09.ふと悔しくてたまらなくなるときがある

 訓練初日から数日が経過した。疲労はピーク。心身ともに疲れ果てた真琴は夕食をしに食堂へ来ていた。

 卓上ランプが灯る厨房のカウンター横で順番待ちをしている真琴は、自分の番はまだかと首を伸ばした。
 この世界には電気がなかった。照明はオイルなどの燃料や蝋燭がおもである。発電所から供給される明るさを知っている真琴からすれば、この世界の夜は暗い。訓練が終わって自分の時間をようやく持てるころには、知識を得ようと本を読むにも不便を感じずにはいられなかった。

「はいよ。あんた細いから多めに入れといてやったからね」
 割烹着を着た厨房のおばさんが、どんと盆を置いた。
「ありがとう。お腹ペコペコだったから嬉しいな」
 知らない世界で気を遣ってくれる人がいる。とてもありがたいことだし何気なさに救われもした。
(でもおばちゃん……、豪快すぎてお皿からスープが零れてるのよ。もったいない)

 受け取った盆を持って、空いている席はないかと首を振る。食事や雑談を楽しんでいる兵士たちで食卓は満席に近い。
 一人で食べる日が続いており、賑やかな様子は真琴をうら寂しくさせた。こういうとき相部屋だったなら、いまごろ気の合う友人を作れていたのだろうか。
(仲良さそうにしてる食卓には座りづらいな)

 突っ立って首振り探していたら、こちらに大きく手を振っているハンジに気づいた。ばっちり眼が合うと、さらに「おいでおいで」と呼ぶ動作をする。一緒に食べようと真琴を誘ってくれているようである。
 混み合う食堂を縫ってハンジのそばへ行くと彼女は隣の椅子を引いた。

「どこで食べようか迷ってたんでしょ? 私も一人で寂しかったんだ。一緒に食べよ」
「ボクも知ってる方と食べたいなって思ってたんです。嬉しいです、誘ってくれて」
 盆を置いて真琴は腰掛けた。八人座れる食卓に、なぜかハンジは一人だった。
「訓練の調子はどう?」
「いまだに慣れません。あちこち筋肉痛で、そろそろ限界がきそうです」
 腰痛が慢性化しそうな腰をさすり、真琴は眉を下げた。

「容赦なさそうだからな、リヴァイは。やっぱ彼の指導って厳しい?」
「ボクがダメダメだからなのかもしれないですけど……かなり」
 にんじんにフォークを刺したところでハンジが奥歯を見せて笑った。
「私から見ても指導者向きじゃないからね、彼は。実力は文句なしなんだけど、向き不向きってのがあるからさ」

「とにかく発言がきつくて、それだけで身が削られるっていうか」
 真琴はパンをぱくっと食べた。そろそろ白いお米が恋しい。
「ボクの教官がハンジさんだったらよかったのに」
「私が優しいとは限らないよ。リヴァイよりも、もーっと厳しかったりして」
「あの人よりも怖い人はいないと思います」

 顎を反らしてハンジは呵々する。
「すっかり苦手になっちゃったか。指導者ってのも損な役だね」
 言い回しがリヴァイを庇っていた。ハンジに上目しながら真琴はフォークを口に運ぶ。
「うるさく言うのも厳しくなるのも、一生懸命だからなんじゃないのかな。ダメダメなのにつき合ってくれてるんでしょ?」

 彼女はリヴァイと親しそうだった。真琴がリヴァイのことを悪くいうことで嫌な奴に思われただろうか。言われて反省した。目線が落ちて、スープ皿にフォークがぽちゃんと沈む。
「悪口に聞こえちゃいましたか。そんなつもりじゃなかったんですけど」
「んー、そんなことないよ。よくある愚痴でしょ」
 眼鏡越しにハンジは眼差しを和らげた。

「リヴァイ兵士長は壁外の怖さをボクに感じ取らせたいみたいなんです。それってたぶん彼が誠意を持って指導してくれてるからなんだろうな、って分かってはいるんです。まだ理解しきれてないけど」
「実際に体験してみないとなかなかね。巨人を見たことのない新兵なんかは、真琴みたいにのほほんとしてるもんだ」

 真琴は身を丸くした。リヴァイがすごい人なのだということは、この数日で分かってきた。そんな人が自分を見てくれていること自体、特別なことなのである。気に入らないことは胸の内で罵っていればよいわけで、他人に喋ってしまうなんて迂闊だった。

「厳しくされるのも分かってはいるんです。でも、毎日身体がつらいとか痛いとか、誰かに零したいときもあって……それでつい」
「分かってるよ。リヴァイの悪口じゃない、訓練の愚痴でしょ。誰だってある、私にだってある」
 と言ったあと、ハンジは悪戯な顔つきで覗き込んできた。
「でも本音は嫌い――そうでしょ?」
 ズバリ言い当てられてしまい、真琴は苦笑いで返すのだった。

