03.七色の虹が大空に弧を描いた2

 広大な牧草地は緑の絨毯のようだった。仄かな草いきれが真琴の鼻に通う。馬が自由に駆け回る、のどかな風景が遠くにまで広がっていた。
 リヴァイはというと、ポケットに両手を入れて柵の外から馬の様子を眺めている。涼しげな目許から、清々しい酸素を賞味しているように見て取れた。

 今回のことは真琴の問題だ。リヴァイに任せっぱなしにしないで自分で動かなくてはならないだろう。柵の向こうにいる牧草の刈り取り作業をしている老人に声をかける。
「こんにちは。お仕事中、申し訳ありません」
 作業の手を止め、老人は麦わら帽子をちょいと上げてみせた。こちらへ寄ってくると胸許の紋章を見て表情を緩ませる。

「おや、調査兵団のお方だ。わざわざこんな片田舎まで何用かね。新しい馬をご所望ですかい」
「あ……」柵の前で外套を風に揺らしているリヴァイに真琴は顔を巡らせた。「えっと、将来有望な子馬も、あとで見せてもらいたいんですけど」
 老人は牧場に向かって指を差す。
「それなら、いま母馬と並走している、あのチビなんかおすすめじゃて」

 真琴の肩にリヴァイの手がかかった。
「馬鹿、俺のことはいい」老人と向かい合う。「調査兵団所属、兵士長のリヴァイだ」
「ほっ! 兵士長様がおいでになさってるとは思わんで、失礼しやした」
 老人は眼を丸くし、麦わら帽子を取って頭を下げた。
「固くならなくていい、普通にしてくれて構わない」
「へぇ」と頭を低く下げた老人に真琴も名前を告げる。

「真琴・デッセルです。急にお伺いして申し訳ありません」
「それは構わないんですが。本日は馬の買いつけで?」
 リヴァイは首を振る。
「いや。三年前と言えば分かるか? ここからうちに来た馬は一頭のみだったからな」
 老人はすぐにピンときたようだ。が、表情が曇る。
「五年連続、大会で優勝した両親から産まれたサラブレッドのことですかい」
「そうだ、その馬のことで訊きたいことがあってな」

「三年経ってもなんの連絡もなかったんで、てっきり巧くやってるもんかと思ってたけんど……」
 何やら事情がありそうだった。長話になりそうだからと、老人は家屋に迎え入れてくれた。
 窓際に据えられた、あちこち皮が剥がれているソファに、真琴とリヴァイは通された。こじんまりとしたプレハブは人間の住処なのに獣臭がした。長年動物と供に暮らしていると、生活臭として染みついてしまうのだろうと真琴は思った。
 老人は珈琲を淹れている。

「あの馬の様子はどうですかい」
 リヴァイが真琴に目配せしてきた。お前が話せということだろう。
「人懐こくて優しい子です。でも」
「人を乗せなんだか」
「……はい。ベテランの人でさえ、背に乗せるのを嫌がりました」

 二つのカップを持って老人はやってきた。
「やっぱりか」卓に置いて、どうぞというふうに二人に出す。「環境が変われば、どうにかなると思ってたけんど」
「もう三年だ。うちにきてから一度も人間を乗せない」
 リヴァイが言うと丸椅子に座った老人は面目なさそうにした。
「申し訳ありません」
「話し振りから、どうも理由に心当たりがあるようだが」
「黙って送り出して申し訳ありませんでした。まったく駄目だとは思ってなかったもんで」

 背後の出窓から入ってくる風で真琴の髪がたゆたう。後頭部を押さえつけて振り返ると一面の緑が靡いていた。窓枠が額縁となって、動く絵画でも眺めているような光景だ。
 出窓付近にはいくつかの写真立てが飾られていた。どれも白黒写真で、見た感じ老人の家族なのだろうと思った。
 老人は珈琲をすする。

「あの馬はわしが調教しました。両親に似て、とても賢く足が早い馬でして」
 真琴が眺めている写真立ての一つを指差す。
「お兄さん。悪いけど、馬とわしと小さい女の子が映っている写真を取ってくれるかい」
「これですか?」真琴は写真立てに指を引っ掛けた。老人に手渡すと、懐かしそうに、それでいて寂しそうに眼を細めた。

「一緒に映ってる女の子はわしの孫でね。いまは天国で幸せに暮らしてるんだろうけんど」
 真琴とリヴァイは同時に息を呑んだ。
「お孫さん、亡くなられてるんですか。病気か何かで?」
「いんや、病気のほうがまだ救われたのかもしれん」
 老人は写真を指で撫でる。
「わしが調教していたあの馬と孫は仲が良くてね。背に乗せては遊んでやっていた。ところがある日、いつものように孫を乗せて走っている時だった。足許の蛇に驚いてな。暴れて孫を落馬させてしまったんじゃ」

