18.生き抜くという強い思い2
室内がざわっとしだした。リヴァイ、と呆れ混じりにエルヴィンがかぶりを振る。
「俺の言葉は最後まで聞こえなかったか? 彼を荷馬車班に配置するようハンジに指示した。これでもお前の苦労を汲み取っているつもりだぞ。陣形の中でも生存率が高い位置じゃないか」
「お前こそ俺の言葉は聞こえたのかよ。耳クソが溜まってんじゃねぇのか」
さらにエルヴィンは大きな溜息をついた。額に手を添えて、疲れたように背凭れに深く寄りかかった。
無理に笑っているハンジが頭に手を伸ばしてきた。「あなたこそ大丈夫?」
リヴァイは彼女の手をぱしっと弾く。
「頭がとち狂っちまったとでも言いたいのか。それはてめぇだろう、巨人バカが」
「ハンジがそう思うのも無理はない。分かってるのか、リヴァイ。お前の班は」
エルヴィンの言葉を引き継ぐ。
「初列索敵、及び周辺のフォローだ」
「何を考えてる、困らせるのもいい加減にしてくれ。真琴を精鋭班に入れて、班が機能すると思うか。お前の班は陣形の要なんだぞ」
「ならばエルヴィン。今回の壁外調査から真琴を外せ。できないのなら条件を呑め。呑めないのなら、俺は降りる」
分隊長たちは納得いかない様子だが、リヴァイが降りると口にしたことで副分隊長たちがまた不安を見せ始めていた。
もう一遍リストに目を通しながら、痒そうにハンジは頭を掻きむしる。
「作戦の内容にしてはやっぱり戦力が少ない。加えてリヴァイがいないとなると……被害は二倍ってとこかな」
首を回し、
「仕方ないよエルヴィン、ここは折れて」
「いいだろう。真琴の精鋭班入りを許可する」
「え――!?」と席を立って素っ頓狂な叫びを上げたのはハンジだった。「そっち!?」
リストをたぐり寄せ、さらに力を入れてリヴァイは握りしめた。蝋燭だけの足りない明かりの中、黒っぽく見える瞳でエルヴィンを睨みつける。
「なんだ? お前の条件は呑んだだろう」
ふてぶてしく首を傾けてエルヴィンは面々を見回した。
「次は、各分隊が受け持つ陣形配置を振り分ける」
会議は長距離索敵陣形の配置に移った。
エルヴィンは折れなかった。駆け引きに負けたのはリヴァイだったのか。この選択が正しかったと答えが出るのは、一ヶ月半後の壁外調査のときである。
轟音が鳴り響いた。近くで雷が落ちたのかもしれない。激しく明滅する光が廊下を青白くする。
会議が終わって解散になったあと、しばし一人で蝋燭の炎を睨みつけていた。蝋がすべて溶けて暗闇が訪れてから、リヴァイはようやく会議室をあとにしたのだった。
ふと立ち止まって、延々と雨が流れ落ちる窓を見つめた。
「今度は唇を尖らせるだけじゃ、すまないかもな」
最前線に立つことを真琴が知ったら、どんな表情をみせるだろうか。この雨のように激しく己を責めるだろうか。
(なぜそんなことを気にする)
自分は上官であり、真琴は部下だ。決定権は己にあるのだから、歯向かってくるほうが可怪しいのである。だというのに、彼の笑い顔が閃光のように脳裏にちらつくのはどうしてか。
毒されていると思った。彼があまりに兵士らしくないから、ときおり日常を忘れそうになるのだ。
(あくまで部下だ、友達じゃない)
雷でまた廊下が光ったとき、少し離れたところでハンジが外を眺めている姿に気づいた。リヴァイは歩き出して、彼女を通り過ぎようとした。
「エルヴィンは譲らなかったね。ああ言えば、明日にでもあなたが諦めるって思ってるのかな」
話し振りから待ち伏せしていたようだ。ハンジの後ろでリヴァイは立ち止まる。
「諦める?」
「真琴の精鋭班入りをやめて、荷馬車班で甘受する」
振り返って窓枠に尻を掛ける。
「そうするんだよね?」
「なぜ?」
「なぜって」雷で青白い顔のハンジは現実逃避したような顔になった。「そもそもは真琴を壁外調査から外したくて、あんなはったりじみたことをかましたんでしょ?」
できれば外すほうにエルヴィンが折れればよかったとは思う。
「はったりであんなこと言うかよ。無責任なことを口にするのは好きじゃない」
「意地でも張ってるの? 初列索敵と荷馬車班じゃ生存率は段違いだよ。育てている部下をむざむざ失いたくないからなんだよね、あなたの胸の内は。だったらなおさら荷馬車班にしてあげたほうがいい」
