11.メッセージ・イン・ア・ボトル

 午前中に睡眠を取れたおかげで真琴の二日酔いは改善した。しかし徹夜が祟り、ピークだった疲労がとうとう限界を迎えてしまった。
 杖が欲しいと思った。全身筋肉痛で少し歩いただけで鋭い痛みが走る。老婆のように身を丸めて、リヴァイが待つ訓練場にやっと着くことができた。

「お待たせしました」
「遅い、十分の遅刻だ」
 十分くらい大目に見てくれてもいいではないか。「時間通りに着くよう計算して部屋を出たんですが、なにぶん、こんなんでして」
 筋肉痛がひどくて肩も脚も上がらないのだと真琴はアピールした。

「五十肩か。相当若作りしてたんだな」
「そんな歳いってないです。二十三肩ですよ」
「肩も脚もちっとも上がんねぇのかよ。そんなんじゃ訓練ができないだろ」
 仁王立ちのリヴァイは腕を組んで溜息をついた。もしかすると今日は丸一日訓練が休みになるかもしれない。

「今日の訓練はなしだ、やった」リヴァイは棒読みで言い、「とか思ってんじゃねぇだろうな」
 嬉しさが真琴の口端に表れていたようだ。
「でもほんとにこれじゃ立体機動なんて無理です」
「お前の身体の筋肉痛が日に日に重症化していってるのは気づいてたが、毎日の訓練のあとに欠かさずストレッチはしてたんだろう?」
「しろ――なんて言われませんでしたけど」

 呆れたような上目でリヴァイは短く息を吐いた。
「ほとほと疲れるな。何から何まで指導しないと行動できねぇのかよ」
「だって必要性も知らなかったんだもん」
 ぶつぶつ言って真琴は反抗的に唇を尖らせた。リヴァイの眼の色が、さっと据わったものに変わる。
「だって? だもん? 自分の立場が分かってんのか、真琴よ」

「だって頑張ってるから筋肉痛になるんです。さぼってたら、いまごろピンピンしてますよ。それなのに溜息ばっかりつくから」
「俺に反抗するとは、いい度胸をしてる」
 低音で言ったリヴァイは、砂利の音を鳴らしながら真琴の背後を取った。
「な、なんですか」
 何やら不穏な気を感知して後ろに顔を巡らす。

「痛くて身体が伸びないんだったな。ストレッチを手伝ってやる」
 背中合わせになったリヴァイに両腕を絡めとられる。
「こ、こんなんでストレッチしたら痛いですよ!」
「いいや。なってしまった筋肉痛にもストレッチは有効だ。それに伴う痛みのほどは俺の知ったこっちゃないが」
 そう言ってリヴァイはおじぎした。両足が浮いて、真琴の背中から腰が弓なりに反る。合わせて悲鳴も上がる。

「痛い! 痛い! 痛い!」
「そうか、もっとか」
「ごめんなさい! お願いだからやめてください!」
 炎症を起こしている筋肉が伸びる痛みは、無意識に涙が滲み出るほどだった。生意気な真琴に対するこらしめでリヴァイはわざとやっているのだろう。

 絡め取られていた腕を、ぱっと振りほどかれた。リヴァイの背中から滑り落ちた真琴は尻もちをつく。
「うぅ」
「たっく、どんくせぇし運動神経はねぇ。加えて教え甲斐もねぇときた」リヴァイはくるりと向き直った。「もう今日はやめだ。疲れた」
 見降ろしてくるリヴァイは怒ってはいなさそうだった。真琴を泣かしたことで腹の虫が収まったか。ただ並々ならぬ疲労が、その万年隈のある目許に滲んでいたけれど。

 訓練が中止になって真琴はまた喜びが顔に出た。
「じゃあ部屋に戻ってもいいですか」
「おい。ほかの兵が訓練に励んでる中、お前は昼寝を目論んでんじゃねぇだろうな」
「ま、まさか、そんな殿様みたいなこと、思ってるわけないじゃないですか」
 ひくひくと笑いつつ、つっかえつっかえに言った。図星だった。

 滑稽な真琴をリヴァイは能面でじっと見てきた。やがて瞼を落として浅く溜息をつく。
「どうも調子が狂う。なめてる奴を黙らせる躾なんざ、たくさんあるってのにな。どうしてこう甘くなるのか」
 上目遣いして真琴は打ち消す。
「……全然甘くないですよ?」
 自分の態度にしばらく悩んでいたようだが、リヴァイの顔つきが締まった。