「もしかしてそれでお孫さん……」
「あたりどころが悪くての。孫は息を引き取った」
 真琴とリヴァイは粛々と見交わした。原因はリヴァイの予想した通り、生まれた牧場にあったのだ。
 老人はシミだらけの目許を拭う。思い出して悲しくなってしまったのだろう。
「そうですかい。三年経ったいまでも人を乗せなんだか。あやつはいまだに引きずっているのかもしれんの」

 おそらく老人も責任を感じているに違いない。つらい話が終わり、二人はしんみりした気分でプレハブ小屋を出た。
 と、扉口でリヴァイは老人に引き止められる。
「お待ちください」
 と言って一旦小屋に消えた老人はすぐに戻ってきた。手に大きな紙袋を持っている。
「これを。古いし、なんの役に立たんかもしれませんが」

 手渡されて、中身を覗いたリヴァイは眼を丸くしてみせた。
「いいのか、貰っても」
「あれは走らせてなんぼの馬です。調教に関しては、わしは自信を持ってやり遂げたと言えます。厩舎で燻らせるのはもったいない馬だ。どうか、どうか」
 老人はそう言って何度も切に頭を下げた。リヴァイは横目で真琴を見る。

「どうだ。現状は限りなく難しそうだ。こんな話を聞いてなお、まだあの馬を手懐けるつもりでいられるか」
 悲しみを堪えて真琴は微笑んでみせた。
「あの馬って言い方、もうやめませんか」老人に言う。「調教中、あの子に名前ってあったんでしょうか」
「いんや、いつか旅立つ馬だからの。情が移っては互いにつらいから名前はつけないんだよ」

「そうかなとは思ってました。じゃあ、あの子ってずっと名無しだったんですね。主がいなかったんだもん」
 真琴は緑の牧場を振り返る。たてがみをたなびかせて元気に駆ける馬の姿がいっぱい見えた。
「この風景を見たときにピンときたんです」爽やかな風が真琴の瞳を自然と細めていく。「リベルタ。大空の下で人間を乗せて供に駆ける喜びを、リベルタと一緒に取り戻してみせます」
「リベルタか。お前にしちゃ悪くないセンスだ」
 遠くの青空を眺望しながらリヴァイは口端を綻ばせてくれた。

 その日から、真琴は一日の大半を厩舎で過ごすという生活をしていた。リベルタの小屋の掃除をし、綺麗にブラッシングをし、エサやりも真琴がした。
 纏わりつく蠅を、リベルタは頭を振って追っ払おうとしている。真琴は寝床に新しい藁を敷き詰めていた。
「さあ綺麗になったよ。今夜もよく眠れるといいね」

 こうして毎日話しかけているうちにリベルタは少しずつ気を許してくれるようになっていた。四つん這いで藁をならしている真琴に首を伸ばして甘えてくるのだ。
「どうしたの? さすがに一緒には寝れないよ。それとも小腹が空いちゃった?」
 固い毛が生え揃っている眉間を、こしょこしょとこそぐってやる。
 今夜で一週間と半分が過ぎた。そのあいだ背には一度も乗っていない。嫌がることを強要したくなかったから。ギリギリまで待って、良く懐いてくれた時点で試そうと思っていた。

「そろそろ期限が迫ってる。リベルタ……、乗せてくれるよね?」
 襟を正すつもりで聞いてみた。内心真琴も焦っていた。
 リベルタは穏やかな瞳で見つめてくる。信頼関係ができあがっていると過信してしまうような眼差しだった。
「じゃあ鞍をつけるよ」
 そばに置いてある重い鞍をリベルタの背に括りつけた。あまりにもリベルタが穏やかだから妙な期待を持って真琴は鐙に足を引っ掛ける。だが――

 鞍に尻をつけた瞬間、真琴の身体が大きく跳ねた。前脚と後ろ脚を交互に振り上げてリベルタが拒む。
「りべ――! 落ち着い――」
 宥めようと慌てて声を上げるも、激しい上下運動で舌を噛みそうになった。歯を食いしばって、真琴はたてがみを鷲掴む。
 振り落とそうとする必死の抵抗は凄まじく、真琴は地面に転げ落ちた。
「――痛っ」

