09.うたかたのように霞みはしない

 ツンとした態度で大広間を歩く真琴のあとを、リヴァイはゆったりとついてきた。
「どこへ行く」
 返事をしないでいると、知らない男に横から声をかけられる。
「レディ、お一人ですか?」
「一人というか、なんというか」
 思わず立ちどまって真琴は言い淀む。

 リヴァイが肩であいだに割り入ってきた。さりげなく腰に腕が絡む。
「彼女は先約済みだ」
「そうでしたか、これは失礼しました」
 一人の女を取り合った形になったが、男二人は火花を散らすこともなかった。平和的にさらりとその場が収まった。
「あなたと約束なんてしたかしら」
 可愛いげなく尖る真琴をリヴァイは構いつけない。
「どこへ行く」

 唇を窄めて、真琴は上目遣いした。泰然自若なリヴァイを前にすると自分の態度がひどく幼稚に見えてきてしまう。
「少し暑いから、バルコニーで涼んでこようと思ったの」
「喉は乾いてないか? 何か取ってくるが」
「冷たいワイン」

「分かった。取ってきてやるから、さっきの所へ行ってろ」
 料理台のほうへ足先を向け、リヴァイはふと振り返る。
「変な男にくれぐれも引っ掛かるなよ」
「あなたは変な男じゃないのかしら?」
「愚問だな。その気ならとっくに部屋へ連れ込んでる。俺を誘惑したかったら、その乳臭さをどうにかしろ」

 額に零れる後れ毛をひらめかせ、リヴァイは立ち去っていった。つるりとした床を真琴はヒールで踏みつける。
「どうせガキよ!」

 六角形のバルコニーへ出た真琴は、熱が籠った胸許を手で仰いでいた。発汗して赤い斑点が浮かび上がっている肌に夜風が気持ちいい。若干興奮するほど、リヴァイとのひとときは楽しいものだったのだ。

「意外よね。そこらの貴族に劣らないぐらい、ダンスを踊れたり、気をつかえたり」
(わがままな女を手なずけたり?)
 灰白色の手すりに肘を突いて真琴は頬杖をしていたが。手から両頬を浮かしてぶんぶんと首を振った。
「手なずけられてなんかないわ。あの人は初対面でも、私は知っているから気を許しちゃうだけだもの」

 庭園を背にしてバルコニーの高欄に寄りかかる。片手にグラスを二つと、もう片方で小皿を持つリヴァイがこちらへ戻ってくる姿が見えた。が、数人の女性に取り囲まれる。
「やっぱりモテるのよね、あの人」

 頬を赤らめる妖艶な花たちを前にしても、リヴァイはいつもの態度を崩さない。あまり邪険に接している様子も見られないけれど。
 もしかすると、このままリヴァイは戻ってこないかもしれない。好意的な彼女たちのほうが、素直でない真琴よりも一緒にいて痛快なことは明白である。
 夜風が少し冷たいからだろうか。気持ちが沈んでいく。リヴァイから視線を逸らして、庭園のほうにくるりと身を回した。

「社交界で人気のある人が、私なんかを相手にするわけないじゃない。笑っちゃうわ、ただの気まぐれだったのよ」
 笑っちゃうわ、と口にしたが、とても笑えない心地だった。ぶすっとした面持ちで手すりに置いた両腕に顎を乗せた。バーゴラに絡みつく薔薇が、花弁を散らすさまをなんとなしに眺める。
 中途半端にちょっかいを出され、油断してドキドキしていた真琴は非常に消化不良だった。

「悪戯に女心を弄んで! 急にほったらかしにされてみなさいよ! 胸のもやもやをどこで発散すればいいの!」
 女性の体つきのような曲線をしたバルコニーの柱を爪先で蹴ってやった。固い石造りの柱はうんともすんとも言わず、ただ真琴の足を痛めつけただけだったが。
 背後で忍び笑いが聞こえた。
「ほったらかしてなんかないだろう」

 戻ってくるなど思いもしなかった。おまけに鬱憤を聞かれてしまったらしく、振り返った真琴の顔はサウナ上がりのように真っ赤に色づいていた。
「も、戻ってくるならそうと言ってよ」
「飲み物を取ってきてやると言わなかったか。あれで通じないとしたら相当馬鹿だな」
 珍しく可笑しそうにしながら、リヴァイはそばにある丸いガーデンテーブルに小皿を置いた。次いでグラスを差し出してくる。
「ほら」

