08.女心と秋の空
庭園をあとにして螺旋階段を登っていく。せかせかしたような金属質の音が入り乱れる。リヴァイに引っ張られている真琴と彼の踵の音だ。
「私ドレスなのよ、踏み外しちゃうわ」
「手を結んでいれば平気だ」
プリンセスラインのロングドレスは足許の視野が悪い。青銅色の階段に爪先が乗ったのかも確認しづらい。案にたがわず真琴は空足を踏んだ。
脳天から出るような高い悲鳴を上げると、即座に手首を強く引かれた。数段前を行くリヴァイが半身を捻って見降ろしている。
「本当にやるとはな」
「だからドレスなのよって言ったじゃない。エスコートしてくださるなら、もうちょっとゆっくり歩いて」
「ここから早く抜けたいだろ」
そう言って、お願いなど聞かずにリヴァイはまた手を引く。
「もう! 強引な方ね!」
滑らかそうな生地の背中に慨嘆を零し、内側のパニエごとドレスをたくしあげる。急ぎ足気味に真琴は階段を駆け登った。
大窓を抜けて再び煌びやかな大広間へ出た。薄闇に慣れた両目では、シャンデリアの光が眩しくて、真琴は顔を背けて眼を眇めた。
早い歩調を緩めることなく、リヴァイは大広間を突っ切っていく。
「どこへ行くの」
答えずにリヴァイはずんずんと人並みを縫っていく。と、談笑しているグループの紳士と真琴の肩がぶつかった。
「ごめんなさい!」
持っているグラスから赤い酒が散ったが、紳士は焦った顔を瞬時に笑顔に塗り替えて、
「お気になさらずに」
と首を傾けてくれた。
ほどよい艶を放つテイルコートの裾を左右に揺らすリヴァイに不服を言う。
「ぶつかっちゃったじゃないの。レディファーストって言葉を知らないのかしら。こんなふうに女性を引っ張る男性なんて、どこにもいないわよ」
無視された。前のめりになりながら忙しく両足を動かし、真琴はぷくっと頬を膨らませた。
中央付近までくると、交響楽団がヴァイオリンやチェロを弾いている姿があった。腹に響く派手な重奏に合わせて、鮮やかなドレスに身を包んだ女と男が麗しく踊っている。
(まさかダンスをしようっていうの!?)
リヴァイが何をしようとしているのか察した真琴は狼狽えた。後ろへ体重を掛けるようにし、足を踏ん張って引き止めにかかる。
「だめよ、私踊れないわ!」
真琴に引っ張られたリヴァイは、涼しい顔で肩越しに振り返った。
「なぜ? 貴族の娘だ。たかがダンスなんか朝飯前だろう」
養子だけれど戸籍上では元フェンデルの遠縁ということになっている。もともとが貴族ならば、箸の使い方を覚えるような感覚で、ダンスなど物心ついたころから教え込まれるのが普通なのだろう。
顎を尖らせて真琴は驕った態度を取る。
「ええ、当然よ、朝飯前だわ。でもさっき捻った足の調子が悪いの。華麗なダンスをお見せできなくて残念だけれど」
「大丈夫だと言ってたろう。見た感じ、腫れてもいなかったし捻挫もなかった」
リヴァイに手をくっと引かれたから真琴は引き返す。
「あなた踊れないでしょう? みなさんに笑われて、恥を掻くのはイヤだわ」
「見くびられたもんだ。嫌々ながらも、こういう場へは何度も顔を出してる。無用なスキルだが嫌でも覚えちまうんでな」
女性を手押し車のように引きずるリヴァイがダンスを踊れるとは驚きである。このままだと恥を掻くのは真琴だ。
「困るわ、だって」
言い淀むと有無を言わさぬ力でついと手を引かれた。次いでリヴァイの腕が腰に回り、ダンスをしている人々の真ん中辺りへ真琴は誘導されていく。
「要するに踊れないんだろう。ならば下手な言い訳などせず、男に任せておけばいい」
ヴァイオリンの弦を滑る弓の動きが早い。周囲の人をくるくると楽しげに踊らせる軽快な曲調はジルバだった。
向かい合って互いの手を結ぶ。リズムに合わせてリヴァイは軽やかにステップを踏み始めた。
「その場で回ってればいいだけだ。人とぶつかることもない」
「ステップなんて踏めないわ」
凛と背筋を正しているリヴァイが左右に動いた。動き方が分からなくて真琴はあたふたしながら方向だけを合わせる。
「ドレスで足の動きなんか見えない。適当にそれらしく動いてればいい」
