46.愛される喜びと愛される悲しみ

「えっ」
 行き着いた建家を前にして真琴は思わず二の足を踏んだ。店の扉を開けようとしていたリヴァイが手を引っ張られて見返る。
「ここまで来ていまさら怖じ気づくか。それでも俺は勘弁してやる気はないが」
「違うけど、でもだってここって――」

 普通の飲食店はどの店もとっくに閉まっている。が、やってきた細い路地の界隈だけぼんやりと明るく気怠い雰囲気が漂っていた。雪の帽子をかぶった店は間口が狭く、奥行きの長いうなぎの寝床のよう。二階建てで一階部分は酒場なのだと分かる。ただの酒場であったなら真琴も入店を躊躇しない。
 真琴は二階の窓を見上げた。

「看板とかは見当たらないけど、あの窓枠ってそういう意味でしょう」
 赤い塗料で窓枠が赤い。店が二階に娼婦を置いていることを客に暗に匂わせている印である。
「別段娼婦を買わなくても、部屋だけを借りることもできる。何か問題あるか」
「問題……ないけど、ここじゃなくても」
「宿場町はだいぶ先だ。それに洒落た店なんざ俺は知らん」
「そう……よね。どこでもいいのよね、温かい所なら。寒いのに何言ってるのかしら。ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃっただけなの」
 ほんのちょっとだけ抵抗していた手を脱力させ、真琴は俯いた。
「入るぞ」

 互いの苦しみと悲しみを混ざらせて、少しでも楽になろうとしているだけ。そこに恋しいからとか愛しいからとの感情は、リヴァイには含まれていないのだろう。そうでなければ彼は決心しなかったと思う。慰め合うだけというそそのかすような誘い方をしたのは真琴なのに、(割り切った抱かれ方を望んだのは私なのに)、なんだか悲しかった。

 店に入ると数人の客が静かに酒を楽しんでいた。男女で入ってきた真琴たちをどう見るのか、注目など全然されていないのに、なんとなくいたたまれなくて顔を伏せる。
 カウンターの中にいる体躯のよい女が口端を釣り上げた。

「いらっしゃい。ひさしぶりね。最近とんと見ないから壁外で死んだかと思ってたわ」
 席には座らず、リヴァイはカウンターに片腕を置いて体重を乗せる。
「生きてて悪かったな」
「あら、そんなふうに聞こえた? 生きててほっとしてるのよ。またこうして贔屓にしてくれるならね」
 ガマガエルに似ている、と真琴は思った。グラスを傾けたどぎつい爪は魔女のようだとも。

 女は真琴をなめるような眼で見る。
「今夜は若い子を連れてるのね。めずらしいこと」
「一部屋貸してくれ」
 リヴァイはあさってを向いて言い、女は察してにまりと笑う。
「ああ、そういうこと。飲みにきただけじゃないってわけね。いいわよ。ちょうど湯を用意したばかりの部屋があるの」

「牛が後尾し終わったばかりの部屋はよせ。気持ち悪い」
「違うわよ。そうじゃなくてね、笑っちゃうのよ」
 女は近所話に明け暮れる主婦のように手首を折る仕草をした。
「直前でアレが使いものにならなくなっちゃってね、お客さんがさっき帰っていったの。奥さんがいる人だったから、急に罪悪感にでも襲われたのかしらね」
 気の弱い男がくだらない夫婦喧嘩で浮気なんか挑戦してみようとするから、と女は続ける。

 リヴァイが溜息をして肩が小さく下がった。手のひらをずいっと差し出す。
「鍵」
「つれないわね。下で少し飲んでいきなさいよ。温まるし、そのほうがあとが燃えるわよ」
 女は色っぽい流し目を真琴に寄越した。相槌もできず、真琴は眼を泳がす。
「鍵」
 よりはっきりした口調でリヴァイが言った。若干苛立ちがみられる。
「わかったわよ。宿泊でいいのね。部屋は十時までには空けてちょうだい」

