43.どろどろに濁りきったやるせなさ

 カラネス区へ向かって撤退中、急に一段と冷え込んできて、それから雨が降ってきた。雪雲と思われたどんより空から、調査兵団を責めるような冷たい雨粒が顔を打つ。
 加えてリヴァイたちは巨人の強襲を受けた。陣形のしんがりを任されていたリヴァイは戦闘を回避する判断をした。荷馬車班が追いつかれそうになったが、そこは積んでいた死体をすべて捨てさせることで逃れた。やりきれず、リヴァイは左の膝小僧を鷲掴む。負傷さえしていなければ遺体を家族のもとへ返してやれたのに、と。 

 夕刻に全員が命からがら街へ帰還した。出迎えの道をわざわざ下馬してゆくのは、成果を上げられなかったことへの負い目である。なのに小雨に代わって民衆の視線がリヴァイたちを責めた。
「張り切って出陣していったわりには、またいつものように兵士が減ってないかい」
「今回は怪我人が多いね」
「調査なんてもう諦めたらいいのに。やるだけ無駄なのさ」
 ひそひそ声だが民衆が囁く発言は似たようなことばかりなので、語尾まで耳にしっかり届いた。

 負傷を悟られないよう痛みをこらえてリヴァイは毅然と進む。勝手なことをのたまいやがってと、普段なら握り拳を作る。が、怒りは湧いてこなかった。自分の把握を超えて、思っていたよりも落胆は大きかったらしい。
 兵舎で待機していた兵士が早馬で帰還を知り、途中から落ち合った。何も状況が分からない仲間の表情を見て気が緩んだのか、無口だった兵士たちがしずしずと口を切り始めた。何があったんだよとひどく気づかって聞かれ、ぼろぼろと泣き出す者も出た。

『帰ってこなかった者がずいぶんといるみたいだが――』
 触れてほしくない会話がふと聞こえてきて、リヴァイはぎゅっと眼を閉じたくなった。動じていない姿勢を維持してただ歩く。
「帰ってこなかった者がずいぶんといるみたいだが、遺体はどうしたんだ。見たところ、荷馬車に収容されてないようだけど」
「……捨てろって」
「そんな。誰が」

 それに答える兵士。反抗的な響きがあった。
「兵長の命令で。涼しい顔で、淡々と捨てろって、ただそれだけ」
 違う声色が混ざる。
「そうせざるを得なかっただけだろ。あのままじゃ荷馬車班が巨人に襲われてた。遺体の持ち帰りを諦めて、荷馬車の速度を上げるしかなかったんだ、あれ以上被害を増やさないためにも。分かってるだろ、お前だって」

 反抗的な響きだった声の主は感情的になった。
「分かってるけどっ。お前だったら、あんな……ものとも思わない顔で、平然と捨てろって命令できるか!? 苦楽をともにした仲間だぞ!?」
「そうだが……」

「兵長ならまだ充分闘えたさ! それを……。せめて少しは悔しがってくれてたなら俺だってっ。けど――捨てろって、ないだろ!?」
「落ち着けよ。あとでゆっくり聞くから」
 仕方なかった。捨てるしかなかった。自分は間違っていない。リヴァイは両手をきつく握って調査兵団本部の門を通り抜けた。

 怪我人は医療施設へ搬送され、残りの者たちは解散となった。兵舎の入り口前で兵服を着用している真琴が立っていた。リヴァイが近づくと、胸の前で手を組んで一歩踏み出す。唇を開きかけていたけれど、リヴァイは眼を交わさずに自室へと向かった。ほとほと疲れていて一言口にするのさえも億劫だった。

 冬季になれば夕刻も闇。明かりも灯さず、しばらく書机で真向かいのドアを見るともなく見ていた。  
 リヴァイは音もなく溜息をついた。ようやく腰を上げる気になり、真ん中の引き出しを引いた。四枚の紙をまとめて摘まみ取る。
 卓上ランプを灯し、一枚目を正面に置いた。いくつかの項目が印刷されている紙は、見降ろしているとまた弱った溜息を誘った。羽根ペンを手に持ち、ペン先に黒インクを浸す。

