15.暖かい色をしている夕空のような1

 二ヶ月が経って、こちらの生活に順応してきたころの昼中。
 弾力のありそうな入道雲が、むくむく湧き出ている空を見上げて、
(動物に見えてくるわ。あれなんかイルカみたいじゃない)
 よそ見していると目の前の人物――リヴァイが物言いたそうな眼つきをしていた。「やる気あるのか」と彼の肉声が脳内で再生される。
(いけない! 集中しないと、またどやされちゃうわ)

 午前中に一通りの基礎訓練を終わらせた真琴は、午後から対人格闘術の指南を受けることになっていた。教わるのは今日が初めてだが、アニからちょくちょく技を直伝してもらっていることは彼に報告していない。組み手をするときに驚くかもしれないと思うと、にやけそうになる。
 ただちょっと気にかかることがあるので問いかけた。

「格闘術って、ボクたちに必要な技術なんでしょうか」
「なぜそんなことを訊く」
「だって調査兵団の敵は巨人です。自分たちよりも何十倍も大きい彼らに通用するとは思えません」
 偉そうではなく、リヴァイは淡々と言う。
「立体機動技術だけを高めていればいいわけじゃない。兵士として、あらゆる知識や技術を体得しておく必要がある」

「そうでしょうか。調査兵団だけじゃなくて、全兵団においても必要ないような気がします」
 国が割れているわけでもなく、一見して争いがあるわけでもなく、平和なのに人間相手に対抗するような技術を体得する必要があるのか――という武力行使を嫌う真琴の保守的な考えであった。
「三兵団の兵力が怖いか」
「闘う力は争いを生みます」
「だからといって力を放棄すると? それで守るべき対象が危険に晒されたとき、どうやってお前は守る」

 真琴は黙った。守らなければならないときが訪れるのは何も国を巻き込むほどの争いだけではない。隣人同士の小さなトラブルであっても機会はあるということである。日常的なものだけを指しているとは思っていないが。

「あいだに入るとき、盾になるだけの力がないと守れないだろ。敵が巨人とは限らない、ここまでは理解したな?」
「はい。例えばスリにあったときに対抗したり、喧嘩の仲裁に入ったり……ですよね」
 真琴の語尾が弱かったのは、そういう意味ではないと分かっていたからだった。両手に腰を添えているリヴァイは、首を振って溜息をつく。
「そうじゃない。供に闘う仲間が対象になるかもしれないだろう」

 やっぱり、と思いながら真琴は意見した。
「兵団同士で仲違いするかもしれないってことですか。だから闘う力はいらないんだって、さっきから言ってるじゃないですか」
「武力を捨てることは無理だ。必要悪である限り、最悪の自体も考えられる。ならばそのときに備え、力を蓄えておかないといけない」

「だからその備えが」
 リヴァイは手のひらで真琴の語尾を遮った。疲れの色を言葉に滲ませる。
「繰り返しになる。争いを嫌う天使様のようなお前の考えはもういい」
「いい子ぶってるわけではなくて、せっかく平和なのに、わざわざ武力を高める必要はないってことを言いたいわけで」

 武力の問題では日本も変革のときが訪れていた。「うちは各国と争う気はありませんので武器は持ちません」こんなことはもう通じなくなっているのだ。そんなことではよその国からミサイルが飛んできた場合、力のない国は泣き寝入りするしかない。

 自衛権が必要になってしまうのは世界が闘う力を捨てないからだ。が、この世界はこの国を残して滅んでおり、したがって隣国が侵略してくることもない。一つの国しかないのだから、力を捨てれば、少なくとも巨人以外の脅威に襲われることはない、と真琴は思った。

「では訊く。真琴はこの国が平和だと思うか」
 まだ全部を見たわけではないから、真琴は自信ない上目遣いで頷いた。
「外見だけを見れば」
「上っ面だけだろ。すれ違う輩が腹ん中で何企んでるか、分かりゃしねぇよな」
「それは人間だから……ですか?」
 落ち込みそうで自然と声量が小さくなってしまった。人間は賢いために、結局争いをやめることができない生物なのか。

「知恵のねぇグズな巨人だったら、そんな心配はいらない。その巨人の脅威が抑止力となって国が一致団結してる――ように見えるが」
 リヴァイは森のほうへ瞳を流す。
「所詮人間だ、何が起こるか分からない。明日の敵は今日の友というが、逆もまたしかりだろ」

「仲間が反旗を翻すときがあるかもしれないと、最初から疑ってかかるんですか、リヴァイ兵士長は」
 少し沈黙が降った。
「自分しか信じないとかいう、そんな一匹狼でもないが」
 前で組み合わせている真琴の手の指が落ち着かなく動く。いまから口にしようとしている質問の答えが、ちょっと怖いと思っていた。

「ボクや調査兵団の仲間のことは、どう思ってるんですか?」
 逸れていたリヴァイの視線が、ぱっと真琴に戻った。そう聞かれるのが思いがけなかったのか唇が半開きだ。ややして――
「信じてるさ。でなきゃ、壁外で巨人となんか闘えないだろう」
 情がこめられた言葉尻だった。
 死と隣り合わせの調査兵団には信頼が必要不可欠である。ゆえに団結力も強いのだ。
「よかった」
 真琴は下を向いて微笑んだ。ほっとした。仲間を信じられないなど寂しいじゃないかと思っていたから。

