50.思うほど悪くない、お前がいれば

 北塔への入り口には下に降りる階段などなかった。あれはフュルストがついた嘘で、石畳の狭く暗いトンネルに短い螺旋階段が続いていた。階段を上がると、また扉があった。
 真琴は妙に重い抵抗を外側から感じながら扉を押し開けた。目の前に一瞬、夜空とカラフルな何かを見たが、強い、しかし微かに生温い突風で眼を開けていられなかった。体全体に風を受けて、それが逆風に髪が翻ってから、ようやく双眸が開く。

「遅いよ、真琴!」
 知った声が風とともに飛んできた。
 真琴は目の前にある光景に眼を疑った。そこは小さな見晴し台で、どっぷりと暗い中に、大きな音を立てながら煌々と燃えるバーナーからの炎が、その炎からの浮力で、もわもわと膨張した継ぎ接ぎだらけのカラフルな球皮が浮かんでいた。
「なんでよ……、聞いてない、こんなの……」

 ゴンドラからいくつも砂袋が吊り下がっているが、強風で揺れる球皮をロウがロープで引っ張っている。そんな彼に真琴は駆け寄る。
「どういうこと? なんでこんなところで。脱出するのに使うにしても、こんな目立つ物で」
「顔が近いって、真琴。っとと、おいらまで飛ばされる。ルースから聞いてないの? ってどうしたの、その血!」
「これは私のじゃない」
 言いながら自分のシャツを摘んだ。赤い染みだらけで、周囲のガスの臭いに負けないくらい鉄錆臭かった。
「フュルストは、ごめんなさい、怪我して、このすぐ下に。私だけ行けって言われて」

「天罰ね」
 ゴンドラの裏からエリザベートが顔を突き出した。
「エリ!?」
「あたしのきれいな体に傷をつけた罰よ。真琴が気に病むことないわ」
 さらりと言ってエリザベートの顔がゴンドラの裏に引っ込んだ。彼女は入院しているのではなかったか。

 エリザートを追って真琴は回り込む。
「絶対安静でしょ!? こんな所まで来ちゃ傷に悪いわ!」
「古いわよ、それ。あたしの持論では、術後は早めに動いたほうがいいの。そのほうが回復が早いの」
 彼女は機器の最終チェックを続ける。
「真琴まで頭でかっちの分からず屋の医者みたいなこと言わないでね。この道に精通してるのよ、あたし。薬だって自前のやつのほうが良く効いたわ」
 これでオーケー、とエリザベートの手がゴンドラを叩く。
「さ、飛べるわよ。人類初の試みね」

「みんなで乗るには、ゴンドラが小さ過ぎるけど、大丈夫なの」
 ロウとエリザートは眼を合わせた。それからロウが奇妙そうにした。
「おいら達は乗らないよ」
「……どういうこと」
「事前の計画で、気球の奪取と飛行実験は同時にやることになった。物が物だから、城から外へ運び出すのは無謀って判断で。ほんとに何も聞いてないの? フュルストから」

 真琴は階下にいるフュルストに呟いた。
「なんで言ってくれなかったの、こんな大事なこと……」
 しばらくの沈黙が流れた。心の準備ができていない。飛行実験は熱気球を取り返して、数日後くらいだろうと考えていた。もちろん、リヴァイとはもう会うことはないと覚悟していたけれど。さっき告げた言葉が本当の別れ――最後になってしまう。いざというときに躊躇するなんて、覚悟が足りなかったと思い知らされた。

 ロウがじれったそうにした。
「怖いのは分かるけど、でも多分飛べるよ。途中で故障しなければさ」
「そうよ、真琴。平気平気。あたしたちなら心配しなくていいのよ。梯子を降ろしてあるから」
 ロウに促されて、真琴はゴンドラに押しやられる。手前で真琴は控えめに拒んだ。
「だめよ、だめっ」

「……ダメって、なにがだよっ」
 軽く癇癪を起こし始めたロウを、エリザートが止めに入る。
「ちょっとあんた、なにキレてんの。誰だって、急にこんなものに乗れって言われたら、怖いわよ。迷う時間くらいあげなさいよ」
「なんで迷うんだよ。覚悟してたはずだろっ。あんなに乗りたがってたじゃん。一日や二日、予定が前倒しになったからって、迷うほうが変だっ」

「一日や二日って……。真琴からしたら直前になってからでしょ。いま知ったみたいだし」
「けど、ルースは譲ったんだっ。一人しか乗れないから、真琴が乗りたがってたから。ルースだってこれに乗ってお母さんを探したいって、言ってたのに、自分は二番目でいいって、そう言ったんだ。覚悟が足りないよ!」
 真琴はシャツの下にあるペンダントを掴んだ。
 そう。覚悟が足りなかった。リヴァイと別れる、覚悟が足りなかった。

 気まずい空気を打ち破るようにばたばたと音がして、三人は一斉に扉を振り返った。ばたんと扉が開いたそこに、リヴァイが立っていた。

 肩で呼吸をするようにして、リヴァイの視線が、三人に、熱気球にと映して、最後に真琴に眼を眇めた。
 ロウは胸を撫で下ろして真琴に小声で囁く。
「びっくりした。憲兵かと思った。あいつは真琴の協力者だよな」
 リヴァイは重々しそうに一歩踏み出す。地響きのような声音を引き連れて。
「裏口に続く階段? そんなのないじゃねぇか」

「お前、強いんだろ? そこで見張っててよ。いまからこれを飛ばすからさ」
「飛ばす?」リヴァイは熱気球を舐め回すように見た。「お前ら、何をしようとしてる。こんなガキのおもちゃみたいなもんで」
「バカにしたなっ。へっへーんだ、飛んでから驚けっ」
 真琴はロウの服を引っ張る。「ロウ、やめてっ」

