08.鬱蒼と繁る雑木林

「ハードな午前中だった」
 体力も精神も削られて、真琴は食堂の食卓に横顔をつけた。正面には背凭れに身を預けているリヴァイがいた。

 食堂で雇われている中年の女が二つの盆を持ってきた。それぞれの前に置く。
「たんと食べて、午後の訓練も頑張るんだよ」
 のそりと身体を起こして昼食の献立を眺めた。真琴とリヴァイの萎えた声が揃う。
「よりによって、スクランブルエッグ」

 ぐちゃぐちゃ具合がさっきを呼び起こさせた。顔を逸らして真琴は咄嗟に口許を覆う。
 一つ椅子を飛ばした隣にいる兵士に、スクランブルエッグが乗った皿をリヴァイは滑らせた。
「やる」
「いいんですか」
 体型的におかわりをしないと足りなさそうな兵士は喜びを隠せないようだ。
「ああ。食欲がないんでな」
「ありがとうございます。頂きます」

 肘を置き、フォークを持つ手でリヴァイは額を支えた。実際運動したのは真琴なのに彼のほうが疲れているように見えた。
「食わないのか。さっき全部出しちまったんだ、午後もたないぞ」
「午後の訓練……食べても支障ないでしょうか」
 リヴァイは隈の濃い双眸を上げた。
「あ〜、やっぱり食わないほうがいいかもしれん」

「またハードが続くんですか」
 真琴の顔は泣きそうになった。
「ようやっと本題に入るわけだが、下手な奴は眼が回るだろうな」
「立体機動のことですよね」
「前転や後転を繰り返すと酔うタイプか?」
「連続すれば何となく気持ち悪い感じにはなります」
 乗り物に弱いわけではないが何回も回転すればさすがに酔うだろうと思われた。

 リヴァイの支えている手が額から頬に移動する。
「危ねぇな。まあ、これも慣れなんだが」
 フォークで真琴を示し、
「腹減ってたまんねぇってんなら、食ってけ」
 と言い、ふかしたジャガイモをつついて口に頬張った。
 真琴の腹は食べさせろと鳴く。また二の舞を演じることになりそうだが覚悟してサラダを口に入れた。

 リヴァイはぱくぱくと食べ続ける。
「そういやベルトはどうした」
「ベルト?」
「支給してもらってないのか? こういうやつだ」
 鎖骨下付近に通っている自分のベルトにリヴァイは指先を掛ける。真琴の胸許にそんなものはない。

「渡されてません」
「軍服は用意したくせに肝心のベルトを支給し忘れたか、ハンジの奴は」
「珍しいところを締めているベルトですね」
 がくっと首を落としたリヴァイは、はぁぁと長い溜息をつく。
「説明が面倒だ。あとで纏めて教える」
「すみません」
 今日だけで何回謝っただろうか。

 鬱蒼と繁る雑木林だった。立体機動訓練用の小さな森の手前で真琴は見上げた。
「人工的に植林したのかな。それとも自然を利用したのかな」
「そんなこと俺は知らない。入団したときからすでに森だった」
 独り言にリヴァイが答えてくれた。構造がややこしそうなベルトを持っている。
「どうせ一人じゃつけられないだろうから特別につけてやる。ジャケットを脱いでこっちに来い」

「そのベルトは何のために必要なんですか」
 ジャケットの袖から腕を抜きながら真琴は訊いた。
「観察力がねぇな、真琴は。俺の腰許を見て何も思わないのか」
 留め具に通されたベルトを、しゃがんで一つ一つ解いているリヴァイの、両の腰許には金属製で作られた長方形の箱が固定されていた。箱の上部にはボンベのようなものも括られている。

 まったく同じセットが彼のそばに置かれていた。楕円形の機械もある。
「これがお前の立体機動装置だ。個人で管理するものだから大事に使え」
「その機械のようなものはどこについてるんですか」
 何も分からない真琴を面倒臭がるかと思われたリヴァイだが、普通に教えてくれるようだ。腰の後ろを覆っている外套を彼が後ろ手でたぐり寄せると、同じ楕円形の機械が現れた。

「これが装置だ。接続されたトリガーを操作すると、ここからガスが噴射される。ワイヤーとガスの推進力を利用して空を飛ぶ」
「空を飛ぶ……」
 そんな小さな機械から排出されるガスで人間が飛べるものだろうか。半信半疑でいると、深い色合いをしているリヴァイの瞳が見据えてきた。
「まだ見たことないか、人間が飛ぶところを」
 森のほうへ首を伸ばし、
「訓練してる奴が見当たらないな。奥のほうへ行っちまってるか」

