36.兵長ギツネさんとリヴァイギツネさん

 暗くて寒い廊下を歩いていたら、風呂上がりで湯気が上がっていた頭など、みるみるうちに冷たくなってしまった。真琴はオイルランプを翳してリヴァイの部屋の戸を押した。
 窓際に据えてある書机で仕事をしている彼の背中が目に入る。静かに戸を閉め、ベッドに腰掛けた。
「ただいま」
「ああ」
 振り向かずにリヴァイは言った。

 真琴は濡れた髪をタオルで拭きながら、何をしているのか少し覗き込んでみた。卓上ランプに照らされるリヴァイの無な表情。姿勢正しく羽根ペンを動かしている。
「報告書?」
「ああ。溜め込んぢまった数日分を、やっつけなきゃなんねぇ」
「まだかかりそう? ハンコ押しなら手伝えるかも」
「手伝いは不要だ。お前は先に寝てろ」

 真琴は返事ができなかった。振り向いてもくれない背中を見ていると恋しくなる。一人でベッドに入ったら、きっと寒い。髪の先までタオルを滑らせ、迷ってから立ち上がった。
 黙って、リヴァイの後ろから抱きついた。仕事の邪魔をするのは初めてかもしれない。こんなの駄目な女だと分かっているけれど。
「なんだ」
 真琴は黙ったままリヴァイの頭に頬をすりつける。
「男の仕事を邪魔するのは、いい女とは言えない」
「いい女じゃなくていい」

「どうした。つらいことでもあったか」
「何も。リヴァイに甘えたくなっただけ。一緒にベッドに入りたいな」
 浅い溜息をつき、リヴァイは羽根ペンを置いた。
「仕方ねぇ奴だ」
 卓上ランプの火を吹き消して腰を横に滑らせる。
「ほら。ベッドへ行け」

「いいの?」
「そう聞き返されると、俺は仕事を続けたいわけだが」 
 真琴は口籠った。
「……ごめんなさい」
「いいから、早くベッドに入れ」
 とリヴァイに背中をぽんと叩かれる。それで真琴は先にベッドに入った。続いてリヴァイも滑り込む。

 真琴が持ってきたランプが室内に影と光を作っていた。影で揺れる天井を見つめる。なぜだろう。今夜はとても甘えたい気分だった。愛しい者同士が温め合えるのを後押しするように、外も雪がちらちらと降ってきた。
 真琴は横になってリヴァイに縋った。こうすると心が半分くらい満足した。足りない分はなんだろうか。衣服の洗剤の香りが強くて彼の匂いが薄い。繊維が厚手で体温が伝ってこない。だから服が邪魔だと思った。

「もっと近くで触れたい」
「これ以上抱きつけないだろ」
「服、脱いでほしい」
 沈黙が落ちた。
「ダメ?」
「お前は困らせることばかり言う」
「贅沢になってるのかな。肌の感触を知っちゃってるから。でも、困ること?」
「よくもまあ軽々しく口にできる。ただ脱ぐだけだと?」

 ダメ? ともう一度駄目押ししてみたら、リヴァイは半身を起こした。アンダーシャツごと潔く服を脱いでみせる。肩甲骨が生き物のように動くさまを見て頬が照れた。それで真琴は枕に目線を流した。
 リヴァイが再び横になるのを待っていると二の腕を引かれた。
「なにうつけてる」
「え?」
 何食わぬ顔でリヴァイが顎をしゃくってきたので言わんとすることに気づいた。真琴は瞠目して言葉がつっかえる。
「私はこのままだからっ」
「呆れるな、俺だけ恥ずかしい思いをさせるのか。不公平だろう」
「恥ずかしいなんて思ってないくせに」