 女が部屋の鍵を手渡すと、リヴァイはつっとカウンターから離れた。一人でカウンター横の階段を昇っていく。
 急いであとにつこうとした真琴は女から呼び止められた。
「ちょっとお待ちよ。陰気ね。どうしちゃったっていうのかしら。これ、あの人のボトル。飲んでからやったほうがいいわ。ひどい抱かれ方されちゃうわよ」
 女が用意してくれたボトルと二つのグラスが乗った盆を持たされ、真琴は階段を進んだ。
 階段を昇った先の廊下の、一番奥の扉前でリヴァイが待っていた。とろいと言いたげに片眉を上げる。

「遅い。何してる」
「ごめんなさいっ」
 リヴァイは扉を押した。先に入るのを待ってくれているが、真琴の足は尻込みしていた。
 狭い個室は実にシンプルで、セミダブルの簡素なベッド、小さな丸テーブルと、奥に体を流す場所と思われる戸が一つあるだけだった。男女が交わる目的以外に使いどころはない、と部屋が断言しているように感じたほどであった。

 初めての交わりがこんなところなんて。せめて普通の宿屋だったなら、と真琴は思った。初めてはもっと美しく、幻想的に愛されるのだと夢見ていたのに。現実は娼婦がいる宿で、ここで充分だと思われるような女だった。
「中へ入れ」
 焦れたかリヴァイが顎でしゃくる。リヴァイを悲しみごと包んであげたいと思ったのは本当なのに足が逃げてしまうところであった。
 最初の一歩は鉄の靴でも履いているかのようにとても重かった。歩いて、丸テーブルに盆を置いた。後ろで扉が閉まる音がし、真琴は裏返しのグラスを表にする。

「ちょっと飲むでしょ」
 と振り向いた間際、背後からリヴァイが抱きついてきた。性急な様子で首筋に唇を押しつけられ、拘束されたような戸惑いを覚えた。
「待ってっ。まだ体を洗ってないっ」
「必要ない」
 リヴァイの手がシャツのボタンを次々と外していく。

「やだっ、汗だって少し……。それに汚いからっ」
「俺は気にしない」
 脱ぎ捨てたと思われるロングジャケットが扉近くの床で無造作に丸まっているのが見えた。
「ジャケット、ハンガーに掛けておかないと皺になっちゃうからっ」
「お粗末な時間稼ぎだな。お前はいまになってなぜ焦らす。俺に抱かれたいんじゃないのか」
「焦らすとかそういうんじゃなくてっ。――あッ」

 リヴァイに顎を引き寄せられ、肩越しに真琴は唇を塞がれた。順序も何もない。のっけから息つく暇もない激しい口づけになった。
 口づけを交わしながらみぞおち部分のボタンを外している彼が不興げに唸った。このシャツのボタンを留めるときにいやに固く感じた箇所である。
 ボタンを外すのを放棄され、シャツを無理に横に裂かれた。それで真琴の肩が狭苦しく顔を出す。重ねていた唇が離れて肩へ移行していったとき、真琴は薄眼で見た。きゅっと眉を寄せているリヴァイの表情には余裕がなかった。

 リヴァイの手は真琴のウエストに移り、スカートのボタンを外した。腹回りの窮屈感が一瞬にしてなくなり、落ちていくスカートが太ももを掠っていった。
 耳許で響く甘い音がくすぐったい。肩付近に何度も唇を押し当てている彼が犯人である。食われるのではないかという旺盛さに少し怯みつつも、真琴は徐徐に色に狂っていくのを感じていた。
 熱混じりの低い声音で囁かれる。

「名前は」
「……名前?」
「お前の名前だ。本当の名前。俺は知らない。偽りの名で抱かれたくはないだろう」
 聞かれて開きかけた口が躊躇った。

 真琴が女でいるときはリヴァイはマコと呼ぶ。恋人としてではなく、肉を欲するだけの行為に本当の名前などいるだろうか。なにより、愛されるのではないのだから名前を呼ばれると呼ばれた分だけきっと悲しくなるに違いない。でも――、
(でも、本当の名前で囁かれたい。リヴァイの声で呼ばれたい)
 なかば諦め半分で真琴は瞳を閉じた。リヴァイが落とすキスの感触を味わう。