 リヴァイが向き合ったのは死亡告知書――遺族へ届ける戦死公報であった。
 ――エルド・ジン。所属:調査兵団特別作戦班。戦死地:巨大樹の森。戦果:。
「……戦果」
 リヴァイは告知書の上で羽根ペンをのろのろと歩かせる。

 ――戦果:巨大樹の森にて使命をまっとうし、壮烈な戦死を遂げた。
 綴ったのはたったの一行だった。戦果の項目が一行しかないからだ。あとはサインを入れて終わりである。
 リヴァイは告知書を短兵急にぐしゃりと潰した。無念さと怒りが混同して拳が震える。この薄い紙は、エルドがどう生きてどう死んだのか、たったの一行で済ませろという。この紙に関しては何十枚と書いてきても、いまだに免疫がつかない。

 今夜はゆっくり休めとエルヴィンから下達があったが、どうにもベッドに入れそうにない。班の遺族にできるだけ早く報告しにいくのがせめてもの誠意だろうと思うから。しかしこの調子では全部を書き上げるころには空が色褪せているかもしれない。

 ふいに無気力化して拳が弛緩した。まだ三枚書かなければならないのに一枚目は書き直しだ。
 何度目かの溜息をまたつき、リヴァイは引き出しからもう一枚告知書を摘まみ出した。今度は感情がなるべく乱れないように気をつけて、再度一から書き始める。戦果の項目だけは小さい字に変えて綴れるだけの思いを残した。

 気づいたら空の色が薄くなっていた。窓の向こうがいやに白く感じたのでリヴァイは椅子から腰を上げた。兵舎の外は真新しい雪に覆われていた。夕刻になって降り出した雨が、夜更けにでも雪に変わったのだろう。
 時計を見ると午前五時だった。精神をおおいに削ってくれた戦死公報は、どうにか四枚すべてを書き終えることができた。だからといって仮眠は取れない。いまから四人の部屋へ行って遺品の整理をしなければならない。同室の者がまとめてくれているとよいのだけれど。

 眠気覚ましに珈琲だけでも飲んでおこうと、リヴァイは食堂へ行こうとした。自室のドアノブを捻ろうとして、控えめなノックが響く。
 ドアの外を透視することは無理でも、そこに誰が立っているのかなんとなく分かる気がした。
 ドアノブを軽く握る手が数秒迷う。リヴァイの視線はベッドに放られた外套に走る。自分の物であって自分の物ではない外套に。いずれ本人に問い質さなければならないこと。

 リヴァイはドアノブを握り込んで捻った。ドアを開けると、廊下で真琴が立っていた。
「どうした。早いな。起床は六時だろう」
 真琴は微笑んでみせたりしなかった。いくつか年をくってしまったようなやつれた表情をしていた。眼の下にやつれを助長させる隈がある。彼女も寝ていないようだった。
「リヴァイ兵士長もその分だと睡眠を取らなかったようですね。一番疲れている人なのに」
 リヴァイの下瞼周辺に広がる黒い隈を見て、真琴も同じ考えに至ったようだった。

 胸中にはびこるわだかまりのせいで直視しづらく、リヴァイは視線を下げた。真琴は両手で箱を抱えていたが、彼女の足許にも三つの箱が置かれていた。両眼をしばたたいて、視線を上げる。
「一晩かけて、それを整理したのか」
 寂しそうにだけれど、真琴はやっと唇を微笑ませた。
「なんとか間に合いました。起床のころにはきっと、もういないだろうなって思ったので」
「そうか。いまから取りにいこうと思ってたが、手間が省けた」

 四つの箱は、エルドとグンタ、オルオとペトラの遺品だった。眼の奥が熱くなって鼻が湿ってきてしまうのは、なぜなのか分からなかった。箱に部下の思い出が詰め込まれているからなのか、真琴が部下を思って自分の代わりに思い出を詰めてくれたからなのか。