 ベッドの上で押し問答になった。真琴は脱ぐ気はなかったし、脱げと言われるとも思っていなかった。
 リヴァイの胸が背中に当たり、腹に両腕が回る。雰囲気の色が甘い情調に変化していく。
「浅はかで馬鹿な奴」
「私、脱げない」
「恥ずかしがるな。俺しか見ない。覗き見してる奴がいるとしたら雪だけだ」
 リヴァイの手が真琴の寝間着の襟許を触れた。脊髄反射で真琴は彼の手を押さえつける。
「やだっ、だってっ」
「マコ」
 リヴァイが首筋に顔を埋めた。そして唇を何度も優しく落としてくる。手をどけろと暗に催促されていると思った。

 真琴は眼を窄めて唇を噛んだ。甘やかさにどんどん呑まれていく。裸になってもいいかなと思わされ、観念する気にもさせられて手を降ろした。
「いい子だ」
 そう囁き、リヴァイの手が寝間着のボタンを一つ一つ外していく。妙にゆっくり外していくのはわざとなのか。真琴の恥ずかしさを煽り立てたいのか。
 ワンピース型の寝間着の合わせ目から素肌がちらつく。真琴はそれを見降ろし、ヘソの辺りまでリヴァイの手が下っていくのを慌てて止めた。

「ここまでにしてっ」
「全部脱がないと邪魔だろう?」
 耳許で囁くから真琴はまた観念した。ワンピース型は今夜までにして明日からは上下の寝間着にしようと強く決めた。
 裾の部分を膝までたぐり寄せられ、リヴァイにボタンをすべて外された。ついで寝間着の合わせを開かれそうになって、真琴は諦め悪くまた防ぐ。

「待ってっ」
「あまり男を愉しませるな。それが自分の首を締めてると、分からないか」
「だって、何もつけてないの……」
「ん?」
 顔に火がついてしまったように熱い。声が弱々しくなる。
「下着……つけてないから」
「ありがたい。脱がす手間が省けた」
 下着をつけていたとしても、結局のところ脱がされるのだと知った。とうとう逃げ道がなくなってしまう。

 リヴァイは真琴の手を力づくで退かそうとしない。鷹揚に構えて、脱がすことを真琴が許すのを待っている。
「まだ粘るか。早く温めてほしいもんだ。凍え死ぬ」
「うう……」
 自分から脱いだこともあったのに、どうして今夜はこんなにも恥ずかしいのか。とはいえ、ぐずぐずと引き延ばすのもどうか。壁外調査を控えている大事な時期にリヴァイに風邪を引かせてしまう。
 もう覚悟を決めて手を離した。リヴァイは寝間着を肩から滑らせるようにしてゆるりと降ろしていく。指が触れたわけでもないのに、光沢のある布地が肌をするすると上滑りしていく肌触りで胸が高鳴っていった。真琴は顔を背けて伏せる。

 リヴァイは溜息をついた。それは真琴が誘ったのかもしれない。
 脇腹を冷たい手が滑っていく。両胸の真下、二つの膨らみが終わるか終わらないかの微妙なラインを辿り、彼の両手が交差する手前で止まる。そしてまた熱い溜息が漏れ、リヴァイは眉をきゅっと寄せた。
 リヴァイにじっと見つめられて胸許がちりちりと焦げていく。

「やだ……。あんまり見ないで」
「無理な頼みだ」
「無理でも……」
「俺の腕の色とマコの肌の色が、一段も二段も違う。こうしてると、お前の素肌は雪みたいに白く際立つ」
「陽を浴びてないモヤシみたいだって、まっすぐに言ってよ」
「いいや? ひどく色っぽい」
 リヴァイに羞恥を掻き混ぜられる。
「もう、やだ〜。からかってばっかりっ」
 前をもう見られたくない。それで真琴はリヴァイに向き直って軽く体当たりした。そのまま二人してベッドになだれ込む。

「何をする。もっと観察させろ」
「っもう終わり」
「自分から脱いだり恥ずかしがったり。分かんない女だ」
 そう言って真琴の背中まで掛け布団を引き上げる。手を添えているリヴァイの胸板は、固くて熱かった。甘口のココアを飲んでほっと息をついたときのように、心が充分に満足したのが分かる。
「どうしてこんなに満たされるのかしら」
「お前はいい。満たされて」
 リヴァイは真琴の髪を撫でた。そうして撫でながら心憂いな息をつく。胸許に真琴の頭を置かせたまま、幾度も苦しみ悶えるような息をつく。

