21.月の光がたおやかに包んでくれる1

 日が落ちるころになって、本日の訓練も終了となった。
 身体をたくさん動かすというのは腹が減る。いままで生きてきた中で、こんなにも腹がペコペコになったことがあるだろうかと真琴は物思う。加えて、質素な飯でも豪華なディナーに味が様変わりしてしまうことも知った。

(お腹減った〜。今夜のご飯、何かしら)
 着替えて早く食堂へ行きたいと思っていた。夕焼け小焼けの中、班員は兵舎のほうへぞろぞろと戻っていこうとする。もたもたしている真琴の周囲には、訓練に使ったもろもろの用具が散らかりっぱなしになっていた。
(みんな片付けを忘れてる。疲れ果ててるからかしら)
 と能天気に思っていたらグンタが顔だけで振り返った。

「それ、倉庫に全部片付けといてくれな」
 前触れもなかったから真琴はびっくりする。「またボクがですか?」
 振り向いたオルオが後ろ歩きをしながら指を差した。
「雑用は下っ端の仕事だ! 疑問に思うことがもう生意気なんだよ!」

 何もかもがオルオに敵わないとはいえ、年下に大きな態度をされると面白くない。しかしながら実力社会の班では言い返す資格など真琴にはなかった。
「分かったよ!」
 ちょっといじけ気味に吐き捨てた。ペトラが申し訳なさそうに手を合わせて小さく頭を下げてくれたが、リヴァイは振り向きもしなかった。

 散らばっているアンカーや使用済みガスボンベなどを黄色い網カゴに放り込んでいく。
「小中高って全部文化部だったからな〜。運動部みたいに一年が片付けをするっていう経験がないのよね」
 ピアノを小さいころから習っていたから――という単純な理由でずっと音楽部に所属していた。大学では勧誘された軽音サークルに入ってキーボードを担当した。学生のあいだ嗜んでいたピアノが社会に出て役に立つことはなかったけれど。

 暮れる太陽をぼけっと眺めながら、真琴はふと佇む。
「というか……これっていじめじゃないわよね?」
 マイナス思考を吹き飛ばすように一人笑いをした。オルオはともかくも、みんないい大人なのだ。違う違うと首を振って片付けに専念した。

「重い〜。もうガスボンベやだ〜」
 カゴを持って灰色の土壁の倉庫へと、真琴はよたよたと向かう。
「よいしょっと」思わず零してしまった独り言。
 一度カゴを置き、茶褐色をしている金属製の引き戸を開けた。取っ手に引っ掛けてある大きな錠前が揺れ動く。
 土臭さや埃臭さが入り交じった倉庫内は薄暗くて不気味だった。色んな用具がごちゃごちゃと置き放題になっている中へ、再びカゴを持って真琴は足を踏み入れた。

「適当に置いてっちゃえば楽なんだけど、あちこち置いたら次に使うとき分からなくなっちゃうのよね」
 ガスボンベを並べておく所は、奥のほうにある大きな棚が死角になっている所にある。
「あった、あった」
 いつもの要領でしゃがみ込み、真琴は一本ずつボンベを戻していった。

 ※ ※ ※

 特別アイテム、「貸し切り木札」を使用してリヴァイは浴場で入浴中だった。
 風呂場はもくもくの湯気に満たされていた。熱めの湯に浸かり、両手で掬った透明な湯を顔面に掛けようとして、ふと思い留まる。

「……一番風呂じゃねぇからな。誰のケツが沈んだか分かんねぇのに危険だ」
 手を離してばしゃっと湯煎に戻した。大抵一番風呂をもらうのだが、あれこれ用事ができて遅い時間になってしまうことがあるのだ。
 風呂の縁に頭を乗せて足を伸ばす。この高さがリヴァイに丁度よく、くつろげる体勢であった。

「兵長! 湯加減はどうでしょうか?」
 白く曇った窓の外からオルオの声が聞こえてきた。外にある焚き口で薪を焼べているのだ。
 天井を仰いだままリヴァイは声を上げる。
「ああ、丁度いい。悪いな」
「ではこの辺で保持しておきます! ごゆっくり浸かってください!」

