14.胸に何か思うことがあればいい

 兵舎の出入り口からの眺めは、遠くのほうにある点々とした明かりのみだった。どっぷりとした暗闇に支配された敷地内には人の姿などない。本部の食堂から外を通り、そよ風と一緒に香っていた夕食の匂いも、いまはしない。

「遅い。講義はとっくに終わってていいころだろ」
 壁の角に凭れているリヴァイは懐中時計を開いた。足許に置いたランプを頼りに眼を凝らす。二十時を回ったところだった。
 夕食の時間になっても真琴が帰ってきていないようなので、食事に向かったその足で兵舎に引き返してきたのだ。寄り道をするにしても遅い気がする。

 仄暗い廊下を見通す。
「すれ違ったか?」
 兵舎に戻ってくるあいだに、行き違いで真琴は食堂へ行ったのだろうか。だとしても、ずっとここで待っているのだし、もう腹を鳴らす匂いもしてこない。ならばここで鉢合わせするはずだ。
 と決めつけて時間を無駄にするのも要領がいいとはいえないだろう。一旦部屋を確認してこようと、リヴァイはランプの取っ手に指を引っ掛けた。

 ひっ、と驚きを呑み込んだ声が上がる。
「びっくりした! おばけかと思っちゃいました」
 肩を縮め、両手で口許を押さえている真琴だった。
「誰かと思っちゃいましたよ。こんな所に人が立ってるなんて思わないから」心臓に悪いと胸を撫でる。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いてた。晩飯前には帰ってこれるはずだったろう」

 訓練兵団の講義が何時に終わるかリヴァイは予定を知っていたのである。まっすぐ帰ってくれば夕飯にはぎりぎり間に合う計算だった。
 ランプの範囲に真琴がやってきた。下から照らされる明かりの中、彼の瞳が左右に揺れ動く。

「講義が終わったときには、あっちはもう夕飯の時間でした」
 どうしてこうすぐバレる嘘をつくのか。
「つくならもう少しマシな嘘をつけ。大荷物を背負った婆さんを家まで送ってきたとか、迷子のガキの親を探していたとか、良心に訴える法があるだろう」
「おじいさんに道を尋ねられて」
「いまさら遅い」
 ぴしゃりと言うと、真琴はぐっと黙り込んだ。

 いい加減な奴だとリヴァイは思った。本部へ帰ってくるまでが訓練だとちゃんと釘を刺していたのに平気で約束を破る。遅くなったのはおおかた、
「どうせ帰りに市街をぶらぶらしてたんだろ」
 自室へ戻ろうと廊下を歩き出したリヴァイの後ろから声がついてきた。

「違います」不満げな口調だ。「講義のあと対人格闘術の訓練があるっていうんで、ちょっと見学してたんです。長くいるつもりはなかったんですけど、そのまま終わるまでつき合ってきちゃったから、こんな時間になっちゃっただけで」

 先を歩くリヴァイの眼は、ゆっくりと見開いていく。意外だったといえばそうでもなく、望んでいたことに近かかったからだ。
 静かに問い掛けた。

「なぜ訓練風景を見学していこうと思った」
「散る汗や必死な面差しに、目を奪われてしまって」
「それで真琴はどう感じた」
「まだ少年の域を出ない子が、ボクなんかにはない強い志を持ってるんだなって思ったら、感慨深くなりました。それもあって、もうちょっと彼らを見ていたかったんです」

 南方駐屯地へ行かせたのには理由があった。若い訓練兵が鍛錬している様子を見て、僅かでも真琴に変化があればいいと、そういう思惑があったのだ。
 真琴がどういう意志で調査兵団を志望したのかは分からない。だが彼は自分から兵士になろうと決めたのだ。だというのにちっとも自覚がなく、覚悟も持ち合わせていないのである。だから訓練兵を通して、胸に何か思うことがあればいいと望んでいたのであった。
 少し反抗的な物言いは上官に対するものではなかったけれど。

「つまんねぇ嘘をつかないで、始めから正直にそう言え」
「これも寄り道だと思ったから、怒られると思ってつい」
「ガキどもと一緒んなって、くっちゃべってたってんなら話は別だが」

 明かりが届かず、上段が薄暗い二階への階段を登る。背中にちりちりと感じる視線から、真琴がまだ不満そうなのが窺えた。

「でもボクって信用ないんですね。帰りを兵舎で待ち伏せされてるなんて思いませんでした」
「平気で嘘をつく奴を誰が信じる? 数十分前のことを思い出してから言え」
「なんか常に見張られてるみたい。脱走兵の監視みたいな」
 ぶつぶつと零しているが、小声で文句を言ったのが聞こえていないとでも思っているのだろうか。それともリヴァイの耳が人並み以上によいのか。

 本音を言ってしまえば脱走してくれたほうがいいと思っていた。厳しい訓練はもう嫌だから辞める、と言い出すのを待っていた。
 甘い人間を壁外に出して、むざむざ戦死者を増やすようなことは避けたいとリヴァイは思っている。ある程度覚悟が足りないのは仕方ない。巨人を見たことのない兵士は足が地につかなかったりするからだ。

