16.暖かい色をしている夕空のような2

 真琴の後ろ姿は灰色の砂だらけだった。背中や尻についた汚れを払う。
「それにしても、いきなり突っ込んでくるなんて卑怯じゃないですか。おかげで何の準備もできませんでしたよ」
「卑怯?」
 尖った顎を反らせ、リヴァイは平然とのたまう。
「お前にはまだ格闘術の『か』の字しか教えてないんだ。構えもクソもねぇんだから、攻撃に備える間を与えてやったところで時間の無駄使いだろ」
 はちゃめちゃな持論だ。不服で真琴の唇が左に曲がる。

「屁理屈です……指導者とは思えません」
「体で覚えるのが一番早い。型から何まで口で説明するより、経験がものをいう」
「乱暴すぎやしませんか。これだけじゃなくて、ほかの訓練にしても言えることですけど」
 舌打ちしたいような感じでリヴァイが吐き捨てた。
「男に優しくして俺に得があるか、ないな」

 真琴の声が思わずひっくり返る。
「男女で差別!? ボクに厳しいのは損得の問題ですか!?」
「恨むのなら教官に俺を選んだエルヴィンを恨め」憎々しげに言う。「俺も心底恨んでいるが」
「ほかの班の兵士たちは、もっとこう、丁寧に指導してもらってるのに」
 手を振って言い表すと、リヴァイの冷ややかな瞳が細まった。

「お前、自分が損してると思ってんじゃねぇだろうな。貧乏くじを引いたのは俺だ。こっちが教えてやっても、ちっとも成果が上がらねぇ。匙投げずにしぶしぶつき合ってやってるってのに、感謝の念はねぇのか」
(いちいち嫌味な男ね〜。人を当たりクジが入ってないクジ箱みたいに言って。こんな人に自分の胸が高鳴っちゃったなんて悔しすぎるわ)
 不満が真琴の頬に出て膨れた。と、リヴァイの眼つきが据わる。

「上官に対してそんな面みせるとは、厚かましいにもほどがある」
 足許に落ちている木製ナイフを蹴った。地面を滑ってきたナイフが真琴の爪先で止まる。
 リヴァイは冷たい響きで言う。
「拾え。その厚い頬が二度と膨らまないよう、躾けてやる」

 真琴の固く結ばれた唇は白味がかかっていった。屈んでナイフを拾い、強く握り直してリヴァイを見据える。
「ほう、生意気な眼だ」
 後ろ足をするようにして下げたリヴァイが構えてみせた。
(馬鹿にして〜! 目に物見せてやるんだから!)
 真琴は足を肩幅に開いて、胸許で両手を軽く構えた。リヴァイのトレードマークであるアスコットタイに目線を置いて、全体的に力を抜く。

 真琴の構えを見たリヴァイは、唇をぽかんとさせて一瞬だけ眼を瞠った。が、すぐさま真顔になる。
「気の毒だ。先制をくれてやる」
(自分からいってはダメ、だったっけ)
 ――相手に対して構えない。出方を待つ。抵抗する意志がないと思わせて隙を作らせる。
 軽く構えたまま真琴は動かなかった。双眸を訝しそうに細めたリヴァイが首を僅かに傾けた。
「……見せかけか?」
「お先にどうぞ」
 敵意なく答えると小さな舌打ちで返された。

 じりっと砂がすれる音。片足をずらし、一瞬だけ態勢を沈ませたリヴァイの白いスカーフが捲れ上がってそよぐ。次の瞬間、スカーフが横に激しくはためいた。地面を蹴って、リヴァイが真琴に向かってきた。

(来た!)
 二人の距離がさほどない短い時間のあいだに、真琴は顔を引き攣らせて色々と考える。
 彼の右手の武器に怖じ気づいていた。色のない表情と、鋭い三白眼も恐ろしい。完全に気が引けている状態で、まともに回避できるだろうか。
(む、無理)
 抜き差しならない現状でできそうな技は、たったの一つしかなかった。

 リヴァイとの距離が詰まる。身体を固くし、頭を突き出す勢いで真琴は爪先を上げた。「えい!」要するにリヴァイの顎を狙って頭突きをしたのである。
 が、眼を瞑ってしまった真琴の正面には空間しかなかった。可怪しいと思って眼をぱちっと開ける。「あ、あれ!?」
 勢いをつけた真琴の身体は、踏鞴を踏みつつ前のめりに転んでいった。薄ら赤い空に尻を突き上げるような無様な態が仕上がった。

 全身が痛かった。四つん這いになり、真琴は後ろを仰ぎ見た。恨めしい思いで、
「なんで避けるんですか。ズルいじゃないですか」
「狡いもクソもあるか。何だってんだ、てめぇは」
 片手を腰に添えて体重を傾けているリヴァイはなんだか呆れ顔だった。ロケットのような真琴の突っ込みの動作を見て、彼は素早く横へ避けたのだった。

「大層な構えをしやがるからなんだと思えば。何をしようとした」
 ぼそっと真琴は言う。「頭突き」
 首を振りながらリヴァイが吐き捨てた。「馬鹿か」
 軽く溜息をついてから顎をしゃくり、
「その構え、どこで覚えた。もともと知ってたってわけじゃないだろう」

