51.夜空に星が瞬く海

「真琴! 真琴!」
 誰かが呼ぶ。以前も同じことがあった。あのときは――。

 ひゅっ、と清潔な味の酸素を吸って、真琴はゆっくりと瞳を開いた。
 瞳を開けると、すすり泣く声がいくつか聞こえた。ぼうっとするし、全身の力も入らないが、視界に入ってくる光景が、綺麗な天井が、精密な医療機器が、その機械的な音が、自分の吐く息で白く曇る酸素マスクが、戻ってきたのだといった。なによりも、そばで泣き濡れた顔で笑顔を見せる母親が、帰ってきたのだと誰に聞かなくてもそう教えた。
 実感したとき、涙が零れた。

 真琴は一年近く行方不明だった。津波に襲われたあの砂浜で、倒れているのを発見されて病院に運ばれた。
 あのとき、リヴァイの胸に飛び込もうとしたとき、熱気球が大きく揺れて体が傾いたところまでは覚えている。拍子に頭をぶつけて気絶したのだろうか、目覚めたとき後頭部が多少痛い気がした。
 そもそもあの世界の体験は、漂流していたあいだに見た夢だったのかもしれない、そうも思ったのだけれど、一緒に発見された鞄の中身が、あれは夢ではなかったのだといってくれた。

 やらなければならないことがあった。
 すぐに退院した真琴はタイサイ製薬会社に出向いた。今日は設立記念日で会社周辺はもの静かだった。従業員口に真琴の同僚であり友人の香織が立っている。あらかじめ真琴が呼び出しておいた彼女は、病院ですすり泣いていた一人だった。
 香織のICカードを使えば、難なく研究室に入れた。

 すべての研究データを管理しているPCを前にして、香織が気まずそうにした。
「本当にやるの? 社運をかけたプロジェクトなのよ。これに何年費やしたか」
「香織に解析してもらった液体、ここのと遺伝子構造が似ていたんでしょう。あれは世に出しちゃいけないの。香織にも話したじゃない」
 香織には体験したことのすべてを話した。話したうえで、開発中の研究データを抹消することを、無理矢理ではあるけれど同意させた。

 とんとんと机を叩き、香織はためらう。
「たしかに、巨人の話を聞いたとき、うちのプロジェクトと重なった。突然変異と、同種に対する攻撃性、これはあった」
「充分じゃない。いらないわ、そんなの。それにお蔵入りになったプロジェクトのはずよね」
「そう、その攻撃性がどうにも制御できないからって――でもね」
 香織は傍らに立つ真琴を縋るように見上げる。
「真琴が行方不明のあいだにプロジェクトが動いたの。真琴のサンプルの解析データよ。あのおかげで攻撃性を除外できるかもしれないって」

 真琴は堪らず眼を伏せた。
「未来で攻撃性が除外されてたら、こうまでしないわ。あの薬のせいでどれだけの人を不幸にしたか分かってない。それに私、サンプルなんて解析してない。海に行ったときも香織、言ってたけど、私の専門分野じゃないもの」
「けどデスクに置いてったじゃない。手書きのメモも真琴の字だった」
「香織。お願いだから、この研究は諦めて」

 ――すべてのデータを抹消したら心がすっきり晴れると思っていたのに。

 由比ケ浜が見渡せるカフェのテラス席の椅子に、真琴はだらんと背をもたれた。潮風が髪を撫でる。
「ここに来たいだなんて、すごい神経。あの日を思い出したら怖がりそうなもんなのにね」
 香織が言った。気落ちしている真琴よりも、彼女のほうが清々しそうに見えた。
「そんなふうに思えないの、全然。懐かしい思い出ばかり、そればかりなの」

 香織は紅茶の入ったカップを傾ける。
「そういうもんか……」
「ごめんね」
「もういいって。っていうか、なんで落ち込んでるの。もっと喜ぶところでしょ、そこは」
 香織はジェスチャーを交えて明るげに装う。
「研究データはもう存在しないんだから。これで未来は救われた。真琴の話を信じるなら、ね」