「適当っていうけど、リズムが早くて」
周りは楽しげに踊っているのに、真琴はついていくのにやっとで眉間の皺が取れない。ダンスは進み、リヴァイに右手だけでリードされる。
だらけたような薄目でリヴァイは言う。
「難しそうな顔をしてんじゃねぇ。もっと楽しく踊れないのかよ、つまんねぇだろ」
「そういうリヴァイさんだって楽しそうな顔じゃないわ」
「これは生まれつきだ」
実は楽しんでいるとでもいうのか。お手のものという具合にリヴァイの動きはとてもスマートだけれど。
くいっと軽く引き寄せられた。拍子に、もたついている真琴の踵がリヴァイの黒い靴を踏んづける。
くぐもった音を喉から出し、リヴァイは眉を寄せて痛そうに片目をきゅっと瞑った。
「ごめんなさい!」真琴は慌てて足を引っ込めた。細いピンヒールは激痛だったに違いない。
「強烈な武器だな。男を撃退したいときは、いまみたいに踏んでやるといい」
別段怒られはしなかった。再度両手を結び合って、リヴァイの腕の中をくぐる。広く開いた真琴の背中にシルクの感触が密着した。
リヴァイが作る檻の中に閉じ込められて、
「それとも、俺を撃退しようとしたのか」
耳許でそう囁かれた。吐息がくすぐったくて真琴は首を竦める。
「違うわ、わざとじゃないの」
真琴の腹の前で互いの腕を交差させたまま、ゆらゆらとただ揺れる。辺りで踊る男女は次々にステップを変えていくのにリヴァイのリードが停滞していた。
タチの悪い当たり屋が、弱い立場の者を陥れるような感じで耳許に顔を寄せてくる。
「あんな痛みは初体験だ。世の中には女に踏まれて喜ぶ男がいるようだが俺は違う。どうしてくれる。足が使いものにならなくなったら立体機動に支障が出るんだが」
イヤリングがたゆたう耳に、吹きかかる生温かい息。両手を握られており、真琴は左耳を覆いたくても叶わない。それで左肩を上げて耳を庇った。
「あとでお医者様を派遣するわ」
「神経が死んでいたら間に合わん。どう責任を取ってくれる」
「もしそうなら、いま踊れてないと思うけど。意地悪よ、ちゃんと謝ったじゃない。ほかにどうしろっていうの」
真琴は弱った。交差している腕で腹を締められ、リヴァイとの密着度がさらに深まる。
「責任の取り方はいろいろあるが、マコは女だろう? 互いに最高な心地になれる、手っ取り早い方法があるじゃねぇか」
真琴は耳を赤らめた。聞き返すのは憚られたが、リヴァイが予想通りの答えを放ったら、尖った武器でいま一度足を踏んづけてやる気でいる。
「身体で取ればい――」
最後まで言わすまい。さあ、けしからぬ男の足を思い切り踏んであげよう、と真琴は右側に身体を回す。が、知恵の輪のように腕がきつく絡まって捻られなかった。
「あら!?」
背後では、ことさら可笑しそうにリヴァイが吹き出していた。
「馬鹿。そっちじゃ抜け出せない、こうだ」
繋いだ左腕で輪っかを作り、リヴァイは真琴を再びくぐらせた。絡みが取れて向かい合う。
「解いたことを後悔するのね!」真琴の艶めく唇は、いつの間にやら悪戯っぽく笑っていた。「ずっと絡ませておけばよかったのよ!」
両手を繋いだまま、ピンヒールの片足を大げさに振り上げてリヴァイの足を狙う。
リヴァイはひらりと後方に逃げる。「おっと」
「まだ諦めてないわ!」一歩ずつゆったりと逃げていくリヴァイの足を、踏むべく追う。
「待て、からかって悪かった、よせ」
そう言うリヴァイは楽しそうに見えた。そして真琴も愉快になっていた。
まさに女心と秋の空。彼の低俗な発言に、いましがたまでムッとしていたことをすでに忘れてしまっていた。波長が合うのだろうか。実のところ、リヴァイとのやり取りを真琴は小気味よく思っていたりするのだ。
「だめよ! もう一度踏まないと気が済まないんだから!」
ダンスなどそっちのけで、真琴は夢中になってどんどんリヴァイを追いつめていく。焦らずゆったり後退るリヴァイの背中が、後方で踊っている男女にぶつかった。
瞬時に引き締めた顔を巡らせ、リヴァイが謝る。
「すまない」
