38.バイアル瓶

 フェンデル邸に来訪者があったのは夕刻前のことだった。広い玄関から忍び込んできた冷たい風が、奥の厨房から香ってきていた夕食の匂いを散らす。真琴は来訪者を暖かい室内へは迎い入れず、後ろ手で重厚な両扉を閉めた。
「何しにきたの。まさか堂々と暗殺しに?」
 門から玄関へと導くアプローチは両脇に雪が寄せられていた。首にマフラーを巻いてしっかり防寒しているフュルストは肩を竦ませる。

「中へ招き入れてはくれないの? 寒い中、馬で駆けてきたのに」
「あなたはお客様じゃないもの。いったい何しにきたの」
「暗殺しにきた人間が、お行儀良くベルを鳴らして表からやってくると思う?」
「あなたならやりそうね、意表を突いて。いつもの手口は飽きた?」

「とんだ大悪人になってるんだ。君の中では」
 フュルストは円柱のポルチコに寄り掛かり、
「毒を吐きたいなら馬上でお願いできる? 不毛な口争いをしていられる時間はないんだ」
「馬上で、って……」
「早く着替えてきて、スカートでは無理だから。目立つ格好も避けて。イメージは、女怪盗の気分で黒服がいい」

 不穏なことが待ち受けている気がして真琴は後退る。
「また何かさせる気?」
「させるんじゃない。見てもらうんだ」
「何を」
「君に見てもらいたいものがある。僕には見当もつかないものだけど、君なら、もしかすると分かるのかもしれない」

 真琴は考え込む。考え込こもうとしているが頭の整理がなかなかつかなかった。フュルストは腕を組み、肝が据わった眼差しで庭園を眺めている。この男にほいほいとついていっても大丈夫だろうか。王政府に売られるのではないか。この男は仲間を殺したのだ。けれど、本気ではなかったのかもしれないことが尾を引く。見てもらいたいものとはなんだろう。重要な秘密だろうか。

 上着を羽織っていないから寒い。迷いが出て、真琴は片腕をさすった。
「急に言われても困るわ」
「今夜はチャンスだ。レジスタンスが大きなデモを決行する、王都の城門前で。混乱に乗じて内部へ忍び込める」
「お城へ? でも」
「君も興味があるでしょう?」

 秘密の宝箱があると思われる城だが、真琴には躊躇する理由があった。
「でも、やっぱり困る。明日は」
「壁外調査でしょ? 大事な人を見送りたい」
「……そう。だから今夜は行けないわ」
 言うとフュルストの眼が微小した。

「だったら急ごう。大丈夫。早朝にはカラネス区に戻ってこれる。見送りにはギリギリ間に合うよ」
 門の外で待ってると言い、フュルストは背中を見せた。
 彼が門を出て塀で姿が見えなくなるまでのあいだだけ、真琴は思案に暮れた。好奇心が少しばかり勝って、調査兵団の見送りに間に合うというのなら――と、急いで着替える気になったのだった。彼に悪意がなかったなら、あることを打ち明けようと、ある物を持って。

 深夜、王都の城門前は騒がしかった。あちこちでかがり火が焚かれており、火の粉と雪と見紛う灰が、寄せ合う人の頭上をふわふわと舞う。レジスタンスの指揮のもと集まった彼らの大部分は一般市民である。国民国家を求めての音頭を、声を張り上げて続けており、深夜とも思えぬどんちゃん騒ぎだった。
 興奮した一部の者たちにより城門が突破されそうになった。そのどさくさに紛れて真琴とフュルストは城壁の中へ侵入した。
 城の周辺を雪を散らしながら駆け抜ける。城内へと水路が続く手前の草影に、フュルストは真琴を引っ張り込んだ。身を潜める。

「ここからどうやって中に?」
「城の中には入らない。見せたいものはここにある」
「ここ? 水路と水門しかないけど」
 辺りを警戒しながらフュルストは懐中時計を確認した。
「川の表面をよく見てて。いつもだいたいこの時間に、あれが現れるんだ」

