35.「もしも」が頭を旋回する

 昼食を食べてから馬を飛ばし、真琴とリヴァイがフェンデル邸に到着したのは日没の数分前だった。屋敷をぐるりと囲む柵の門を通り、長いアプローチを歩いて玄関に向かう。
「おじ様はいるかしら」
「メイドの一人はいるだろう。留守でも別段構わないさ」
 玄関までのアプローチは薔薇のアーチになっている。全部の葉が落ちた茶色の枝は寒々しく見えた。と、なんの前触れもなくリヴァイに二の腕を鷲掴みにされる。

「待てっ」
「え?」後ろに引っ張られて真琴はリヴァイを見返った。同時に、一歩踏み出していた足首を鋭いものが触れる。
 途端にあちこちから軽量な金属音がけたましく鳴り響いた。音のする上方に真琴は首を振る。
「ちょ、ちょっとなんの音?」
「仕掛けに足を引っ掛けたんだ。ドジが」
 リヴァイは左右を指差した。そこには周囲の木を伝って紐が張り巡らされていて、色んな形の缶詰がぶつかりあって激しく揺さぶれているのだった。真琴の足許には釣り糸のようなものがぴんと張っており、日没前の夕日を浴びて煌めいている。

「何これ〜」真琴は呆れて肩を落とす。「調査兵団が作った罠かしら? ちんけね〜」
「調査兵団が警護に就くのは明日からだ。そもそも俺たちがこんな阿呆な罠を張るかよ。音で犯人が逃げちまう」
 しかし、いまだ鳴り続ける缶詰を仰いでリヴァイは顎をさする。
「まあ、防犯には効果的か」
 呟いたとき、建家の影から人間が飛び出してきた。大き過ぎて視野を邪魔しているらしい迷彩柄のヘルメットを被っているが。
「出たな、放火犯! お前の悪事もここまでだ! この俺様が成敗してやる!」
「騒がしい屋敷だ。お次はなんだってんだ」
 リヴァイの眼つきは力抜けしていた。

「てやー!」
 あきらかな子供の声で雄叫びを上げ、リヴァイに向かって棍棒を振りかざす。
「待って! その子は――」
 真琴がかけたストップは遅かった。襲いかかってきた子供の、棍棒を持っている手首を捻り上げてリヴァイは片脚を払う。そうして地面に叩きつけたのだ。
「ロウ!」真琴はローレンツの傍らに両膝を突いた。「大丈夫!?」
「いてててて」
 ローレンツが半身を起こすと大きなヘルメットがぐらぐらと揺れた。片手を背中に回してさする。
「真琴が放火犯に襲われてるように見えたから」

「立ち向かってきたその勇気は認めてやるよ。だが、こんなにもあっさりと返り討ちにあってるようじゃ自殺行為ってもんだ。己の力量を知れ」
 ヘルメットをまっすぐになるよういじりながらローレンツは悔しそうにした。何度直してもころんと横にずれてしまうが。
「くっそう……。真琴っ、誰こいつっ」
「リヴァイ兵士長よ。名前ぐらい知ってるでしょ?」

「え!? これが!? 実物ってこんなにチ――」
 リヴァイは出し抜けにローレンツを跨がった。猿のような目立つ両耳を引っ張る。
「んだと、このガリ勉面野郎」
「痛い、痛い、痛い! 耳が取れる!」
「なんて言おうとした、ん? もっぺん言ってみろ、ああ?」
 耳を引っ張っている力に手加減はないみたいで、ローレンツの両眼の端から涙がちょちょ切れる。

 真琴はリヴァイの肘に手をかけた。
「大の大人が子供相手にムキにならないでっ。本当に耳が取れちゃうわっ」
「躾がなってない。どこのガキだ、これは。お前の兄弟には見えん。へんてこな面は似ても似つかん」
「……アジトの仲間。フュルストが言ってたでしょ。もう一人の子は、ここで匿ってもらってるって」
「真琴、そんなこと言ったら!」ローレンツは眼を見開いた。
「いいのよ。この人は知ってるの。フュルスト本人から全部聞いたのよ」
 フュルストの裏切りをこの場で知らないのはローレンツだけだった。エリザベートを瀕死に追い込んだのがフュルストだなんて知る由もないだろうけれど。