 真琴は上目遣いした。
「どうしたの。溜息ばっかりついて」
「悪い女だ、お前は」
「どうして?」
「男に生まれてきたことを、これほど憎んだことはねぇ」
 つらそうに瞼をぎゅっと閉じたリヴァイを見て真琴は分かった気がした。なんで? と聞くのは野暮だと思う。
「体が欲しがるままに食っちまえば、楽になれるってのに」

「食べちゃっていいよ?」
「無邪気に言うんじゃねぇ。いい加減にしろ」
 リヴァイの唇が不愉快そうに曲がった。半分くらいの本気で怒られたと思った。
 鼓動の精力的な音が耳の下から伝う。リヴァイの胸板の上で手を静かに滑らせると、吐息のような艶声を上げてぴくりと捩った。
「まだ怖い?」
 聞いてみたがリヴァイは答えない。髪の毛が疎ましかったので流すように身じろぎすると、壁と天井の影も揺らいだ。影絵みたいだと思いつつ、真琴は途方に暮れそうな思いで自問した。

「どうしたものかしら。時間が解決してくれるとも思えないの」
 何か口にしようとしたのか、唇を開いたリヴァイはしかし息を吸うのみだった。吐息が白い。窓枠に雪が積もり始めていた。
「そのうち、あなたもっとつらくなって、私から離れていっちゃうんじゃないかって、たまに不安になる」
「いらんことを考えるな」
 やるせなくて、真琴は眼を伏せて微笑した。
「ダメね、私。またこんなこと言ってる。あなたを苦しめてばかり」
「思ったことは言え。俺はお前を責めたりしない」

 ぼうと天井を眺める。何とはなしに手を掲げて揺らすと、太い影も一緒に揺れた。子供のころ影絵でよく遊んだ。あのころはまだ恋なんて知らず、悩みもなくて無垢だった。そうは思っても気楽だったあのころに戻りたいとはならない。リヴァイとの出逢いをなかったことになんてしたくない。
 真琴は反対側に寝返りを打った。「ねぇ」
「なぜそっちを向く」
 リヴァイも横になり、真琴の髪を後ろに流して頭に口づけをした。
「見て」
 窓際の壁に映るようにしてキツネを作る。

「こんこんっ」
「キツネはこんこんとは鳴かない」
「じゃあなんて鳴くの?」
 会話の間が空く。と、横腹を愛撫していたリヴァイの手が動き出した。
「知らん」
「こんこんっ」
 キツネがきょろきょろして見えるように手首を捻る。
「兵長ギツネさんはどこだろ〜。こんこんっ」
 リヴァイは頭に手を突いて上半身を少し立てた。
「まさか俺にやれってのか」
「こんこんっ」

 粘り強く続けていたら、気怠そうな溜息とともに壁に影絵が現れた。一回り大きいキツネは、影だけみてもひどく怠そうにみえたが。それでもつき合ってくれる温かい包容力の大きさに目許が熱くなった。
「こんばんは。兵長ギツネさん」
 醸し出す雰囲気から答える気がないのは伝わった。
「今夜は、ボクからちょっと質問っ」
 声を幼気にして続ける。
「兵長ギツネさんって、どうしてそんなに頑張れるの?」

「何を」
「巨大ギツネどんがいっぱいいる壁の外に行って、どうして退治しにいくの?」
 リヴァイのキツネは動かない。動かないけれど、沈黙の中に緊張感が走った。
「怖くないの? 巨大ギツネどんに仲間のキツネ君がたくさんやられちゃったのに、また行くの?」
「だから行く。死んだ仲間の意思を無下にはできない。それは俺の力にもなる。だから怖くない。約束もした。絶対に巨人を絶滅させると」
「それが兵長ギツネさんの背負っている重さなんだね。だから誰よりも強いんだ、君は」