 真琴は虚を突かれた。てっきり城内へ侵入すると思っていたから緊張していたのだ。川の表面に何が現れるというのか。しかしフュルストが真剣に水面を睨んでいるから真琴も倣った。
 周辺の雪で足許から冷気が上がってくる。冷えた手を摩擦で温めようと、両手をさすり合わせたときだった。
「え」
 つい気抜けた声が漏れた。眼を疑ってこする。
 黒い水路からひょっこり顔を出したもの、遠くから見たなら水竜の頭かと間違うかもしれないあれは、潜望鏡だった。先端がこちらにぐりんと回ったように見えて、真琴は茂みに反射的に頭を引っ込める。潜望鏡は水面の波紋を引きずりながら沈み、城内の水門を通っていったように見えた。

「うそ、あんなのあるわけない」
「知ってるんだね。あれが何か」
 混乱の極地ながらも真琴は思考を動かす。信じ難いものを見た。この国に潜水艦を作る技術はない。でも水門へ入っていった。ではあれはどこから来た。街を通り川から、そして壁の外から、そして海を渡って航海してきたのだろうか。
 まだ不確かではあるが、言葉にしたほうが整理がつくと思った。真琴は顔を上げた。

「私、勘違いしてた。あなたは私の同胞じゃなかった」
「何を言うかと思ったら、いつかのあれ? そうだよ、同胞なわけないじゃない。君は東洋人だもの」
「違うの、違うのよ」
 フュルストは幼少のころの記憶が曖昧だという。夢にたびたび出てくる女性は彼の母親だということも分かっている。ある言語のこともあり、だから彼も真琴と同じように過去から未来へ飛ばされてしまった異邦人なのだと、真琴は決めつけてしまっていた。

「フュルストは、あなたの怖い記憶の通り、拉致されたんだわ。中央憲兵、ううん、王政府に」
「根拠はあるの」
「あなたの記憶。足許が揺れて気分が悪くなったのは船酔いしたから。それで嘔吐しそうになった。顔を突き出されたときに見えたのは、きらきら光る海面だった」
「海面って何」
 フュルストの瞳孔は揺れ動いていた。

「海のこと。まだ確かじゃないけど」
「何を言ってるの。あのときたくさんいた子供たちは、海を渡ってここに連れてこられたってこと? それは可怪しいよ。だったらどこの生まれなのさ、僕は。人類は壁の中に逃げた。生き残っている人類は壁の中へ逃げることができた人間だけだ」

「そもそもその話が人工的に計られたものだったら? 人類は海の向こうにもいるって考えてみて」
「考えられるわけないよ、そんな馬鹿げた仮説」
「でもあの潜水艦は海を渡ってきてる。フュルストのお母さんが海の向こうにいるかもしれないの」
 瞳孔はさらに揺さぶれた。フュルストの第一声は酸素を飲んだだけで音にならなかった。
「僕の……お母さん?」
「そう。あなたの本当のお母さん。夢に出てくる綺麗な女の人のこと」

 もしかすると地球は地球のままなのかもしれない、と真琴は考えた。巨人が発生しているから、真琴の知っている地球とは多少違うのかもしれないが。この国と同じように壁で囲まれているのかもしれないけれど、過去にあった国は存在しているのではないか――ドイツのように、と真琴の頭は整理したのだ。

 真琴は鞄から独和辞典を取り出した。中央憲兵団支部を探索したときに、つい持って帰ってきてしまったものだった。何とはなしにページを捲っていたときに、ある単語が眼に入ったからで、フュルストが発した言語と一致したものがあったから。それは「ベービ」、赤ちゃんという意味だったのだ。

「もう一度聞かせて。夢に出てくる人が、あなたに語りかけてる言葉を」
「君は知らない言語だって言ったじゃない」
「これがあれば分かるの。言って」

 眉を寄せているフュルストは戸惑い顔だった。が、ぽつぽつと喋り出した。真琴は聞き慣れない単語を拾い、辞書を引いた。
 おおまかだが翻訳することができ、言葉の意味が分かった。フュルストは夢の中で女性から慈愛を感じたという。言葉は分からなくとも思いは通じていたのだ。真琴には顔すら知らない女性だけれど、愛に溢れた姿が眼に浮かぶようだった。

「正確じゃないかもしれないんだけど」
 と断ってから、
「産まれてきてありがとう。愛してる。私のかわいい赤ちゃん」
 フュルストは唐突に口許を覆った。視線は真琴の足許に、見開いた瞳の焦点はぐらついていた。
 真琴は首を傾けて微笑みかけた。
「海を渡れば、あなたは本当のお母さんと会えるかもしれない」

