07.一匹だけ清明なミツバチが飛んでいたら2

 真琴は咄嗟に膝許を合わせて押さえつけた。長いドレスなので捲れることはないだろうけれど念のため。
「気にしてくださるのはありがたいけど、せめて予告してもらえるかしら」
 能面のリヴァイが顔を上げた。
「足を見せてもらう」
「いまごろ遅いわ」

「広間でも捻ってたろ。足首を痛めてないか」
 ラメがきらつくピンヒールの足を、傾けたりしてリヴァイが触れる。少し持ち上げられているので下着が見えないか心配だ。
「だ、大丈夫みたいね。痛みとかないし」

「しっかし武器になりそうな踵だ。マコはこういう靴が好きなのか」
「普段はもうちょっと低いヒールを履くから、正直に言うと苦手だけど」
 足首から手を離したリヴァイは、今度はふんわりと広がるドレスの裾を摘みあげた。下着である生成りのパニエが丸見えになる。

「着ているだけで重そうだ」
「ええ。絹ってずっしりと重いの」
 それにしても無遠慮すぎる。真琴は口端をぴくぴくさせて微笑み、
「さておいて、女性のスカートに触れるのはどうかしらね」
 裾を撫でつける拍子に不躾なリヴァイの手を払った。

 曲げた膝に片腕を垂らし、リヴァイは見上げてきた。
「明らかに動きづらそうで、こんなひらひらしたもんを着ないといけないとは、女ってのは不憫だ。そう思わないか」
 バルコニーから差し込む明かりと月のみの暗い庭園。リヴァイの双眸が探るような瞳に見えたけれど幻覚かもしれなかった。
 別段勘案せず、真琴は伸びやかに微笑する。

「そんなことないわ。華やかな服を纏えるのは女性だけの特権なのよ。髪を結ったり、アクセサリーを身につけたり、おしゃれって気分まで楽しくなるの」
 夢心地で喋る真琴を尻目にリヴァイは呆気に取られているように見えた。真琴は眼を瞑っており、弾む心が足を交互に揺らしている。
「男性と出掛けるときは、ちょっと背伸びして特別な服を選んだりして。だって可愛いって思ってもらいたいでしょ」

「こういう服が好きなのか」
「ええ。だけど」
 揺らしている足首を交差させ、困り笑いで首を傾けた。
「正式なドレスはちょっと苦手かしら。コルセットでお腹が苦しいんだもの」
「そんなもんか」
「そんなものよ」

 ぽかんと口を開け、未確認生物を発見したような横目で真琴を見ながら再びリヴァイは腰掛けた。
「なあに? 人を珍獣みたいに見ないでくださる? それとも変なことを言ったかしら」
「いいや。ただ――世の中にはとんちんかんなことが多いと思ってな」
 リヴァイはおおいに首を捻って腕を組んだ。

 またバルコニーに男が現れては消える。リヴァイが虫避けになってくれているおかげで、どうやら平和を確保できているけれど。
 知らない男と過ごすよりは人柄を知っているリヴァイのほうが気は楽である。ついつい初対面を装わなければならないことを忘れてしまいそうにもなるけれど。

 真琴はちらっとリヴァイを見る。
「ここに来たのは、リヴァイさんもお庭を眺めたかったからなの?」
 すらりとした鼻筋の横顔。何かを発しようとしたリヴァイの口が小さく開くが閉じた。言い直すように再度開く。
「詫びにきた」
「詫び?」聞き返した真琴は、すぐさまピンときて顔面が火照る。「まさか挨拶のときの?」
 ああ、と頷きもしなかったリヴァイは横柄で、背凭れに預けた背を少々滑らせた。全然詫びている態度ではない。

 温もりを思い出してしまった左手の甲を撫でつつ、真琴は顔を背けた。
「知らなかったのなら仕方ないけど、あんなふうに無理矢理手を取ったらだめなのよ。女性に伺ってからじゃないと、マナー違反と言われてしまうわ」
「知ってる」

 知っていたらしい。発言にちょっと目が飛び出そうになったが唇を突き出してぼそぼそと言う。
「キスも……唇をつけたらダメなのよ。あなたと私は親しくないでしょう」
「そんなのも知ってる、ガキじゃあるまいし」
 当たり前だろうと言わんばかりの倦怠な物言いだった。