 キツネの影を神妙に頷かせた。
「ありがとう。次はね、リヴァイギツネさんに質問っ」
「は?」
「どうして闘うの? 巨大ギツネどんと」
「いましがた答えたろう」
 リヴァイのキツネの影は動かず、ただ不可解そうに言った。
「あれ? あなたは兵長ギツネさんだね。ボクが呼んだのはリヴァイギツネさんなんだけどなあ」

 リヴァイの視線が意図を探るように壁から真琴に移った。真琴は歩き回るようにみせてキツネを揺らす。
「リヴァイギツネさ〜ん。どこ〜?」
「……俺ならここだ」
 影の位置はまったく変わっていないけれど。
「質問はなんだったか」
「どうして闘うんですか?」
「死んだ仲間の」
「それは調査兵団の兵長ギツネさんの理由でしょ。リヴァイギツネさんはどうして?」

「俺は――」
 リヴァイは考える。大きいキツネの頭が少し下がる。そしてさも意外そうに言った。
「……ない」
「ないの〜?」
 キツネはかっかと笑ってみせたが、真琴は物思った。自分のことは後回しどころか、他人のためにしか闘ってこなかったという彼を。

「だったら闘う理由を作っちゃおうよ」
「どうやって」
「思いはあなたの強さになるんでしょ。あなたが見た蒼穹を見せてよ。私を海に連れていってくれるって約束もしたじゃない」
「忘れてはいない」
「私は兵士長のあなたじゃなく、リヴァイと約束したのよ。それなのに、理由はないって言われちゃったんだけど」
「重箱の隅を突くな」
「突いてない」

 ランプの灯りが点滅する。燃料が切れそうになっていた。薄くなっていくキツネの影を、大きなキツネに寄せる。
「私は、リヴァイの闘う理由にはならない? 帰れる場所にはなれない?」
 言葉のあやで言いくるめようとしている。だから自分の中で葛藤があった。兵士長とリヴァイを別個にしても、彼の重圧は半減しない。そのうえ真琴を足したらさらに重くなるのは分かっている。
 けれど潜在的に宿っている人間の強さを信じたい。大事な家族のために敵わない敵に立ち向かっていった兵士たちと、泣き崩れたリコがイアンのために立ち上がった愛の強さを。それがリヴァイにないわけがないと信じたい。

「俺はあのとき足が竦んだ」
「でも助けてくれたじゃない。だから私はいま生きてる」
「失うんじゃないかと怖かった」
「みんなも同じ。だから失わせないために、怖くてもみんな闘ったの」
 地団駄を踏むかのようにリヴァイは感情を昂らせる。
「だが戦場で散っていったじゃないか。想う者を残して」

「残された者はそれでも生きていける。受け継いだ意思だったり、大切な思い出だったり、新しい命だったり。悲しくても、それを支えにして生きていける。必ずしも不幸せに繋がるわけじゃない」
「だが俺はあのときっ」
「失うのを恐れてあなたの足は竦んだけど、それでも動いた。死ぬことを恐れたけど私も闘った。弱い心を奮い立たせたのはなんだったと思う?」
 じっくり黙念するような間を取って、リヴァイはぼそりと答える。
「……愛」

 真琴は大きなキツネに唇を綻ばせてみせた。
「うん。私が強くなれるのに、あなたが弱くなるなんて、天地がひっくり返ってもない」
「また大きく出やがって」
「裸で逆立ちして、古城を一周したっていいよ」
 リヴァイの双眼に慈愛の色が帯びる。胸を打たれたときの泣きそうな面差しに似ていた。
「そんなに好きか、俺のことが。必死になって説くほど」
「伝わってなかったの? 世界で一番愛してるって」
 リヴァイは微笑みを噛み締め、大きなキツネを真琴に寄せてきた。
「裸で逆立ち、忘れるなよ」
 こつんと額を合わせるようにしてみせたとき、燃料が切れてランプが消えた。同じくして影絵も消えたのだった。


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