「荷馬車班が絶対とは言い切れない。前回の遠征では、四台のうち一台が巨人に踏みつぶされたじゃねぇか」
「それでも索敵班よりはずっといいさ。悪いけどはっきり言わせてもらう」
ことさら凄まじい雷がバリバリと音を立てた。光った眼鏡のせいでハンジの瞳が見えない。片手を揺らす彼女の語調は批判的だった。
「精鋭班に彼を入れる必要性が理解できない」
「理解してもらおうとは思ってない」
「彼は落ちこぼれって噂もある。訓練の様子を何度か見かけて、私もその通りだと思った」
「だから?」
「実力のない人間を、そこに組み込むのは迷惑だってこと」
ハンジの傍らに並んで、波のように窓から雨が滴り落ちるのを何となしに見る。
「周囲に迷惑がかからないよう配慮すりゃいいんだろう。俺がフォローすれば済むことだ」
「無理がある」向き直ってきたハンジが眉を顰めて言い含めてくる。「ただでさえ神経を使うのに、他人に注意を払いながら行動するなんて」
「それはハンジ、お前の場合だろう。俺ならやれる」
肩を大きく落とし、ハンジは溜息をついた。打ちひしがれたような弱りきった顔だ。
「どうしてそこまでして肩入れするの。彼に拘る理由でもあるの」
「拘ってるわけじゃないが」無表情がぼんやりと窓に映り込んでいた。「そうだな。ハンジの言う通り、意地など張ってないと言ったら嘘になるか」
エルヴィンが言った「壁」という言葉が、魚の小骨となってリヴァイの喉にずっと刺さりっぱなしだった。仲間が目の前で死んでいっても、前を見据えてただひたすらに突き進んできた。が、こんな残酷な未来に抗いたいと、どこかで思っていたのかもしれない。そして抗いに使う対象が、たまたま真琴だったということだろう。
しかし本当にそれだけかとリヴァイは自分を疑った。つい甘やかしてしまうところに答えがあるのではないかと思うのだけれど。
「リヴァイ、私はね。心配してるんだよ、あなたを。無茶してほしくないんだ。真琴のことなら責任を持ってうちで預かる。経験がさっぱりなのもちゃんと考慮して、生きて帰らせるつもりで気をかけるよ」
「あいつを指導してるのは俺だ。出来が悪いまま、ほかの分隊に放り出すわけにはいかない」
呆れ顔でハンジは前髪を横に払った。
「相変わらずだな。意固地なんだか責任感が強いんだか」
「どちらかといえば意固地に近い。責任感が強いなんてのは買いかぶりで、ただの俺のわがままだ。迷惑をかけるつもりは毛頭ないが、煩わせてすまないとは思ってる」
「おや珍しい。あなたが謝ったよ」
ハンジがおどけてみせた。ちらと流し目を寄越しただけでリヴァイは留める。
年中偉そうな王様ではなく、悪いと思えばリヴァイも謝る。劣等兵の真琴が精鋭班に加われば、全体的な士気に少なからず悪影響を及ぼすだろうことは言うまでもない。
悪戯っ子な笑みを浮かべてハンジは覗き込んできた。
「わがままにさせるのは、出来が悪い子ほど可愛いってあれ? 手取り足取り指導してきたから、手放すのが惜しくなっちゃったとか?」
「馬鹿か。真琴は男だぞ、気色悪い」
心底嫌そうにして吐き捨ててみせたが、実は嘘が含まれていた。話も一段落ついたことであるし、いまだ理解しがたいことを、女であるハンジに聞いてみようか。
「お前、男に興味あるか?」
「そりゃあこれでも女だからね。しばらく男と寝てないな〜。そのうち腐っちゃうかも」
ハンジが項垂れた。リヴァイは質問の仕方を間違えたようだ。
「そうじゃない。何て言えばいいのか。そうだな。男が羨ましいとか、そう思うことはあるか?」
「ああ、そういうこと? 体力的な面で言えばあるよ。兵団にいるとことさら思うね。男女の違いは大きいよ。肉体的にも精神的にも作りが違うから」
「それで男になりたいと思うときがあるか?」
ハンジは二重の眼をぱちくりさせる。
「立体機動であなたに追いつけなくて悔しく思うときはあっても、男になりたいとまでは思わないな。いまの自分が好きだしね。なんでそんなことを訊くの?」
「ちょっとな。深い意味はない」嘘だ。深い意味が込められていた。男じゃ到底分からないことだから女に聞いてみたのである。
首を捻りたい気分でリヴァイは窓の縁を指で叩いた。