「訓練は中止といえど、のんびり過ごさせるわけにはいかない。周りに示しがつかん」
「何をしてればいいでしょうか? ハンジさんの資料を読むとか?」
「いや、訓練兵がいる南方駐屯訓練場へいまから行ってこい。受けてくるのは講義だ。椅子に座ってるだけなら身体も平気だろ」
 地理に疎い真琴は場所が分からない。

「どう行けばいいのか分からないんですが、地図とかありますか? 口頭じゃ忘れちゃうと思うので」
「俺も市街に用がある。近くまで一緒だから迷うことはない」
 リヴァイが兵舎のほうへ歩き出した。
「着替えてくる。真琴は訓練場だからそのままでいい。正門前で待ってろ」
「はい」

 ウォールローゼの市街を、こんなふうに歩くのは初めてだった。ワクワクを抑えられない真琴は、たくさんの露店が連なる光景を眼に、右に左に忙しく頭を振る。
「歩くのが遅ぇよ。早く来い」
「脚が痛くて」
 と言いつつ、早歩きで私服のリヴァイの傍らに並んだ。

「ほら吹きが。その辺の店に目移りしてるだけだろう」
「だってワゴンたっぷりに品物が盛られてるんですよ。どのお店も活気があっていいですね」
「いつもの光景だろうが」

 もの珍しらしくしている真琴をリヴァイは不思議がっているようだった。フェンデル邸で世話になっているあいだ、ほとんど外出しなかった真琴は調査兵団本部へ来るときも馬車を使った。だから街の様子を知らなかったので、すべてが新鮮なのであった。
「帰りにあれを買っていこうかな」
 水滴が瑞々しい柑橘系の果物を横目に呟いた。後頭部に注がれる視線が痛い。

「非番じゃないんだ。講義が終わったあとでも寄り道はなしだ。本部へ帰るまでが訓練だからな」
「分かってますよ」
 まるで遠足の決まりごとみたいな文句だった。でもそういうリヴァイは何の用事があるというのだろう。
「リヴァイ兵士長はどちらまで行かれるんですか」
「俺は休んでくる」

「休む? 外で?」首をかしげたが、真琴は、ああと手を打った。「公園のベンチで日光浴ですか。今日はぽかぽか陽気だから気持ちいいかもしれませんね」
「気持ちいいしか合ってねぇ」

 え? とさらに小首をかしげると、リヴァイの斜めの視線と重なった。
「女に休ませてもらうんだ」
 言われて真琴の時が少し止まった。言葉を理解して想像した結果、顔が赤くなってきそうだったが堪えた。別にいやらしいことではない。モテる男なのだから恋人くらいいるだろうし、そういう女性がいれば、そうゆう関係になるのも自然の流れだ。
 でもなぜか、わざとらしい言い回しになってしまう。

「そ、そういう人がいて羨ましいです。ボクも恋人がいればなぁ。そしたら厳しい訓練も、もっと頑張れる気がするのに。つらいときに甘えさせてくれる人が早くほしいです」
「は?」リヴァイは力ない半眼をした。「恋人なんてめんどくせぇもん誰が作るか。店の女だ」
「み、店?」
 顎が外れそうだった。いかがわしい店に違いなく、真琴には理解できない世界だった。

「いっちょ前に真琴も女に興味があるらしい。馴染みの店を紹介してやってもいいが」
「ぼ、ボクはそういう所へは行きませんからっ」
「初めての奴は、そう言って店の女どもを偏見の目で見るが、そこらの女より後腐れねぇし気が楽だぞ」
 最低だ。不潔な目線でしかリヴァイのことを見れなくなりそうだった。が、これを理解できないということは、真琴は男になり切れていないということなのだろう。

「嬉しくないアドバイスをありがとうございましたっ。でもボクは一生お世話になるつもりはありませんからっ」
「お前あれか」リヴァイが眼を大きくした。「まだ男じゃないのか」
 男じゃないと言われて、バレたのかと心臓が飛び出た。「な、何を、ボクは正真正銘のおと」

「あれだろ、初めては好きな女と一流の宿で――とか夢みてんのか。要するに童て」
「わ――! わ――! わ――!」
 大声を出してリヴァイの言わんとしたことを真琴は打ち消した。公共のど真ん中で、しかも真っ昼間から何を考えているのか。
「うるっせぇな。迷惑だろうが」
 眼を眇めてリヴァイは両耳に指を突っ込む。