 地面にぺたんと座り込み、真琴は歯切れ悪く白状した。
「訓練兵の中に格闘術が得意な子がいるんです。講義へ行くたびに、少しずつ教えてもらってました」
 もうちょっと巧くやれると思っていたのに、お粗末な結果になってしまった。自分を情けなく思う。
「格闘術? そうは見えなかったが」
「護身術です」と言うと、「それで頭突きか」と独り言のようにリヴァイが言った。

 じくじたる思いで唇を窄める。
「情けないです」
「何が情けない?」
 真琴は指先で地面に円を描く。
「覚えてきた技で、リヴァイ兵士長をあっと言わせてあげたかったのに、こんな結末で」
「へんてこな技を食らいそうになって、違う意味であっと言いそうになったが」
「ちゃんとした技も教えてもらってましたよ。頭突きは最終手段なんですから」

 リヴァイはふっと軽く吹き出した。
(……お面の顔に血が通った)
 ときおり見せてくれる特別感のある彼の表情は、真琴の胸をきゅっと痛くしてくる。甘い胸のときめきが原因なのだけれど、真琴自身は感取していないので疲れからくる動悸だと思っていた。
「早速使っちまったのか。奥の手なんだろう?」
 と、首を傾けたリヴァイの目許は心なしか穏やかだった。

「とっておきの必殺技でした」
「あんなのは必殺技とは言わない。まったく、あまりの間抜けさに気が抜けちまったじゃねぇか」
 ばつ悪く上目遣いする真琴にリヴァイは手を差し出した。
「対人格闘術は訓練兵のガキに任せる。別段相手に勝とうと思わなくていい。目標は、自分の身を自分で守れるようになれるまでだ」

「いいんですか!?」
 彼の手を取った真琴の瞳は輝いた。逆にリヴァイは表情を打ち消す。
「嬉しそうだな、おい」
「い、いえ」
 たらりと眉にかかる汗を感じながら、真琴は眼を泳がせて立ち上がった。
 本当はとても嬉しいと思っていた。彼の言う訓練兵のガキとはアニのことだった。彼女の指導も厳しいのだが、怪我をするリスクはリヴァイに教わるよりも減る。

 兵舎の方角へリヴァイがゆっくりと歩き始めた。見上げると黄昏だった。
「俺としては意外だった」
「何がですか?」
 三歩分空けて彼のあとにつき、真琴は首をかしげた。

「お前は、どうも訓練に身が入らないところがあるだろ。やる気がねぇのとは違うんだと最近分かってきたが」
 相槌を打てなくて真琴は黙り込んだ。いまだ現実味がなくて、いつまでたっても心が引き締まらないことを見透かされていたからだった。

 だから、とリヴァイはしみじみ言う。
「相手がガキだってのに自分から前向きに指導を仰いだことで、少なからず俺は」
 言いながら後ろを振り返る。さっと苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
「なんで笑ってんだ、てめぇは」
「ごめんなさい、でもそんな見上げたものじゃないから、つい」
 口許を押さえて真琴は笑う。

 アニにお願いしているのは、ただ単純にリヴァイから指導を受けたくないからであった。彼が静かに言葉を連ねていくから、そうではないのだと可笑しくなってしまったのだ。
 リヴァイは苦虫を胃に落としたようだ。夕焼けを浴び、真情の色合いを帯びる瞳で真琴を見据える。
 端正な面差しに見つめられると胸がこそばい。恥ずかしくて、真琴はわざと茶化した。
「怒りました? やっぱり適当な奴だって」

 リヴァイの視線が外れた。歩き出し、
「理由が褒められたものでないとしても、嫌いな奴から指導を受けるよりは、自分で頼んだ奴に習ったほうが身になるだろう」
「別にリヴァイ兵士長が嫌いだからとか、そういうんじゃ」
 思わず言い淀んだ。苦手意識まで見透かされていたようだ。でも以前ほどじゃない、と思っている真琴がいる。たまに伝わる思いやりで、リヴァイが冷たい人間ではないのだと知った。

 むしろ彼は、暖かい色をしている夕空のような――
「壁の外を知らないから、お前は笑っていられるんだ。付け焼き刃が通用するとは思ってないが、少しでも生き延びる糧になるのなら、動機がどうであれ俺は」
 リヴァイは噤んで、緩めに頭を振った。そして腹に手を当てて呟く。
「……腹が減ったな」

 目線を落として、真琴は自分の靴先が砂つぶを散らすのを見るともなく見ていた。
 リヴァイは心配してくれているのだ。その気持ちは素直にありがたいし、安心するのならば、これからもアニに護身術を習おうと強く思ったのだけれど。

 乾いた地面にぽつんぽつんと水滴が跡をつけ始める。上空を仰ぎみると、曇ってもいないのに細雨が降り出し始めていた。
「……雨」
「遠くのほうにでかい雨雲が見えるな。夜には本降りになりそうだ」

 両肩が濡れていくリヴァイを見て、自分のことで心労を積もらせたくないと思う一方で、こんなに深刻に語るほどのことなのだろうかと、どこかでまだ思わずにはいられなかった。まるでいまのままでは壁外から生きて帰れないと宣告された気分で、雨はおおいに真琴の胸を冷やしてくれたのだった。


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mokuji
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