05.頭の中でちゅっとリップ音が鳴った2

 リヴァイは両ポケットに手を突っ込んでいた。やれやれというふうに浅く溜息を零し、ポケットから手を抜いて前に出てくる。
(やだ、挨拶なんてしたくない)
 リヴァイの瞳に疑いの色などこれっぽっちも見られないのに、真琴の心臓はバクバクと激しくなる。挨拶をするようにと余計なことを勧めたエルヴィンは、もうそっちのけでフェンデルと談笑を始めていた。

 珍しく前髪を後ろに流しているリヴァイは、とても精悍に見えた。皺のない額に一束零れ落ちている髪の毛が、いやに色っぽい。漆黒のテイルコートも良く似合っている。
(ドキドキしてきちゃった。なんで? いつも見ている顔でしょ)
 見慣れている顔だけれど、今夜は垢抜けているせいだろうか。緊張とは別の鼓動で胸が甘く痛かった。羽根扇の柄を握る手が汗ばんでくる。

 対面している二人は一言も発しない。リヴァイはやる気なさそうに口許を閉じている。
(こういう場合は男性がリードするものでしょう。私から頭を下げろっていうのかしら)
 ドキドキしている裏側で小さな不服を覚えた。早く終わらせてこの場を去りたいから、真琴はこちらから折れることにした。

「初めまして。わたく」
 片足を下げて腰を折ろうとした。ところが、ピンヒールを履いている足を内側に捻ってしまう。
 曲がった足首に体重がかかって鈍い痛みが走る。小さく悲鳴を上げて、真琴は冷たい大理石の床に崩れた。
「大丈夫か」
 追うように屈んだリヴァイが、迷惑と心配の半々といった様子で眉を寄せた。
「ちょっと足を捻っただけですわ。ヒールが高いから」

 顔を下に向けている真琴は、マーブル模様の床に突いた自分の両手を見て眼を見開く。羽根扇を持っていない。
「あれ? 扇がない! さ、探して!」
「扇?」

 陽射しを避けるようにこめかみに手を翳す。尻を浮かせて慌てふためいて真琴は探した。が、焦っているためにしっかり顔を隠せていない。
 顔を覗き込むようにして、リヴァイは真琴の行動を怪訝そうに見ていた。真琴が少し顔を上げた拍子に、リヴァイが我が目を疑うとばかりに双眸を瞠った。
 が、真琴は探すことに必死でリヴァイの変化に気づかない。

「どこ? どっかに飛んでいっちゃったのかしら」
 下向きに探していた視界に、ふわふわな青い毛がついた羽根扇が差し出された。
「これか」
「そう、これ! あ、ありがとうございます」
 失礼になってしまったが、引ったくるようにして羽根扇を受け取った。真琴は急いで顔面を覆う。

 手を突いて立ち上がろうとすると、白蝶貝のカフスがちらりと見える手首が差し出された。リヴァイの表情はとっくに無表情なものにすげ替わっていた。
「また転ぶ」
「……ありがとうございます」
 迷ったがリヴァイの手を借りることにした。温かい手に左手を重ねると、ぐっと引き起こしてくれた。

「もう結構です。お恥ずかしいところをお見せしましたわね」
 手を離そうとしたら、
「挨拶がまだ終わっていない」
 と引っ張られて、二、三歩空足を踏まされた。思いがけない失敗に動揺しており、真琴は貴族のような優雅な微笑を保てていない。
「え、あ、そ、そうでしたわね。わ、私はマコ・フェン」
 続きが喋れなかったのは、リヴァイに鋭い眼光で射抜かれていたからであった。

「ど、どうかされましたか?」
 リヴァイは何も発しない。握っている真琴の手の付け根あたりを、指で探られているような感触があってこそばゆい。もしかすると女を口説くリヴァイの常套手段だろうか。強過ぎる眼差しからは、とても真琴を口説き落とそうとしているようには見えないけれど。それに、剣術の稽古で手のひらは豆だらけなので、そのような状態の手をじっくり触られるのは女として嫌だった。

 遠ざかり気味に真琴は言う。
「あの……、ただそうしているだけなら離してくださる?」
「いや。思うことがあっただけだ」起伏なく言ってリヴァイが王子様のように突然跪いた。「兵士長をしているリヴァイだ」

 真琴をまっすぐに射抜いたまま、リヴァイの薄い唇が手の甲に近づいていく。温かい感触が触れた。音などしていないと思うのに、頭の中でちゅっとリップ音が鳴った。
 さっと両頬を赤く染め、真琴は眼を剥く。

「な! ちょっと!」
 握られている手をぐっと引くが、さらにぐっと掴まれて逃げられない。リヴァイの唇は手の甲に触れたままである。
「し、失礼でしょ! は、離しなさいよ!」

 真琴の悲鳴に、お喋りで盛り上がっていたエルヴィンが気づいた。顔色を青く変える。
「リヴァイ! マコ嬢に何をしているんだ!」
 エルヴィンに片腕を強く引かれたことで、ようやくリヴァイは手を解き放った。
「失礼のないようにと、あれほど言ったじゃないか! 大事な出資者のご令嬢なんだぞ!」
 怒られているのに反省の色も見せず、リヴァイはおもむろに立ち上がった。頬冠りで耳も傾けていない。
 代わりにエルヴィンが頭を深く下げた。

「大変申し訳ないことをいたしました。あとでよくこらしめておきますので、どうかお許しください」
「いいんです、お気になさらないでください」
 それだけ言うので精一杯だった。口づけされた手を胸の中で庇う真琴は、荒れ狂う鼓動に襲われていたのだ。顔の赤味もまだ取れない。悔しいが、リヴァイに心をくすぐられたからに相違なかった。

 淑女の声が後ろからかかった。
「フェンデル伯爵様、わたくしの息子を紹介したいのですが、よろしいでしょうか」
「おお、ミネルバ婦人」とフェンデルが振り返ると、エルヴィンは頭を下げた。
「すっかりお引き止めしてしまいました。我々はこれで失礼します」
「すまんな、エルヴィン。またゆるりと話せる機会を設けようじゃないか」
「ええ、ぜひ」
 と眼をしならせたエルヴィンは、去り際に言い忘れたとばかりに振り返った。

 伯爵、と呼ばれてフェンデルと真琴も再び向き直る。「どうした?」
 何も裏がないような晴れとした微笑みでエルヴィンは言う。
「先月ご紹介していただいた真琴殿ですが、来月の壁外調査に随行してもらうことになりました」

 彼の言葉が大岩となって真琴の頭に落ちてきた。おそらくフェンデルの頭にも同じものが降ってきたに違いない。白内障の眼がショックを隠しきれずに見開いていた。
 引き攣った顔でフェンデルは笑う。

「ま、待てエルヴィン。真琴はまだ入団したばかりじゃろう」
「はい。ですが、彼は国の未来のために尽力してくれると約束してくれました。万年人材不足な調査兵団にとって、彼のような勇気ある青年は実にありがたいことです」

 尽力するなど言っただろうか。とんだ食わせものである。真琴は青ざめていく顔をなんとか気取られないように必死だった。フェンデルを思って隠し通していたというのに、まさかエルヴィンの口から露見するとは思わなかった。
 フェンデルは喉から声が出せないようだ。待ってくれというふうに、震える皺くちゃな手を突き出している。

「有望な青年を紹介していただき、まことにありがとうございました。彼の活躍が未来の架け橋になることを、私は強く願っています」
 まるで死んで橋の一部になるような言いようだった。こんなことをさらりと血縁者に放てるエルヴィンは、氷の心臓を持っているのではないのかと思ってしまいそうになる。
「では失礼します」
 笑みを変えずにエルヴィンは腰を折って背を向けた。フェンデルは手を伸ばして口を開くが、喉がからからなのか掠れ声は届かない。

 一緒に去ろうとしているリヴァイが、後ろ髪を引かれるようにふと振り返った。
「俺の班に真琴は所属する。行動も常に一緒だ。碌に実力もないが、無事に帰ると一丁前に言っていた。どうなるかは知らんがな」
 尻にかかるテイルコートの裾を翻して去っていった。

 どういうつもりで言い残したのだろう。なんとかフェンデルを安心させようと、配置されたのは荷馬車班だと嘘をつこうと思っていたというのに。リヴァイと同じ班だと知ったら、そんなでたらめを信じてくれなくなるではないか。
 居たたまれない気持ちで、しょんぼりと肩を落としているフェンデルを見る。

「おじさま……。嘘をついてごめんなさい」
「いや」フェンデルはかぶりを振る。「わしを気づかっての嘘だったのじゃろう」
 真琴は俯いた。華やかな空間にいるというのに二人だけ取り残されてしまったように見える。

「エルヴィン。あやつは自分にも厳しいが、他人にも厳しい奴じゃ。昔からまったく変わっとらん」
「昔から?」
 頷いたフェンデルは近くの椅子に腰掛けた。
「曲がったことが嫌い、周りに反対されても自分の信念を曲げない。こういう気質は嫌いではないが、ときに敵を作るんじゃな」

「エルヴィン団長は、おじさまに対してひどく感謝しているようでしたけど、それと何か関係があるんですか?」
「あやつがまだ分隊長だったころじゃ。上官の不正を正そうとしてのう、だがしかし逆に恨みを買って罠に嵌められてしもうた」
「罠?」
 フェンデルの声が掠れているので、通りかかったウェイターから水を貰う。ありがとうと彼は受け取って一口飲んだ。