「だからですか?」
「なにがだ」ベルトを解き終わったリヴァイは立ち上がった。
「だから紋章が自由の翼なんですか?」
「なぜそう思った」
 白い鳥が丁度森から飛んでいくさまを見て真琴は言う。
「飛ぶっていう表現がもし鳥のようなら、自由に大空を舞うことをさしているのかな、って思ったんですけど」
 少し瞳を伏せ、リヴァイはややして言った。

「違うようで違わない」
 え? と眼を瞬かせた真琴を見て、リヴァイは澄んだ瞳を上げた。
「そのうち分かる。逆に俺が分かったことは、お前が本当に温室育ちのぼんぼんだってことだな」
 この世界について無知ではあるが、どこかのお嬢様みたいに甘やかされて生きてきたわけでもない。そんなふうに言われると馬鹿にされたみたいでムッときてしまう。

 リヴァイが背後に回った。
「ベルトをつけるぞ」
 リュックを背負うように背当て付きのベルトを頭から被った。後ろから回されたリヴァイの手が腰ベルトを締める。顔を横に逸らすと、眼を伏せ気味のリヴァイの横顔が見えた。やはり端正な顔をしていると真琴は思った。
 リヴァイが正面に回ってきた。

「次は胸許のベルトを締める。手順を覚えておけ、明日からは自分で装着するんだ」
「分かりました」
 リヴァイの手許を見降ろしながらとりあえず頷いたが、繁雑で覚えられそうになかった。彼の指先が胸許のベルトを触れて、拙いことにやっと真琴は気づく。

「待って!」
 半身を捻って真琴は胸許を庇う。頬が赤くなる。
「なんなんだ、急に」
「ここは自分で締めます!」
 リヴァイはひどく怪訝そうにした。
「お前の態度はいちいち気持ち悪いな。下心もねぇのに、ひどく心外な思いをさせてくる」
「すみません、深い意味はないんです。少しは自分でやらないと覚えられないと思っただけで」

 言い訳しながら真琴は金具にベルトを通していった。着せ替え人形になったつもりでリヴァイに任せていたから焦った。間違って胸にでも触れて、女だと悟られていたらと思うと冷や汗ものである。
「弛ませずにしっかり締めろ。命に関わる」
「はい。しっかり締めました」
 ぎゅっと締めたことで胸が強調されていないか気になった。意味なくシャツを摘んで身体から浮かせてみたりした。早くジャケットを着て隠したかった。

 リヴァイは膝を突いて、腰許から長く垂れているベルトを二本取った。
「あとはこのベルトを両腿でそれぞれ締める。弛めず締めろとさきほど言ったが、金具が傷んでいないかも、その際ちゃんと見ておけよ。留め具が割れてベルトがたわみ、空中から落ちて大怪我した奴がいるからな」
 どの高さから落下したんだか知らないが怖い話だ。
「脅かさないでくださいよ」
「これは俺の勘だが、お前は脅すくらいで丁度いい」

 イコールそれは駄目な奴だと言われているような気がした。会社ではそこそこ頑張っていた真琴だが職種が変わるとこうもせんないものなのか。適性というものの大切さを実感していた。
 ベルトの調節で真琴の腰に触れたリヴァイの動きが、ふと不自然に止まった。細い眉根を寄せ、群青の瞳を狐疑の色にして見上げてくる。

「どうかしましたか?」
「腰が――お前」
「腰が?」
 きょとんと首をかしげた真琴を見て、リヴァイは目線を落とした。疲れ目がつらいとでもいうように、きゅっと瞳を閉じてかぶりを振る。
「いや、なんでもない」

 気を取り直した彼は、何事もなかったかのように手早く脚のベルトを装着していった。立体機動をこの眼で見たことがない真琴に、どんなものか見せてくれるという。

 森の中を移動していく。昼中だというのに、二十メートルはある樹々の葉で太陽の光が遮られており暗かった。枝の隙間から漏れてくる日光はシャワーのようだ。
「木製の大きな人型のものは何ですか?」
 木の影に隠すように配置されている巨大な模型を見て、真琴は指差した。
「巨人を模した仕掛けだ。まだあれで訓練するには早いが、どういうものか見せてやる」

 ここで待ってろ、と指示したリヴァイが木の影にある模型へと歩いていった。彼の姿が消えてややしてから、ぎしぎしと鈍重な音が森の中に響いてきた。
 頭上で覆い繁る葉から、巨大な人型の模型が顔を出した。その大きさに、巨人を見たことのない真琴は怖がるどころか感心した。