 ローレンツは驚愕の顔つきをしていた。
「だってさ、この人って調査兵団で、ってことは政府の人間ってことで」
 真琴とリヴァイの落ち着いているさまを見て、一時押し黙る。ずれた丸眼鏡を直し、
「なんか分かんないけど、大人の事情ってやつなんだな」
「呑み込みが早くて助かる」
 リヴァイが言うとローレンツはむっとした。真琴を見上げる。
「アジトが襲われたって聞いた?」
「うん」

「エリザートとマテウスがあんなことになるなんて。運がよかったのかな俺。あの二人もルースの誘いに乗ってれば、巻き込まれずに済んだのに」
 真琴は眼を瞠った。
「フュルストの誘い? なに、それ」
「あの日ってさ、隣の区に旅芸人の一座が来てたんだよ。そのチケットをルースが持っててさ、俺たちにくれたんだ、三人で行ってきなって。でもあの二人は来なかったんだよ。俺ずっと入場口で待ってたのに」
「……二人供、研究熱心だったから」
「たまの息抜きも大事なのに。行く行かないのどっちを選ぶかの選択で、こんなふうに枝分かれしちゃうなんて。人間って明日どうなるか、分かんないもんなんだな」
「……そうね」

 真琴とリヴァイは顔を見合わせた。思っていることが互いに一緒かどうかは分からない。
 これはすべて推測だが、おそらくアジト襲撃の日は以前から決まっていた。もしかするとフュルストは、その日アジトは無人と信じて踏み込んだのだろうか。真琴の胸に戸惑いが膨らむ。
「マコ」
 注意勧告するような口調でリヴァイは呼ぶ。
「奴の真意は分からないが、分かろうとする必要はない。起こったことがすべて真実だ」
 リヴァイの眼光は一点の曇りもなかった。フュルストが仲間を手にかけた事実は覆らない――彼の真意はどうであれ。

 ※ ※ ※

 各屋敷への警備の配備に不備があった。フェンデル邸がリストから漏れていたようで、いつまで経っても調査兵が訪れなかったのだ。だからって問題はないので、引き続きリヴァイが屋敷周りを見張っていた。
 ローレンツが仕掛けた罠は昼夜問わず作動した。釣り糸に絡まっていた毛から、原因はすべて野良猫だと判明している。稀に、そこに罠があると忘れてフェンデル邸の住人が足を引っ掛けることもあったが、依然として放火犯らしい人物が現れることはなかった。

 張り込みを開始して二週間。今夜も厳しい寒さの中、植え込みの影でリヴァイは眼を光らせていた。と、ちらちらと灯りがともる屋敷のほうから小さな白い気体が近づいてくる。それは横にたなびいており、人物を確認して少し嬉しく思った。
「毎日おつかれさま。ごめんなさいね、寒いでしょう」
 肩掛けを寄せてマコが腰を曲げた。そして彼女が差し出してきた銀の盆には二つのカップが乗っており、温かそうな湯気からコンソメの匂いがした。

 そろそろ来てくれるころだと思っていた。リヴァイは手を伸ばしてカップの取っ手に指をかける。内蔵まで冷えきっていたので、カップの熱伝導が手を掠るだけでも生き返った気分だった。
「冬季の壁外調査もこんなもんだから変わらない。まだ緊張感が緩めなこっちのほうが楽だ」
「本当にありがとう。あなたが見張ってくれてるから、みんな安心して眠ることができてるのよ」
 マコが隣で膝を抱えた。両手でカップを持って唇につける。
「俺は慈善事業をしてるんじゃない」

「因縁の相手を捕まえるため?」
 とマコは微笑む。
「ああ。私欲のためだ。お前のためでも、屋敷の奴らのためでもない」
「ふ〜ん。それでもいいけど?」
 上目でスープを飲みながらマコは頬をにやつかせた。