「本当の名前は真琴なの。ずっと言わずにいてごめんなさい。呼んで。いっぱい呼んで」
「……真琴。真琴っ」
 首筋で囁かれながら真琴はベッドに押し倒された。

 行為はやはりせっかちで、身につけていたシャツや下着は次々ともぎ取られていった。これがリヴァイの平常の抱き方なのかは分からない。けれど彼らしいといえば彼らしく、侵略的な抱き方は世界の残酷さを忘れさせてくれた。そして触れ合う熱が互いに生きているという実感を与えてくれたのだった。

 外から何かがどさりと落ちる鈍い音がした。屋根に積もった雪が滑ったのだろう。
 あれからどれくらい時間が経ったろう。真琴に覆い被さっているリヴァイはずっと荒い息を繰り返している。汗ばんだ身体。悩ましげに眉を寄せて、喉がからからなのか何回も喉仏をごくりと上下させていた。

「水が欲しい」
「まるで走ってきたみたい」
 くたくたで全身がだるい。真琴はシーツをたぐり寄せながらリヴァイの下からゆっくりと半身を引き出した。
「待ってて、水を持ってくる。お酒じゃなくていいのよね?」
 言いながらベッドの下に片足を突いて振り返る。リヴァイが驚愕に見開かせた瞳でベッドシーツを見降ろしていた。
 真琴は首をかしげる。

「リヴァイ?」
「お前――なぜ黙ってた」
「何を?」
「何をじゃないっ」
 真琴はリヴァイの視線を辿ってみた。ベッドシーツにうっすらと赤い染みを見つけた。はっとして顔を背ける。
 リヴァイが二の腕を掴んで詰め寄る。

「阿呆がっ。問い詰めるまでもないが、いままで男を知らなかったなっ」
「初めてだったとか、そんなのいちいち言うこと? 何も問題なかったんだもの。いいじゃない」
「問題ない? 痛かったろうが」
 真琴は眼を逸らした。痛かった。いまも下腹辺りの内蔵がじんじんする。けれど初めてなのだと打ち明けて、変に気づかってもらいたくはなかったのだ。肉と肉のぶつかり合いに情などいらない。
(だからすまなそうにしなくていいのに)

 俺は、とリヴァイは額に手を当てて頭を垂れた。
「てっきり男を知ってるものだと。いや、実際ぎごちない部分もあったか。だがあだっぽく俺を誘ってくるときもあったろ。そんな奴が生娘だと思うかよ」
「だからいいんだってば、別に。そんなに思い詰めたように言わないで。私もリヴァイも、ひとときだけでもつらいことを忘れられたんだから、それでいいじゃない」

 リヴァイは真琴の腕を軽く揺する。
「なんらよくない。痛いとも泣きやがらねぇ。知ってたらあんな自分本位な抱き方をするか」
「いいのよ、あれで」
「どこが」 
 リヴァイは呆れたようにかぶりを振る。
「極めつけは宿かよ。一番近い宿を短絡的に選んじまった。だがあの辺でここ以外に選択肢があったか? 外はクソ寒い、お前に風邪をひかれてもまいる」

「……それでここにしたの? 私が寒がってるかもしれないって、風邪をひかせちゃうって」
 ふいにリヴァイの眼が伏せて、数秒の沈黙が落ちた。
「……いや、違った」
「リヴァイ?」
「そんなもん建前。ええかっこしいじゃねぇか。早くものにしたくて我慢ならなかっただけだ。っとに、がっつくとろくでもねぇ」
 真琴、とリヴァイが頬に触れた。まだすまなそうに眉を寄せて、けれど熱っぽい瞳で見つめてくる。
 真琴はにわかに警戒した。

