20.伏せ気味の睫毛で隠れる眼差し

 訓練場の森の中で、リヴァイが巨人の模型を操っていた。ロープをいっぱいに引き、近くの木の幹に巻きつけて固定する。
「こんなもんか」
 うなじを狙う真琴が何度失敗してもいいように、模型を出しっ放しにするためであった。
 二人して模型を見上げる。

「立体機動を維持しながらうなじを削ぐのは、お前にはまだ無理だろう」
 リヴァイは斜め上に向かって指を差す。
「あの枝に飛び移って、立ったままでいいから削いでこい」
 立体機動がいまだ苦手な真琴は密かに溜息をついた。「はい」
 グリップを両手で握って距離を目測する。目標の枝までの高さは十メートル超あった。
(高いな)

 空中でアンカーの差し替えができない真琴は、一回のワイヤー射出で枝まで辿り着かなければならない。高さに怯みながらも、トリガーを操作して目をつけた場所にワイヤーを飛ばす。アンカーは木屑を散らして望み通りのところに突き刺さった。
「よし。次は」

 木に向かって張っている黒いワイヤーを二本とも強く引っ張る。しっかり刺さっていることを確認した。
 後ろで様子見しているリヴァイの溜息が聞こえてきた。
「またか。そんなふうに確認する奴はどこにもいないぞ」
「訓練兵団に入りたての子ならいるかもしれません」
 と言うと、頭を振ったリヴァイにまた溜息をつかれた。

 というのも、アンカーの刺さり具合が弱くて二メートルの高さから一度落下したことがあったのだ。すっかり恐怖症になってしまった真琴は、こうしないと安心できないのである。
「いいから早くガスを噴かせろ」

 覚悟の深呼吸をしてから真琴はトリガーを引いた。腰許の装置からガスが噴き出て瞬時にワイヤーが巻き取られていく。
 怖じ気づいた真琴のガス量は少なめで、もうちょっとで枝に降り立てるというところで、重力によって落ちそうになった。小さな悲鳴を上げて、咄嗟に枝に両手を掛ける。

 下から容赦ないことを言われる。
「俺は助けにいかない。落ちたくなかったら、なんとかしろ」
 真琴の呻き声が漏れた。
「雲梯は苦手なのに」
 両腕に力を込めながら片足を幹に引っ掛ける。リヴァイから見たら、おそらくカエルのような格好悪い姿に違いない。
 肘を掛けて悪戦苦闘しつつ、真琴はなんとか枝によじ登った。

「分かってるだろうな。縦一メートル横十センチだ。きびきびやれ、時間がもったいない」
 息を整える暇もくれず、リヴァイがせかしてくる。
 木登りをしたことで真琴はすでに疲労困憊。ぜいぜいしながら焦れったく声を張り上げた。
「いまやりますって!」

 枝の高さよりも少し高めの位置から見えるのは、弾力のある素材が括りつけられている模型だ。突いてみた感触は体育マットの固さに近い。
 腰許に下げられている収納箱からグリップを差して刃を嵌め込んだ。長さのある刃は、引き抜くときに腕をいっぱいに伸ばさなければ切っ先で引っ掛かってしまう。

「交差して引き抜くほうが、もしかして楽だったり?」
 すらりと引き抜く剣豪のような想像をしつつ、真琴は刃を構える。
「縦一メートル、横十センチ」自分に再確認させてから気合いの声を放った。「やっ!」
 頭の中ではうなじを削ぎ取ったつもりだったが――二本の刃は突き刺さったままグリップから脱着してしまっていた。
「なんでこうなっちゃうんだろ」

 必要な量を削げなくてもなんとか切り裂ければいいと思うのに、それすら叶わない。さすがに落ち込みそうになってしまう。
 釈明のしようもなく、おずおずとリヴァイを見降ろした。頭を垂らし、ゆるゆると横に振る姿が見えた。
 嵐の夜に、彼に散々尻を叩かれたというのに、いまだ成果を上げられない。苦手分野だとはいえ、どうしようもないクズに思えてくる。元気な太陽が真琴を明るく照らすのに、心境は曇り空だった。

 頭上を突風が通り抜けた。力の籠った短い声と同時に、下草に塊がどさりと落ちてきた。綺麗に削ぎ取られた三日月型の物体は巨人の模型のうなじ部分である。
「よっしゃあ! 今日は調子がいいぜ!」
 オルオは模型から木の枝に飛び移った。続いて、前髪をなびかせる向かい風によって、額を晒しているペトラが刃を構える。勇ましい声とともに、オルオが削ぎ取ったうなじの余った部分を削いだ。

 動体視力が養われていない真琴は、二人が削ぐ瞬間は、銀色の刃の残像しか見て取れなかった。ペトラは正確に切り取ったように見えたが、
「浅いぞ、ペトラ! いまのじゃとどめはさせなかったぞ!」
「言われなくても分かってるわよ!」
 言い合いながら二人は森の奥へと消えていった。

「もういいかな」
 木の影で模型の操作をしていた真琴は力いっぱい引いていたロープを弛めた。顔を出していた模型は、ぎしぎしと鈍い音を立ててゆっくりと影に隠れていく。
 ぴりりとした微かな痛みに片目を瞑る。ロープで少しこすれた手のひらを指で撫でた。「豆が潰れちゃった」