 外で火を見ていろと、オルオに特段命令したわけではない。タオルや着替えを持って浴場の入り口をくぐったとき、丁度湯を上がったオルオと鉢合わせしたのだ。いまから風呂に入るリヴァイに彼は言った。「ちょっとぬるいんで、兵長が上がられるまで火を見ています!」と。

 従順な部下だ。ことさら満足な気分でリヴァイは瞼を落とした。ただ小さな胸の燻りもあって、
「……妙な真似事さえなきゃな。俺のあのスタイルは、あんなに見た目悪かったか?」
「スタイルがなんですか!? 兵長!」
 思わず尻が滑って、リヴァイの頭が縁からずれ落ちた。両耳まで沈み込み、散った飛沫が顔全体にかかる。溺れる手前で慌てて底に手を突いた。
 リヴァイの心臓はひどく狼狽していた。(あいつも地獄耳か?)

「い、以前抱いた女の身体が、俺好みのスタイルだったと思い出していただけだ」
「ど、どういう方がタイプなんですか!?」
 なぜかオルオも狼狽えている。こういう話に興味はあるものの経験がさほどないのだろう。
 リヴァイは手のひらで顔を拭い、
「メリハリの利いた女だ。小せぇ胸には欲情しない」

「お、俺の好みはですね! ぼ、ボブカットで、眼が子犬のようで」だんだん声量がなくなっていく。「ちょっと気が強いけど年上で」
 照れているような響きがあった。
(ペトラが好きなのか)
 オルオの容姿にあたいするような批判的なことを、うっかり口ずさんでしまったリヴァイは、ようやく落ち着きを取り戻していった。

 また縁に頭を乗せながら、ぼんやりと思う。
 女のことが好きだとか、愛しているとか、そういう感覚がまったく分からないでいた。街で通り過ぎる女や綺麗な娼婦を見て、なかなかいいとは思っても、あくまで性の対象でしか見れない。
 暗い外で、いまだペトラだろう女のことを絶賛している、オルオの囁きが聞こえてくる。
(青春だな)
 と微笑ましく思うも、自分は欠陥があるのだろうかと、どこかで悩んでしまいそうになった。けれど――

「いらねぇな、そんな女」
 夫を失くした妻が人生に絶望したように泣き崩れる姿を、ふと思い出してしまった。部下の戦死を告げに家族のもとへ何度も、それはもう何度も訪れた。悲鳴のように泣き叫ぶ様子を見て、あとを追って自殺してしまうのではないかと怖くも思った。
 いつ死ぬかもしれないのだ。分かっていて大事な女を作るなど無責任である、とリヴァイは思う。

(それ以前に、好きってのが分からねぇ)
 くだらないことを考えていた自分が可笑しくて、リヴァイはふっと小さく吹き出したのだった。

 自分の分とリヴァイの分の洗濯物を抱える、ほくほく顔のオルオが従者のようについてくる。いいと言ったのに、風呂上がりであるリヴァイの荷物持ちをすると利かなかった。
 二階への階段を登りきったところで、リヴァイは洗濯物を返すようオルオに手を伸ばした。
「お前の部屋はこの先だろ」
「そうですが、兵長のお部屋までお供します」

 あまりに従順過ぎても逆に気持ち悪い。ペトラのことが好きなオルオに限って妙な思いは抱いていないと思うけれど。
「……そうか」
 諦めて三階へと向かう。暗がりの廊下の先にランプの明かりが灯っていた。リヴァイの部屋の前で数人が寄り集まっている。

「エルドさんたちですね」オルオが言った。
「報告のし忘れでもあったのか」
 彼らとの距離が近づくと、足音に気づいたリヴァイの班員がこちらに顔を向けた。不安そうな表情で駆けつけてくる。
「兵長!」エルドが言って、リヴァイは面々にさっと眼を通した。

