33.海へ行くのを諦めろという

※※※

 夜の病院の静寂は寒気を伴う。かつんかつんと音が近づいてきて、ある病室の引き戸が忍びに開かれた。廊下の空気と一緒に爽やかな植物系の香りも忍び込んでくる。
 板張りの病室にはベッドが一つ、眼の下まで掛け布団を掛けた人の、ブロンドの長い髪が枕に散っていた。
 覆面をした黒ずくめの人間がベッドの傍らに立った。腰許に回した手を、天井に向かって振り上げる。窓の隅から僅かに見える月光で、黒ずくめの人間の手許が光った。そして禍々しく光ったナイフの切っ先を、ベッドに向かって振り落とす。
 ブロンドの長い髪の者の喉許を狙ってきた黒革の手は、しかし寸でのところで捕らえられた。

「ずいぶんな挨拶だ」
 ベッドから起き上がり、リヴァイはブロンドのかつらを剥いで投げ捨てる。掴んだ黒革の手を捻り上げると、ナイフが床板にからんと落ちた。
「君にふさわしい挨拶だと思ったんだけど、お気に召さなかった?」 
「てめぇらしくはある。フュルスト」
 言い当てられたフュルストは覆面を脱いで頭を振る。さらさらと揺れる髪の毛は仄暗い病室で白く見えた。
「僕がここに来るのを、まるで予知していたみたいだね。予言者は誰かな?」
 と余裕な笑みで、ベッド下を透視するように目線を落とした。

「私よ」
 真琴は低いベッドの下から窓側に這い出て、ゆっくりと立ち上がった。
「どうして僕だと分かったの?」
「あなたの香水の匂いよ。エリザベートから森林のような香りがした。彼女からそんな匂いがしたことはない。フュルストの移り香だわ」
「移り香ね。愛し合ったあとのものだったかもしれないじゃない」
 ベッドの上でリヴァイは素早く片膝を突き、掛け布団の下で隠していたナイフを突き出した。
「往生際が悪い。さっさと認めろ、てめぇが刺したんだろ」

 キンッ、と耳に痛い金属質の音がぶつかり、フュルストのみぞおち手前で銀の十字架になる。リヴァイはちっと舌を鳴らした。
「こざかしい。手際だけはいいときた」
 フュルストはナイフをもう一本隠し持っていた。尻ポケットから取り出した折り畳みナイフを左手で一振りし、向かってくるナイフを即座に受け止めたのだった。
 力の押し合いで互いの手首がぎりぎりとぶれる。それに伴い、平然を装いながらもフュルストの声も力み気味にぶれる。
「マコをからかっただけじゃない。沸点が低いね」
「馬鹿言え。俺はもともと結構気が長い。短気だったら、てめぇがナイフを振りかざした瞬間に、とうにやってる」
 立ち膝の脚を替えて、リヴァイはナイフを押し込む。

「僕からしてみると、充分気が短いよ」
 真琴はリヴァイの後ろに回り込んだ。
「あなたがエリザートを刺したのは、いつ」
「マコとは、あのときにすれ違ってるじゃない」
「やっぱりあの荷馬車に乗っていたのね。中央憲兵団に成り済まして、アジトを急襲したときに、どさくさに紛れて刺したの」
 フュルストは吹き出し笑いした。
「成り済まして? どさくさに紛れて? 君の頭の中ではどう推理しているんだろう」

「あなたは中央憲兵団に潜入してた。アジトに乗り込むことが決まって、仲間の口から、いま存在を知られるわけにはいかないから口封じに刺した」
 ついつい零れ出てしまうようなフュルストの笑いは止まらない。リヴァイが鋭く声を上げる。
「何が可笑しい!」
「だって可笑しいじゃない」

 藁に縋る思いで真琴は続けた。我知らず、胸の前で手を組んで。
「潜入していることが、中央憲兵団にいま知られると困るから、身を切られる思いでマテウスとエリザートを刺したのよね。ヴァールハイトの目的を遂げるためなら、分かってくれると思って死んでもらったのよね」
「マコ、本気で言ってるの? それとも僕を笑い殺しさせたいのかな」
 フュルストの我慢している笑いに心臓をえぐり取られていく。悲しくて真琴は唇を噛んだ。
「教えてあげるよ。成り済ましなんかじゃない。僕は中央憲兵団の正式な兵士だ」