 が、真琴の暢気さは度が過ぎていた。貴族の屋敷で純粋培養されていたとしても異常だった。あえていうならば、同じ世界で育った人間とは思えない、と言い切ってしまいそうになるほどだった。
 今日訓練兵団へ行かせて、もし何も感じずに真琴が帰ってこようものなら、調査兵団から叩き出そうと思っていた。しかし彼は猶予を手にしたようだ。

 さておき背中に刺さる小生意気な気配は放っておけない。どんな顔をしているのか、リヴァイの頭の中で思い描かれてはいるけれど、答え合わせをしてみようか。
 階段の踊り場を曲がってふいをつこう。そしてリヴァイは肩越しに振り返った。
 真琴は大げさなまでに肩をびくつかせた。急に振り返るなんて思わなかったのだろう、唇を尖らせた面容で氷になっていた。

 あまりに間抜けだったので笑いそうになったがリヴァイは威厳を保つ。
「お前のそれは癖か」
「え!?」
「気にいらねぇことがあると、すぐに唇を突き出しやがって。俺が気づいてないとでも?」

 指摘されて真琴は手で唇を隠した。仕様もない言い逃れをする。
「く、口笛を吹きたい気分だっただけで、反抗してたわけじゃないです」
「つくづく嘘をつくセンスがない奴だ」リヴァイは顎をしゃくってみせる。「その顔、鏡で見たことあるか? ぶ男もいいとこだ」

「ぶ男って!」
 迫力のない烈火と恥で真琴は顔面を赤く染めた。ムキになる彼が可怪しくて、リヴァイは笑いを堪えるのが困難となっていることに、実は気づいていない。
「お前、全身で怒ってるが、ちっとも凄みがねぇ」

 言うと、なぜか真琴の表情から怒りの炎が鎮火した。ランプの仄かな明かりの影響か、いつもより艶めく瞳を揺らす。
「そんな顔して笑うんですね、リヴァイ兵士長って」ぽっと頬も色づかせる。「意外でした」

 リヴァイは思わず瞳を瞬かせた。そんな顔とはどんな顔かと自問する。どうやら自分は笑っていたようだが、信じられなくて緩慢な動きで口許を手で覆った。
「……お前があまりにもアホ面だからだろう」

 自分の指で真琴は目尻を吊り上げる。「いつもこんな顔してるよりも全然いいですよ。てっきり笑うことを知らないのかと思ってましたし」
 上官に対して、とても無礼なことを言っていると分かっているのだろうか。が、目尻を吊り上げている彼の顔がまたひどいありさまなので、リヴァイの面がまたぞろ崩れそうになった。

 表情を手で隠すようにして、
「その顔もあとで鏡で確認しろ。今夜のことを後悔して部屋から出られなくなるだろうがな」
「そんなこと言われたら鏡なんて見ませんよ。知らぬが仏ってやつです」
 真琴はにこっと笑って首を傾けた。笑顔はごく自然なものだった。
 リヴァイはまたも瞳を瞬かせた。あどけない彼を見るのも初めてだった。
 笑った顔を見たことがないと真琴は言ったが、彼だってそうじゃないか。いつだって不服そうに唇を尖らせてばかりだったろう。

「なんだ、そりゃ」
 思いがけないことで止まっていた足を再び踏み出す。
 いつの間にか二人して並んでおり、リヴァイは緩い歩調の真琴におのずと合わせていた。どうしてか彼は機嫌がよく、いそいそと手提げ鞄を漁り始める。

「階段でなんだってんだ、部屋に戻ってからにしろ。脇目してると踏み外して転がり落ちるぞ」
「待っていてくださったお礼に、美味しいものを差し上げようと思って」
「美味しいもの? 何が飛び出てくるんだか知らないが現金な奴だ。監視どうのこうのと、ぶうたれてたくせして」

 こんもりしている紙袋を鞄から出した真琴は顔をぱっと上げた。ばつが悪そうだ。
「き、聞こえてたんですか!?」
「俺の耳は特別いいらしい」冷めた眼でリヴァイは自分の耳を指差した。
 と、紙袋から甘い匂いがふわりとたゆたってくる。
「何の匂いだ」

「だから美味しいものって言ったじゃないですか」紙袋に手を入れる。「市街の露店で買ってきたんです」
「詰まるところ、お前は寄り道をしてきたと、そういうことか」
 もう怒る気はなかったが、リヴァイはわざと低めの声音を使った。そわそわと真琴は焦り始める。
「帰りじゃないです、行きです」
「同じだろ」

 話を無理矢理終わらせる感じで、真琴は紙袋から出したものを顔面に突き出してきた。真ん中に穴の空いた揚げパンだ。
「これです、これ! すっごい美味しいんです! だから幸せのお裾分けです!」
「なんだ、これ」
「知らないんですか? プフアンクーヘンっていってウォールローゼの名物なんですよ」
 眼を丸くした真琴は、ひどく誇らしげに言った。馬鹿の一つ覚えのように聞こえたが。

