17.生き抜くという強い思い1

 雨は三日三晩降り続けた。夕刻だというのに窓越しの空は鈍色一色で、いい加減見飽きた景色だった。
 暖炉のそばで壁に寄りかかっているリヴァイは、腕を組んだまま動かない。顎を上げ気味に、目線の先には隅に立て掛けられた兵団の旗があったが、とりわけ意識して見ているわけではなかった。

 ほどなくして難色露わな声が上がった。
「待ってください! ボクはまだ入団したばかりで、そんな大層な役割は手に余ります!」
 相手がエルヴィンでなかったら、書斎机を叩かんばかりの勢いだった。あることを告げるために団長室に呼び出された真琴の声であった。
 椅子に腰掛け、口許で手を組むエルヴィンの両目は真琴を見据えている。一個人の意見など関係ないといったふうだ。

「幹部会議で検討の上での決定事項だ。手に余る余らないの問題ではない」
「ですが! どう考えたってその人選は間違っています! 失礼ですが、ボクの訓練の成果を団長はご存知ですか!?」
「知っている。定期的にリヴァイから報告を受けている」

 嘘偽りない事実と、リヴァイの見解が多分に含まれた報告書のことである。正式なものであるが中身は悪態をついたものに近い。
 他人が見たのなら、「ひどいね」と苦笑するしか返事のしようのない内容だ。現にエルヴィンも苦く笑った。が、いまはそんな緩い顔つきでは一切ない。
 相変わらず書類だらけで、書くスペースが狭くなっている書斎机を挟んで二人は対面していた。対角線上にいるリヴァイは旗から僅かに視線をずらしてちらと真琴を見た。青い血管など浮き出ていない手をぎゅっと握りしめている。

「でしたら、ボクなんかではとても対処できる役ではないと、お分かり頂けてると思います! それなのになぜですか!?」
 真琴を見据えたまま、エルヴィンが小さく溜息をついたように見えた。一瞬だけ素早くリヴァイに視線を走らせてきて、口を開いた。
「報告を受けている私よりも、君の実力を一番よく理解しているリヴァイの判断だ」

 リヴァイは思わず眼を伏せそうになった。黙っていてほしかったわけではない。ごく小さな棘が心臓に刺さったからであった。
 痛みすら感じないほどの棘だったので、なぜ眼を伏せそうになったのかまではリヴァイは認識できていない。実は己の選択に対する惑いという棘なのだけれど。

 意外だったのか真琴の眼が丸くなる。
「判断? 判断ってどういうことですか? 団長の意向に同意したということでしょうか」
「逆だ。リヴァイの意向を私が呑んだ」
「そんな……」言いながら不自然な半笑いで真琴は後退る。「何かの間違いでは? だってボクのことは、リヴァイ兵士長が誰よりも分かって」
「間違いではない。多少反対意見は出たが、リヴァイの強い意向を汲むことにした」

 しばし放心していた真琴が、頬を引っ叩かれたように顔を巡らせてきた。親の仇のような眼でリヴァイを睨んでくる。
 目を合わせまいとリヴァイは無視していた。と、強い風で窓ががたついたので瞳が揺れ動いてしまった。髪の毛と一緒に唇を噛んでいる真琴と視線が交差する。それで思わず瞬きをして瞠目した。

 決定事項に対して反感してくるだろうことは想定内だった。が、予想以上の反応だった。南方駐屯地での講義で取得してきた知識がおそらく影響しているのだろう。自分の命が危険に晒されるとあらば、さすがの真琴も黙っていられないようだ。
 気味悪く悲鳴を上げる風とともに、がたつく窓にもう気を取られないよう、リヴァイは再び旗に目線を固定した。そうしてまだ何となくもやもやしている当てを探す。

 勝気に睨んできた真琴の目顔を見たのは、今回が初めてではない気がした。似たようなことが以前にもあったと思う。
 外の雨風の音や、室内の話し声すら耳に入らなくなるほど、無音の世界で記憶を漁る。が、ついには思い出せなくて、リヴァイはかぶりを振りたい気分だった。
 リヴァイが探し当てたかった記憶とは、おそらく真琴と初めて会ったときのことだろう。調査兵団の兵舎で対面したときのことではなく、もっと以前に二人は出会っているのだ。

