12.酒の味がするはずなのに2

 背中の釦を外してしまったドレスは、リヴァイに凭れていることで、かろうじてマコの胸許に留まっていた。気絶からは脱したようだが、マコは酔いが残っていて意識がはっきりしない。
 どうしようか、とリヴァイは天井を見上げて考える。このままベッドに横たわらせてやればいいのだけれど、寄りかかる彼女の重みが愛くるしいから離すのが惜しかった。

「う……、ん」
 肩に頬擦りするようにしてマコはまた身じろぎした。それで胸許を守っていたドレスが腹まではだけていった。
 マコを見降ろすリヴァイの喉仏が悩ましげに上下した。薄闇に慣れた眼を釘づけにするのは、肌着の下に見える透ける二つの膨らみだった。

 触れないほうがいいと分かっているのに、リヴァイの手は勝手にマコの背中をそろりと撫でた。くすぐるように触れると、
「や、……ん」
 脳髄を痺れさせる甘い吐息を漏らした。

 拙いと思い、リヴァイは眉間に皺を寄せて眼を瞑った。
 遊んでいる貴族の女と同じようには扱えない。どんなに性欲をそそられてもマコには手を出してはいけない。一夜限りを許される女でないことは明白なのだから。彼女の思いはどうであれ、一夜限りでないならば責任を取ることで許されるのかもしれないが、生憎そういう気はさらさらない。

 ――さらさらないのに愛くるしく思うのはなぜなのか、分からない。

 男など所詮単純な生き物で、理性がストップを掛けているのに身体は自ずと動いてしまう。
 立てた膝に、リヴァイは彼女を凭れさせて引き寄せた。月光を浴びて光るイヤリングを避けて、マコの耳たぶを甘噛みする。
 切なげに喉を鳴らし、マコはふるりと上半身を震わせた。腹の下を直接うずかせてくる甘美な声がリヴァイの情欲を刺激してくる。もっと聴きたくて、熱を孕んでいる柔い耳たぶを唇で弄んでいく。

「マコは耳が弱いらしい」
「んッ。……そこで喋らないで」
 とマコが首を竦ませると、リヴァイは満更でもない気分になった。
「くすぐったいか」

 外側に傾けているマコの顔のこめかみに、リヴァイは唇を滑らせていく。片方の手はマコの胸部横を未練がましく撫でていた。手首付近に胸の膨らみが掠れており、本当は触れたくてたまらずにいた。
 すべすべの肌からは男を狂わせる催淫剤の匂い。ごく少量のようだけれど香油に混ぜられたものだろうと思う。

 眉を寄せているマコが、心地好く思っているのか、嫌がっているのかは分からない。けれど何かに縋りついていたいのか、リヴァイのベストをきゅっと掴んできた。
 ひ弱な仕草が愛おしいと思ってしまう。求められているのではなかろうかと勘違いしそうにもなった。

「なあ、マコ。好きなようにされてるが、俺が誰だか分かってるのか」
 反っている喉許に舌を這わしながら囁いた。獣が獲物を捕らえるとき、真っ先に喉に噛みつく気持ちがいまなら分かる。太い血管が何本も走る喉に食らいついてしまえば、制圧して己のものにできるからだろう。
「…………誰? …………分からない」
 眠気混じりの舌足らずな声は、リヴァイの胸を悪くさせた。
「誰だか分かんない野郎に、こんなことを許すのかよ」

 男にとってこういう状態の女は据え膳で喜ばしい――はずなのに苛ついた。意識が混濁しているとはいえ、無防備に肌を触れさせるマコにリヴァイは苛つきを覚えた。
「酔えば誰にでも股を開くのか」
「……違う、好きな人じゃないといや」
「甘い声で俺を誘惑してる奴がよく言う」
 性衝動のままに柔らかいベッドへマコを押し倒すと、たいして大きくない乳房でも扇情的に揺さぶれた。細い手首を鷲掴み、両腕を広げさせてリヴァイは跨る。

「犯されるぞ俺に。いいのか」
「……ダメ、いや」
 瞼を閉じたままでマコはいやいやと首を振るも、ひどく弱々しいものだった。中途半端な抵抗は男としては情欲を駆り立てられる。が、
(やめとけ! 手を出すな! 後悔する!)
 と脳内で鋭い声が響いた。