 いきなり吹っ切れたように笑い、フュルストはかぶりを振った。
「すごいね、君の隠し玉。それを打ち明けずにいようとした君はひどい」
「あなたの中にある、小さな仲間思いの心をちょっとだけ信じたの。次に会うことがあったら伝えよう、って」
「信じたものが見当違いの、ただのお人好しからきてるものだったら? もう少し出し惜しみなよ。そういうのは、ここぞというときに使うものだ」
「いいの。また裏切られたって。あなたが知りたがっているのに、黙っているなんてできなかっただけだから」

 前髪を掻き上げた手を後頭部まで滑らせ、フュルストは溜息をついた。
「まいったな。君の仮説は信じ難い。けどそんな隠し玉を出されたら、こっちもフェアでいないといけないじゃない。借りを作りたくはないからね、君なんかに」
 まだ何かあるような言い草だった。フュルストは鞄から長方形の黒いケースを取り出した。少し大きめの長財布くらいで、しっかりしたケースだった。

 ケースのつまみを触れ、フュルストは喉でくつっと笑った。
「これを手に入れるとき、危うく死にそうになったよ」
 そう言ってケースを開いてみせた。中には注射器が一本と、親指大の小瓶が三つ納まっていた。
「なんの薬?」
「とんでもない薬だよ。まさかの、巨人になれる薬だってさ」
 真琴は小瓶に触れようとして伸ばしかけた指を引っ込めた。「巨人にっ?」
 エレンは父親に注射をされたと言っていた。それが巨人になるきっかけだったのなら、この薬は本物なのかもしれない。

「本物だったとしたら、どこで手に入れたの? フュルストの言い方って、なんだか人伝に聞いてきたって感じに聞こえたんだけど」
「城の地下でばったり会っちゃったんだよ。対人制圧部隊隊長ケニー、通称切り裂きジャックに」
「切り裂き……ジャック?」
「悪い子供のお仕置きに使う単なる怪談話だと思ってたけど、伝説は本当で実在したんだ」
「それがケニー……」
 怪談の話は知らないけれどフュルストの不適な笑みから恐ろしい内容なのだと見て取れた。彼は続ける。
「ケニーは僕がスパイだとすぐに見抜いた。何を探ってると問われて、死ぬ覚悟で答えたよ。世界の真実を知りたい――」

 真琴は思った。死ぬ覚悟――。このフュルストをそこまで震え上がらせるなんて、さぞ手に汗握る相手だったのだろう。劣勢の映像が目に浮かぶ。
「それで?」
「彼はニカっと笑って言ったんだ。『実は俺も知りたいんだ、真実を。お前もか、面白い奴だな』って」
 だったら、と黒いケースを真琴に差し出す。
「これをやるよって渡されたってわけ」

「この薬の出所って、いったいどこなの」
「彼は盗んだと言ってた」
 真琴は震える指先で小瓶を摘んだ。インフルエンザの接種時に医者が使う、ワクチン入りのバイアル瓶である。ラベルがぐるりと貼っており、薬名が記されていた。ふと裏を見て、真琴は驚愕の息を呑んだ。愕然とし、そして大きな罪の意識に苛まされた。

 フュルストの話は続いていた。
「巨人になる薬に関して、僕は王政が絡んでるんじゃないかと思ってる」
 バイアル瓶を凝視し、全身で震えている真琴をフュルストは不審に思わなかったようだ。彼は背中を大きくさすってくれた。
「怖がらなくても大丈夫。瓶に触れただけじゃ巨人に変身しない。安心して」
「え、ええ。そ、そうよね」
 固い微笑で馬鹿みたいに頷くことしかできなかった。

 真琴の指先からバイアル瓶を取り、フュルストは黒いケースに慎重にしまった。そして真琴の膝に置いた。
「これは君にあげる。どう使うか、君の自由にしていいよ」
 王政を脅すことのできる大事な切り札を、フュルストは真琴に委ねた。混乱の最中で頭が真っ白だった真琴は、ガクガク震える手で、言われた通りに自分の鞄に黒いケースを入れたのだった。


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