 雑談しながら食事は進んだ。やがて真琴が気づいたときには遅かった。ハンジがどうして食卓に一人きりだったのかということに。
「捕獲した巨人にね、私は名前をつけるんだ」
 そう言って、生態実験のために捕獲した巨人の歴代の名前を列挙していく。
「そうすることで、つらい実験も彼らと一緒に乗り越えられる」

「つらいんですか? その実験」
 聞かなければよかったと真琴が後悔するのは、もう少しあとだ。好奇心を持ってくれたと思ったのかハンジに火がつく。
「そりゃつらいよ。うなじ以外にほかに弱点がないか槍で刺して探すんだけど」感情的に喋りながらパンを噛みちぎった。「痛そうで可哀想で、涙なくして実験はできない」

「ハンジさんの資料には彼らに痛覚はないって書いてありましたけど、痛がるんですか?」
「読んでくれたの、私の記録!」
 興奮気味のハンジが身体をこちらに向けた。彼女が咀嚼しているパンカスが真琴の顔面に飛ぶ。
 ハンカチで拭き取り、真琴はたじたじと返答した。
「まだ全部じゃないですけど。なにしろ量が多いので」
「嬉しいなぁ! そっかそっか、巨人に興味を持ってくれたか!」

 それからというもの、真琴に口を挟ませることなくハンジは熱く語り続けた。
「真琴の疑問だけど、巨人に痛覚はあるのか!? これは確かじゃないんだけど基本的にはないんじゃないかと思ってる。でも中にはいるんだよ、槍で刺すと悲鳴をあげる子がね。この違いを私は探求したいんだ!」

 いい加減聞き飽きてきて、真琴は「はぁ」とただ返すのみであった。巨人トークをさせるとハンジの口が減らない。そんな彼女と同席するのがみんな嫌で避けられていたのだろう。だって落ち着いて食事もできない。
 まともに相槌すらしなくても彼女は一人で喋った。観葉植物になったフリでやっと完食し、ハンジの声で耳がじんじんしてきたころ彼女は言った。

「まだ話足りないな。真琴もまだ聞き足りないでしょ?」
「巨人の話なら、お腹いっぱいになりました。一年は持ちます」
「謙虚だな。もっと知りたい聞きたい、って言ってくれて構わないんだよ。私の階級なんて気にしなくていいんだから」

 謙虚でなく本心だったのだがハンジには通じなかった。まだここで雑談しようというのか。身体がくたくたなので真琴は早く自室に戻って休みたかった。
 席を立って盆を持ち、低姿勢で言う。

「また今度お話を聞かせ」
 途中でがしっと腕を掴まれた。妖しげな笑みを纏うハンジの眼鏡はランプの明かりが揺れてみえる。
「だから遠慮しなくていいって。ここじゃ落ち着いて話もできないから、私の部屋へ行こうか」
「いや、でも……お風呂がまだだし、もうすぐ就寝時間だし、第一女性の部屋にボクが入るっていうのも抵抗あるっていうか」

 何とかしてハンジから逃げられないだろうかと、断る理由を言い連ねてみた。が、彼女はそんなことで引き下がらない。
 食卓を拭きにきた食堂のおばさんにハンジは二人の盆を滑らせた。

「ごちそうさま、美味しかったよ。悪いけど片付けておいてくれるかな。これから楽しい楽しい夜更かしが待ってるから急いでるんだ」
「夜更かし!?」
 思わず声が滑稽に上ずった。朝まで喋り倒す気か。
 抵抗の暇さえなく、ハンジになかば引きづられるようにして真琴は食堂をあとにした。

 ※ ※ ※

 そのころリヴァイはエルヴィンを訪ねていた。団長室にある革張りのソファに我が物顔で座り、食後の紅茶を味わっているところだ。
「俺の部屋は、いつからお前がくつろぐ空間になったんだ?」
 班長らが提出した報告書に確認のサインをしているエルヴィンは、顔を上げずに言った。びしっとセットされた前髪は下に垂れることなく、彼の表情が窺える。迷惑そうではなく目許は穏やかだった。

「こんな広い部屋に一人じゃ寂しいだろう。だから遊びにきてやってるんだ」
「心優しい友人だな。そう言ってくれるなら、ついでに書類整理を手伝ってほしいんだが」
「やなこった、自分の分で手一杯だ。夕食にありつけないほど仕事が溜まってんなら、秘書でも雇えばいいだろう」

 窓の前にあるエルヴィンの書斎机は、書籍や書類の束で彼の頭の高さまで積み重なっていた。偉くなるのは給料が増えていいと思いきやそうでもない。職責の重圧や仕事量が増加し、増えた給料分の貯金では到底賄えていないだろう。
 苦労疲れから、だから額が年々広くなっているのではないのかとリヴァイは密かに懸念してやった。かくいうリヴァイも兵士長という階級について数年が経つ。立場的には分隊長と同列で仕事量も多い。上に立つ者の苦労も分かっているつもりだ。