「そういや」と思いついたようにハンジは顎に指先を添える。「私の友人で、男に生まれたかったって女子がいるよ」
リヴァイは視線をハンジに戻す。
「参考までに、詳しく聞かせてもらっていいか」
「繊細な話だからここだけにしておいてね。その子、女で生まれたんだけど、両親は跡取りになる男の子を強く望んでたんだって。毎日のように、何でお前は女に生まれたんだ、男だったらよかったのに、って言われ続けてたらしいんだ。女だから両親から愛されないんだ、って深く傷ついたらしくてね。私と同い年の子だけど、その子、男としていま生活してるよ」
「男として?」
「うん。胸の膨らみをひどく嫌ってたり、女そのものを毛嫌いしてる節がある子なんだ。ひらひらした可愛いらしい服なんて着たくもないみたい」
やんわり結んだ拳を顎に当てて、リヴァイは何回か浅く頷く。
「そういう事情の可能性もなきにしてあらず、か」
「え? 何が」
馬鹿面でハンジが首をかしげた。
「いや、こっちの話だ」
籠った雨音しかしない廊下をリヴァイは考えを巡らせながら歩いた。理解できない世界だが、女が男でありたいと、強く思う事例があるらしい。
真琴と組み手をしたときに、もつれながら倒れ込んだ日を思い返していた。出し抜けのことだったので、あのとき地面に手を突こうとしたとき、誤って真琴の胸を突いてしまったのだ。
開いた右手をリヴァイは見降ろす。僅かだけれど胸の膨らみを感じた。太っている人間なら男でも多少胸のある人はいるのかもしれない。が、真琴は細身である。
思い起こせば、ベルトを装着してあげたときの華奢な腰も奇妙に思ったものだ。それと彼を抱き寄せたときにリヴァイの性が反応したのは、自分が可怪しいわけではなく、生まれながらの本能だった。
総合的に見て、「彼」は「女」に違いない。
しかしハンジの話から推測すると、「彼」は「女」であって「女」ではないのである。よって「男」として扱ってやるのが優しさなのだろう。
(野郎? アマ? いや、野郎か。……面倒くせぇ)
はぁ、と長く溜息をついたリヴァイは頭を垂れた。つくづく厄介な荷物を抱えたものだと思っていた。
――そして現在に至る。
本部と兵舎を結ぶ渡り廊下に差し掛かった。両脇に植えられた木は夜嵐で煽られ、横殴りの雨で足許はびしゃびゃだ。
リヴァイの後ろにはやはり真琴。カルガモの親子かと思えば可愛いものだが、そんな雰囲気ではまったくない。
雨をしのぐための簡易的な屋根に、鉄砲弾のような激しい雨滴が叩きつけてくる。耳にうるさいほどの騒音がやかましい。
横方向からは強い風がリヴァイと真琴の髪をたなびかせていた。そして、いまにも背反してくるだろうというリヴァイの予期は当たる。ずっとむっつりしていた真琴が強気に突っかかってきた。
「どういうことですか」
立ち止まり、冷静さを保ってリヴァイは向かい合う。
「何がだ」
「何がじゃないです。エルヴィン団長がおっしゃってたことは本当なんですか」
「俺の班にお前を入れたことを言ってるのなら、そうだ」
「どうしてですか! 団長は荷馬車班にと、おっしゃったんですよね?」
表情を一切変えないリヴァイが真琴は憎いらしい。両手の拳が白くなって骨が盛り上がっている。
「なぜそんなに怒る。巨人の模型を見て凄い迫力だと安直してたお前だ。どこの配置になろうと構わないだろう」
「自分の命が関わってきたら、安直でいられるわけないじゃないですか。長距離索敵陣形のことを、先日の講義で教わりました。索敵班と荷馬車班じゃ、無事に帰ってこれる確率が天と地ほど違うって」
壁外調査に関する知識を、やはり真琴は身につけてきたあとだったようだ。
「生存率は確かに大きく違う。だが荷馬車班が必ずしも安全地帯とは限らない。前回も一台、巨人に踏みつぶされて六人が死んだ。立体機動技術が中途半端なお前が、生き残るか生き残れないかは、差し詰め運だ」
荷馬車班も被害に合うのだと知って真琴の顔が青ざめたように見えた。季節のわりに冷たい暴風のせいかもしれないけれど。
「それでも」と唇を噛んでから真琴は食ってかかってくる。「それでも索敵班よりは、生きて帰れる可能性は高いじゃないですか」
リヴァイは毅然として発した。
「高い低いの問題じゃない」
――生きて帰ってこれなければ意味がないのだ!
