07.広い敷地内を歩いている

 真琴とリヴァイは広い敷地内を歩いていた。本部から出発し、舗装されていない砂道を歩いて訓練場へ向かっていた。
 背後にある本部が小さくなっていくと、前方に訓練場だとはっきり分かるものが見えてきた。訓練場といっても用途ごとに分割されているようで、中央はひらけた広場、両隣は緑が目に優しい森と、切り立った崖が見えた。訓練の内容によって場所を変えるのだろう。

 歩きながら真琴はきょろきょろした。あちこちに兵士がおり、彼らは班ごとで訓練に励んでいた。女兵士の多さにも驚いた。軍隊というのは、どうしても男のイメージが強いからだ。
(自衛隊にも女性はいるけど、ごく少数だものね)
 男女関係なく活躍する場があるのは良いことに思えた。

「いま目が合った気がした〜」
「私も直接指導を受けたいな〜」
 さきほどから真琴とリヴァイが通り過ぎると黄色い声が上がる。声の主は女兵士たちで、嬉々として頬を赤く染めていた。この声は真琴に当てられているものではない。目の前で外套を揺らして歩くリヴァイに当てられたものだった。
(ふーん。人気があるわけね)

 顔は悪くない――というより端麗だと思う。ハンジが言うには彼はとても強い人のようだし、頼れる男に惹かれるのも分かる。背が自分と同じくらいというのが減点要素だが。
 しかし彼女たちはリヴァイの本性を知った上できゃあきゃあ言っているのだろうか、と甚だ疑問だった。睨む、人の部屋のドアを蹴る、口が悪い、暴力的。たった二日だけで真琴に印象の悪さをこれだけ植えつけるほどの人間なのに。
(わっかんないわ。男は優しい人が一番よ)
 首を捻りながら真琴はかぶりを振った。

 前から舌打ちが鳴った。
「きたねぇな」
 リヴァイが爪先についた泥を振るっていた。
 深夜遅くに降った雨のせいで地面はぬかるんでいた。ここかしこに水溜りができており、歩くたびに泥水が跳ねてブーツが汚れることを彼は嫌っていた。

 立ち止まってはしきりにハンカチで汚れを拭う。
「もうこのハンカチはダメだな」
 ポケットから新しいハンカチを出して拭き直す。
「いま拭いたって、また汚れると思うんですけど」
「綺麗にしておかねぇと汚れが気になって集中できなくなる」
 まさかと思うが。
「汚いのとかを極端に嫌う癖がありますか?」

「泥が跳ねてるってのに平気でいる奴のほうが理解できん」
 と、リヴァイは真琴の足許を見て顔を歪ませた。
 風呂に入らなかった真琴をばい菌のように見てきたことを含めると、結論が出そうだった。
「もしかすると潔癖性ですか?」
 窺うために少し近づけば、リヴァイにぴしゃっと手で制止される。

「近づくなと言ったろう、鳥頭が!」
「それ本気で言ってたんですね……いじめじゃなく」
 半分白けた笑みで、近づいた分だけ真琴は下がった。

 広場に辿り着くまでに何度か立ち止まっては拭くという行為をしていたリヴァイだが、不毛なことだと気づいたようで、やっと諦めてくれた。
 真琴は思う。(ない、ありえないわ)
 一緒にいて潔癖性ほど苦痛を感じるものはないと思う。風呂は仕方ないとして、他人にまで清潔を強要してきたりはしないが、光景を眺めているだけでしんどいものがある。女兵士たちの乙女心がますます分からない、と真琴はさらにかぶりを振るのだった。

「まずはウォーミングアップか」
 平均台や鞍馬らしきものがある場所でリヴァイは言った。外に置きっぱなしなので汚れがひどい。昨夜の雨の名残もある。
「そこに座れ」
 言われた通り、真琴は地べたに体育座りをした。ここは乾いているが、砂利が尻に当たって少々痛い。
「何をするんですか」

「ウォーミングアップと言ったろう。足を広げて上体を倒せ」
 なるほどストレッチをしろというのか。真琴は上体を倒していった。軋む筋の痛みで片眼を瞑る。
「いたたたた」
「なめてんのか。もっと倒して両手をつけろ」
「ちょっと厳しいです」

 リヴァイが横についた。「触りたくないが、そうも言ってられないか」
 背中をぐっと手で押す。
「痛い、痛い」
 両手が宙を泳ぐ。両脚が攣る感覚がして脚が内股になった。会社でデスクワークばかりの真琴に運動なんて縁がなく、身体はなまる一方で、知らずのうちに柔軟性がなくなっていたようだ。