 真琴は顔を逸らした。
「女の人に呼びとめられてたじゃない」
「それで機嫌を損ねてるのか」
「違うわ、喉がからからなのに飲み物が届かないかもしれないって思ったからよ。女の人にあなたが囲まれてたからじゃないんだから」
 とりとめのない真琴にリヴァイが眼を見開いてみせた。

「そこか」
「え!? いま何言ったかしら!?」
 リヴァイは取り澄ました表情に変えた。
「女たちは適当にあしらってきた。あんなのを相手にしても疲れるだけだ」グラスを受け取れと揺らす。「とりあえず少し飲んで、気持ちを落ち着かせたらどうだ」
「ありがとう……持ってきてくださって」

 水滴を纏うグラスを受け取って一口飲んだ。冷たい白ワインが乾いた喉を通って胃に落ちていく。
 改めて平静を取り戻した真琴は、大広間で気品よく笑い合っている女たちを見た。
「彼女たちを相手して差しあげてもよかったのよ。私といると疲れるでしょう」
「そんなことはない」
「嘘よ。どうして私なんかを相手にするの。綺麗な方がいっぱいいるじゃない」

 手すりに片腕を預けて庭園を見ているリヴァイが僅かに口を開いた。どう言おうか考えているような沈黙のあとで発語する。
「機嫌を取ってくるよう、エルヴィンに言われた」
 リヴァイが真琴を構うのは仕事の一環らしい。怒りに似た熱いものが腹に沸き上がってきた。
「出資者の娘だから胡麻をすってこいって? ならもう充分よ、マナー違反な挨拶は水に流しましたから。あとはご自由に楽しんでらして」

 立ち去ろうと身じろぎした真琴の腕を、慌てた様子でリヴァイが鷲掴む。
「違う、嘘だ」もどかしげに舌打ちをする。「ったく面倒な女だな。なんて言わせたいんだ、俺に」
 どう言ってくれたら気持ちが静まるのか。そもそもなぜそんなことを気にして機嫌が崩れるのか、真琴ですら分からない。

 真琴が口籠っていると、リヴァイはかぶりを振ってみせた。観念したような溜息をつく。
「一緒にいると楽だからだ。初めて会った気もしない。上辺だけの笑顔を振りまく香水臭い女どもより、マコといたほうが息がしやすいからだ。これでいいか」
「そんなことをさらっと言えちゃう人なんて、信用できないわ」
 ピンクの薔薇の花弁のように頬を染めて真琴は顔を逸らした。その表情を見たリヴァイは満足げに目許を和らげてみせる。

「選んだ理由は、お嬢様の望み通りのものだったようだな」
「選んだって、なによそれ!」
 また頭に血が昇って、今度こそ真琴は去ろうとした。手すりに素早く回してきたリヴァイの片腕で、バルコニーとの狭間に閉じ込められる。

「もういいだろう。いちいち喜怒哀楽して疲れないか」
 傍らの丸テーブルから小皿を取って奥行きのある手すりに置く。
「女の苛々を解消するのは甘いものが適してる」

 小皿には三色のアイスと苺やメロンが盛りつけてあった。甘い香りが空腹感を誘う。
「コックさんが盛りつけてくれたの?」
「いや? 女が好きそうなものを適当に選んできたが、嫌いなものでもあったか」
「そうじゃなくて」
 不器用さを感じる盛りつけなものの、皿には数種類のアイスや果物が乗っていた。
 締めつけで苦しい腹を真琴はさすった。昼食分はとうに消費されてぺちゃんこだが相変わらずきつい。胃が膨らんだら、さらにきつくなるだろうことは瞭然である。しかしながら、
「リヴァイさんが、一つずつお皿に移してくれたの?」

「そうだが」腹を触れている真琴を見て勘づいたように一つ瞬きをする。「腹が苦しいんだったか。それじゃ食えねぇよな。すまない、気が利かなかった」
 皿を引っ込めようとしたリヴァイの手をやんわりと触れた。みるみるお穏やかになっていく心持ちで、真琴はふわっと微笑んだ。
「ううん、いただくわ。お腹が空いてたから嬉しい」
 添えられている銀のスプーンを手に取る。

 止めようとしたのか、リヴァイは口を開いたが思い直したようだ。吹く風に数束前髪をたゆたわせて口許を綻ばせた。
「無理しない程度に食え」
「ええ」と真琴は黄色のアイスを頬張った。さっぱりとしたマンゴーの味が舌に広がる。「美味しい。あなたも食べる?」
 首を傾けると、「俺はいい」とリヴァイは喉を鳴らしてワインを飲んだ。アイスが減っていく皿を見つめて真琴はくすっと笑う。

