06.一匹だけ清明なミツバチが飛んでいたら1

 一通りの挨拶が終わり、あとは自由に楽しんでよいと真琴はフェンデルに言われた。

 会場の壁よりに料理を乗せた台がセッティングされている。芳ばしい香りを放つ肉料理や魚料理、甘い香りのデザートなどが大皿に盛られていた。どれも食欲をそそるほど美味しそうだが、
「お腹は適度に減ってるのよ。でも入りそうにないわ」
 口惜しい気持ちで真琴は固い腹回りをさすった。刺繍を施されたドレスの内側では、コルセットが引き締めの仕事を現在進行形で果たしていた。

(これ以上苦しくなると本当に歩けなくなっちゃう。飲み物だけにしておいたほうがよさそうね)
 垂れが掛かったローストビーフに恨めしい溜息をつき、銀の盆に並んでいるシャンパンを手に取った。
 目の前ではコック帽を被ったシェフが肉を焼き上げている。フライパンに振られて、ひっくり返った肉の音まで恨めしく思う。
「そろそろ焼き上がりますが、ステーキはいかがですか?」
 シェフが勧めてきたけれど真琴は首を振った。
「ありがとう。さきほどいただいたので、もう充分ですわ」

 フライパンから皿に滑っていく厚手のステーキ。おそらく庶民はこんな贅沢なものはめったに食べられないのだろう。むろん調査兵団でもお目にかかったことはない。貴族と一般市民の格差を深く感じた。
 自由にしてよいと言われたが、真琴は行く当てもなくその場で佇んでいた。ふいに数種類のデザートが盛られている皿を横から差し出される。

「レディ。僕が選んだものですが、よかったら」
 三十代くらいの男だった。白い歯をキラリと光らせている。
「ご親切にどうも。でもお腹がいっぱいなんです」
「そうでしたか」男は皿を台に戻した。「いまお一人ですか?」
「ええ」
 なんだろう。窺うように真琴は上目でシャンパンをこくんと飲む。

「よろしければ僕と一曲どうですか?」
 と男はにこりと手を差し出してきた。
 驚いた。どうやら真琴をダンスに誘っているらしい。けれど踊れないので、
「ごめんなさい。足を痛めているので」
 断ると、「そうですか」と男はやや残念そうに去っていった。
 燕尾服の背中を見送りつつ、真琴は眼を丸くせずにはおれなかった。

「びっくり、私なんかを誘うなんて。ほかにもっと素敵な女性がいるじゃない」
 会場内の女に片っ端から断られて、余りものの真琴にでも声をかけたのだろうか。見た目はモテそうな男だったが。
 と、奇怪で首を捻っていたら背後からまた声がかかった。

「こんな所で可愛らしいお嬢さんが一人とは。よかったら私と一緒にお話しませんか?」
「私と?」
「ええ、あなたと」
 同年代に見える男は微笑んだ。話をするだけと言われても、一般人の真琴と貴族の男で会話が盛り上がるとは思えない。

「私、口べたなんです。きっとつまらない思いをさせてしまうわ」
「そこは私の話術に任せてください。楽しいひとときにしてあげましょう」
 紳士が馬に乗っている絵画付近で、楽しげにお喋りをしている貴婦人たちを勧めてみる。
「私なんかより、あちらの方たちをお相手されたほうが楽しいと思います」
「いいえ、あなたがいいんです」
 挨拶するように少し腰を曲げた男は、熱の籠った眼で手を差し出してきた。

 この男が嫌なわけではないのだがボロが出て恥を掻くのが怖い。それで、とにかく断るほかなかった。
 愛想笑いをして真琴は逃げるように後退った。
「ごめんなさい、約束があるので」
 会場内を早歩きで突っ切っているあいだも何度か声をかけられた。数十年に一度のモテ期到来だろうか。いちいち断るのも面倒になってきて、真琴は人目を忍ぶために大窓からバルコニーへと足を踏み入れた。

 後れ毛をたゆたわせる優しい夜風がフルーツ様の香りを運んでくる。
「わあ、いい眺め」
 二階からは庭園が見降ろせた。赤や黄色に色づくカップ咲きの薔薇が咲き誇っている。満開の具合から、季節は初夏が訪れたのだと分からせてくれた。
 側にある螺旋階段で下に降りてみることにした。ひんやりとした青銅の手すりに触れながら、転がり落ちないようにゆっくりと下っていった。