「どんくせぇな」
 リヴァイはおもむろに正面に腰を降ろした。眼が合って一瞬どきんとしてしまったのは真琴の不覚である。
「どうしたんですか、急に」
 開いている内腿に予告なくリヴァイの足が触れた。両足でがばっと開かれる。
 何が起こるか、ぴんときた真琴は大慌てした。
「待って! それは嫌です、絶対! やめてください!」

 命乞いは無視され、一回り大きな手で両手を取られた。異性の手が触れても今度はどきんとする余裕などなかった。手加減なく引っ張られる。
 真琴はたまらず悲鳴を上げた。

「痛い! やだ、離してください!」
 全身の筋という筋が引き攣る。
「まだいけるだろ」
 無慈悲なリヴァイは上体を後方に倒しながら真琴の両手をさらに引っ張る。
「身体がばらばらになりそうです!」
 生理的な涙が目尻に溜まって零れそうだ。無表情でひどいことをする彼を鬼だと思った。
 伝う涙にリヴァイが気づいた。
「ここまでにしてやるか」
 やっと解放してくれた。

 真琴は急いで内腿をさする。痛みを和らげるために強めにだ。何しろこむら返り寸前だったのだから。
「人生で一番痛かった思い出になりました」
「馬鹿か、大げさだろ」額に手を当て、リヴァイは頭を振ってみせた。「柔軟性がまったくねぇな。先が思いやられる」
「身体を動かす機会がほとんどなかったので」
「自室でもやれ。毎日やれば額がつくようになるだろ」

 次は平均台へ場所を移した。手本を見せてくれたリヴァイの動きは体操選手さながらだった。
「次はお前だ。やってみろ」
 言われて真琴は尻込みする。
「できませんよ、いきなりそんなこと」
「俺のように動けとは言ってない。期待もしてねぇよ」
 真琴の腕を引っ張って平均台の端に誘導する。
「空間把握能力とバランスを養う訓練だ。端から端まで歩いてこい」

「と言われても、普通のより高いんですが」
 小学校にあるような平均台と違って地表からずいぶんな高さがあった。正確にいうと真琴の肩ほどはある。幅も狭く、足の幅より少し余裕があるくらいだ。こんなところで前転倒立や宙返りをしたリヴァイは何者なのだろう。

「落ちたら絶対怪我しますよね」
 バランス感覚なんてたぶんない真琴は落ちる自信があった。まごまごしていたら、
「ぐだぐだ言ってないでさっさとやれ! 俺は暇じゃないんだ!」
 背後で怒鳴られてしまった。怖くて逆らえないので大人しく従うしかない。
「……分かりましたよ」

 真琴は梯子を登って平均台に足を置いた。思ったよりも地表から距離があって身が竦む。
「早く始めろ!」
「すりゃいいんでしょ、すりゃ!」
 煽られて小声でぼやいた。両手を広げて歩き始めていく。「うぅ」無意識に変な声が漏れてしまう。
 十歩頑張ったところで真琴の集中力はもう限界だった。身体がぐらつき始める。「わ、わ、わ」わたわたと広げた両手が大きく左右に揺れる。

 立て直せないほど身体が横に傾いていった。(もうだめだ、落ちる!)青ざめたとき、すぐそばにリヴァイが立っているのが眼に入った。一緒に追ってくれていたようだ。
(怪我をするよりマシ!)
 真琴は思い切って平均台を蹴った。リヴァイに向かって飛ぶと、彼ははっとしたような顔で両手を広げた。リヴァイの首許に巻きつくようにして真琴は抱きついた。

 がっちりとした骨格。背丈は同じでも筋肉の付き方が真琴と全然違う。リヴァイを参考にしてハンジが選んだジャケットが大きかったはずである。
 耳許からふわりと石鹸の香りがした。
(男のくせしていい匂いがする。なんか悔しい)
 久しぶりに触れ合う男の感覚に若干ときめきつつ、そんなことを思っていたら地べたに尻もちをついた。
「いったぁい!」

 真琴を引き剥がしたリヴァイは感触を嫌がるように肩を払う。
「男と抱きつく趣味はない、気色悪い」
 尻をさすり、真琴は唇を尖らせた。
(なによ、自分だって腕を広げてたじゃない、反射的だったんだろうけど。嫌だったなら避ければよかったのよ)
 そうだったなら足首を捻るどころでは済まなかったかもしれないが。