 けれど、薄く開いているあだっぽい唇がリヴァイは欲しくてたまらなかった。柔らかさを知りたい、甘い味がするのか確かめたい、と思っていた。
 この感情は言い表すとしたら独占欲である。あられもない姿を曝している彼女を、知っているのはリヴァイだけなのだ。己以外に誰も知らないという禁秘に悦を感じているわけだ。

 ベッドに肘を突いて、マコのこめかみから生え際よりに手のひらで優しく撫でた。顔を寄せてリヴァイは色っぽい唇に近づけていく。
(やめろ!)
 脳内で警報が鳴り続けているから、寸前で思い迷う。しばしのあと、なんとか踏みとどまろうと眉を顰めて眼を瞑った。と――、

 マコの顔が横に流れた。それで、互いの唇があまりに近過ぎたので掠れてしまった。
 飛び跳ねるように体勢を起こして、リヴァイは口許をつと覆う。瞠目しすぎて眦が裂けてしまうかと思った。

「クソアマがっ、ふざけやがってっ」
 心拍数が尋常でないくらい早く、耳にすら響いてきた。たかが掠っただけの口づけで、どうして青い少年のように心臓を爆発させているのか。安らかそうなマコを凝視しながら、不意打ちだったから驚いただけなのだと、リヴァイは自分を言い聞かせた。

(まったく……何をやってんだか俺は)
 ベッドの上でしばらく項垂れてからリヴァイはマコをちらりと見た。胸許が非常に目に毒なので、引きずるようにして枕許に頭を持っていく。
 途中ドレスが脚から抜けて一瞬眼を剥きそうになったが、パニエを着用していたので生脚が曝け出されることはなかった。なんだか面白くなくて彼女の腰許をぺしりとはたいた。そして、「んん…………ん」と屈託なく寝返りしたマコに掛け布団を掛けてあげた。

 それからリヴァイは、窓付近に据えられているジャガード織の一人掛けソファに腰掛けた。肘掛けに腕を預けて頬杖をし、月のあいだをうす絹のような雲が歩いていくのを見るともなく見る。
 リヴァイの指先がおもむろに唇を触れる。輪郭をなぞりながら、いましがたの感触を思い出していた。

 瞬きのあいだのことだったが、鮮明な記憶として脳に刻み込まれてしまった。しっとりと、それでいて柔らかく、温かだった。それと、酒の味がするはずなのにとても甘かった――気がした。

  ※ ※ ※

 可愛らしい小鳥のさえずりに誘われて真琴はゆるりと瞼を開けた。室内は薄暗いが夜明け前のような瑠璃色をしている。

 天井のクロスに見覚えがなくて、一瞬「あれ?」と思ったが、脳が覚醒していくにつれ、城の客室なのだとわりとすぐに気づいた。よく寝たような気はするが身体が怠い。寝たまま、「うーん」と背伸びした。
 伸ばした腕をぱたんと胴体の両脇に伏せる。なんとなしに窓のほうへ眼をやった。瞬間びっくり箱のように目玉が飛び出そうになった。

 ――ソファで頬杖を突きながらリヴァイが頭を垂れていたのだ。

 あまりのことで動けなくなった。真琴は混乱しつつリヴァイを注視した。瞳は伏せている。上半身の緩やかな動きから呼吸が深そうに見えた。どうやら寝ているらしい。
「やだ、どういうことよ、これ」

 高価そうなライティングデスクや、何かの戦いを織物で描いたタペストリー。室内の装飾は同じだけれど、メイドがいないので真琴の客室ではなく、リヴァイの客室のようだ。
 圧迫感がなくスカスカする感覚に、真琴ははっと眼を見開いた。がばっと掛け布団の中を覗き込む。
「なんで、どうして。ドレス着てないし、コルセットもつけてない」
 ドレスはハンガーに吊るされて壁に掛けられていた。いま確認しうる現状だけで推測してみる。

 脚を組んでいるリヴァイの格好は昨夜のままだ。白いベストにスラックス。シャツがだらしなく乱れている様子もない。
 真琴はドレスもコルセットも着用していないが肌着とパニエは着ていた。全裸でないことが何もなかったとは言い切れないが、限りなく何もなかったように思えた。
(あるわけないわよ、あったら困る)

