちんけな半笑いになっていく。非難じみた口調になった。
「いまさらそんなのが気になるだなんて……。まさか自分の決断に迷いがあるとかじゃないですよね」
 微妙に泳ぐリヴァイの瞳が真琴から逸れた。小さな反応だったが動揺したように感じ取れた。
「そんなのひどい」
 笑みを消して、真琴は食卓の下で拳を握った。リヴァイの瞳が再び戻ってきたが、

「エルヴィン団長を振り切って、意見を通したのはリヴァイ兵士長じゃないですか。あなたの決断一つで、ボクの生死が決まってしまうかもしれないんですよ」
 リヴァイが口を開きかけたが真琴は追求の手を緩めない。
「いまごろ揺らいでるんですか。あなたの下した判断で、ボクが怨霊になるかもしれないのが恐ろしくなりましたか」

 吐息のようにリヴァイは言う。
「そうじゃない、揺らいじゃいない」
「嘘! さっき眼を逸らしたじゃないですか!」
 つい荒い感情を表に出すと、リヴァイはぐっと黙り込んでしまった。

 真琴はリヴァイが許せなかった。索敵班になってしまったことはもう甘んじている。けれど怖いから考えないようにしてきたのに、決断した当の本人がいまになって揺らいでいるからだ。
(それならはっきり言ってやるわ)
 いまの真琴は冷静ではなかった。負の感情などリヴァイに抱いていないのに、彼の心に引っ掛かっていることを突き放すように言ってしまう。

「恨んでます、当然じゃないですか」
 ストレートに言ってみせたが、リヴァイは身じろぎもしなければ表情さえも変えなかった。崩れない態度に怒りが募っていく。甚だしくショックな顔を見せたなら、少しはすっきりしたかもしれなかったが。

 真琴の口調が荒らげる。「回答しましたよ」
「そうか。俺の用は済んだ、戻っていい」表情なしにリヴァイは短く言った。
「なんですか、それ」
 両の拳が震えるのは迫りくる大波のような怒りの衝動のせいである。起爆寸前の真琴は、食卓を両手で叩くようにして突として立ち上がった。ガラス製の水差しが、ことりと音を立てて倒れる。
「聞いておいてなんですか、それ!」

 零れた水が広がっていくから突いている両手が冷たかった。食卓の木目を透ける水が端から床へぽたぽたと滴ってゆく。
「前線に置かれてもボクに巨人なんて倒せない!」
「分かってる」
「みんなみたいに立派な正義感もない! 望んで調査兵団に入ったわけでもない!」
 眉を寄せてリヴァイは僅かな当惑をみせた。興奮して本音を曝け出す真琴を、しかしリヴァイは叱らないけれど。

「あけすけ過ぎる。望んでいたわけじゃないのなら、なぜ入団を決めた」
「知らなかったんですよ!」眼を瞑って激しく頭を振り、真琴は当たり散らす。「調査兵団が酷な組織だってことを知らなかったんですよ!」
「そんなこと小せぇガキだって知ってるってのに、なぜお前が知らない」
 この世界では当たり前の常識を、真琴が持ち合わせていないという事実に、リヴァイの表情に表れている当惑の色が濃くなる。

 情緒不安定になっている真琴の感情は、めまぐるしく変わる。水を触れる手を見降ろした。ぐんぐん冷えていくことで物恐ろしさを呼び起こされる。たちまち怖くて震えてくる。
「……どうしよう」
 感情的になっている真琴と、リヴァイはどう接していいか分からないのか。困惑の顔でただ見据えていた。
「どうしよう……。全然関係ないのに……縁もゆかりもないのに……死ぬかもしれないの?」

「少し落ち着け、気が動転してる」
 遠慮がちにリヴァイは手のひらを突き出した。彼にはどう見えるだろうか――命惜しさに取り乱す真琴が。
 顔を上げて捲し立てる。

「動転させたのは誰ですか! どうしよう! 死んじゃったらどうしよう! いやだ! こんなところで死にたくないのに!」
「大丈夫だ、俺が死なせない」
 及び腰で立ち上がり、リヴァイは噛んで含めるように言った。

「そんなの神様でもない限り分かんない! もし生きて帰れなかったから、どうしてくれるんですか!」
 頭を振りながら真琴は叫んだ。リヴァイもやり場のない思いを投げつけるように声を荒らげる。
「なら謝ればいいか!」
 食堂中に反響した声は真琴を大仰にびくつかせた。見開いた瞳からぼろぼろと涙が零れてくる。顔を覆って泣き叫んだものは懇願に近かった。

「謝らないでください! 揺らがないでほしいの! 間違ったなんて思わないで! そうじゃないと――」
 そうじゃないと、真琴の命を軽く扱われているようで虚しくなる。
「すまない、違う」
 弱り果てた顔つきでリヴァイはそう言った。急くように食卓の角を回って真琴の傍らに立つ。しかし額を押さえて、
「いや、違わねぇ。微かにずっと揺らいでたんだ」

 リヴァイが真琴の肩に腕を回そうとした。が、直前で躊躇ってなぜか思いとどまる。半月の夜は胸で泣かせてくれたのに今夜はそうしてくれない。
 代わりに顔を覗き込んできた。
「だがもう二度と揺らがない」触れるのを戸惑うように、真琴の頬に掛かる髪を指先で掬い上げる。「だからいい加減泣きやんでくれ」

 温かい大きな手は逡巡が垣間見えるが、ゆっくりと心を凪いでくれた。掬っても掬っても、俯いている真琴の横髪ははらはらと雪崩てゆく。それでも何度も掬い上げてくれる無骨な指先の体温を感じたくて、真琴はこめかみにすり合わせた。

「ホントは恨んでなんかないんです、嘘なんです。ただちょっと、わだかまりを誰かにぶつけたかっただけなんです。誰にも相談できないから」
「恨まれて当然だと思ってたが」困った子供だというふうにリヴァイは息を吐いて笑う。「胸がすいたんならいいじゃねぇか」

「ごめんなさい、錯乱してまって」
「落ち着いたならいい」
 真琴の口調が平常に戻ると、リヴァイの目許がたおやかになった。
 上官に無礼な口を利いたというのにリヴァイが咎めることはなかった。真琴の涙が止まるまで、優しい手は髪の毛を掠るように撫で続けてくれたのだった。


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