「だが覚えておけ。人の心や運命は移ろいやすい。いつどんな災難が自分に降りかかってくるか分からない」
「信じているものに、裏切られることがあるかもしれない、ってことですね」
 ようやく素直に考えを受け入れた真琴に、強い眼差しでリヴァイは頷いてみせた。
「あてにならないのなら、自分を鍛えて大事なものを守るほかないと、そう思わないか」
 まっすぐに真琴を見据えて、
「真琴の守りたいものはなんだ」

「え」突然問われて戸惑う。
「対象は広い。それが生き物とも限らない」
「えっと……」イルカ雲から、ただの魚雲になってしまった空に上目して真琴は考える。何も浮かばなくて首を傾けてもみたが、やはり思いつかなかった。
 回答など出ないと分かりきっていたのだろう。待たずにリヴァイは言う。

「まだ見つかっていないのなら、きっとお前は恵まれていたんだろう」
 強めの語調ではっきりと断言する。
「だがそれでは強くなれない。失うものがないときと、守るものがあるときに、人は真の精強になれる」
 いつまでも甘い真琴の尻を叩かれたような気がした。

 守るものがないのは満たされているからである。守るものがないからって失うものがないわけでもない。すべて捨ててしまいたくなるような絶望を感じることがなかったのは、自由に生きてこられたからなのだ。
 真琴にないものがリヴァイにはあるのだろうか。

「リヴァイ兵士長にはあるんですか。守りたいもの」
「さあな」
 息を吐くようにして、リヴァイはゆっくりと顔を逸らした。
 きっとある。そうでなければ強くいられない。だって彼が自らそう教えてくれたのだから。

「前置きが長くなったが」と言ったリヴァイは不適な笑みをみせた。「やるか」
 レプリカの小刀を構え、上体を斜めにして片足を後ろへ下げる。
 真琴の背筋に悪寒が走った。野獣のようにきらりと光る眼は嫌な予感しかさせない。
「日頃の鬱憤さらしに虐めようなんて思ってないですよね?」
 痙攣を起こす頬で笑いかけた。まだ構えもしていないのにリヴァイが突っ込んでくる。

「喋っていられるとは余裕だな。もう始まってるんだが」
「ちょ、ちょっと待ってくださ」
 真琴は両の手のひらを突き出して訴えた。いきなり始まるとは思わず、頭は混乱中だ。

 リヴァイは分かっているのだろうか。格闘術に関して、それを覚える必要性しかまだ教えていないことを。
 訴えた手はリヴァイに邪魔だと払われた。ぐいっと手首を引かれ、彼の持つ小刀が真琴の喉許を狙う。
 と、引き寄せられたときに小石で片足が滑った。真琴の身体は一気に傾いてしまい、もはや立て直せない。

「わ!」後ろに倒れそうになり、リヴァイの胸ぐらを咄嗟に掴む。
 リヴァイが眼を剥いた。
「ふざけんな、離せ!」引っ張られるがままにリヴァイもバランスを崩す。
 そうしてもつれ込むようにして、二人は地面に倒れ込んだ。胡椒のような小さな砂粒が煙となって包み込む。

 痛みに顔を歪ませて、真琴は短く呻いた。背中と胸に鈍痛が走った。
(ただ倒れただけなのに、すごい痛いんだけど)
 痛みを逃すために両目をぎゅっと瞑っていた。正面に暗い影が落ちている感覚がし、薄く片目を開ける。

 瞬間瞠目して、痛いはずの胸がひどく高鳴った。真琴の持っていない深い群青色の瞳が近くにあった。仰向けに倒れた真琴の両脇に、リヴァイが両手を突いていたのだ。
 彼も驚愕の瞳を見開かせていた。瞬きもしないで互いに凝視していたのは、数秒だったろうか。

 リヴァイはおもむろに退いた。砂がついた膝を払って立ち上がりながらの、前髪が揺れる彼の顔は無表情だった。
 手を突いて、真琴はむくりと半身を起こした。僅かな膨らみしか感じない、ほぼ平らな胸をさする。服越しに感じた人肌の圧迫感が首を捻らせた。
(何で胸まで痛いの。ひょっとして触れた?)
 リヴァイにちらりと視線を向ける。
(違うわよね。もしそうなら、いまごろ怒られてるわよね。俺を騙してたのか――って)

 背を向けているリヴァイがどうして立ち竦んでいるのか、真琴のほうからは見えなかった。肘を曲げているので、手でも見降ろしているような、そんな後ろ姿だった。やがて振り返る。
「いつまで座ってんだ。人を巻き添えにしやがって、クソっ」
 腕を掴んで引き起こしてきたリヴァイは嫌そうに眼を眇めた。
「相変わらずの細腕だ。こんなんじゃ大事な女ができたときに守れないぞ。俺が作成したメニュー通り、しっかり筋トレしてんのかよ」

「あれを一日で全部は無理ですよ」
 膝に力を入れて真琴は立ち上がった。女という言葉に内心ドキリと冷や汗が垂れたが。
「俺はあれの三倍をこなしてる。一日でできないわけがない」
 腹筋、背筋、スクワット。それぞれ三百回を朝昼晩で三セット。無理である。


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mokuji
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