 唇を窄めて長く息を吐いたエルヴィンが、椅子の背凭れに深く寄りかかった。
「で? ただ遊びにきたわけじゃないんだろう。報告がてら愚痴りにきたか? 真琴のことを」
 緩く開いた膝の上で手を組む。
「そんなものにまた眼を通して」

 真琴が持ってきた経歴書を隅々まで見ながら、リヴァイは空になりそうなカップに口をつけた。
「これだけか? 真琴の情報は」
「多少シンプルに纏めすぎだとは思うが、そんなものだろう。何か気になることでもあるのか」
 いや、と小さく唇を動かすとエルヴィンが本題を促してきた。「どんな感じだ、訓練の進み具合は」

「あいつは駄目だ」
「駄目とは?」
 エルヴィンは聞き返して、俺にも一杯くれないかと付け足した。
 リヴァイはゆっくりと立ち上がった。贈与品などの、普段使いできなさそうな食器が飾られた戸棚を開く。
「どうもこうも見込みがない。エルヴィンの見立て通り、才能のかけらもねぇ」
「訓練を始めてまだ数日だろう。決めつけるには早いんじゃないのか」

 一度も使用したことがないであろう趣味の悪いティーカップを、当てつけのつもりでリヴァイは選んだ。書類の山で隠れ気味のエルヴィンに顔を巡らせる。
「顔がにやけてるぞ。決めつけるには、もう充分だと思ってるくせに嫌な奴だ」
「少しは期待してたさ。ほんの少しだがね」

 ローテーブルからティーポットを取り、立ったままでカップに注ぐ。ダージリンが香り立つ。
「ほんとにどういうつもりだ、エルヴィン。一目見たときから見抜いてたろ、兵士に向いていないことなど」
「だから言ったろう。断れなかったんだ」
 と言うエルヴィンの顔つきはまだ穏やかだった。
「あんなのを壁外調査に出してみろ、ソッコーで死ぬ」
「だからお前に指導を頼んだだろう」

 のらりくらりとかわされている気がした。言いたいことは分かっているだろうに。能無しと嗅ぎ取っていて、どうして兵団へ迎え入れたのか。死者を増やすだけだろう。
 ふつふつと苛立ってきて、書斎机にかちゃんと音を立ててティーカップを置いた。

「誰が指導しても同じだ、それはお前も分かってるだろ。訓練量の問題じゃない。そもそもが論外だ」
「この先技術が身につかないとしても、まったくの役立たずにはならないさ」
 入れた紅茶をこくりと含んだエルヴィンに低く問う。
「どういう意味だ。俺には役に立つとは思えない」

「壁にはなる」
 エルヴィンがさらりと放った一言に、リヴァイの頭は血が昇った。「本気で言ってんのか、てめぇ!」
 失った自分の班を思い出し、拳で書斎机を鋭く叩いた。積み重なった紙束がはらはらと舞う。
 慌てることなく、エルヴィンは崩れそうな書類の山を手で押さえつけた。蒼い眼差しが聡明になる。

「言葉はよいものではないが本気だ。本質を見失うな、リヴァイ。我々は何のために活動している? 巨人に奪われた街を取り戻す、巨人の謎を解き明かし自由を手にする、そうだな?」
 叩きつけた拳を震わせ、奥歯を噛み締めながらリヴァイは睨み続けた。
「犠牲ありきの調査兵団だ。その犠牲が決して無駄でないことも分かっているだろう? みな承服のうえで入団してきた。お前もそうだし、お前の育てた部下もそうだ」

「言い方ってもんがあるだろうが」
 喉から絞り出した責めに、エルヴィンは重い溜息をついてみせた。
「お前の無念は分かる。俺も仲間を失ってきた。巨人が憎くてたまらない。だが一歩ずつ先へ進むためには――道を繋げるためには、犠牲という屍の上を歩いていくほかないんだ」

 エルヴィンを信頼してはいる。が、たまに感じる人間味の乏しさを仮借できない己がいた。上に立つ者が揺らいではいけないことは分かっているのだけれど。
 横髪をなびかせて、リヴァイはそっけなく背中を見せた。大股で退室しようとした。

「リヴァイ」
 固めの口調だが、どこか気遣うような声が呼んだ。
 扉口で振り返らずに、リヴァイはドアノブを掴む。
「お前の信念は理解してる。俺だって犠牲を恐れているわけじゃない。だがふと悔しくてたまらなくなるときがある。そんなときは、お前のあけすけな言葉に腹立つときもあるってことだ」
 なるべく冷静に言い置いて、静かに扉を閉めたのだった。


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mokuji
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