 思い出すことを諦めたリヴァイの耳に、エルヴィンの声がようやく聞こえてきた。突き放すような響きだった。
「納得いかない君の気持ちが、分からないほど私は人間を捨てていない。だがいつまでも甘えていてもらっては困る。自ら志願して君は調査兵団に入団してきたんだ。左胸の心臓を、国のために捧げる覚悟があって一員になった。違わないね?」

 エルヴィンの言っていることは正しい。が、リヴァイは改めて思わずにはいられなかった。真琴がどうして調査兵団を志願したのか、いまだ謎である。
 ここまで説きつかれれば甘んじて受け入れるしかないと思う。拳を震わせる真琴の横顔は、いくらか伏せ気味だった。貝のようにぴったりと合わさっていた唇から歯が覗く。
「……おっしゃる通りです。失礼な発言の数々……申し訳ありませんでした」
 ひどく悔しそうだった。

 リヴァイの独断によって、真琴が持つ自分への心象がさらに悪くなろうが別に構わない。そう強く言い聞かせるのは、ようやく築き始めた良好な関係を崩したくない――と、そう思っていることを認めたくないからであった。
 団長室を真琴と退室したリヴァイは互いに一言も発せずに廊下を歩いた。夕飯の時間にはまだ早いので兵舎に一旦戻るつもりだ。
 ついてこなくてもいいのに、一定の距離を保ってあとを追ってくる真琴は背後霊のようだ。背中に感じる視線は悪霊そのものだった。

 リヴァイの選択の何が真琴を恨みまがしくさせているのか。それは、三日も雨が降り続けるとは思いもしなかった二日前のことである。

 ――第三会議室で団長と各分隊長が額を集めていた。一ヶ月半後に予定している壁外調査の幹部会議だ。
 夕方から降り出した雨は、あっという間に暴風雨になった。夕食後の満腹感に幸せを感じる隙を与えないくらい、大事な人員構成を今日中に決めなくてはならないのだ。

 四人の分隊長と各副分隊長で八人、団長と兵士長を合わせて十人が、室内の中心に据えられた大きな長卓を囲んでいる。
 雨が滝のように流れる大窓をエルヴィンは背にしていた。束になっている書類を一枚だけ残して、隣の分隊長に手渡す。
「来月予定している、第五十五回壁外調査に随行してもらう兵士のリストだ。怪我人や特別な事情がある者以外を除いて私が選別した」

 隣から隣へリストが順に回ってくる。エルヴィンと対面する位置に座るリヴァイに、ハンジがリストを差し出してきた。
「はい。反対側に回して」
「おい、エルヴィン」リヴァイは組んでいる腕を解かずに言う。「両側から回したほうが効率がいいと、前回も言わなかったか」
「悪かった、だが大目に見てくれ。リストが皆に渡るまでのあいだも、俺は考えを整理してたりするんだ」

 ふん、とリヴァイは鼻を鳴らした。ハンジがリストの束を揺する。
「ほら、早く回して」
 返事をしないでいるとハンジはあからさまに溜息をついた。
「まったく、どこの王様だよ」
 一枚リヴァイの前に置き、腕二本分離れている正面の分隊長へリストを滑らせた。

 全員に回り切る前にエルヴィンの口が開いた。
「今回は二分隊で出立する。中規模遠征で、前回の続きであるルート開拓を一気に進める作戦だ」
 おのおのリストを眺め入る中、リヴァイは手も伸ばさない。
「半数の兵士を同行させるのか。二分隊と言ったが俺はどうなる。待機か」
 待機と発した言葉に副分隊長たちが反応した。遠慮がちに横目してくるさまは不安の色がちらつく。一個隊の戦力があるリヴァイが待機となると、火力不足が案じられるからだろう。

「いつも頼りにして申し訳なく思うが同行してくれるか。どうしても見送りたいというのなら配慮するが」
「条件がある」
 エルヴィンは目だけで促してきた。
「俺の班構成だが、好きに組ませてもらう」リストに顎を投げる。「この中にいない奴もいるかもしれん」