「イギリスの庭みたい」
 柔らかい芝生に降り立って真琴は辺りを眺めながら歩いた。オベリスクやアーチにこんもりと絡まる薔薇が弱い風に揺れている。次いで濃い芳香が鼻をくすぐってくる。
 噴水の前にある石造りのベンチに真琴は腰掛けた。思っていたよりも足が疲れていたようで、座ると染み渡るような疲労感を感じた。

 どれほど眺めていたろうか。おとぎ話の絵本の中にいる気分でくつろいでいたら、バルコニーのほうから声が降ってきた。
「会場にいねぇと思ったら、こんな所にいたのか」
 真琴はバルコニーのほうを仰ぎ見る。階段を降りてくるリヴァイの姿を捉えた。

(なんで鉢合わせするのよ)
 思わず腰を浮かせる。言い方が探していたようにも聞こえたので偶然な気もしないが。「お、扇。顔を隠さなくちゃ」
 だが手に持っていなかった。ベンチの両側をきょろきょろと探すがない。どこかに置き忘れてきたようだ。
 焦る。「どうしよう」
 顔付近で両手を翳している真琴は、ひどく不自然に見えると思う。いまは夜で陽射しなど出ていないのだから。

 階段を降りきったリヴァイが、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてきた。
(やだー、こっちに来るし)
 おろおろと挙動不審な真琴のそばで、芝を踏み鳴らす音がやんだ。
「探しものはこれか」
 一時間前と同じように、顔を伏せている視野に羽根扇が現れた。

「ええ、どちらで拾ったの?」
 受け取ろうとすると羽根扇がひょいと逃げた。リヴァイが引っ込めたからである。
「バルコニーに落ちてた」
「そ、そう。拾ってくださってありがとう。探していたから助かりました」
 もう一度手を伸ばすが羽根扇はなおもひょいと逃げる。どうして意地悪をするのか。

「か、返してくださる?」
「なぜ顔を隠す」
 真琴は下を向いたまま答えられないでいた。するとリヴァイが噴水のほうへ羽根扇をぽいと投げ捨てた。
「なんてことするの、人の物よ!」
 突然のことで顔を上げた真琴は半分腰を浮かせる。壷を抱える女神像の近くで、ぽちゃんと落ちる音がした。

「いらねぇだろ」
「いるわよ!」
 立ち上がって強く言い返した真琴は、顔を隠していないことに気づいてはっとする。急ぎ両手で覆うとした。リヴァイに両手首を瞬時に掴まれる。
「あばたがあるわけでもないのに、なぜ隠そうとする。自分の顔に自信がないのか」

「そ、そうよ。自信がないの」
「なら扇はいらない」
 どういう捉え方をしたのだろう。分からないが、とにかく距離が近過ぎる。真琴の胸を甘いうずきが襲う。
「だからって噴水に捨てるって――ないと思うわ」
「あんなもんどこにでも売ってるだろう。必要ならあとで弁償してやる」

 いまだけ必要なのだ。が、リヴァイに驚いた様子は見られないので顔を隠さなくても平気そうだけれど。といえど彼がいるのなら、もうここには留まれない。せっかく風景を楽しんでいたというのにがっかりである。
「弁償なんて結構ですわ。屋敷に予備がありますから」
 ではこれで失礼、というふうに真琴はぷんぷんして頭を下げた。去ろうと足を踏み出すと、解放されていない両手首をリヴァイにぐいと引かれる。

「行かないほうがいい」
「どうしてよ」
 リヴァイはバルコニーのほうへ顎を投げた。そこでは知らない男がこちらをじっと見ていた。
「マコ目当てだろう」
「またぁ?」
 仰ぎ見た真琴の声は、ついひっくり返った。言ったあとで、とても自意識過剰な発言をしたと思い、恥じて口を結む。

「何人目だ」
「か、関係ないでしょう、あなたには」
 唇を窄めて真琴は顔を逸らす。リヴァイの表情が僅かに鼻白んだ。
「引く手あまたとは結構だな。誘いに乗りゃいいじゃねぇか」
「一人でいたい気分だったの。ですからここに来たのに」
「追い払いたいか」
「そうね、断るのも疲れるから」

「妙案は」
 そう言ってリヴァイはベンチに腰を降ろした。次いで真琴の手首を遠慮なしに引くから冷たいベンチに座ることになる。
「俺と一緒にいることだ」

「あなたが直接あの方に言ってくださるの?」
「直接言うまでもない。間接的に効果を発揮する」
 と言い、バルコニーのほうへ顔を巡らす。
 二階にいる男が、びくんと肩を痙攣させたように見えた。ややして怖がるように大広間へ消えていった。一体何をしたのか。