「偽物だとはいえ迫力ありますね」
 リヴァイが戻ってきた。また影にゆっくりと消えていく仕掛けを尻目に真琴に言う。
「本物はもっとだ。いまお前が感じた迫力とは、おそらくまったく別の心象になるだろう」
「すごいとか、大きさに衝撃を感じたりとかですか」
「すごいと思うにも色々ある。驚愕や観念や恐怖――とかな」

 並べ立てられた言葉が全部マイナスなことばかりなので、真琴の口端がぴくぴくと攣った。
「全部あまり良い意味じゃなさそうですね」
「それだけお前は暢気ってことだ。そろそろ真面目にやれ。俺の堪忍袋の緒が切れないうちな」
 外套を翻し、リヴァイは下草を踏み鳴らして歩き出した。
 何だか怒らせてしまったようだった。立体機動訓練を前にして、まだ安直でいる真琴に苛々したのだろうか。それはこの訓練が、壁外で生き残る上でもっとも重要なものだからなのだろうけれど。

「いまから見せてやる」
 適度な場所で立ち止まったリヴァイが、脇に収納されているトリガーを手にしてそう言った。グリップを握る指先が細かく動いていると思ったら、両の腰許から二本のワイヤーが射出した。
 ワイヤーの先に突いている尖ったアンカーが木に突き刺さる。
「トリガーを操作して、ガスを噴出しつつワイヤーを巻き取る」

 腰許の装置から白い蒸気を纏うガスが噴き出ると、リヴァイの外套が激しくたなびいてゆく。それから瞬く間に浮上していった。
 ワイヤーを巻き取って空中浮遊を維持しつつ、リヴァイはアンカーをよその木に差し替える。ときおり反転しながら幾度と繰り返して、真琴の頭上を旋回し続けていた。――枝に足を着けることなく。

 小さな空で自由に舞うさまは、
「緑の鳥」
 めじろや鶯のようだった。
 見とれていた真琴の目の前にリヴァイが片足で着地してきた。ぼうと唇を薄く開けている真琴に言う。

「これが立体機動だ。人類が発明した、対巨人戦にもっとも適した戦法。己より巨大で強大な敵に立ち向かうための武器だ」
「飛びながら空中で闘うんですか」
「巨人の弱点はうなじにある。十五メートルもある豚野郎に地上戦では勝ち目はない。蟻のように踏みつぶされるだけだ」

 真琴にはまだ深刻さが分からなかった。ただリヴァイの眼光が真剣だったということだけは見て取れた。奥に秘めている覚悟が、真琴と彼とでは全然違うものだということも判じた。
 リヴァイの瞳がワイヤーのように突き刺さってくる。

「噛みつかれて、はたき落とされて、捻り潰されて――そうやって死ぬのは嫌だろう。だから俺が教えてやってる」
 何を想像すれば彼が伝えようとしている恐ろしさが身にしみるのか。バイオテクノロジーで復活させた古代の恐竜を見せ物に、テーマパークを開いた映画でも思い浮かべればぞっとするだろうか。所詮空想の世界では真琴の身を竦ませることは無理だったが。

「黙りっぱなしだが、俺の言っていることは理解できたのか」
「何となく」
 曖昧に頷いた真琴の心の内など見透かされていただろうけれど、リヴァイはもうその話を切り上げた。
 トリガーの操作を教えてもらい、今度は真琴が立体機動をすることになった。リヴァイの指導が飛ぶ。

「いきなり高く上昇しようとするな。落ちても軽傷で済むよう、木の中段あたりを狙ってアンカーを打て」
「はい」
 グリップを握る親指で操作すると、腰許から時間差で二本のワイヤーが飛び出した。軽い反動に真琴は少し狼狽えて身体を揺らす。
「わ! 出た!」
 標的を考えずに射出したアンカーは近場の木に突き刺さった。

「中段つったろうが。なに上段に差してんだ、馬鹿」腕を組むリヴァイが吐き捨てた。「アンカーを一度外してやり直しだ」
 言ったそばで、真琴の立体機動装置がガスを噴く。
「――っておい!」
 焦り混じりの怒号が耳に掠ったが、真琴の身体は巻き取られるワイヤーとガスの推進力で上空に引っ張られていった。

「外し方が分からな」あわあわと口を開くと、向かい風で酸素が薄まり、たちまち息ができなくなった。刺すように通り過ぎていく風が顔に痛くて眼を開けていられない。ぎゅっと瞑る寸前にかろうじて見えたのは、物凄いスピードで近づいてくる太い木だった。
(ぶつかる!)
 真琴は衝撃を覚悟して身を固める。が、身体全体に走った衝撃は予想していたものではなかった。遥かに弱く温かで、激痛もなかった。