 即答だと思っていたが意外にもエルヴィンは黙した。妙に思い、リヴァイの眉は寄る。
 待機などもともと考えていなかった。今回は休めと言われても同行するつもりだった。自分の班をようやく結成できる機会なので、入れたい兵士の目星もすでについているのだ。
「なんだ、何かあるのか」
 いや、と小さく返してエルヴィンは頷いた。「了解だ、いいだろう」

「条件があるとかもったいぶって〜。最初から待機なんて考えてもないでしょう、うずうずしてるくせに」
 見透かしたような笑みでハンジは言った。
「前回が五ヶ月前だからな。そろそろ豚どもを切り裂きたいと思ってたところだ」
「あなたがその気を見せた途端、副分隊長たちがほっとしちゃってる。ま、いつまでも頼ってちゃいけないんだけどさ」
 隣に座るモブリットにハンジが目配せをした。彼を含め、ほかの副分隊長たちが決まり悪そうに苦笑している。

 エルヴィンは指先で卓を叩いて呼ぶ。
「お前のことだから班編成はもう頭にあるんだろう、リヴァイ」
「ああ。動きがいい奴を選んだ。どの分隊も欲しがるかもしれねぇが、俺がもらって構わないよな」
「うん。リヴァイの精鋭班には初列索敵を任せたいと思っている。腕のいい兵士で固めたほうがいい」
 エルヴィンの許しが出たのでリヴァイは名前を上げていった。

「エルド・ジンとグンタ・シュルツ、こいつらは入団三年目で経験豊富だ。あとはオルオ・ボザドとペトラ・ラル、入団二年目で経験的には心もとないがセンスはいい。なにより、ペアを組ませると実力以上だ」
「了解だ。早々に四人に辞令を出すが、お前からも声をかけておいてくれ」
 リヴァイは浅く頷いて返した。本当は力いっぱい頷きたいほど満足していた。自分が指導したら彼らはもっと強くなる。そう確信しているからだった。

 卓に置かれた二つの燭台の、三本の蝋燭がたらりと蝋を垂らしていく。
 ハンジがエルヴィンに顔を巡らせると彼女の後頭部が露わになった。炎の明かりで透ける赤茶の髪が、いやに油を纏っているように見えた。風呂に入ったのはいつだろうかとリヴァイの顔が歪んだが、問うのは怖いので黙っておくことにした。

「で、エルヴィン。リヴァイは決まったとして、残りの二分隊は?」
「第一分隊と第四分隊のお前で行く。人員の振り分けは、戦力が偏らないよう互いで相談してくれ」
 リストを見ながらハンジが言う。
「全体的に戦力が低いね」
「規模としては大遠征になるが、手練ばかりを連れていくわけにもいかないんだ」

 リヴァイは背凭れに深く寄りかかった。自分の用件は済んでしまったので、気がだれつつあった。
「一度の遠征で一気に手練を失うわけにはいかない。そういう配慮――だな? エルヴィン」
「その通りだ。前回の遠征のときは小規模だったが、被害が多く、惜しい兵士を何人も失くした。今回は温存しておきたい」

「湯水のように才能のある兵士は湧かないしね。育てるのも時間がいるし、新兵は毎年少ないし」
 眼鏡越しにハンジは柔らかく微笑む。
「おっけ〜。なるべく上手に配置して、私も全力で指揮するよ」
「ありがとう」エルヴィンの視線がリヴァイに移った。「目が届く範囲で構わない。索敵班と、その前後のフォローを頼む。負担を増やして悪いが」
「そのつもりだ」

 第一分隊長の背後では、暖炉の上に飾られている剣が炎を映していた。リストを見て何やら眉間に皺を寄せているので、彼に話しかけてみた。
「クソを我慢してるなら、いまのうちに行ってこい」
「そうじゃない。あまり分隊に入れたくない奴がリストに入ってるんでな」
「上官が兵士を差別をするな。示しがつかんだろう」