「二重スパイか」
 リヴァイが言うと、フュルストは首を傾けた。
「どっちの?」
「何……?」
「どっちから送り込まれた二重スパイだと思ってる?」

 まだどこかで信じようと思っている自分は馬鹿だと分かっている。打ちひしがれた心で真琴は答えた。
「あなたはヴァールハイトから中央憲兵団に入った。中央憲兵団に味方だと思わせてヴァールハイトの情報を流すフリをし、代わりに中央憲兵団の情報をヴァールハイトのために使っていた。そうなのよね」

「それだとアジトの場所が漏洩したのは可怪しいね」
「ゲロったのはてめぇか」
「もうやめない? 腕が疲れてきちゃったよ」
 そう言い、暗がりで双眼を光らせたフュルストの体勢が急に沈んだ。ナイフで胴斬りを狙う。
 リヴァイは瞬時に反応した。背中を丸く逸らしてバク転し、真琴の横に降り立った。

「このぐらいで疲れるなんざ、鍛錬が足りねぇからだ」
「君の鉄みたいな腕と一緒にされちゃ敵わないな。それに、こっちは左手だよ」
「答えてフュルスト。アジトの場所を言ったのは、あなた?」
 たいして疲れてなさそうにフュルストはナイフを持つ腕を揉む。
「そう。アジトを見つけたと報告したのは僕」
 アジトの場所が知られたのは真琴が尾けられていたからではなかった。

「どうして。二重スパイなら、本当のことなんて報告しないはずでしょ」
「だから、根本からその考えが間違ってるんだよ。マコは僕のことをそんなに信じていたいの? 突入の時点で皆殺しが決まっていたから刺した。エリを殺し損ねたから口封じに来た。それだけ」
 心臓はどんどん抉り取られていって、ほとんど残っていなかった。残酷なことをする人でも、ヴァールハイトを思っていると信じていたのに。
「……信じていたかった」
 ぽつりと虚しく零すと、リヴァイが詰問した。

「お前の正体は、もともとが中央憲兵だとでもほざくつもりか。ヴァールハイトを探っていたと?」
「どっちも違う。僕は二重スパイなんかじゃない。両方にそう思わせていただけ。ヴァールハイトの発足は僕が仕組んだものであり、中央憲兵団が仕組んだものでもある」
「なんだと? ヴァールハイトが中央憲兵団に関係してんのか」
 フュルストは右足に重心を替えて身体を傾けた。
「あらゆる研究者を保護し、援助する。そういう名目があれば、怯えながらも隠れて研究をしていた者たちが集まるでしょ。組織に」

「科学技術の発展を嫌う王政の取り締まりを、よりしやすくするためか。要は組織そのものが囮」
「そう。でも僕は、自分の目的のために双方を利用させてもらったんだ」
「てめぇはどちらの味方でもない――と」
 うん、と言いたげにフュルストの両眼がしなった。リヴァイは続ける。
「目的のために使っていたのなら、ヴァールハイトを売るような行為はリスクを伴うだろう」

「ヴァールハイトは僕の手を離れたんだ。抵抗運動は大きくなり、市民革命まで秒読み段階。ゼンマイがなくても動き続けるブリキの兵隊になった」
 フュルストは真琴に話しかける。
「ロウに言っても構わないよ、僕が裏切り者だった、って。彼ならフェンデルさんに保護してもらっている。二人は僕のことをまだ味方だと思ってるけどね」

 真琴は声を絞り出す。
「どうしてこんなことができるの。仲間を殺して心が痛まないわけ」
 言うと意外にもフュルストの睫毛が伏せた。
「僕だって少しも痛まないわけじゃない。マテウスやエリは、別に悪いことをしてるわけじゃないもの。反対に中央の彼らなら、殺しても殺し足りないけどね」

「お前はここで入院していったほうがいい。精神異常者を診てくれる医者を紹介してやる」
 リヴァイは気持ち悪そうに言った。
「確かに、僕はどこか可怪しいのかもしれない」
「自覚があるだけマシだが、可怪しいどころじゃないぞ」

「フュルスト。あなたが王政や中央憲兵を憎むのはなぜ」
 フュルストは利き手にナイフを持ち替えた。形の綺麗な唇が淀みなく動く。
「僕の村には鉱山があってね。鉄が豊富に採掘できるから、鍛冶職人が多かった。そこを中央憲兵団が目をつけたんだよ」
 政府は交付金を出す代わりに、村の鍛冶職人たちに武器を製造させた。それは極秘に行われ、村人たちも強制されたふうではなく、むしろ協力的だったという。
「両親は村の頭首だった。僕が中央に入ったのはそのころで、いわゆる人質だったんだ」

「人質に取られたあなたを……不憫に思う。でも村と政府の関係は良好だったんでしょう? なぜ憎むの」
「武器の製造が一段落ついた途端、彼らは村を焼き払った」
 真琴は息を呑んだ。冷たい空気は喉を一瞬にして乾燥させた。
「口封じだよ。極秘で開発した武器を世間に流布させないように。別の任務についていた僕が休暇で戻ってきたときには、村は年寄りはおろか、子供まで消えたあとだった」

「つまるところ復讐か。恨みを買うことをしたってのに、中央はよくお前を置いておく。しょんべんちびるぜ」
「僕は知らないフリをしてきたから。村を焼き払われたことは、立ち聞きでたまたま聞いたんだよ」
 可愛らしくフュルストは肩を竦ませる。
「でもそのことがあったせいか、あまり信用されてないけど。中央憲兵団は入れ子構造になっていて、いまだに僕はその一番外側だ。壁を超えていくほど国の中枢に近づけるんだろうね」

「つらかったのは分かるわ。でも、殺されたから殺すの? それでフュルストは救われるの?」
「馬鹿かっ」
 リヴァイは真琴に鋭く苦言する。
「何、甘いことを言ってる。まだこいつを改心させようとでも考えてんのか。お前は仲間を殺されたんだろう」
「彼の言う通りだよ。教えてあげる、マコ。僕は救われたいんじゃない。なぜ国は残虐なことをするのか、真実を見たいだけだ。隠している真実を知りたいだけだ」

「あなたの幼少のころの記憶と、夢に出てくる女性にも繋がりがあると思ってるのね」
「思ってる」
 真琴は俯いた。フュルストに怒りは湧かない。ただ、哀れで孤独な人だと思った。
「信じてたのに……」
 細い息を吸って、真琴は顔を上げた。
「残念だわ。あなたとはここまでね。フュルストが知りたがっていた真実の一つが分かったのに。喜ぶと思ってたのに。伝えることができなくて残念に思うけど」

 フュルストは碧眼をしきりにしばたたいた。人間らしさを取り戻したような顔色に変わった気がした。
「何が分かったの。もしかして、病室での――」
「同胞だと思ったのに。あなたと分かち合えると思ったのに」
 傍らでナイフを構え続けているリヴァイが眼を剥いている。
「奴と同胞? まさかお前と同じようにこいつも――」
「同胞だって? 君とは生まれ故郷が違う。髪や瞳の色も。それとも記憶を失う前の僕を知ってるとか、そういう意味?」

 フュルストは瞳を揺らして動揺していた。村を焼き討ちにされた恨みよりも、彼はあやふやな記憶を確かめたい気持ちのほうが、遥かに大きいように見て取れた。いま打ち明ければ、改心することができるのではないかと、一縷の望みを垣間見るほどであった。
 そのとき廊下から足音がしてきた。病棟の巡回か。

 フュルストは背後の引き戸をちらりと窺い、
「真琴とはもう一度、デートが必要みたいだ」
「誰が引き合わせるか。てめぇとは、タカ派の屋敷前で決着をつけてやる」
 フュルストは面白そうに片方の口角を上げた。
「タカ派の屋敷前? 何それ。悪いけど、君とのデートは延期でいいかな」

「私もあなたとのデートは延期するわ。いいえ、一生ないの間違いね」
「そんなことはありえない。マコとは必ず会うことになる。熱気球も没収されちゃったことだしね」
 と、フュルストはおちゃめに首を傾けた。あのときすれ違った荷馬車に熱気球が積まれていたらしい。彼の思惑に釣られた真琴は思わず縋りかける。

