12.降り注ぐ期待のシャワー

 南方駐屯訓練場は、現在一〇四期生が訓練中であった。
 敷地内を進んでいくと兵士の集団が見えてきた。空に轟くような喝も聞こえてくる。兵団と同じジャケットを着ている彼らの背中や肩には、二つの剣が交差された紋章が入っていた。おそらく訓練兵団のエンブレムなのだろう。
 厳しそうな訓練風景を素通りして、正面の建家に向かっていた真琴の背中に、ビリビリとした大音声がぶつかった。

「貴様!」
 しわがれ声を振り返る。
「え、ボク?」
 真琴のもとへ、年配の男がずんずんとやってくる。スキンヘッドが額の深い皺を目立たせており、瞳が怒りの色をしていた。
 勝手に敷地内へ入ってきたことを咎めにきたのか。門番が留守だったので仕方なかったのに。

 男は正面で立ち止まった。長身の影が覆い被さり、真琴の所だけ薄暗くなる。
「すみません、勝手に入ってきてしまって。門番さんがいなかったので……えっと」
 彫りの深い目許で睨められているから怖かった。訓練兵に向かって上げていた喝と同じ声だったので、たぶん教官なのだろうけれど。
 いきなり罵声が飛ぶ。
「お前は何者だ!」
「調査兵団所属の真琴・デッセルと申します」

 真琴の胸許の翼を見て男はぎりぎりと歯ぎしりをした。ジャケットの襟を掴まれる。
「偽物のエンブレムめ! 自分で作って縫いつけたか!」
「ほ、本物ですよ。怪しい者じゃありません、身分証明書もちゃんと持ってます」
「本物だということは分かってる、馬鹿もん!」
 不審者だと思われたわけではないのか。なぜ男は真琴を怒るのだろう。

「こんな奴が調査兵……」わなわなと唸ってから唾を撒き散らす。「どこの訓練兵団所属だった! 東方か! 西方か! お前を担当した教官を殴りにいってやる!」
「訓練兵団は出ていません」
「なに!?」と男は血走った眼を剥いた。「ということはお前、エルヴィンが入団の許可を出したというのか!?」
「そうです。直接入団の許可をいただきました」

 額を軽く触れ、男は黒目をぐるぐる回してふらっとよろめく。
「聡明なあやつが判断を誤るなど、そんなことは」倒れかけた男は、はっとして顎髭の顔をぐっと近づけた。「俺の見る目が衰えたのか?」
 視点がぶれるほどの至近距離で穴があくほど真琴を見てくる。
「な、なんでしょうか」

「見えん……何も見えてこない……。属している分隊は?」
「いまはどこも。リヴァイ兵士長から指導は受けていますが」
 目玉が零れ落ちそうなくらい、男は両眼を瞠った。
「リヴァイから!? じきじきに!?」
 微小に頷くと、さきほどよりも大げさに男はよろめいた。

 エルヴィンやリヴァイを呼び捨てにする彼は何者だろう。口調に隠れた温度からは、ただの知り合いというふうには見て取れないが。
「大丈夫ですか? あの……、貧血?」
「疲れてるのかもしれん。それで視力が一時的に低下しているに違いない。そう、そうだ。そうでなければエルヴィンとリヴァイの目が腐っているとでもいうのか、いや、それは天地がひっくり返ってもない」
 眉間を指先で押す男の胸の紋章を、ちらっと見てみた。「キース・シャーディス」とあった。

「……今夜は早めに床に就こう」
 何かに打ちのめされた様子のキースは、訓練兵たちのもとへ戻っていこうとした。
「本日の講義を受けさせてもらってもよろしいでしょうか? これもリヴァイ兵士長の指示なんですけど」
「次の講義は、いま行っている救命講習のあとだ。そこの建家で待機してろ」
 と、点在するプレハブ小屋の一つを人差し指で示してくれた。
「ありがとうございます」
 どこか消沈している大きな背中に真琴はおじぎをした。結局どうして怒られたのか分からなかったが。

 プレハブ小屋の室内で真琴は一番後ろの席に座った。正面の教卓越しには白いチョークの跡が薄ら残っている黒板がある。
 複数の声が混ざったざわざわ感が外から近づいてきた。やがて扉が開き、若い少年少女たちがぞろぞろと入ってきた。歳は十代の真ん中に差し掛かろうとしているくらいか。

 成人している真琴は目立っていた。じろじろと見ながら彼らは席についていく。
(子供たちに混ざって授業なんて、なんか恥ずかしい)
 顔を俯かせていると、窺い気味に隣の席についた者があった。リスのような眼をした少年だ。
「隣いいですか?」
「もう座ってるじゃない」

 口を広げて笑った少年は緊張した様子であった。彼の前の席に腰掛けた金髪の少年も、林檎の山に一つだけ蜜柑が混ざっているというふうな眼で真琴を気にしながら、彼に話しかける。

「エレン。お昼からずっと気になってたんだけど、口にシチューの跡がついてるよ」
 と言って自分の口端を指差した。
「そんな前から気づいてたんなら、もっと早く言えよ、アルミン」
 エレンは拳でゴシゴシと拭う。続いて、エレンの傍らで椅子を引いた少女が淡々と言う。
「てっきり私は、小腹が空いてきたときのために残してるんだとばかり思ってた」