「そのころ反政府運動が盛んでの。彼ら反乱分子に、エルヴィンが国の機密情報を売った罪として起訴されたんじゃ。罪をまるっきりなすりつけられてしもうたということじゃ」
「その事件におじさまは関わっていたんですか?」
「当時わしは裁判員をしておった。審議で堂々とした風体の、曇りのないあやつの眼を見てこれは無実だと思い至っての。まぁ勘だったんじゃが」

 フェンデルの勘は正しかったのだろう。無罪放免となったからこそ、いまの現団長があるのだろうから。
「おじさまの眼は確かだったんですね。そうでなければ団長でいられないもの」
 いや、とフェンデルは首を振る。
「たとえ無実であろうと、一度でも裁判沙汰を起こせば一生の傷になるんじゃ。すなわち出世の道が絶たれるんじゃよ」
「でも団長になっていますが?」

「旧団長が退陣して次の選任時に一悶着あっての。次期団長はエルヴィンという声が上がったんじゃが、トップに立つ人間は汚れていては駄目なんじゃ。まっさらでないといかん。案の定、昔の裁判沙汰を引き出しての反対意見が多くての」
 水をまた含んで、
「個人的にあやつを買っていたわしが、総統に進言したんじゃ」

 分からなくて、真琴は首をかしげた。
「総統?」
「三兵団のすべてを統括するトップじゃよ」
「ということは、総統はおじさまの進言を呑んでくださったのですね」
「日数を要したが、無事団長の座に着くことができた」
 エルヴィンにはそのときの恩があるということなのだろう。

「エルヴィン団長にも、そのような過去があったなんて意外でした」
「この件は巧く収まったからよかったが、いまだ正直者が馬鹿を見る世界だ。何とも理不尽じゃが」
 二人の間には信頼関係があるようだ。このたびの容赦ないエルヴィンの決断を、フェンデルはどう思っているのだろう。真琴は控えめに訊いてみた。

「今回のことで、仲違いになどなりませんよね?」
「すべてはわしが悪い。エルヴィンの言い分は間違っとらん。タイミングを見計らって壁外調査の前に辞めさせようと思ってたんじゃが、こんなに早く機が訪れるとは思わなんだ」
 すまんな真琴、とフェンデルは頭を下げる。

「仕方ないです。私もおじさまの言うなりに決めてしまって、何一つ自分で兵団のことを調べようとしなかったんですもの」
 綺麗に整えてある眉を下げて真琴は微笑する。
「壁外調査のことを知っていたら、きっと全力で断っていました。私にも否はあります」

 眼を細めてフェンデルは遠くへ視線をやった。その先には挨拶をしているエルヴィンと、少し後方で飾りになっているリヴァイの後ろ姿があった。
「真琴が壁外調査に出ると聞いたとき、目の前が真っ暗になった。じゃが不思議といまは晴れとる」
「晴れてる?」
「あの男と同じ班なのじゃろう」
 言われて、真琴はフェンデルの目線を辿って振り返ってみた。つまんなそうにしているリヴァイが小さく見える。

「はい。精鋭班です。初列索敵といって、一番……」
 口にしたくなかった言葉を、怖いくらいの真面目な表情でフェンデルが引き継ぐ。
「死亡率が高いのじゃろう」
「そうです。なのにどうして目の前が晴れるというんですか?」
「あれが真琴のそばに常にいるというのなら、絶対に無事に帰ってこれる。わしはそう思った」
 絶対という言葉をフェンデルは力強く言ってみせた。
「そこまで言い切れるのはどうしてですか?」

 真琴と眼を合わせてフェンデルは言う。
「あれの眼が誠実だったからじゃ。終始寡黙だったくせに、最後は余計なことを言い置いた。どうしても伝えておきたかったんじゃろう」
 自分の左胸をどんと叩く。
「人は外見だけじゃ分からんよ。どんなに礼儀正しく見えても、品格があるように見えても、中身が伴っていなければ意味がない。あの男は確かに無愛想で礼儀がなかった。だがそれは外側じゃ。大切なのは中身じゃよ。わしはあれの中に、温かいものを見たような気がした」

「温かいもの」
 思いを巡らせながら、真琴は息を吐くようにして反復した。
 頷いたフェンデルの眼差しが優しい色になる。
「同じ班というからには、ずっと一緒に鍛錬しとるんじゃろう? 真琴は何か感じはしなかったか?」

 たった三ヶ月でリヴァイとは色々あり過ぎた。振り返ると嫌な思い出ばかりじゃないことに気づく。言いあった、笑いあった、泣かせてもくれた。
 真琴は切なく微笑んで、そうしてやんわりと頷いた。
「私も同じ印象を抱いています。彼の胸の中に、温かいものがあるとずっと感じていました」
 自分でも驚くほどに、素直な気持ちを吐き出せたのだった。


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