「どうした」
 オルオとペトラの出来を背後で見ていたリヴァイがそばに立った。真琴の右手を取って、人差し指と小指の付け根にあるたこを見降ろす。浅く頷き、
「正しい場所に剣だこができてる。基本の扱い方が身についてきた証拠だ」
「前までは全部の付け根にできてました」
 ほんのり肉色の手のひらには治りかけの跡があった。

「グリップを握る手に余計な力が入ってたんだろう。左はどうだ、見せてみろ」
「こっちは相変わらずみたいです。あまり力が入らないし、剣も使いづらいです」
 真琴は左手を見せた。四本指の付け根、第二関節部分にも固めのたこができている。
「利き手じゃないから難しいのは分かるが……こりゃひでぇ」

 傷の具合ではなく、正しくないたこの出来具合のことをリヴァイは言ったのだ。彼は腰のポーチから五百円玉大の薬入れを取り出した。蓋を回して開け、青っぽい軟膏を指に取る。
「薬がしみるかもしれん」
「薬なら自分で塗ります!」
 薬を塗ってくれようとしてリヴァイに再び掴まれた手を、慌てて真琴は引こうとした。が、ぐっと引き戻される。
「左手は仕方ないとして、右手は頑張ったじゃねぇか。うるさく小言を言い続けた甲斐があったってもんだ」

 ひょっとして褒められているのだろうか。眉も口許もいつもの能面なので分からないけれど。
 真琴よりも長いリヴァイの人差し指が手のひらを滑る。
「痛そうだな。今夜の風呂はしみそうだ」
 ひんやりとした軟膏は血が滲んでヒリヒリする傷に心地好かった。けれど他人の傷口に触れてリヴァイは気持ち悪くないのだろうか。

「血が出てるから、手が汚れます」
「たいして汚れない」
「でも他人の血です。リヴァイ兵士長は潔癖性なのに」
「なんでもかんでも忌み嫌ってるわけじゃない。それにこれを汚れとは言わない」
 真琴から見れば彼は重度の潔癖性である。
「ボクが一日お風呂に入らなかっただけで、ひどく嫌ったじゃないですか」

 追加の薬を指に取って、リヴァイは据わった眼を突き刺してきた。
「そんなのは不潔中の不潔で当然だろう」
「他人の血のほうが……不潔というか、病気が移りそうでボクは触れませんけど」
「次は左手だ」と言われて真琴は素直に差し出した。
 丁寧に、それでいて優しくリヴァイは塗り込んでくれる。

「そう言われると、確かに衛生上良くないのかもしれん。だってのになんでだろうな。汚くも見えないし、触れたくないとも思わない」
 木漏れ日から差し込む細い陽光が、斜めにリヴァイの顔を差していた。左目に掛かっているから微かに眩しそうにする。
「お前は、死んだ仲間の血や努力の結果で起きた怪我を、汚いと思うか」

 母親が包丁で指を深く切ってしまった日のことを真琴は思い出してみた。家族だからかもしれないが、血液など恐れずに確か必死に治療をした。
「汚くないかもしれません」

「そういうことだ。お前の手を見て、俺の苦労も無駄じゃないと分かったら、こうしてやりたくなった」
 伏せ気味の睫毛で隠れる眼差しは、手つきと同じように優しい色をしていた。だから真琴は唐突に謝りたくなった。
「ごめんなさい」

 うん? というふうにリヴァイが瞳を上げた。
「いつまで経っても下手で」
「一朝一夕にできることじゃないと分かってる」
「違うんです。いくら脅されても、やっぱり自覚できないんです」

 全部を言い表すことができなくて真琴はもどかしい思いをしていた。
 自分の世界じゃないのに、どうして闘わなくてはいけないのか。ただの会社員だったのに、どうして兵士なんてしているのか。しまいには長い夢を見ているのではないかとさえ思えてくるのだ。

「ペトラやオルオを見てすごいとは思っても、できない自分を悔しくは思わない。ただ、頑張ってる姿を見ていると、ひどく情けなく思うんです。ダメな人間だなって思わされるんです」
「本当に駄目な奴は、自分が駄目な奴だと気づきもしない。そう自覚しているだけで多少はマシだ」
「でも、こうやってつきっきりで見てくれてるのに、どこかでこんなこと意味ないって思ってるんです。サイテーです」

 つらい思いをして立体機動の技術を身につけて、なんの役に立つというのか。所詮元の世界では役立たない。この地に骨を埋めるというのならば頑張れるのかもしれないが。
 ひどいことを曝け出しているのにリヴァイは沈着としていた。何かに思いを巡らせているような遠い眼差しで、真琴の右手の傷口を見降ろしている。

「大丈夫だ。壁の外で世界を感じれば、真琴にもきっと俺と同じものが見えてくる。教えを守ったお前の剣だこは、その一歩だ」
 どうして信じてくれるのだろう。真琴自信が自分を見放してしまいたくなるというのに。
「調査兵団ではこう言われててな。壁外から帰ってきて初めて新兵は一人前になる。真琴の場合は技術もねぇから一人前にはなれないだろうが、いま悩ませている胸の内は消えるだろうと、俺は信じてる」

 もったいない言葉は、真琴を泥を噛むよりつらい気持ちにさせた。
「……買いかぶりです」
「どうせこれ以上失望しないんだ。期待が外れたってがっかりしねぇよ」
 黒髪をそよがせるリヴァイの表情は柔らかい風に似ていた。


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