「場所を移動する」痛がる真琴を無視してリヴァイは行ってしまう。
(血も涙もないわ)
 頬を膨らませて立ち上がり、おおいに不満ではあるが、あとに続いたのだった。

「無理です!」
「無理じゃない、やるんだ」
 このやり取り、これで何回目か分からない。
 真琴の足許すれすれは真下に断崖絶壁だった。片足が前にズレると、いくつかの小石がからからと楽しそうな音を立てて絶壁を滑り落ちていった。

 目下に小さく見える川へと小石は落ちたはずだが、水が跳ねる動作を視認できるどころか音さえしなかった。本部の敷地内に川が流れていたなんて知らなかったが。
 頭がくらくらしそうな絶景のせいで、真琴はいまにも倒れそうだった。

「無理です!」
 もうこの言葉しか出てこない。背後で背を押してくる無情なリヴァイに叫ぶが、
「その言葉は聞き飽きた。さっさと飛べ」
「できない! 死んじゃいます!」
 足で踏ん張り、真琴は留まろうと必死になる。
「死なねぇよ、命綱があるだろう」
 真琴の腰許にはロープが巻かれていて足許に垂れていた。綱引きの縄みたいに丈夫で太ければまだしも、古びてけばけばな細いロープは逆に恐怖を煽ってくる。

「ロープが切れたらどうするんですか!」
「立体機動で助けにいってやるから早く行け」
「人が落ちるスピードに間に合いませんよ!」

 支えもない状況でこうして留まっていられるのは、リヴァイが本気で背中を押してこないからだった。真琴の決心がつくのを根気強く待ってくれているらしい。
 が、いい加減疲れたようでリヴァイが溜息をついた。立体機動訓練に入る前に必要とされる、バンジージャンプをこなさなければ、次の過程に進めないようなのだ。

「時間の無駄だな」
 本気で突き落とす決心をリヴァイがしたようだ。
 背後で殺気を感じ、真琴は反転して命綱が結ばれている木の杭に慌ててしがみついた。乾燥した木の感触が密度を心配させた。
「怖い、無理!」
 舌打ちが聞こえたと思うと、リヴァイに首根っこを掴まれる。

「何してんだ、駄々を捏ねるのもいい加減にしろ! これが終わんねぇと次へ進めないと言ったろうが!」
「進めなくていいです!」
「阿呆抜かせ! 俺が困る!」
 リヴァイが引っ張ると、しがみついている木の杭も僅かに揺れた――気がした。

「く、杭が動いた……。この杭、信用できません!」
 泣きたい。真琴の表情はいまや恐怖で引き攣っていた。少しの刺激で動く杭に命を預けるなどできない。
「錯覚だ。飛びたくないからって愚かな嘘をつくな」
「本当なんです!」
 眼に涙を浮かべる真琴を見て、怒りを吐き出すようにリヴァイは息をついた。片足を後ろに振り上げる。
「なら試してやる。見てろ」

 振り上げた足が向かってきた。咄嗟に杭から離れたと同時に、勢いをつけた彼の足が杭を蹴り上げた。
「どうだ、びくともしねぇぞ」
「……ひどい」
「あ?」
 怒りを堪えて無表情を装うリヴァイを遺恨に思う。真琴は杭に飛びついた。ぺたぺた触って損傷がないかを確認する。
「いまので根っこがやられてたら、どうしてくれるんですか!」

 身体全体で杭を揺さぶった。と、背後から腰に腕が絡まる。「え」
 リヴァイに持ち上げられて、真琴は絶壁まで運ばれた。
「ちょっと、やだ、うそ、冗談でしょ、待って!」
 ばたばたさせる足許には地表がない。
「楽しんでこい」

 冷酷な口調と同時に腰に回されていた腕が、ぱっとなくなった。呑み込んだ悲鳴。瞬間とてつもない重力がかかって真琴は真下に落ちていった。引き上げてもらったあと、我慢できずに人前で嘔吐した。
 まだ胃がぐるぐるしていて、木の根元で真琴は踞った。

「う〜」
「きたねぇな。このくらいで吐いてたら立体機動なんてできねぇぞ」
 不浄な眼つきでリヴァイは腕で鼻を覆う。背中をさすってもくれない。
「こういう訓練があるって知ってたら、朝ご飯なんて食べなかったのに」
「弱いって知ってたら俺も食わせなかったさ。ったく、しばらくスクランブルエッグは食えそうにねぇ」

 吐いているところを男に見られるなど屈辱でたまらなかった。せめてもの救いは相手が嫌いな人でよかったということだった。


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