 面白くないと、リヴァイの腹の辺りがもやついた。マコはリヴァイをいい人にしたくてしようがないらしい。悪いことばかりして生きてきた人間だというのに。
 行動に移す理由はすべて私欲のため。自分の目的のため。他人のために動くわけなんてない、と思っていたいわけだが。
「熱っ」とちょびっと舌を出したマコを見て、リヴァイはこっそり眼で微笑する。
(気が抜けてんじゃねぇのか。放火犯は捕まってねぇんだぞ)
 マコを安心させたいがために行動したなどと、そんないい人間ではないと、むず痒くて認めたくない。だから建前を建前ではないと思い込もうとしているだけだった。

「冷えるだろう。もう戻れ」
「もう少しいる」
 片側半分の肩掛けの中にマコが入ってきた。肩に寄り添ってくる。
「湯たんぽ代わりに使ってくれていいよ」
「お前は寝間着だ。風邪を引く」

 構ってほしいのに構ってもらえなかった猫のようにマコは焦れる。
「も〜。なんで分からないの、にぶちん」
「……分かってるが」
「……だったら、ぎゅって」
 と肩を可愛くぶつけてくる。
「やれやれ」
 リヴァイは細い上腕に手を回して引き寄せた。するとマコが幸せそうに頭を凭れた。肩掛けの中が二人分の熱で温かくなる。

「あったかいね」
「ああ」
「私がいて良かったでしょ」
「そうだな」
 リヴァイは塩気が強くない優しいコンソメスープを飲む。

 マコはいつからか、自分からこうしてすり寄ってくるようになった。もとから積極的な女というのではないと思う。愛しい者がそばにいることで生じる無意識裏なのだ。
 そしてマコが極端に恥ずかしがるような女でなくてリヴァイは救われていた。彼女から寄り添ってきてくれれば自分も引け目なしに引き寄せてやることができる。中途半端な接し方をする自分をずるいと思っており、触れていいものか、躊躇する心なんてものを持ってしまったものだから。

 マコにつられて気が緩んでいたときだった。視界の隅で、人影が柵を飛び越えた。黒い野良猫のような素早さで屋敷の裏へと消える。
 リヴァイが腰を上げかけたとき、けたましい金属音が鳴り響く。
「また猫ちゃんかしら」
「いや、違う。奴だ」
 肩掛けを放り投げてリヴァイは駆け出す。後ろからついてくる気配がしたので、
「お前は来るな!」
 と叫んで、苔に足を取られそうになりながら裏手に駆け込んだ。

 うるさく踊り狂う缶詰の下に人影を確認する。飛びついて取っ捕まえようとしたとき、後ろから追いついてきたマコが苔で足を滑らせた。
 驚きの悲鳴と、どさっと倒れる音にリヴァイは身を翻す。「マコっ」
 膝を突いて横に倒れているマコの半身を引き起こすと、頭がくたりと反れた。両眉を寄せており、額の端に出血がある。庭石にぶつけたのだ。
「こんなときに気を失う奴があるかっ。俺の足を何度引っ張ったら気が済むっ」
 ハンカチで出血箇所を強く押し当てる。マコから離れられず、リヴァイは放火犯と思われる人物を見上げた。予想が外れて三白眼を見開く。
「誰だ、てめぇ」

 仕掛けが鳴り響いていて追っ手もすぐそばにいるというのに、放火犯と思われる黒尽くめの人物は逃げようとしない。てっきりフュルストだと思っていたのだが間違えるはずもないくらいに背丈が低かった。リヴァイと同じくらいか数センチ低いくらいだ。
「連続放火魔はてめぇか」
 黒尽くめの人物は覆面もしており、くり抜かれた眼周りだけが濡れて見えた。
「ここの見張りはあんたなんだ」
 放火犯が発した第一声に、リヴァイはまた三白眼を見開いた。冷徹そうな声は少し低めの女声だったのである。

「調査兵団の兵士長さん、でしょ?」
 放火犯は辺りを見回す。
「エレン・イェーガーは一緒じゃないのかい」
 どうしてエレンの名が出てくるのか。人殺しをただ楽しんでいるだけではないのか。リヴァイは答えず出方を待つ。
「可怪しいね。あんたがいるならエレンもそばにいなきゃ。責任を持つって約束で調査兵団に彼の身柄が渡ったんだから。それとも屋敷の中かい」
「エレンならここにはいない」