「気をつけなさい。子供みたいに、まったく。君らだけの空間じゃないんですよ」
邪魔をされた男女は、ぶすっとした態度で離れていった。
「やれやれ」
細められていくリヴァイの瞳に熱が籠ったように見えた。右手が真琴の肩甲骨の下を優しく包み込む。
計ったように演奏が変わった。緩やかな曲調は妖艶さ溢れるスローリズムだ。
「いい大人が怒られちまった。だからよせと言ったろう。困ったお嬢様だ」
「リヴァイさんこそ、悪乗りが過ぎたのよ」
彼の深い双眸を見つめていると、真琴は夢を見ているような気分になり、それで瞳を震わせた。直接素肌に触れるリヴァイの指先が、じわじわと胸をときめかせていく。
「左手は肩の少し下だ」
言われるままにリヴァイの右肩に手を添えた。盛り上がった筋肉は、しとやかにステップを踏むごとに僅かに痙攣した。
また女心と秋の空である。楽しかった雰囲気は、甘く空想的な情調に変わってしまった。妖美な音色と艶かしく寄添いながらダンスをする男女に、真琴は感化されたのか。
重ね合う片手が汗ばむ。気にして隙間を作ろうとするとリヴァイに強く握り返された。
円を描くようにゆっくりと回転しながらフロアを移動していく。が、真琴とリヴァイの狭間は不自然な空間ができていた。
「離れすぎだ。踊りにくい」
と言ったリヴァイが身体を寄せてこようとする。けれど真琴は一歩遠ざかった。俯いていると、頭に優しい含み声が落ちた。
「急にしおらしくなったな。何が起きた?」
「別に何も」
大人びた余裕がひどく憎らしかった。早鐘のように胸が躍っているのは真琴だけのようだ。難なくダンスをこなしてリードしたり、少し上から目線で真琴をからかったり、すべての所作がリヴァイを素敵な男だと知らしめてくる。
意識しているなどと悟られたくはないから、決心をして彼の腹辺りに半身を触れ合わせた。
「これでいいかしら」
「ああ」と端直に言い、リヴァイは演奏に合わせて踊る。肩甲骨付近を触れる彼の手が、特にいやらしくなることもなく健全にダンスを続けた。
周囲で踊るほかの男女を真琴は盗み見た。清潔に踊っているペアもいれば、艶っぽく寄り添ってただ揺れているだけのペアもいる。
(大胆ね。でも相手が好きな人なら悪くないかも)
頬を寄り添うように踊る男女から、つい眼を離せないでいた。と、耳に熱い息を吹き込まれる。
「ああいうのがお好みか?」
視線をリヴァイにぱっと戻して真琴は口籠る。
「大胆だと思って見ていただけで、ああいうのがいいとかじゃ」
「今夜の俺は気分がいい。遠慮しなくても、お嬢様のご希望に沿ってやれるが?」
引き寄せられて互いの胸許がすれ合った。リヴァイとの頬の位置も近くて、咄嗟に真琴は顔を背ける。二人の鼓動が競うように身体に響く。
二人にしか聞こえない声量でリヴァイは囁いた。
「ほくろ」
「え?」
「額の生え際近くに、薄い小さなほくろがある」
頬擦りできそうな距離でなければ見つからなかったであろうほくろ。その事実が真琴の羞恥を煽ってくる。
「細い首筋にも、目を引く胸許にも、華奢な肩にもないってのにな」
リヴァイの指が白い背中の窪みをさわとなぞった。「ん」と顎を引っ込めて真琴はつい甘い吐息を漏らす。どういうつもりなのか分からないが、これ以上ダンスをしているとリヴァイの罠に嵌ってしまう。
真琴は厚い胸板を手のひらでとんっと押した。それで微かに眼を丸めたリヴァイと、思ったよりも呆気なく距離を取れた。
「あなたって、女性に対して誰にでもそうなの?」
「そうなのってどんなのだ」
いけしゃあしゃあとリヴァイは首を傾けた。ムンムンとした気分で唇をもごもごさせてから、真琴は言い捨てる。
「リヴァイさんが誠実じゃないってことはよく分かったわ。一つ勉強になりました」
ドレスをたくしあげてヒールを鳴らし、真琴はダンスエリアをあとにした。
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mokuji
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