 扱いにくい兵士が中にはいることをリヴァイも認識している。かといって選り好みをしていられるほど兵士が溢れているわけでもない。上官という役職を与えられている以上、どんな人間でも上手にコントロールする力がなくてどうするのか。

「入れたくない理由は知らないが」
 話の途中でハンジが割り込んだ。「リヴァイ、たぶんそれね」と眉を下げ、空笑いで片手を伸ばしてくる。
「うるせぇな」リヴァイはハンジを黙らせて、「グズで鈍間とか、年中ぼけっとしてるとか、一体どんなタイプなんだか知らないが、そういう奴らを巧く使うのが」
「だからねリヴァイ」

「さっきからなんだ、ハンジ。人が喋ってるときに口を挟んでくるな」
 苦情じみた顔つきの第一分隊長が、卓に置いたリストを叩いた。
「君が言ったこと全部だ」
 リヴァイは目を眇める。「は?」
「だから全部だよ。グズで鈍間、年中ぼけっとしてる、ほかにももっとある」

 そんなひどい人間が調査兵団にいただろうか。と思っているとハンジが耳打ちした。
「リストを確認してみなよ。答えはすぐに出る」

 横目で訝しくハンジを見ながら、リヴァイは初めてリストを手にした。名前が書き連ねられているリストを、上から下へ眼を滑らせていく。自分が選んだ兵士の名前を二つ見つけた。そして最後に書かれていた名前を見て眼を剥いた。
 リストを持って銅像のように固まったリヴァイに、第一分隊長が言い放つ。
「そういうことだよ。君が指導してる兵士のことだ」

 ――印刷時にインクが若干滲んだ文字は、真琴・デッセルと書き表されていた。
 リストを卓に叩きつけ、リヴァイは半分怒った態で抗議する。
「どういうことだ、エルヴィン。こいつを壁外へ出すのはまだ早過ぎる。まっさらな状態から指導を始めて、やっと二ヶ月半経ったばかりだ」
「考慮してやれるほど、我々に人材の余裕はない」
 凛々しい眉をピクリともせず、エルヴィンは冷静に返してきた。

「新兵が初めての壁外調査に出るのは平常だと半年後からだろう。真琴は訓練兵団も出ていない、ひよっこ以前だ。なぜわざわざ型を破る」
「お前の報告によると、真琴には認識が足りないんだそうだな。半年経ったところで急に自覚が芽生えるとも思えない。ならば早々に経験させたほうが、成長が加速するかもしれないだろう。可愛い子には旅をさせろというじゃないか」

 笑えない冗談だ。エルヴィンも笑っていないけれど。
 憤りの炎がリヴァイの腹を炙ってくる。

「可愛い子には旅をさせろ? 馬鹿か、真面目な話をしてるときに! 成長が加速する? 才能がないと言い切ったのはてめぇだろうが!」
「ああ、言い切った。仮に本当に才能がないとして、使えない兵士を半年も雇っていられるか? そんな余裕、いまの調査兵団にはない」

 エルヴィンはそう切り捨てた。そんな言い方はまるで――
 ――まったくの役立たずにはならないさ。
 ――壁にはなる。

 真琴に別段思い入れなどリヴァイはない。あるとしたら、植物に毎日水をやるように自分が育てている部下だという事実だけである。種からやっと発芽したのに、枯れることが分かっていて水やりをやめなくてはいけないなんてそんなことは、どうしてもできなかった。

 唇を噛み締め、リヴァイはリストをぐしゃぐしゃに掴んだ。隣ではハンジが気まずそうに鼻頭を掻いていた。
「あー、じゃあ、真琴はうちが引き受けるよ。何とか形になるよう教え込むわ」
「ハンジの分隊か。陣形での真琴の配置だが、なるべく中央後方――そうだな、荷馬車班がい」

「待った」
 踏ん反り返って、リヴァイはエルヴィンの言葉を遮った。全員の視線が集まる。
「さきほどの条件だが追加がある」
 こう来ると分かっていたのだろう、エルヴィンは小さな溜息をついた。「言ってみなさい」
「俺の班にもう一人、入れたい奴がいる」


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