 真琴は手を突いて半身を起こす。腰に鈍い痛みが走った。髪や服についた藁がはらはらと舞い落ちていく。
 鼻息を荒くしていたリベルタが、遠慮気味に首を伸ばしてきた。心配するような仕草が見て取れた。湿気った土で汚れる手を真琴は見るともなく見降ろしたままだが。
(どうしてダメなの! 誠意を込めて接してきたのに!)
 全身を打った痛みがもどかしさに変わっていく。水を注ぎ過ぎたコップから、やるせなさが溢れ出していく。

 どうしようもなくて衝動的に行動を起こしていた。手近にあった藁を掴んでリベルタに投げつけながら真琴は声を荒らげた。 
「どうして! どうして分かってくれないの! もう時間がないんだよ!? 殺されちゃうんだよ!?」
 困ったようにリベルタは頭を下げ気味に上目する。心なしか体を丸くして後ろへ下がり出す。
「あなたとまっすぐ向き合ってきたつもりなのに! どうして私の気持ちが分からないのよ!!」

「何してる!」
 突として上がった難詰な声。びっくりして真琴は飛び上がりそうになった。驚きで息が止まる。
 木戸の横からリヴァイが現れた。いつごろからいたのか。興奮していて全然気づかなかった。
 しゃがみ込んで小さくなっている真琴と、隅に追いやられているリベルタとをリヴァイは交互に見る。そして呆れたように首を振った。

「自分の不甲斐なさを、こいつに当たったのか」
 真琴は唇を噛んだ。図星なのでぐうの音も出なかった。そのうえ頭は混乱していた。いましがた素で叫んでいたが、リヴァイは言葉使いを異様に思わなかったのか。
 リベルタの体に張りついている藁をリヴァイは払う。

「ったく。これまで頑張ってきたってのに、こんなことぐらいでやさぐれるな。いままでのがパァになったら損だろう」
 長い鼻面についている藁も払い落として諭すように言う。
「お前は賢いから分かるだろう。馬鹿で未熟なご主人は、つい必死さが裏目に出ちまったらしい。許してやれるな?」

 指先で鼻筋を掻いてもらっているリベルタはリヴァイの手首に舌を伸ばした。彼が振り返る。
「よかったな。水に流してくれるとよ」
 色んな感情が入り交じって真琴は反応できなかった。リベルタの首筋を撫でながら真琴を見降ろすリヴァイの眼差しは物堅い。
「こいつを信じてやらなくてどうする。過去に囚われてるリベルタを救えるのは、もうお前しかいない。散々偉そうなことを言ったくせに諦めるのか」

 差し伸べられた手を取って真琴は起き上がった。粗っぽい手つきでリヴァイは汚れを払ってくれる。
「男だろう。一度言ったことは最後まで貫き通せ」
 男だろうと言われたことで真琴は胸を撫で下ろした。女言葉に関してリヴァイから特段不審に思われなかったようだ。
 しかしリベルタへの罪悪感が胸に巣食っていて、真琴は頭を垂れて前髪を梳いた。

「期限が迫ってるから、つい……。すみませんでした」
「俺に謝られてもな」
 片手を腰に添え、リヴァイはリベルタに顔を巡らせた。溜息をつく。
「なかなか厄介だ。真琴がひたむきに世話してるのは知ってたが、こうも執拗に嫌がるとは」
「あと三日あります。それまでになんとか……」

 言いかけて真琴は口を濁らせた。自信がなかった。三日でリベルタに乗れるようになるとは到底思えなかった。悔しくて泣けてくる。
「いつも……いつも中途半端。なんで巧くいかないんだろう。何一つ成し遂げられない」
 弱音を零しながらも涙は見せまいと唇を噛む。

 すると、かさりと紙の音がした。リヴァイの手には紙袋が下がっていた。中からぼろぼろな布を取り出す。
「牧場を訪ねた日、じいさんが俺に寄越したものだ。見た目ぼろぼろで薄汚ねぇが、おそらく腹帯だ」
「どうしてそんなもの」
「さあな。こんなボロじゃ使えもしない」
 と首を傾けているリヴァイが、手に持っている腹帯を真琴は眺めた。真っ白だったであろうキルトの腹帯は曇り空のような灰色をしている。生地は傷んでおり、糸もほつれていて、中身の綿がはみ出していた。

 端のほうにイニシャルの刺繍を見つけた。そっと触れる。
「もしかして、おじいさんのお孫さんが使っていた腹帯なのかも。これを付けてリベルタは駆けていたのかも」
「まあそうだろうな。まったく関係ねぇもんを寄越しはしないだろう」
 リヴァイは真琴に押しつけるように腹帯を渡した。
「使えもしねぇもんを渡されたところでゴミでしかないと思ってたが。どう使うかはお前に任せる」
 そう言ってリヴァイは去っていった。


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