「運びますね。失礼します」
 そう言って真琴は遠慮がちに部屋に入ってきた。リヴァイも手伝って残りの箱を部屋に運んだ。
 泣き腫らしたであろう目許と、真琴が少しでも微笑んでみせたことが、おそらくリヴァイをほっとさせた。
「それにしても老けたばばあのような顔をしてる。これが終わったら少し休養したほうがいい」
「あの……」
 背後からの返事は極めて小さいものだった。リヴァイは書机のそばに最後の箱を積み重ねる。

「あとは荷馬車の手配か。ああ、出掛ける前に珈琲でも飲んでいこうと思ってたところだ。真琴も一緒にどうだ。いや――お前は珈琲じゃなく牛乳のほうがいい、眠れなくなる」
 振り返りながら言う。それで真琴が黙り込んでしまっていたことや、顔を伏せていることに気づけた。
「……真琴?」
 リヴァイの胸が騒ぎ出す。人間の五感は鋭いものだ。相手が真琴であれば、纏う雰囲気でなおさら分かってしまう。

 真琴は胸許のシャツを両手で握る。顔を伏せたまま、ぼそりと言った。
「ごめんなさい」
 リヴァイはかすかに眼を見開く。なぜ? と聞こうと開口もしたのだけれど、温い空気しか吸えなかった。警戒心が芽生える。
「ごめんなさい」
 震え声で真琴はもう一度言った。

 どうして謝るのか。謝るのは悪いことをしたときだ。リヴァイの声が不安に強張る。
「おいおい、出し抜けになんだってんだ。別段、謝られることをされた覚えはないが」
 伏せ気味の真琴の顔から睫毛が震えているのが見えた。彼女から眼が離れない。
「あれか。筋トレをさぼったか。それなら謝らなくていい。周知の事実だろう。俺はとっくに匙を投げてる。それともあのことか、ティーカップを割ったことを黙っていたろう。そもそもあれは――」
「違う……」

 それなら何に謝っている。お前は何に対して謝罪している。
 さらに警戒心は増していく。まるで敵の些細な動きを見逃さないためのときのように、まばたきを忘れてしまっていた。
 ベッドの上で無造作に丸まっている外套をリヴァイは見据えた。悲惨な現場が蘇り、片手をぐぐっと握る。

「私、あのとき遠征を」
「一つ聞きたいことがある。外套はどうした、真琴よ」
 真琴はぱっと顔を上げた。ぱちぱちとまばたきをしている。
「外套? それが何か……?」
「自分の外套はどうしたと聞いてる」
 声が低音になっていくのを感じながらリヴァイはベッドの側までゆらりと歩き出す。痛み止めが切れたか、足首がひどく疼いてきていた。しかしまったく気にならなかった。むしろ気になるのは現状。

「あの、実はいま手許になくて――」
 言いかけ、リヴァイの歩く様子を見て真琴は眼をまたたかせた。
「足が……っ。もしかしてどこか」
「これは?」
 リヴァイは外套を掴んで真琴を振り返った。真琴は首をかしげる。
「え?」
 謝るくせにとぼけるのか。わけが分からない。

 リヴァイは外套を真琴に投げた。大きく広がり滑空する外套を、彼女は慌てて胸に抱く。
「お前のだ」
「え。届くのが遅いと思ってたら、リヴァイ兵士長のところに来てたの」
 外套の名札を確認した真琴は眼を丸くして呟いた。顎を上げてリヴァイを見る。
「せっかく譲ってくれたものだから、ずっと気がかりだったんです。ありがとうございます」

 とぼけるのは巧くないはずだ。なのに、心底ほっとしたように切なく微笑む真琴の表情の、その下に隠れている本心がリヴァイには読めない。だからますます分からなくなってくるし押さえ込んでいる感情が崩れていく。
 口調に鋭い嫌味が混ざる。

「気がかりだった? そうだろう。その外套を巨大樹の森で落としたのなら、大層気になって夜も眠れなかったろう」
「……巨大樹の森で?」
 真琴の両眉が不穏に曇った。半日経っていれば、部下の遺品を整理していれば、ほかの兵士からとっくに経緯を聞いているだろう。