「これはこの国の端まで飛んでくんだぞっ。真琴が海を見てくるんだっ」
 リヴァイは睨み据えた。
「なるほど。そいつが真琴の言っていた熱気球という代物か」
 不気味に手を差し出し、
「冒険をするにはまだ早い。こっちに来い、真琴」
 真琴はリヴァイを注視する。頭を横に振ることも縦に振ることもできない。

「わかった」リヴァイは剣を逆手に切り替える。「それを小間切れにしてやれば、諦められる」
「やめて!」
 真琴とロウとエリザートは口々に叫び、腕を広げて熱気球を守るようにしてみせた。思い入れは微妙に違っても、守りたい気持ちが息を揃わせた。

「心配することはない。綺麗にバラしてやるさ。なにも巨人の肉を削ぐことだけに、特化しているわけじゃない」
 リヴァイの凄んだ眼つきから本気さが伝わる。だからリヴァイの凄みに慣れていないロウとエリザートはガチガチと怯えた。
 ふとリヴァイは顔を上げた。バーナーの炎によって生まれる影が、一つ増えている。

 真琴たちとリヴァイの間を一直線の風が切り裂き、リヴァイはそれを避けて一歩後退した。切り裂いたと思われた風は、塔の壁にめり込む。空中に対人立体機動装置をつけた兵士が両手に銃を構えていた。
「ほんとうにしつこい。城の外に落としてやったはずが。外から回り込んできやがった」
 リヴァイは舌打ちするように言って戦闘体勢に入る。

 ロウは慌てた。
「なんだよ、あれ! こんな所で、あんなもの身につけて闘うなよ! 弾が気球に当たるよ!」
 ロウは真琴を振り向く。
「始めよう! もう迷う暇ない。あんな兵器で気球を打ち抜かれたら壊れる。その前に!」
 真琴はロウに押しやられて、バランスを崩した拍子にゴンドラの中に転げ落ちた。待ってという声は届かない。あちらこちらで破壊音が聞こえる。

 ロウは熱気球を繋ぎ止めているロープを切っていく。エリザートにも促す。
「切って、切って! ロープを切ってって!」
 真琴はゴンドラから頭を出した。本当に飛んでしまう。そう思うと胸の内は後悔だらけになった。まだ――まだ別れを切り出していない。どうしてちゃんと話さなかったのか。

 ロープが切り離されていくと、空に引き抜かれるように浮力で気球が傾いていった。
 リヴァイが気づく。兵士を引きつけながら、がなる。
「降りろ! 真琴! そいつから! 俺は許していない!」
「エリ! 待って! 私――まだ!」
「早く切って、エリ!」

 熱気球を引き繋ぐ最後の一本のロープを手にして、エリザートはおろおろする。
「やだ、これって大事な一本ってこと!? 究極の選択!? あたし次第ってこと!? いやよ、誰か代わって!」
 ナイフを手にし、ロープ手前で迷うエリザートのすぐ前を、銃弾の風が裂いた。それがロープを引き千切った。
 そうして熱気球は心待ちにしていたようにゆっくりと浮かび上がった。

 空中からリヴァイは兵士を叩き落とした。徐々に夜空に上がっていく熱気球を見て驚愕する。
「待て! なぜ!」
 地上からロウの喫驚。
「あいつまだ生きてるよ! 気球を打ち落とされちゃう! 落下したらぺしゃんこだよ! 守って!」
「クソッ!」
 奥歯を噛み締めてリヴァイは兵士に向かって急降下した。兵士の顔面にありったけの拳を打ち落とす。

「どうすればあれは降りてくる!」
 リヴァイはロウに問い質すが、返答を待っていられないほど焦っている。熱気球を振り仰いで、細かな汗が散る。高度を上げていくそれを見て、一度ぷつんと糸が切れたように脱力した。
「真琴……」
 喪失感にリヴァイはめいっぱいに顔を歪める。
「俺を置いていくのか! お前は、俺を選んだんじゃなかったのか!」

 どう操作したら高度を下げられるのか、試行錯誤に機器を触っていた真琴は、地上からの声にゴンドラから身を迫り出した。
「私は――ッ、あなたを選んだから、だからこうしようって……!」
「俺を選んだなら、どうして離れる!?」
「あなたに――、私! あなたを自由にしてあげたい! あなたをもう悲しませたくなくて――。まっすぐに、生きてほしくて――」

 リヴァイは襟許を鷲掴んだ。精一杯を伝えるために、時間に迫られているのに、言葉を選ぶのももどかしそうにつっかえながら、それでも気持ちを叫ぶ。
「お前は何を履き違えてる! お前から自由を貰ったって、俺はそんなのいらない! ドブ臭い、こんな檻の中でも、俺はわりと楽しくやってる! ――お前がいれば!」
 そうさ、とリヴァイは小さく頷いた。
「不条理なもんさ、現実は! だが思うほど悪くない! ――お前がいれば! 俺の隣に、真琴がいるからだろう!」

「どうして……、どうして、いまになってそんなこというの……」
 この距離だから真琴の呟きはおそらく聞こえていない。リヴァイの想いがあまりにも熱いから、涙が溜まっていって、視界が揺らぐ。
「一生真琴を守る! これに誓う!」
 リヴァイは襟からネックレスを抜き出して先端を握りしめてみせた。そうして両腕を広げた。
「まだ遅くない! 飛び降りろ! 俺が必ず受け止める! 信じて飛べ!」

「リヴァイっ」
 彼に吸い寄せられていくように、身を突き出して真琴はゴンドラに片膝をかけた。熱気球が大きく風に煽られて、涙が先に落ちた。


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