 固く閉じていた眼を薄ら開けた。片手で木の枝にぶら下がっているリヴァイが真琴を抱えていた。木と正面衝突寸前に彼があいだに入ってくれたのだ。早業に驚く。
「やり直せと言ったのに勝手に行動すんな。そもそも立体機動中に眼を瞑るんじゃない、木と同化したいのか」
「風が強くて、眼を開けているのがつらくなってしまって」
 木とぶつかりそうになった怖さは、とうに吹き飛んでいた。腰許に絡まる腕が逞し過ぎて、実をいうと真琴はいまひどく動揺していた。

「素人のくせにガスを噴かせ過ぎたからだ。いまのお前に、あれじゃコントロールできないだろ」
「もう少しガスを弱めていたら、眼を開けていられたでしょうか」
 どうでもいいような馬鹿な質問をしていると思った。まごついているからだろうか。リヴァイの胸許付近で落ち着かない真琴の両手は、彼の両肩に添えていいものかどうか行き場を失う。

「それも慣れだが」リヴァイは小さく溜息をついた。「どうしてもつらいなら、ハンジみたいにゴーグルをつけるとか回避策はある」
「あ、明日からそうしようと思います。またこんなことイヤだし」

 早く地上に着きたいと真琴は思っていた。距離が近いせいで恥ずかしくなってきており、耳が火照り出している。
「し、仕切り直して続きをしましょう!」熱心な生徒に見えたろうか。ただ離れたい一心だったが。
 木の枝から手を離し、リヴァイは下のほうに向かって立体機動に移った。「次はガスの噴出量を加減しろ」
「気をつけます」

 あれから何度となく立体機動の訓練を繰り返した。が、残念ながら真琴は出来のよい生徒ではなかった。自分でも思うが才能があるとも思えなかった。
 リヴァイはひどく手を焼いたのだろう。途中何回もわざとらしい溜息が聞こえ、そのたび真琴は項垂れたのだった。

 彼らのように特別に訓練を受けたわけでもなく、真琴は至って平凡な会社員だった。一日やそこらで難しい技術を会得できるわけがないのに、しかしリヴァイは仰々しく息をついた。才能がないことを真琴よりも先に見て取っていたのだろうか。
 でも――
(訓練を前にして逃げないだけでも褒めてほしいわ)

 茜色に染まる雲の下。腰に手を当てて、リヴァイが盛大に溜息をついてみせた。
「散々な一日だった」
 それはこっちの台詞だ、と真琴は思う。身体中の節々が痛くてたまらず、腿をさする。
「ふざけて訓練受けてたんじゃねぇだろうな、お前」
「ふざけてなんてないです」

 一応真面目にやった。しかしどれも経験がない上に苦手分野ばかりなので、これが精一杯だった。逃げずに頑張ったとは思うのにリヴァイは怖い顔をする。癪だった真琴は唇を尖らせた。

「あ? なんだ、その顔つきは」
 苛立った口調でリヴァイは言う。
「これはお遊びじゃねぇんだぞ。それとも貴族様の暇つぶしか」
「ち、違います。人類の……役に立ちたくてボクは」

 口したのは、調査兵団へ入団するにあたっての表向きの志望理由であった。すべからく真琴にそのような志はない。話を聞いただけでは、どんなに脅されてもこの世界の危機感は抱かないし、どこか他人事だからだった。
 リヴァイは冷ややかに言う。
「そんなふうには、とてもじゃないが見えねぇな」
 真琴は俯いた。鋭い瞳で心の内を表情から読まれそうだと思った。
「それにしたってお前、ありえねぇだろ」低く吐き捨ててリヴァイは踵を返した。「素人以下だ」

 リヴァイは兵舎の方角へ歩いていった。空を見上げると、もう夕暮れだった。今日の訓練はここまでらしい。
「素人で結構っ。だって素人だもんっ」
 この二日間でリヴァイへの苦手意識が増した。粗暴な態度に反抗心が芽生えてしまう。
 立体機動技術においては、素人目からしても彼がずば抜けていることは分かった。ハンジが言っていた人類最強の通り名は、あながち間違ってもいないのだろう。

 が、真琴にはどうしても受け入れられず、女兵士たちが黄色い声を彼に上げるのも、やっぱり理解できなかった。たとえリヴァイが調査兵団を背負うエースだとしても、初対面で乱暴な態度ではそれも致し方なかった。


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