「なに……?」
「悪かった」
 と囁いてから、もう片方の頬に唇を寄せた。それだけにとどまらず、顔周りにたくさんの優しいキスが降る。
(……やだ)
 唇がそう動き、真琴は全身を強張らせた。
「どうしたのよ。もう寝よう? 疲れてるでしょ。私も疲れちゃったの」
 リヴァイの肩を突っ撥ねるが、背中に回された腕で抜け出せない。

「疲れているところ悪いが、まだつき合え」
「つき合えって、終わったばかりじゃない」
 唇同士が触れ合いそうな距離に彼の瞳があった。リヴァイの細めた眼差しはますます情熱的な色を帯びていた。
「めちゃくちゃにしたいと、ずっと思っていた女が目の前にいる。俺の手で壊したいと思うほど欲しかった女だ。たったあれだけで満足するかよ。ちっとも足りねぇ」
「私が……欲しかった?」
「ああ。もっと、もっとだ。もっと真琴が欲しくてたまらない」

 野蛮な抱き方だったけれど、リヴァイは肉ではなく真琴が欲しくて抱いたのか。愛など含まれていないと、ただ勝手に思い込んでいただけだったというのか。
 突として涙が頬を伝っていった。心が整理できなくて、零れていく涙の原因が分からなかったが。

「俺に抱かれろ。優しくしてやる。真琴はただ溺れていればいい。俺に深く溺れちまえ」
 言ってからリヴァイは唇を重ねてきた。下唇を味わうように啄まれながら、真琴はベッドに縫い止められた。
「いや……」
 真琴は弱々しく拒絶するも、身体はリヴァイを受け入れていて嫌がらない。労るように胸許を弄る彼の手と、愛しそうに独占欲の跡を増やしていく彼の唇を、真琴の身体は喜んでいた。

「やめて……。いや……。いやなの……」
 全身がリヴァイに翻弄されていて、止まらない涙を手で拭う力さえも入らない。だから枕に横顔を押し当てた。
「怖がるな。もう痛くしない」
「違う……、違うの……。怖くて泣いてるんじゃない……。痛いのがイヤで泣いてるんじゃないの……」
「甘ったれが。口で嫌がっても、真琴の身体は開いてる。自分で分かるだろう。貪欲に俺を求めてるのが」

(違うの。心が置いてけぼりでむちゃくちゃなの。自分でも分からないのよ)
 愛してほしくはなかったのに愛されている。リヴァイのすべてでいま愛されている。それが伝わるから涙が止まらないのだ。愛されるのがひどく悲しいから、涙が流れるのだ。だから愛を刻み込まないでほしかった。なのに愛に届きたくて泣いている。

「リヴァイ……リヴァイ」
 一心不乱で真琴に溺れるリヴァイに両手を伸ばした。彼は歯を食いしばって艶声を漏らし続ける。
「くっ……、っは」
「リヴァイ……リヴァイ」
 何度目かの声かけで、汗と前髪を激しく散らしていた彼の腰が止まった。
「はっ。悪い、夢中にっ……なっちまった。つらかったか」
 真琴は首を振って、ただ両手を伸ばす。情事を止められたからか、リヴァイは歯痒そうに細眼にしてみせた。
「ん?」

「遠いのはイヤ。もっと近くがいいの。だからそばに……ぎゅって、抱きしめて。お願い」
「まだ泣いてんのか。そんなに泣かなくても抱きしめてやる。この先もずっと、いくらでも抱きしめてやる」
 リヴァイが半身を屈めて、真琴は逞しい背中に両手を回した。しっとりと汗ばむ背中に爪を立てることと、ぴたりと密着する胸の安心感で情事の痛みは紛れていった。深海に深く深く引きずり込まれていくみたいに、リヴァイの愛に溺れていく。

 ああ、幸せだ。そうか、だからか。
 だから涙が流れるのだ。心が整理できずにいたのは、二つの感情が混ざっていたからだった。
 愛される悲しみと、愛される喜びを感じて、泣かずにはいられなかったのだ。


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