頭の中で強く響いた声とは真逆のことをリヴァイは言う。
「経験のないお前が荷馬車班に配置されたところで結果は変わらない。死ぬときは死ぬ」
現実が見えてきたのか、真琴は露骨に目顔を引き攣らせた。
「や、やめますボク! ちょ、調査兵団をやめます!」喚叫は割れていた。
いまさら馬鹿馬鹿しいことを言っていると思った。ならばなぜもっとはやく除隊しなかった、とリヴァイは怒りが爆発しかけた。
平静でいられるよう保つ。が、語調は冷気を帯びた。
「やめても構わない。だが正式に壁外調査の随従に指名されたあとだ。兵法により敵前逃亡と見做されて、お前は」喉許に手刀を入れる仕草をして切る。「処刑台に直行だな」
「そんなっ」
真琴が絶句した。
「巨人に食われて死ぬか、自分で命を絶つか、選べ」
いつも艶やかな唇が風によって乾燥している。口許を震わせて、真琴は泣き言を零した。
「意味不明なそんな生き物に、食べられて死ぬなんてそんなの」
「なら自分で命を絶つか」
眼を瞑って真琴は勢いよく首を振ってみせた。横髪がばらばらとかかる目尻に涙が見えた気がした。
「どっちも選ばないのか」
涙をぐっと堪えているのか調節が外れた口調で真琴は言う。
「二つしか選択肢はないんですか」
追いつめすぎているとリヴァイは思っていた。けれどもう時間がないのだ。兵士とは何たるかを、じっくりゆっくりと教えていこうと思っていたがしかし、もたもたしていられなくなった。いままでのような甘さは捨て去るべきなのである。
「どういう意味だ」
――さあ、言ってみろ!
「三つ目を……自分で作っちゃダメですか」
「真琴の選択肢だ。俺が口を挟む権利はない」
うるさそうに頬を叩く髪を、頭を振って真琴は払う。濡れた顔のくせに、揺れる瞳で睨んできた。
「無事に帰ってくる」
――そうだ、よく言った。
大きな安堵感がリヴァイの胸を温かくした瞬間だった。
怖いと思うことは悪いことではない。帰ってくる決心は生きる意志に繋がる。立派な志はまだなくてもいい。生き抜くという強い思いがあれば。
微笑みそうになったけれど、人情味がない面差しを崩すわけにはいかなかった。その言葉を待っていたのだと、鼓舞するごとく背中を叩いてやってはいけない。
(脅すくらいでないと、こいつは駄目だからな)
「そうか。いよいよ暢気でいられないな。死ぬ気で励まないと、三つ目の選択肢はないと思え」
「……お先に失礼します」
泣き顔を見られたくないといったふうに、顔を伏せた真琴は急ぎ足で立ち去ろうとした。すれ違いざまにリヴァイの意地悪な口が勝手に動く。
「やめるだの、あまりにみっともないことを口走しるのはこれっきりにしろ。相手が俺じゃなければ失望してたろうな」
意味が分からなかったのだろう、思わず足を止めた真琴が眼を合わせてきた。
「失望しなかったわけじゃない。これ以上失望できないほど、お前の評価がどん底だからだ」
暗闇で明かりを放てるかと思うくらいに、真琴の顔が真っ赤になって頬が膨らんでいく。何やら文句を言いたそうに唇をすり合せていたが、そっぽを向いて逃げ去っていった。
気怠げな風体でリヴァイは屋根の柱に寄りかかった。あちこち欠けている古びた木柱は、寄りかかるとみしりと軋みを上げた。
屋根を仰いで腹から長い息を吐き出す。気を張っていた肩の力が抜けると、次に訪れたのは小さな暗雲だった。――果たしてこれで正しかったのかという。
瞼をゆるりと落として雨音に耳を傾けた。やかましいほどの大雨でよかったと思う。思考を乱されれば、余計なことを考えずに済むからだった。
[ 19/154 ]*prev next#
mokuji
しおりを挟む