「だったら、どこにいるのか教えてくれる? あんたなら知ってるよね」
「教えられない。てめぇみたいのがうようよいると知ったからにはなおのこと。狙いははなからエレンだったか」
 放火犯の女が体重を片脚にかけた動きが、肩すかしをくらったというふうに見えた。
「なんだ。二ヶ月前から下準備してたのに。調査兵団を引っ張り出すことはできたけど、これじゃ無駄骨だよ」
「調査兵団に警備をさせる方向に仕向けたと? エレンをおびき出すために。たったそれだけのために無差別殺人を繰り返したのか、てめぇは」

「手段なんて選んでられないんだ」
 追いつめられたように言って女は顔を逸らした。両目を歪ませたように見えた。
「なるほど、切羽詰まっているらしい」
 女を舌打ちをする。
「エレンを表に出すのは壁外調査の日。それを意地でも覆す気はないんだね」
「ない」きっぱり断ってみせると女は瞼をきゅっと閉じた。
「馬鹿だよ、あんたたちは。やっぱり死に急ぎ野郎供の集団だ」
「改めて言われるまでもねぇ」
 女の目線がマコを見つめる。だからリヴァイは眼を眇めた。
(なんだ……?)
 ややあって、女は顎を軽く振るってマコを示した。
「その女。壁外調査に連れていかないほうがいい」

「なぜ」
「連れていくと、きっと良くないことが起きる」
「なんだと」
 マコのことを知っているふうなニュアンスだった。リヴァイと一緒にいるからマコを調査兵だと思い込んだというものでもなさそうだが。
「てめぇの連れション仲間とでも言いたげだな」
「別に? ただ、同じ穴の狢の匂いがしただけ」
 言われてリヴァイの胸中に小さな不安が湧きおこる。聞き返そうと冷えた酸素を吸い込んだとき、胸許を弱く引っ張られた。腕の中でマコが意識を取り戻したのだ。

「り、リヴァイ……、私……」
 マコに気を取られた瞬間、女は背中を向けた。そして庭の装飾品に足速に滑り込んで逃げていった。
「クソ!」
「うそ、やだ、逃げられちゃったっ。ごめんなさい、私のせいだわっ」
「いや……」
 いたた、とマコは片眼を瞑ってハンカチを押さえる。
「結局誰だったの? フュルストだったの?」
 そう聞いてきたマコの表情は本当に申し訳なく思っていそうに見えたし、とても気がかりそうにも見えたのだけれど。

(お前は放火犯に当てがあったんじゃないのか。裏で繋がってんじゃないのか)
 仲間が逃げられて本当はほっとしてるんじゃないのか。そんな疑惑がリヴァイの中でふつふつと膨らんでいく。
 過去から来たなどと突飛なことを打ち明けて、疑惑の眼が向かないようにリヴァイを丸め込もうとしているのではないか。

(馬鹿野郎っ)
 リヴァイは頭の中で自分を殴り飛ばした。
 マコの話を半分以上は信じたではないか。不安そうに眉尻を下げて自分を見つめてくる面差しは演技をしているようには見えないだろう。
 あの女は逃亡の隙を作るために、でたらめなことを言ってリヴァイを揺さぶったのだ。マコのことを知っているような口ぶりも、それこそ演技だったのだ。非道な放火犯と、マコと。どちらの言葉を信じるかなんて比べるまでもないだろう。だがしかし――と、「もしも」が頭を旋回する。

「リヴァイ?」
「あ、ああ。いや、フュルストじゃなかった」
「犯人を見たんでしょ? どんな人だったの」
「顔は見ていない。調査兵団が警備に就いたと知って、尻尾巻いて逃げていきやがった。もう放火の心配はないだろう」
「じゃあ、解決……?」
「後味が悪いがな」
 心の揺れを感じさせないようにリヴァイは微笑んでみせた。気分が晴れないながらも、なるべく不自然に見えないように。


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