「どれにしようか、料理台の前で迷ってるリヴァイさんを想像したら、可笑しくなってきちゃう」
「適当に選んだと言ったろう。迷うでもなく手前から取っていっただけだ」
「本当に? ご丁寧にフルーツまで添えてあるのよ」
 二個ある苺をリヴァイが摘んで口に放り投げた。
「俺が食べたかったんだ」

 甘い口の中を辛口のワインで中和した。グラスの縁についた口紅を指で拭いながら、夜空の向こうを見渡してみる。
 ずっと遠くのほうに点々とした明かりが横一列に並んで見えた。まるで東京臨海副都心と都心部を結ぶレインボーブリッジの照明のようだ。
「あれは何かしら」
「ウォールシーナとウォールローゼを隔てる壁だ。夜のあいだは、ああやって壁上でかがり火を焚く」
「壁より高い建物がないから、どこへ行こうとも見えてしまうのね」

 足の裏がちょっと痛くて、真琴はドレスの中で片方のピンヒールをこっそり脱いだ。
「充分に広いとはいえ、あれが見えるとやっぱり窮屈ね。籠の中の鳥みたい」
「箱庭で飼われている家畜と変わらない」
 リヴァイに吐き捨てられて、真琴の表情は曇った。
「私たち人間を、牛や豚と一緒のように言わないでよ」

「壁の外でうろつく巨人を見れば誰だってそう感じる。外敵から身を守るためでなく、食われるために飼われているんじゃないかと、そう錯覚しそうになる」
 遠くを見据えているリヴァイの双眸は虚無の色を帯びていた。
「例えそうだとしても、それに抗おうとあなたは闘っているんでしょう? 飼われているような現状から抜け出そうとして命を張っているんでしょう? そんな悲しいことを言ってほしくないわ」

 目線の高さで薔薇の花弁が舞う。はらはらと散っていくさまを見届けてから、リヴァイの唇が小さく開いた。
「抜け出したいが――ときどき空虚に思わずにはいられなくなるときもある」
 思いがけない消極的な発言だったので、真琴はリヴァイをまじまじと見た。彼の目線は遠くにある。
「そういうときは、どうやって心を持ち直すの?」

「空」と小さく呟いたリヴァイに、「空?」と聞き返した。
「初めて見た大きな空を思い起こす」
「その大きな空は、どこで見た空?」
「ウォールマリアの外だ」

 リヴァイのその言葉から五年前にはもう調査兵団にいたことが窺えた。いまは見ることが叶わない大空を、彼はその深い眼差しで見ているのだ。
「空虚を吹き飛ばすほどのその空って、どんな色をしてたの?」

「どんな色か……そうだな。何もかも吸い込んでしまうほどに、蒼く澄み渡っていたと思う」
「それでいて、太陽は瞳を開けていられないくらい眩しかったんでしょう?」
 微笑みながらリヴァイの双眸を見つめて口ずさんだ。いまここにいる人間の中で本物の空を知っているのは真琴とリヴァイだけだろう。彼の見た光景が目に浮かぶのも、おそらく真琴だけなのだろう。

 たまゆらに瞬かせたリヴァイの瞳に真琴が映り込む。そして遠い日に思いを馳せるように彼は眼を細めてみせた。
「天高く浮かぶ雲の下を、白い鳥が自由に飛び回る」
「自然のままに育った木々の葉が、風に吹かれて気ままに揺れる」
「日が暮れると太陽が地平線に沈んでいく」
「明け方は、東の地平線から淡い光の帯が天に向かって伸びる」
「再び太陽が昇れば、緑の大地がどこまでも果てなく、遠くまで続く」
「――心が洗われるような景色が、広がっていたのよね」

 顔を伏せ、リヴァイは小さく息を吐いて笑う。
「驚いたな。まるで見てきたふうな口を利く」
(だって知ってるもの)
 そう口の中で言った真琴はしかし、壁で囲まれてはいなくても、高層ビルが立ち並ぶ東京では、この国と大差ないと思ってもいた。頭に浮かんだ情景は、軽井沢や那須高原を思い描いていたのである。

「もう五年も見ていないのね、その景色」
「そうだな」
 首を傾けて真琴はそっと窺う。
「落ち込みそうになったときは、そうやって遠い日を思い出すの? うたかたのように霞みはしない? その蒼穹」
「霞みはしない。いまでも鮮明に瞳に焼きついてる」

「そう……。いつか見せてくれる? その大空」
 リヴァイは瞳をしばたたかせた。ややして口許に優しい色が帯びる。
「ああ。そのためにまた明日から頑張るさ」
「皺くちゃな顔で、壁外での記念写真はイヤよ」
 壁の明かりのほうに向かって自信満々にリヴァイは顎を尖らせた。
「任せろ。ばあさんになる前に何とかしてやる」