「未来に巨人は存在しない。あの人も、もう苦しむことはない」
「そう! 巨人は消える!」
 言ってから、あれ? と香織は首を捻った。
「……消える?」

 真琴は頬杖の手を外す。
「なに?」
「過去が変わったからって、未来も変わる?」
「変わるでしょ。変わらないと繋がらないじゃない」
「でも真琴が行ってた未来で、いま突然闘ってた巨人がぱっと消えるもの? それって変っていうか」
 香織の言うことが真琴の胸をざわつかせる。なんだか正論な気もしてくる。

「SFとかってあんま観ないんだけどさ」
 と香織は前置きし、バッグからメモ帳を取り出した。ペンで記号を入れながら真琴に説明し始める。
「パラレルワールドっていうの? 未来は一つじゃないんだって。真琴が行ってた未来をBとするよね。このときの真琴の過去はAだよ。現在に帰ってきた真琴は、このときAには帰れないらしいの。つまり平行世界のÁにいまいるわけよ。で、このA`の未来は」

「B`……」
「……そうなる」
「私が変えたのはB`の未来? じゃあBはどうなるの」
 香織は上目しただけだった。真琴はテーブルを叩いて立ち上がる。
「そんなバカなこと! じゃあ、私は――なんのために! あんな思いして、帰ってきたのに!」
「でも真琴は、未来の世界を救ったよ。いい事したんだから、さ」
 ――でもそれでは、愛した人は救われない。
 
 海を見ていたかったから、真琴は一人残った。今夜は三十年に一度の割合でしか観られない流星群が観られるのだと、香織が教えてくれた。
 夜空に星が瞬く海。未来まで、どうか割れずに旅をしてと、ついさっき波に攫わせたメッセージボトルは見えなくなった。

 砂浜に座り込んで眺めていると、涙がつうと頬を伝った。無気力なのに悲しい。
 あの人を思い起こさせるものは、ひとつだけ。真琴は手のひらにあるロケットのペンダントを見つめた。結局中身はなんだったのだろう。開けてみると――。

 流星群は次々と海に沈んでいく。きらきらと儚く、一瞬の希望に満ちていて、こんなに美しいのだから、あの人ともう一度、一緒に観たかった。
「リヴァイと……観たかった……」
 それから海も。
「ここじゃ……ダメ……。水平線が綺麗に見えないもの……」
 肩が震える。真琴は膝を抱えて顔を埋めた。

※ ※ ※

 この国の島の端に海があった。

 リヴァイは砂浜に立って海を眺め入った。妙な匂いがする、これが潮の香か。海は本当にあったのだと、感慨深いものがあった。
 エレンの家の地下にあった、父親が残した薬が、巨人化は治せないものの、人類に対して無害な生物に変えた。それを使いながら川を辿っていったら、広大な海に行き着いた。

 リヴァイは空を見上げた。夜空にたくさんの星が瞬いている。
「どの星だ。どの星を、お前はいま見てる。ありすぎて、分からねぇ」
 真琴が教えたのだ。いま輝いているどれかの星が、真琴のいまなのだと。
「真琴が言ったんだぞ。空を見上げろと。俺はちゃんと実行してる。毎夜な」
 リヴァイは星を掴んだ。
「お前のことだ。どうせさぼってやがるな。誤魔化したって無駄だ」
 星に悪態をつく。
「そうだ。あれはいつ発揮される。流れ星。俺は願った、年甲斐もなく。真琴を海へ連れていく、俺が一緒に。そろそろ恥をかかせるな」
 大人げない、と白い溜息が冷たい夜気に消える。

 また観に来ればいい。毎日でもここへ来られるのだから。そう思って、長いこと留まっていた足の踵を返そうとした。思いのほか伸びてきた白波がブーツを濡らし、こつんと何か小さいものが当たった。波が戻っていったあとに、ひとつ残された小さな瓶。ひどく古びた紙のようなものが詰め込まれているそれに、手を伸ばす。

 ふと呼ばれた気がして、けれどそんなはずはないと、けれどずっとどこかに心を置き忘れてしまったようだったのに心が昂っていく、そんな心情でリヴァイは緩慢に振り返った。


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mokuji
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