 ならばなぜキスをしたのか。火照り続ける面容で真琴はがばっと向き直る。
「からか」
 からかって楽しいのか、と文句を言おうと思った。予想に反して、あっさりとした目顔のリヴァイと目が合ってしまう。それで真琴の目線が彼の唇へと徐々に引き寄せられていった。

 形のよい薄い唇は、どんな感触だったろうか。指で自分の唇を触れる。口紅を塗っているからしっとりしているが、リヴァイのはさらりとしており、真琴よりはふかふかではなかったと思う。

 リヴァイが首を傾けた。
「どうした」
「唇がさらっとしてた。でも柔らかくて」
「ああ?」とリヴァイはいっぱいに眉を顰めた。夢を見ているような真琴の表情で、なんのことかを察したようだ。動揺が垣間見える瞳を瞬かせて口許を手で覆う。

「何言ってんだ、お前。まさか自分のと比べてんじゃねぇだろうな」
「え?」不覚な発言にいまさら気づいた。真琴はあわあわし、冷たい手で両頬を押さえる。
「やだ、頭が可怪しかったみたい! わ、忘れてくださる?」
「努力する」
 頬を苦そうにして言い、半球の屋根の白いガゼボのほうへリヴァイは顔を逸らしてしまった。

 ぽかぽかと頭を殴りたい気分だった。たった一杯のシャンパンで気が緩んでしまったのだろうか。
 リヴァイとは反対側に半身を傾けて真琴は暴れる心臓を触れた。ふうと長く息を吐き出して落ち着かせることに集中する。

 月光を浴びる庭園は水の音と虫のさざめきだけが涼しげに響き渡っていた。会話が途切れてしまい、噴水の水の流れをただ凝視するしかない。
 すると、枯れ枝を踏んだような乾いた音がした。意識をそちらへ向ける。
「何かしら」

 そんなに離れていない庭園の隅で何かが動いていた。眼を凝らすと二つの人影だと分かり、こんもりとしたハーブ畑の一角に消えていった。
「おい、見るな」囁き声でリヴァイが諌言してくる。
「何かしらね、あんなところで隠れるように」
 言いながら向き直ると、嫌そうな色がリヴァイの表情に表れていた。「どうかした?」
 やがて理由が判明する。

 ――ああ、いい。
 艶かしい女の喘ぎ声が、薔薇香る風に乗って真琴の耳に届いたのである。

 あまりの衝撃で真琴は石になった。リヴァイと向き合ったまま、茶の瞳が徐徐に大きく見開いていく。顔にみるみる熱が広がっていくのを感じていた。
 ――ああ、もっと、もっと。ああ。
 艶かしい声がさらにエスカレートしていく。情事は盛り上がっているようである。

 真琴の声はうわずる。
「し、信じられない。ここに人がいるのよ」
「貴族様にとっては平生だ。珍しいことでもない」
 嫌そうにしていながらもリヴァイは平然とした様子だ。
「だって」言い淀む真琴からリヴァイは視線を外す。
「そんなに顔を真っ赤にすることじゃないだろう」

 真琴はすり寄るようにして訴えた。
「平気でいられるわけないじゃない。声が聞こえるんだから」
「悪い、処女には刺激が強過ぎたか」
 ばか、とリヴァイの腿をぺしりと叩く。叩いてから、にわかに鼓動が跳ねて真琴は手のひらを凝視した。

 スラックス越しに感じたのは凝縮された熱い筋肉だった。傍らで余裕そうにしているリヴァイも、情事中の人と同じく男なのだ。じわじわと意識させられてくる。
 近づき過ぎないほうがいいかもしれない。尻をずらして、真琴はほんのちょっと距離を取った。
「そもそも年の差が可怪しかったわ。ずいぶん若い女性と、お、おじさんだったのよ」
「それを言うなら、俺とマコも変わらない」

 肯定されたことで彼らの状況と重なり、リヴァイに対して妙な警戒心が生まれてきた。加えて、妖艶な薔薇の香りに混ざって耳に入ってくる淫靡な声が、真琴を変な気分にもさせてくる。
「あの人たちって、こ、恋人なのかしら」
「どうだかな」
「ち、違うの?」