(もっとも聞く必要があったかもどうだか)
 まずい。どろどろに濁りきったやるせなさが暴れ出しそうだ。信じている。真琴のことは誰よりも信じていたいはずなのに、当たり散らしたくてたまらない。
 想いとは裏腹に口先はどんどん語気を強め、辛辣になっていく。

「あいつらが、エルドたちが女型に殺された現場でだ。そんなところで、なぜお前の外套が見つかる」
「女性の容姿をしてたっていう、巨人と戦闘があった場所で、この外套が落ちてた……?」
 ショックを隠しきれない様子で眼を剥き、真琴は聞いてきた。
「ああ、そうだ。グンタの首をかっ切り、エルドを殺し、オルドを打ち払い、ペトラを」
 一瞬だけ喉が詰まった。
「ペトラを踏みつぶした、その場所で。これはどういうことだ」

「そんな……外套がその近くで……」
 真琴は黒目をぐらぐらと揺らし、小さな肩を急激に震わせ始めた。絹を裂いたような響きで言う。
「ご、ごめんなさい」
 愛しく思っていた唇から出てきた言葉はまたもそれだった。そのせいでリヴァイの心情は吹雪のように狂い始める。

 真琴に大股で詰め寄っていく。
「お前はそれしか言えないのかっ。その言葉しか知らないのかっ」
 真琴の襟許を両手で掴み上げて、揺すり問い質す。
「ごめんなさいじゃ何も通じないっ。馬や犬ですら巧く伝えてくるぞ。それともお前の口は飾りかっ」
「う、う……っ」
 真琴の両足が僅かに浮き、苦しそうに喘いだ。次いでリヴァイは床に払い落とし、彼女に跨がる。腹が煮えたぎってきており、再び襟許を鷲掴んで真琴を床に叩きつける。
「あ……ッ」

「お前の外套がなぜ森で見つかったっ。お前がっ――」
 喉の奥から飛び出そうとしているのは絶対に言いたくはない言葉だった。けれどもう呑み込めない。
「お前があいつらを殺したのか!」
 言い放ったとき、真琴はリヴァイを見て眼をかっと見開かせた。眉と頬がみるみる歪んでいき、吐息が漏れる。
「ごめ、ごめんなさいっ」
「――ッ」
 ひどい怒りから一転して急降下していってしまうほど、このうえないほどの絶望感だった。

 リヴァイのほとばしる感情はもう止まらない。育てた部下を憎い巨人に殺されても、民衆から冷たい眼で見られても、仲間から自分のことを非難されても、我慢できていた感情が、真琴の前ではいとも簡単に放出されていってしまう。気の置けない間柄だから、想いが交わる真琴相手だから、窒息しそうなしんどい心情が全面に出てしまう。

 真琴の顔に顔面を近づけて唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らす。
「なぜ謝る! お前はいつも、俺がいくら問い質しても、違うと頑なに言い張るだろう! なぜこんなときに限って違うと泣かない! 違うと言ってみろ! お前は女型と無関係だと言え! 言い訳をしてこい! 真琴!」
 真琴は眼に涙を溜まらせて、ただゆるゆると首を振る。
「ご、ごめんなさ――」
「言うな!!」

 衝動だった。ズボンの後ろポケットから折り畳みナイフを引っ掴み、リヴァイは素早く一振りして銀の刃を振り上げる。めったに上げないひどく感情的な声は自分のものだった。
「言ったら、俺はお前を殺さなくてはならない!!」
 真琴の両眼がことさら大きく見開き、目尻からつうと光るものが流れていった。
「私を……殺す……。リヴァイが……?」
「いつかも忠告した! 裏切れば殺すと! だから!!」
 ――違うと言ってくれ!
 真琴の唇の形が何かを発しようと開いていく。それがまた謝りの言葉に聞こえそうになって、リヴァイの形相が悲痛に歪む。
 聞きたくない。信じている。お前にあいつらを殺せるわけがない。

「うああぁぁああ!!」
 喉がはち切れそうなほどに咆哮を上げて、ナイフを真琴に振り落としていく。そうしてナイフはずがっと刺さった。
 疾走したあとのようにリヴァイは肩で荒い息を繰り返した。ナイフの刃は――。


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