「どうした。お前ら全員、クソを漏らしそうな顔をしてやがるが」
「真琴がいないんです」
 シャツに長ズボンといった楽な姿のペトラが、眉を下げて絞り出すように言った。

「いない?」リヴァイは首を傾けた。
「はい」ちょっと深刻そうにエルドは言う。「班を結成して以来、親睦を深める目的で、晩飯はみんなで食べるという決まりを作ったんですが」
「ほう、悪くない。それで?」
「今夜の晩飯に真琴が来なかったんです。昨日までは来てたんですが」
 眉間に皺を寄せてエルドは瞳を下げる。

「俺には分からないんだが。たったそれだけのことで、お前らが不味そうな顔をしているのが」
「部屋にもいないみたいなんです。何度も強くノックしたんですけど」
 ペトラは落ち着きなく瞳を動かす。
 少し分かってきた気がした。そんなことでどうしてリヴァイの部屋まで訪ねてきたのかが。
「何を心配している」

 顔を上げてペトラは口を開こうとするがしかし、噤んで頭を伏せてしまう。代わりにエルドが声を潜める。
「脱走――したんじゃないかという結論が、俺たちの答えです」
 リヴァイは一瞬反応が遅れた。まさかと思ったが、よくよく考えて馬鹿らしいことを言っていると改めた。
「いまさら脱走などするか。おおかた疲れて、物音にも気づかないほど部屋でぐうすか寝てんだろ」

「そうでしょうか。訓練のあとは、いつもひどくしんどそうにしていました。そろそろ限界が訪れて、すべてが嫌になったとか、そういうふうには思われませんか」
 エルドがリヴァイの意見を請うているのに答えられなかった。必ずしもなくはないと思いそうになってしまったからであった。

 俯いているオルオが呟く。「俺、あいつに結構嫌味言ってました。もしかしてそれがこたえて」
「それはない」リヴァイは言い切った。「オルオの嫌味ぐらいじゃ真琴はへこたれん。俺の悪態と比べたら可愛いもんだからな」
 言ってふと思い至り、リヴァイは眼を見開いた。風呂上がりでさっぱりしたのに冷や汗が出そうだった。
(まさか、俺の暴言が原因か?)

 束の間呆然としていたら、班員は勝手に結論づけて話を続けていた。エルドが顎をさする。
「脱走が本当だとすると拙いな」
 グンタは相槌を打つ。「兵法によると、脱走兵は重罪だったような」
「壁外調査も控えてるのよ。それを含められたら最悪――」
 ペトラの語尾を、銃弾でも受けたような顔でオルオが攫う。
「死刑!」

 廊下の隅から隅まで響き渡りそうな声でリヴァイは我に返った。夜風で冷えきったオルオの頭を咄嗟にはたく。
「馬鹿! 声がでかい!」
「す、すみません」脳天を抱えてオルオは身を縮こませた。

「お前らはもういい、部屋に戻れ」
 強めに言うとエルドが上目してきた。「どうされるんですか? 真琴のこと」
 脱走したと、彼らは完全に疑っているようだ。咄嗟にリヴァイの口をついたのは、
「いま思い出した。身内に不幸があったとかで、急遽帰省させてほしいと言ってきてな。晩飯前に外出の許可を出したことを、すっかり忘れていた。悪いな、騒がせて」
 苦し紛れの嘘だった。

 エルドを含め班員はあからさまにほっとした。
「そうでしたか。よかった、それならいいんです」
「早とちりだったな。格好悪いぜ」グンタが笑う。
「まったくだ。まあ、そう思うのも無理ないが。疑われるあいつがそもそも悪い」
 リヴァイが言うと、ペトラは肩を竦ませた。

「なんだか真琴に悪いことをしちゃったわね、脱走だなんて、そんなこと疑っちゃいけなかったわ」
「ほら、さっさと部屋へ戻れ。就寝時間はとうに過ぎてる」
 強引な感じで、しっしっとリヴァイは彼らを追っ払った。


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mokuji
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