 ここで真琴は思わず、「あは」っと吹き出し笑いをした。
「お腹が空いたら、口についてるお弁当を舐めて空腹を満たすため?」
「ばか! そんなわけないだろ!」と頬を少し赤くしてエレンが黒髪の少女に言う。「ミカサも知ってたんなら、傍観してないで言ってくれよ」
「食事のあとは口許をちゃんと拭く習慣をつけたほうがいい」
 そんなのは幼稚園の年齢で躾られることである。

「君たちって、歳いくつ?」
「今年十五になりました。こいつらも同じ歳です」
 こちらに半身を捻っているアルミンにエレンが同意を求める。
「一〇四期はほとんどそうだよな」
「十六歳組もいるよ。アニとかサシャとか」
 中学三年生から高校一年生の子が兵士の卵だという。義務教育中の日本では考えられない。

「訓練兵団って三年間あるんだっけ。いま十五ってことは、何歳で各兵団に入れるの?」
 真琴の質問にアルミンは眼を丸くした。無知なために馬鹿だと思われただろうか。
「僕たちは十二のときに一緒に入団して、いまが三年目です。あと数ヶ月ですべての過程が修了します」
「じゃあもう時期卒業して、憲兵団や調査兵団……と、あと一個何だっけ」
 二つ指を折った真琴は最後の一本で上目した。だからミカサを除いた二人が驚きの顔で絶句しているなど目に入らなかった。

 深沈のミカサが教えてくれた。
「駐屯兵団」
「そうそう、駐屯兵団! ――に、新兵として入団していくのか。ボクの後輩になるかもしれないんだね、君たちは」
 エレン越しに顔を見せたミカサは、真琴の腕章をじっと見つめてきた。
「ここから調査兵団に入る人は、一人もいないと思う」

 教室には、ほぼすべての席が埋まるほどの訓練兵がいる。およそ四十人ほどだけれど。が、点在しているプレハブの数からしてもっといると思われた。
 おそらくクラス分けされていて何クラスかあるのだろう。最低ニクラスだとしても調査兵団を志望する者が一人もいないなど考えられなかった。
 どうしてそう思うのか聞いてみようと思ったが、エレンのほうが口を開くのが早かった。彼は声を抑えて怒る。

「ここに一人いるだろ。勝手なことを言うなよ」
「調査兵団に入りたいなんてまだ思ってるの。命を投げ打つだけが復讐じゃないって、何度言ったら分かってくれるの」
「復讐だけじゃない。あの光景を忘れたのかよ、ミカサ。あれを目にして何も思わないのか」
 長めの前髪がかかる眼をミカサは伏せた。

 この二人に何があったのだろう。口を挟めなくて、真琴はアルミンを窺った。彼も昔を悲しむように頭を垂れていたが、真琴の視線に気づいてちろりと見てきた。
「五年前まで、僕たちシガンシナ区に住んでたんです。巨人の襲撃にあって街に住めなくなって、訓練兵団に入る直前までは開拓地にいました」
「街が巨人に襲われる光景を見たんだね」

 その光景がどれほど悲惨だったのか、真琴には想像もできない。アルミンの表情の翳りから、痛ましい出来事だったのだと感じる取るのが精一杯だった。
「いっぱい人が死にました。エレンのお母さんも、そのときに亡くなりました」
「俺の目の前で母さんは巨人に食われたんだ。あのときみたいな日が、またいつ訪れるか分からない。だから巨人を駆逐しなきゃいけないんだ」
 机の上でエレンは拳を震わせていた。ミカサが復讐と口にしたのは、この事を言っていたのだろう。

 エレンはミカサに冷静に問う。
「お前はどこを選ぶんだよ」
「エレンと同じところ。でも調査兵団だけは行かせない」
「俺は自分の意志を曲げる気はないぜ。ただもったいねぇと思うよ。お前の技術を、憲兵団か駐屯兵団で燻らせるなんてな」
 調査兵団に入るというエレンの意志は揺らぎないもののようだ。

 何の意志もないのに、調査兵団のジャケットを纏う自分が恥ずかしいと真琴は思っていた。強い志を持つエレンは、このジャケットに誰よりも袖を通したいに違いない。ただ調査兵団への入団を、ミカサが頑なに反対する理由が分からなかったけれど。

 講義を担当する教官が入ってきたので談話は終わりとなった。後ろを向いていたアルミンが教卓のほうに向き直ってノートや教本を広げ始めると、エレンやミカサもそれに倣った。
 教卓の前で教官は丸眼鏡をくいっと上げる。「それでは本日の講義を始める」と言っている隙を狙い、真琴はエレンに顔を寄せた。

「ミカサは反対してたけど、ボクは調査兵団に君が入ってくるのを待ってるからね」
 エレンの笑顔が最大に明るくなった。
「絶対入団します。講義のあと、お話を聞かせてもらっていいですか?」
「え? なんの?」
「やだな、壁外での武勇伝ですよ」