 人類最強と言われるリヴァイでも、壁外で体験したことが空虚を呼び起こすこともあるようだ。強い精神の持ち主に見えても、暗然としてしまうときがふとあるのだろうと真琴は思った。

 アイスを全部たいらげたら体温が落ちたのか急に寒くなってきた。両腕を交差させてさすっていると、上着を脱いだリヴァイが肩に掛けてくれた。
 ありがとう、と真琴は言い、襟を合わせて清潔な香りと一緒に温もりを閉じ込めた。

「壁外の空気って新鮮で美味しかったんでしょうね。一度知ってしまったら息苦しく思うもの?」
「ドブ臭く思うが、地下にいたころに比べりゃマシだ」
「地下って?」
 首を傾けるとリヴァイは言い迷うように瞳を泳がせた。つい口が滑ったというふうに見て取れる。やがて簡潔に発した。
「地下街だ。六年前に調査兵団へ入るまでは、地下街で暮らしてた」

「地下街って旧地下都市のことを言ってるの?」
「それ以外にないだろう」
 あまり言いたくなさそうに言い捨てた。
 ウォールシーナの地下にある旧地下都市。巨人が街に攻めてきたときに備え、大昔に建設された地下住居施設である。現在は国から放棄されて無法地帯と化しており、スラム化しているから決して近づかないように、とフェンデルからきつく言われている場所だ。

 バルコニーの高欄に背を凭れ、リヴァイは自嘲気味に言う。
「地下でドブネズミみたいに好き勝手してた奴が、こんなところでこんな服を着てる」白いシングルベストを摘んでみせる。「笑っちまうよな」
「可笑しくなんて思わないわ。昔の話でしょ。いまは調査兵団の兵士長さんなんだから、社交界に出席していたってなんとも思わないわ」

「そこだ」
 とリヴァイは自分を嘲笑う。
「調査兵団の兵士長。さっきのもそうだが、その肩書きがあるから女どもは寄ってくるんだ。だが所詮、上っ面に群がってくるだけで暇つぶしの遊び同然。貴族の娘が、地下のゴロツキなんざ本気で相手にするわけねぇからな」

「だとしたら、ここにいる女性たちの眼は節穴なのね」
 言うと、リヴァイの口が意外そうに半開きになった。彼のことが少し分かってきたから真琴は得意になって言った。
「地下のゴロツキさんって言うの? そんな上面だけに惑わされて、肝心なあなたの中身を見落としてる。彼女たちはかなり大損してると思うわ」
 
 呆とした態でリヴァイはオウム返しした。
「地下育ちが上っ面」
「ええ。そんなの上っ面、ただの外見よ」口端を上げて真琴は自分の左胸を叩く。「人間はここよ。そうでしょ?」
 口を利けないようで、リヴァイは群青の瞳をきらきらと瞬かせている。
 だいぶ偉ぶってしまったろうか。力説したことが急激に恥ずかしくなってきて、真琴は歌うようにおちゃらけた。

「――って、お父様が言ってらしたわ」
 かぶりを振り、リヴァイは息を吐くように笑う。
「どうりで、お前の言葉じゃないと思った」
「あら、前から知ってるような口ぶりをするのね。なんだか失礼だわ」

 彼の気持ちがどう変化したのかは分からないが、急にそうしたくなったのだろう。ひな鳥を温めるようにリヴァイの白無地の腕が真琴の肩を包み込んだ。
「寒くはないか」
「ええ」
 袖の縫い付け部分が、肩のラインから大幅に垂れてしまっている上着の両襟を、真琴は摘まんでみせた。背丈は変わらないのに、肩幅や胴回りの違いは顕著で、大きさが頼もしさを実感させてくる。
「おかげさまで温かいわ」
 微笑みかけると口許に拳を当ててリヴァイはぷっと笑った。
「足は冷たそうだが」

 真琴は眼をぱちっとして足許を見降ろした。ドレスの外側にピンヒールが転がっていた。
「やだ!」爪先を伸ばしてピンヒールを引き寄せる。「ちょっと痛くなっちゃって足を休めてたの」
「なんで黙ってる。知ってたら立たせてなかった。靴擦れか?」
 眉を寄せてそう言い、リヴァイはしゃがんで真琴の足を触れる。

「違うの、ヒールが高いから単なる歩き疲れよ。足の裏が痛いだけ」
「やせ我慢じゃねぇだろうな。まあ、風も出てきたし中へ入るか」
 リヴァイが真琴を促した時だった。


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