「社交界ではよくある光景だろう」ハーブ畑に向かってリヴァイは顎をしゃくる。「男女の関係が純粋なものとは限らない。あれもそうだな」
「遊びってこと? 次元が違うわ。それにこんな外で……するものかしら」
 イヤリングをそぞろにいじると、掠った耳たぶが指に熱かった。落ち着かなく恥じらう真琴を、切れ長なリヴァイの眼差しが見つめてくる。

「さっきからそれ、本気で言ってるのか」
「何を?」

「そんなだからお前は狙われる。無垢な女がベッドでどう乱れるのか、男は抱いてみたくなる」ときめく囁き声が言い、リヴァイは真琴の腰に腕を絡めてきた。「潮時だ、もうここから」
 ぞくりと粟立つ。
「やっ」
 反射的に真琴の手は振り上がる。激しく動揺していたから、手のひらではなく、四本の指先がリヴァイの左頬にぱしっと当たった。

 力が入らなかったので、たいした威力はなかったと思う。が、リヴァイは叩かれた瞬間のままで、大きくした双眸を小さな星のように瞬かせていた。
「あ、私」
 叩いてしまった手を真琴は胸に抱く。
 手を振り上げたのは無意識だった。しかも当たってしまったことで真琴はさらに動揺した。泣きたい気持ちと恥ずかしい気持ちが半分半分で顔は火が噴く。

「ごめんなさいっ。でもだって、あなた変なことしようとしたっ」
 しどろもどろである。
 短く息をつくことでリヴァイは気を取り直したようだ。実直な瞳で見据えて淡々と言う。
「変なことなどするつもりはない」
「嘘、腕を回してきたじゃないっ」

「それは――」
 言い含めるようにリヴァイが覗き込んできた時、
 ――ああ! ああ!
 ひときわ欲に満ちた淫らな声が茂みから上がった。

「クソっ、なんだってんだ、あばずれがっ」
 リヴァイがことさら不愉快そうに舌打ちをしてみせたのと、真琴が眼を瞑って両耳を塞いだのは同じタイミングだった。
「もういや!」
「だから俺はっ」
 少し強い声を発したリヴァイは真琴の白い二の腕を触れた。
 指先から伝う人肌が身内に生じた色情を掻き立ててくる。真琴は思い切り振り払う。
「いや! 触らないで!」

「何もしない。どうしたんだ、一体」
 身体を縮こませて真琴は叫ぶ。
「違うの! 分かってるのよ! でもあの声を聞いてると変になるの! だからいまは触れてほしくないの!」
 リヴァイが瞠った瞳を揺らした。また腕に触れてこようとして、躊躇うように間際で手を握る。篤厚な語調で言う。
「顔が赤いうえに泣きそうじゃねぇか。こんなところにいつまでも居たくはないだろ。だからマコを引き起こして場所を移動しようとした。変なことをしようとしたんじゃない」
「分かってる。あなたに下心なんてない。私が変なのよ」

 下を向いて真琴は両耳を塞ぎ続ける。リヴァイは悶々とした溜息をついた。
「あんなの聞いてりゃ誰だって可怪しくなる。お前だけじゃない」
 羞恥だらけの顔を真琴はこっそり上げた。するともなく膝をすり合わせる。
「他人のなんて気持ち悪いと思うわ。でも身体の奥が……」
「熱くなるんだろう」

 言われてこくりと頷いた。
 純情ぶっているわけではない。何も知らない純真無垢な少女では決してないのだから。ただリヴァイを異性として強く認識してしまったことが、真琴の心をひどく乱すのである。

 眉尻を少し下げてリヴァイは小さく笑う。
「悪くない」
「何が?」
「いや、こっちの話だ」
 もしかしてリヴァイもミツバチに魅了されたのか。真琴本人は混濁中なのでそんな考えには至っていないけれど。

 静電気を防ぐような勢いで真琴は手首を掴まれた。一瞬びくっとしたが、次の瞬間にはリヴァイに引き起こされていた。
「とっととずらかるぞ。仕方ないからエスコートしてやる」
 そう言い放ったリヴァイは、ひどく傲然に見えたのだった。


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mokuji
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