 甘味に興味ないというか、リヴァイはとても苦手だった。プフアンクーヘンを見ているだけで胸焼けがしてきそうだ。いまだ受け取らずに、顔を少し遠ざける。
「ぷふ……? 長い銘柄だな。油で揚げただけの単なるパンじゃねぇか」
「作り方はたぶんそうでしょうけど。ボクのおすすめなんで食べてみてください」

「俺はいい。お前が欲しくて買ってきたやつなんだろ」
「実は二個買って、ボクは行きに歩きながら食べてきたんでもういいんです」
(食ってきた!?)
 階段をうっかり踏み外しそうになり、リヴァイの血流が一瞬騒ぎ立てた。自覚のない真琴を、やっぱり叩き出そうかと考え直したくなった。
 こめかみの血管がぴくぴくしてくる。
「買い食いを堂々と白状してくるとは、肝が据わってやがる」
「え!? あ!」

 口を滑らせて不都合なことを自白してしまった真琴は、いまさら覆っても遅い口を片手で隠した。リヴァイから逃げようと一歩後ろに下がろうとする。が、ここは階段である。
「馬鹿!」
 空を踏んだ真琴が後ろに倒れそうになる。リヴァイは彼の腕を掴んで、もろそうな細い腰に腕を回した。
 焦っていたから真琴のことを強く抱きしめてしまった。眼を大きくして身を縮ませている真琴の肩幅は、男と思えないほど華奢だった。頬に触れる髪の毛からは妖艶な花の香りがする。

「お前、なぜこんなに」細くてなよらかなんだ。と続くはずだったのに、訝しさと混濁する脳が発語という信号をストップさせた。昼間に抱いた娼婦と感触がだぶる。これではまるで――

 放心しているようだった真琴が、リヴァイの胸許に添えている両手を見て、急に眼をぱちぱちさせた。
「ない!」叫んで天井を仰ぐ。「上! プフアンクーヘンが!」腕を伸ばして指を差した。
 近い横顔に一瞬惑ったリヴァイも、輪郭のはっきりしない天井を見上げた。菓子が空を舞っていた。「……は?」
 上に向かって指を差している真琴の身体が、大きく弓なりに落ちていくプフアンクーヘンを追って、後方に反りだす。

「落ちちゃう!」
「お前が落ちる! その前に支えている奴のことをおもんぱかれ、阿呆が!」

 階段の下へ落ちていくプフアンクーヘンを、リヴァイは再び眼で追う。鋭く舌打ちをし、真琴を離して上段から飛んだ。空中で菓子を捕まえ、着地の衝撃を和らげるために一回転して地に片膝を突いた。
 ふうと息をつき、掴んでいる手を振る。

「無事だぞ、お前の甘い友達は」
「助けてくれてありがとうございます。お礼にあげます、ボクの大好きなプフアンクーヘン」
 眼をしならせて微笑む真琴を見ていたら、もう断れなかった。
(手に取っちまったしな)
 甘いものは嫌いなのだけれど。長ったらしい銘柄の菓子に、リヴァイは目許を和らげてみせたのだった。

「殺人的に甘すぎるだろ、これ」
 自室に戻ったリヴァイは、窓際に配置された猫足丸テーブル三点セットの椅子に腰掛けていた。一口食べたプフアンクーヘンを真逆の渋い顔で見る。
「紅茶がねぇと、とてもじゃないが食いきれん」
 それも一段と渋みの強い紅茶でないとだめだ。

 食べかけの菓子を小皿に戻し、リヴァイは腰を上げた。窓のそばに立ち、カーテンを引いて外を眺める。薄い雲がはびこる空は、もったいぶって星々を隠していた。

 二人が部屋の前まで着いたとき、リヴァイは気になることを聞いてみた。
「一〇四期生のガキどもで、調査兵団を志望している奴はいたか?」
「最初、調査兵団に入る者は一人もいないって訓練兵の子に言われたんですけど」
 前置きし、
「一人……いや、二人……」ううん、と真琴は首を横に振る。「もしかすると、三人は入ってくるかもしれません」

「そいつら、骨のありそうな奴だったか?」
「ボクをちょっと感慨深くさせたのが、いま言った三人のうちの二人なんです。でもこの三人、とても絆が強そうだったので、揃って入団してくるんじゃないかなって思ってます」

 ドアノブを握ったまま、リヴァイは廊下に消えていきそうな喋り方で訊いた。
「理由を聞いたか?」
「シガンシナ区出身の子たちなんですが、悲惨な現場を目にしたんだそうです。たぶん、それがきっかけなんじゃないかと思うんですけど」
 表情を暗くして真琴は眼を伏せた。
「そうか」
 それだけ言ってリヴァイは部屋に入ったのだった。

 地獄を目にしてなお、調査兵団を志望する三人。もしかすると、と真琴は言っていたが確実に入団してくるだろうと思った。生半可なことで口にできることではないからだ。

「たったの三人か」
 ひだになっているカーテンをリヴァイは触れた。
 南方駐屯地の一〇四期生はおよそ二百人。それだけいるのに、いまのところたったの三人しかしいないという事実。
 死亡者が絶えない調査兵団の人材不足は深刻な問題であった。


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