 整髪料のせいか、いつもより束感があるリヴァイの後頭部に言う。
「もしかして眼力を使った?」
「一睨みであのざまか。小胆なくせして女を口説こうなんざ、百年早い」
 女神の壷から水が流れ落ちる噴水へとリヴァイは向き直った。蹴るようにして足を組む。
 真琴は眼をしばたたく。
「口説きにきたの? あの人」

「は?」リヴァイは呆れた眼をする。「何人にも誘われたんだろう。口説く以外に何の目的で近づく」
「仕方なく、余りものに声をかけてるのだとばかり思ってたわ」
「とんだお嬢様だ。そんなわけないだろう」
 溜息をついてリヴァイは首を振った。
「だって」
 私なんか相手にされるわけない、と言おうとしたら、いきなり顎を掴まれた。リヴァイの端正な顔がぐぐっと近づく。

「自覚がないのは罪だな。ケツから蜂蜜を散らしながらミツバチがぶんぶん飛び回ってるようなもんだ。男は差し詰め蟻か――地上に散った蜂蜜に群がる」
 奥まで見通すように眼を細めてからリヴァイは手を離した。
 ちなみにミツバチは腹に蜜を溜めるのであって、巣に帰ると口移しで蜜を吐き出すのだ。尻から散らすという彼の独特な発想は実に卑俗である。
「私がミツバチなの?」

 掴まれた顎の感触を消そうと撫でながら聞くと、リヴァイが舌打ちをした。しかし真琴にではなく、バルコニーのほうへだった。
「また蟻が来やがった」
 黒いスーツの男が見えた。しばらくすると去っていったので、またぞろリヴァイが睨みつけたのだろうと思った。
 確かに真琴は男を呼び寄せているようだ。

「とても下品な表現でしたけど的確な気もしてきちゃうわ。でも私、甘い匂いなんてするかしら」
「的確と言ったわりには意味が分かってないな。だがまあ」
 リヴァイはちらりと真琴を見る。そしてダイヤのネックレスが光る首許へ、唐突に鼻を寄せてきた。リヴァイからはいつもと違う男性用の香水の香りがした。
「あながち外れてもいない」
「やだ! さっきから何なのよ、顔を近づけてきて!」
 真琴はがっしりとした両肩を押しのける。リヴァイは鼻先で匂いを嗅いでいたようだ。

「香水って感じじゃねぇな。何か塗ってきたろ」
「香油。ラベンダーの香油でマッサージを受けたけど」
「それに混ざってたか」
 納得したような言い方だったが真琴には何が何やらだ。
「何が混ざってたっていうの」
「お前んとこは、跡取りに困って焦ってんのかもな」
「その匂いが蟻を引きつけるミツバチなの?」

 リヴァイは飾り気なくふっと笑う。
「違う。ミツバチってのはあれだ、世慣れしてないマコのことを言った」
「私とっくに少女じゃないわよ」
「ここじゃ似たようなもんだ。中身がドブみてぇなスズメバチばかりの中で、一匹だけ清明なミツバチが飛んでたら男は捕まえたくなる。籠の中で穢したくなるもんだ」

 とんでもない褒め言葉に聞こえた。世間一般の男性の気持ちを代表して表現したのだろうけれど、この場合リヴァイはどうなのかと気になってしまう。そんなふうに彼が思っているのだとしたら、全身を虫が這っていくようなくすぐったさに襲われた。それで対象者から消去したくて、ミツバチではないと真琴は否定したくなった。

「私が清いみたいなことをおっしゃるけど」
 言いかけると、腕を組んでいるリヴァイの顔がこちらを向いた。分かりきっているというふうに言う。
「どうせ処女だろう?」
「な――」
 ぱぁっと顔を真っ赤にして真琴は思わず立ち上がった。拍子に、また足首を捻ってリヴァイに覆い被さりそうになる。

 正面で抱きとめてくれたリヴァイが耳許で甘く囁いた。
「教えろ、どっちだ」
「い、いい加減殴るわよ!」
 顔に向かって真琴は恥ずかしさ混じりに怒鳴った。不快そうにリヴァイは目許を拭う。

「きたねぇな、唾が飛んだろうが」
 そして真琴を傍らに座らせ、やにわに腰を上げた。目の前で片膝を突く。
「そういやさっきも躓いてたな。靴が合ってないんじゃねぇか」
 と言ってリヴァイは真琴の足首を掬う。


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