「だって変なこと言おうとするんですもん」
「別に変なことじゃないだろう」数秒の沈黙が降る。「……なぜ顔を赤くしている」
 ぱっと両頬を押さえた。真琴の顔は茹でられたタコよりも赤い。
 苦味のある表情でリヴァイは言う。
「気持ち悪いな、ほんとに、お前は」

 本通りを折れた細道のところでリヴァイと別れた。体型よりも若干長めな黒のジャケットを、袖を通さずに両肩に掛けている彼の背中が行く細道は、何となく妖しげな店がぽつぽつと並んでいたのだった。
(男の人って、みんなああなのかしら。違うわよね)
 細道からさらに裏路地のほうへ曲がっていったリヴァイを見届け、真琴は気を取り直して本通りを歩き始めた。ここからは突き当たりを右へ、さらに右という、とにかく右に折れていけば南方駐屯地へ辿り着くらしい。

 道の真ん中をまっすぐ歩いていた真琴だが、斜めに逸れていった。甘い香りが鼻をくすぐっており、蝶々になった気分でふらふらと吸い寄せられていく。
 香りの正体は一軒の露店で、見知った形の菓子がワゴンにこんもりと盛られていた。
(あれってドーナツ?)
 そういえば――
(有名なドーナツがある鎌倉のカフェで、お茶しようって予定立ててたのよね)

 旅行雑誌に掲載されていた店である。楽しみにしていたのに津波に巻き込まれたために食べ損ねてしまった。
 慣れない世界に、めまぐるしく変わっていく環境。生きるだけで精一杯だった真琴の思考は停止していたに近かった。
 この世界に慣れようとして何の意味があるのか。帰ることを第一に考え続けなくてはいけないのに疎かになっていた。

(香織……いまごろどうしてるかしら)
 真琴が津波に攫われたことで責任を感じてやいないだろうか。
(お母さん……心配してるかな)
 警察に捜索願を出したのだろうか。死んだと思われているのかもしれない、とも思っていた。
(生きてるのよ、私。知らない世界でだけど、ちゃんと生きてるのよ)

 ――せめて生きていることだけでも伝えられないものだろうか。
 真琴は考える。ここへ来たのは海がきっかけだった。
(なら、この世界と私の世界って海で繋がってたりしないかしら)
 たとえばこちらの海からメッセージ・イン・ア・ボトルを流したら、向こうの海へ届くのではないだろうか。やってみる価値は充分ある気がした。

「兄ちゃん。買うのか買わないのか、はっきりしてくれ。冷やかしはごめんだよ」
 顎に手を添えて考え込んでいたら、無愛想な声がかかった。店の前でぼけっと突っ立っていたので店主が痺れを切らしたらしい。
 真琴は愛想笑いする。

「すみません、冷やかしじゃないんです。どのお菓子が一番美味しそうかな、って選んでたんです」
「なんだ、買う気はあったのか」店主はころっと機嫌を良くする。「うちのプフアンクーヘンは元祖だ。大きさも味も全部平等に作ってあるから、どれも美味いよ」
「プフアンクーヘンっていうんですか、これ」

 訊くと、店主は珍しげに真琴を見てきた。
「知らないのかい、あんた。プフアンクーヘンといやウォールローゼ名物だよ。どこの田舎から出てきたんだぁ?」
「えっと、一面畑の家がまばらにあるような、そんな村出身なんです。街の賑やかさにも驚いてるくらいで」
「そんな所なら知らなくても仕方ないか」
 ぽっこり出た腹をたぷたぷ揺らして店主は笑った。真琴は財布を取り出す。

「じゃあ二個買います」
「毎度あり! 一個は彼女にでもやるんかな? 若いっていいね」
 プフアンクーヘンを手掴かみして店主は薄い紙袋に入れた。真琴はちょっと突っ込みたかった。
(おじさん。さっき頭ぼりぼり掻いた手だよね、それ)
 リヴァイの潔癖性が移ってきたのだろうか。気にしない気にしない、と真琴はかぶりを振った。ばい菌が少しついたくらいで人間は死なないのだから。

 四十リラを三十五リラにまけてもらって商品を受け取った。通りを歩きながら早速食べてみる。
「美味しい! まるっきりドーナツだわ」
 口の中いっぱいに広がる甘さに、みるみる表情が明るくなっていく。久しぶりの甘味に感激していたこともあり、考えごとなど吹き飛んでしまったのだった。


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mokuji
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