 とりあえず自分の客室へ戻らなければならない。衣ずれの音をさせないように、そっと起き上がる。
 船を漕いだリヴァイの頬から手が滑って、かくんと首が落ちたことで彼が目を覚ました。まだ眠そうな眼でぼうと真琴を眺める。
 眼が合って、真琴は唇をむぐむぐさせた。火にかけられたように全身が発熱していく。

「な、な、な」
 問い詰めたいことが先走って巧く発語できない。あくびをして瞳を潤わせ、リヴァイはのんびり口調で言う。
「お前が気にしているようなことは何もなかった」
 間違いないか、とダメを押そうと口を開く前にリヴァイが先読みした。
「本当だ。何もない」

「じゃ、じゃあどうして私、ドレスを着ていないの」
「お前はコルセットのせいで気絶した。そんな状態の奴が部屋の場所など教えられるわけないだろう。だから俺の客室へ連れてきて、コルセットを外してやった。それだけだ」

 介抱してくれたらしい。九十九パーセント何もなかったと身体が言っているが一パーセントの疑いの色が真琴の眼に出る。てるてる坊主のように掛け布団を纏う。
「……それだけって言われても」
 行儀悪く足を乗せた丸テーブルに、リヴァイは引っ手繰ったホワイトタイを投げ置いた。鎖骨が見えるところまでシャツの襟を緩める。

「怪しんでるんなら下半身を確かめてみろ。パンツを履いてるだろう」
 言ってから変な間があいた。薄ら色づき出した窓の向こうへ、リヴァイは思量するように瞳を彷徨わせる。
「履いててもやろうと思えばできるが」
「な、ないわよね!?」真琴の声は裏返った。
 リヴァイの態度がかなり面倒臭そうなものになる。
「だからないって言ってんだろ、しつけぇな」

 朝日が昇り始めるまで凝視して、真琴は最終的にリヴァイを信じることにした。
 上目遣いで言う。「面倒をかけたわね。ありがとう」
「ああ、まったくだ」
 気怠そうに腰を上げてリヴァイは備えつけのクローゼットを開け放った。中からシャツを出してソファに投げる。着替えるらしい。
 真琴も早々に退散しなくてはならないだろう。

「部屋に戻るわね」
 掛け布団からシーツを剥ぎ取って身体に巻きつけ、ベッドから降りた。ドレスが掛けられているハンガーに手を伸ばそうとして、背後から伸びてきたリヴァイの手に止められる。袖釦を外しているから手首が曝け出されていた。
「部屋番号を教えろ。メイドを連れてきてやる」

「でも」振り返って、真琴の胸が高鳴った。リヴァイの顔が近かったからである。寝起きの怠さがまだ取れていないようで無精じみた眼つきをしていた。
「コルセットなしに着れるのかよ。昨夜脱がせて思ったが、あまり余裕がなさそうに見えた」
 さらりと言っているが女性に対して失礼だ。真琴は唇を突き出す。
「き、着れるわよ、コルセットなんかなくたって」
「百歩譲って着れたとして、後ろの釦を一人で留められるのか」

 無理かもしれない。真琴は口を結んで黙った。リヴァイは壁に片手を突き、真琴の耳許に唇を寄せてきた。
「別に俺が留めてやってもいいが。昨夜は暗くて幾らも見えなかった裸同然のマコを拝めるしな。役得ってやつだ」
 セクシーな掠れ声に腰が砕けそうなった。肩を竦めて真琴は顔を背ける。
「よ、呼んできて、早く! 三〇六号室よ!」

 数秒ほど視線が固定されている気配があった。ややあって、真琴の背中にやんわりと触れてきたリヴァイは、真情のある響きで低めに囁いた。
「一緒に珈琲でもどうだ。下のロビーで待ってる」
 ぽんと背を叩いて、シャツを片手にリヴァイは部屋から出ていった。

 その後メイドと共に部屋に戻った真琴は、鏡に映る自分を見て仰天した。首と胸許にある数個の赤い痣はどうみてもキスマーク。
「何もなかったって言ったくせに〜。なんて人なのっ」
 もちろん朝食の誘いなどお断り。リヴァイはロビーで待ちぼうけの刑を科せられたのだった。


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