 真琴は作品名「凍りつく笑顔」という彫刻になった。訓練兵よりも下の下とリヴァイから言われた真琴に、武勇伝などあるわけない。壁外に出た経験もなければ、まともに立体機動もできないのだ。笑顔を輝かせるエレンに何と答えたらよいのだろうか。
「前回の続きからで、巨人の生態についてを教える。二〇二ページを開きなさい」
「やべっ。講義に集中しないと点数に響く」
 教官の声のおかげで話が流れた。ほっと息をつき、真琴もペンを持って前を向いた。

 講義の内容は、ハンジの資料やリヴァイから聞いた話と大体同じで復習に近かった。黒板に書き連ねていくチョークの叩くような音だけが響く。訓練兵は黙々とノートに書き写している。
(巨人の弱点はうなじ。縦一メートル横十センチの部分を削ぐと絶命する。それ以外の部分は傷をつけても再生してしまう)

 強そうな筆圧で真面目に書き取りしているエレンのノートを盗み見てみた。字は下手でも読める。書かれている文字は筆記体であるが、英語ではなく、この世界の文字らしい。
 真琴がノートに書いた文字は日本語であった。言葉もそうだが、不思議なことに眼で見るものが勝手に翻訳されているらしかった。ちなみに真琴の書いた日本語が翻訳されることはないらしい。フェンデルへ宛てた手紙で検証済みだ。

 便利なのか不便なのか微妙である。この世界の簡単な文字しか書けない真琴はフェンデルとの文通で碌な報告ができていなかった。だというのに彼は、「真琴が元気にしていることが分かればそれでよい」と言ってくれている。本来の目的を忘れているのかもしれない。
(文字のことで特別困ってもないし)
 結局のところ、あまり不便に感じていないので根を詰めて文字を習得しようとまでは思わなかった。それは、真琴がこの世界に執着していないからともいえた。

 一時間半の講義が終わってノートを鞄に閉まっていた。熱い眼差しが横顔を焦がしてくる。膝を揃えてこちらを向いているエレンの期待の表れであった。
「なんか顔が熱いな」
「早く終わんないかなって今日の講義に集中できませんでした。聞かせてもらえますよね? 武勇伝!」
(まだ言ってる)

 どうしようかと思っていたら、いつの間にかほかの訓練兵たちも集まってきてしまっていた。逃げたい気持ちが真琴を仰け反らせる。
「な、何か用かな。君たち」
 空席だった隣に、亜麻色の髪をした少年が少し横柄な態度で腰掛けてきた。胸許の紋章に首を伸ばして眼を凝らす。

「真琴・デッセルか」髪を払って背凭れに腕を預ける。「現役の調査兵にお目にかかれるとはね。あんたの所に入団する気はねぇけど、どんなもんか話に興味はある」
「失礼だろ、ジャン! 俺たちよりも先輩だぞ!」
 エレンが吠えた。

 ジャンの物言いは年上に対する態度ではないが、注意できるほど真琴は偉くない。降り注ぐ期待のシャワーを前にして観念するしかなかった。
 言いづらいことがあると、どうしてか笑い顔になってしまう。
「期待を裏切るようで悪いんだけど、ボクまだ新米でさ」

 エレンはきょとんとする。
「新米? 壁外調査は?」
「数日前に入団したばかりだから、まだ巨人すら見たことないんだ」
「憲兵団か駐屯兵団から移籍したのか?」
 ジャンに訊かれて真琴は首を横に振った。
「何て言ったらいいんだろう、一般から? だからたぶん、君たちのほうが立体機動とかの技術は上だと思うよ。というかたぶんじゃないな、確実に」

「謙遜だよな? だって訓練兵より技術ないって……、そんなんで調査兵になんてなれないだろ」
 敬語ではなくなってしまったエレンの笑顔はショックで引き攣っていた。
「そんなんでもなれてしまったっていうか」
 真琴は汗ばむ耳の裏を掻く。決まりの悪い思いをしていた。調査兵団に入ることを目指して頑張っているエレンに申し訳なく思う。

「……まじかよ」
 魂が抜け落ちたようにエレンの肩がすとんと落ちた。真琴の株は一気に暴落してしまったみたいだ。
 踏ん反り返りながらジャンが笑い出す。
「死に急ぎ野郎がここにもいたよ!」
「死に急ぎ野郎?」
 首をかしげると、腰に両手を添えた少女の声が背後から頭に落ちてきた。

「調査兵団に入りたい、って一年中言ってるエレンのあだ名。あんたの発言が謙遜かどうか、私は興味ない。もし本当だったとして、自殺願望者だと思ってジャンは言ったんだろうけど」
「教えてくれてありがとう。自殺願望なんてないけどね」
 後ろに首を巡らせて真琴は苦く笑ってみせた。教えてくれた子は、顎までの長い前髪を横に流している少女だった。

 調査兵団に入ろうとする人間は誰もいない。ミカサの言葉の意味が真琴には何となく理解できてきた。壁の外を調査する調査兵団は必然的に巨人と戦闘になる。すなわち死亡率が高いから人気がないということなのだろう。


[ 13/154 ]

*prev next#
mokuji
しおりを挟む
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -