04.頭の中でちゅっとリップ音が鳴った1

 今夜宿泊する城内の客室に不要な荷物を置いてから、真琴とフェンデルは大広間へ向かった。
 豪華なシャンデリアがある会場は、回廊の落ち着いた明るさとは段違いの眩しさだった。あちこちから聞こえる上品な笑い声も場の絢爛さを引き立てている。

 初めて見る世界に真琴の口はぽかんと半開きになる。場慣れしているフェンデルは早速挨拶に取りかかっていた。
 派手な額縁に入れられた、大きな西洋絵画が上部にある扉口付近で、動けなくなっている真琴をフェンデルが呼ぶ。

「マコよ、おいで。紹介しよう」
 呼ばれて真琴は両目をしばたたかせた。「あ、はい!」
 両手でドレスを摘んでフェンデルのもとへ駆け寄る。
「呆としてしまってごめんなさい」

「石のように固まっている姿は調度品かと見紛うたぞ」
 フェンデルは喉を反らして笑い、
「初々しいじゃろう。わしの娘で今夜が社交界デビューなんじゃ」
 と、鼻下に白髭を蓄えた老人に自慢げに言った。
 精一杯の演技で真琴はにわか仕込みの挨拶をした。急遽メイドから教わった作法である。
「マコ・フェンデルと申します」
 片足を下げて、なるべく優雅に見えるようおじぎした。細身の老人は柔和な糸目になる。

「純朴な佇まいは老いぼれの胸を鷲掴む。大事なご令嬢のお手を、お借りしてもいいのかな?」
「マコ。こちらはダミアン子爵じゃ。ぜひ挨拶をしたいと言っとる」
 戸惑っている真琴の腰をフェンデルが控えめに押す。
「わしのチェス仲間じゃ。なに、心配はいらん。こやつは熟女好きでな、若い娘に下心などない」
「やだわ、お父様。そのようなことは心配しておりません。作法に不安があって」

 紳士らしく腰を折ったダミアンは、真琴に手を差し出す。
「女性が心配するなかれ。こういうことは男性に任せておけばよいのですよ」
 慎ましげな微笑みだけで返し、真琴は遠慮がちに手を差し出した。軽く握られて、ダミアンの唇が近づく。肌に触れることなく、そっと手を解放された。

 真琴は眼を丸くした。
「この場合の挨拶もフリなんですね」
「よほど親しい者以外は唇をつける者はいない。簡単に触れさせてはいけないよ」
 アドバイスというばかりにダミアンはきゅっと片目を瞑った。
「分かりました。助言をありがとうございます」

 最初の挨拶をきっかけに、紳士淑女からフェンデルは次々と声をかけられていた。そのたびに真琴を娘だと紹介した。
 中には変わった人間もいて、挨拶の隙を狙って真琴の尻をぽんと叩いてきた者もいた。フェンデルは別段怒らなかったので、怪しい人ではなかったのだろうけれど。そうして貴族の挨拶にも慣れてきたころだった。

「これはこれは、フェンデル伯爵殿!」
 後ろからかけられた声で真琴の心臓が飛び出そうになった。急いで羽根扇を開き、目許以外を隠す。
「おじさま、無視で!」
 囁きの念押しは通じなかった。顔を合わせないように気をつけると言ったのに、フェンデルは嬉しそうに振り返ったのである。

「おお、エルヴィン!」
(嘘でしょう! おじさまったら能天気過ぎるわ!)
 窮地に陥った気分だ。真琴は足を踏み鳴らしたい衝動に駆られた。が、真後ろから声をかけられて、無視して先を行くというのも回避しようがなかったといえるけれど。

 真琴の背後でエルヴィンとの会話が始まる。
「当時はお世話になりました。お変わりなくお過ごしの様子で安心いたしました」
「義理深い奴じゃ、もう何年も前のことじゃろうて」
「いまの地位も伯爵のお力があってのものですから、何年経っても感謝の気持ちは薄れません」
 労うようにフェンデルはエルヴィンの肩を叩く。
「変わりないのう。お主も息災で何よりじゃ」
「おかげさまで」

 挨拶の前に話が進んでしまったエルヴィンは、いま気づいたように腰を折った。わざわざいいというふうにフェンデルがさらに肩を叩く。
「どうじゃ、兵団は」
「伯爵が毎年提供してくださる資金のおかげで、なんとか回っております。だというのに直接挨拶に伺うこともできずに、毎回お礼状だけになってしまって申し訳ありません」
「いいんじゃよ。わしは輝ける未来に出資しているだけじゃ。お主も忙しいのだろうし」

「貧乏暇なしというのはこのことです」
 常時よりも前髪をぴしっと固めてきたエルヴィンは困ったように笑った。つられてフェンデルも可笑しそうにする。
「じゃが代わりに良い人材に恵まれておるではないか」
 と、斜め後ろに控えるリヴァイを見る。
「人類最強の英雄。彼が加わってだいぶ楽になったのではないか」
「はい。私の片腕として、よく働いてくれています」
 エルヴィンは目配せをした。「リヴァイ、お前は初めてお目にかかるだろう。紹介を」

 エルヴィンがリヴァイの名前を出したことに反応して、ずっと背を向けていた真琴はそろりと向き直った。不自然に後ろを向いていたというのに、いままで指摘もされなかったのは、二人の会話がそれだけ弾んでいたからであった。
 辟易というふうにそっぽを向いていたリヴァイの顔が正面を向く。小さく溜息を零したことに真琴は気づいた。

「兵士長をしているリヴァイだ」
 なんという挨拶だろう、愛想がまったくなかった。
 小さな声でエルヴィンは非難する。
「おい、ちゃんとしてくれと、さきほども注意しただろう」
「よいよい」笑んでフェンデルは片手を振る。「男というものは、あまり周囲に媚びても格好悪いものじゃ。世のために尽力してくれているのだから、むしろわしは気にならん」

 一応しっかり眼を見てリヴァイは挨拶をしたけれど。また顔が逸れていくとき、ちらりと真琴を見てきた。表情も変えずに、興味がないといった態で、貴婦人の塊のほうへ瞳が流れていった。
(全然気づいてないみたいだわ。エルヴィン団長も特に変化はないし、なんとか大丈夫みたい)
 安心して、真琴は羽根扇越しにほっと息を吐いた。きちんと顔を隠していれば露見せずに済みそうである。だからといって長居はしたくない。ボロが出てしまうと困るからだ。

 二人の楽しげな会話が一段落ついたようだ。エルヴィンはようやく真琴に気づく。それで眼を丸くしたから見抜かれたと思って、一瞬どきりとした。
「伯爵、そちらのご令嬢は? もしやと思いますが、再婚されたのですか」
「それは愉快なお主のジョークか?」
 フェンデルは笑って、
「こんな若い娘が、よぼよぼのじいさんのところへ嫁に来るわけがなかろう。娘じゃよ、わしの」

「養子に迎えられたのですか」
「うむ。近頃一人でいるのが寂しくなってしもうての。養子といっても、どこからともなく貰ってきたわけじゃないぞ。歴としたわしの血縁じゃ」
 聞き入れたエルヴィンは穏和な表情を見せた。
「事情を知らなかったので、つい驚いてしまいました」真琴に頭を下げる。「大変失礼いたしました。話に夢中でレディを置き去りにしてしまったことをお許しください」

 団長であるエルヴィンに頭を下げられるとは思わなかった。いまは貴族の立場なのだから可怪しくはないのだろうけれど、変な汗が出てくる。

「いえ、お気になさらないでください。お父様が楽しくしていらっしゃると、私も嬉しいので」
「よろしければ挨拶をさせていただきたい」エルヴィンはフェンデルを窺う。「よいでしょうか?」
「もちろんじゃ。わしが死んだあとはマコが跡目じゃからのう。いまのうちに媚を売っておいたほうがよいぞ」

 満足そうに頷いたフェンデルが何を考えているのか理解不能である。真琴が調査兵だということが、おそらく頭から抜け落ちてしまっているのだろうけれど。

 片手を後ろへ回し、エルヴィンは腰を曲げた。
「調査兵団、十三代目団長を努めさせていただいております、エルヴィン・スミスです。以降お見知りおきを」
 実直そうな蒼い瞳だけで真琴を見据え、片手を差し出した。
 慣れてきたはずの作法なのに、緊張で真琴の脚が細かに震える。淡いコーラルピンクのネイルを施してきた手を差し出す。

「マコ・フェンデルと申します。これから先も、お父様と良き間柄でいてくださいね」
「願ったりです」
 柔らかな手つきで真琴の手を握り、エルヴィンは甲にキスをするフリをした。再び顔を上げた彼は優しく微笑んでいた。その瞳は、真琴のことをなんら疑っていないものに見えた。

 一安心したのも束の間、次いでエルヴィンはリヴァイに目で合図をする。
「お前も挨拶をしておきなさい。くれぐれも失礼のないようにな」


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mokuji
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