「あなたが取り戻してくれるとでもいうの。あなたならそれが」
「マコ!」
 リヴァイが咎めた。フュルストは言う。
「あれはかさばるしね、運び出すのは容易じゃないだろうな。それよりも、彼らは熱気球をマコを釣り上げる餌に使うみたいだ。入れ子のど真ん中の連中は、なぜか君をひどく欲してるよ」

「私のことも売ったのね」
「おかげで少しばかり信用が上がった。ありがとう」
 フュルストの足が一歩ずつ後ろへ下がっていく。
「待て!」
 リヴァイが発したのを合図というふうに身を翻し、フュルストは煙のように扉口から消え去っていった。

 歯を食いしばって、リヴァイは半開きの引き戸が自然と閉じていくのを睨んでいた。ほとんど音もなく静かに閉まりきると、真琴の片腕を掴んで引き寄せた。食らいつくように間近で問い詰める。
「熱気球とはなんだ。俺はいま機嫌がクソ悪い。嘘をついてみろ、仕置きがケツ叩きじゃ済まねぇぞ」
 真琴はたじろぐ。
「ヴァールハイトで開発してた空飛ぶ乗り物……」
「そのわけ分かんねぇ代物で、お前は海へ行こうとしてたんだな。まさか取り戻そうと思ってんじゃねぇだろう?」
 答えられず、刃物のような眼差しから真琴は眼を逸らした。

 リヴァイは真琴の腕を揺さぶる。「ふざけるな! 海へは俺が連れていくと言ったろう!」
 さらに顔を接近させ、空気を裂くような声で理解させようとしてくる。
「熱気球はもう諦めろ、どうせ取り戻せない」
「だってっ。空を飛ぶ以外に、どうやって海へ行くっていうのっ。どう連れていくっていうのよっ」
「馬で駆けていけばいいだろう!」
 仲間を殺され、傷つけられ、かろうじて信じていた人にボロボロに裏切られ、あげくの果てに熱気球まで奪われて、海への道も失ってしまった。もはや八つ当たりなのだけれど、黙っていると精神崩壊しそうで真琴は感情を爆発させた。

「だからどうやって! 外には巨人がいるのよ! 無理だわ!」
「だから俺が――っ」
「リヴァイが巨人を全滅させてくれるっていうの!? それはいつ! 生きてるあいだに叶うの!?」
「――っ」
 咄嗟に口は開いたもののリヴァイは言葉を失う。彼の手が若干わなないたのは、現実と向き合って無理だと判断した狼狽か。
「できもしないことを簡単に約束しないで!」
 真琴は肩で荒い呼吸をする。白い吐息が現れては消える。
 リヴァイの手が真琴の背中を少しおざなりにさすってきた。女のヒステリーをやり過ごすように。
「たちまち頭を沸かせやがる。これだから女ってのは……だから合理的な判断ができなくなる」
 両肩の動きが落ち着くのを待って、冷静に諭した。

「とにかく、中央の奴らに奪われた熱気球のことは、もともとなかったものとして忘れろ。殺されるだけだ」
 床板に目線を落として真琴は呟く。
「私に諦めろっていうのね……」
「そうだ」
「だったらっ」
 顔を上げて、真琴はリヴァイのベストを掴んだ。恋しい想いをぶつける。

「海へ行くのを諦めろっていうなら、私をもらってよっ。私をもらって!」
 言った瞬間、リヴァイは息を呑んで瞠目した。しばらく瞳を揺動させてから、心苦しそうに顔を逸らした。
 その様子を見て真琴は、(あっ……)と悲痛に眉を下げる。そして俯いた。
 分かっていた反応ではないか。最近になって距離がぐっと近づいた気がしていたから、もしかしてと、僅かながら期待していた。分かっていたのに改めて思い知らされ、自分で求めておいて勝手に傷ついただけだった。
「……ごめんなさい」
 ――困らせてしまって。いまの忘れて……。
 吐息とともに吐き出した言葉は、ひんやりとした病室で淡い気体になり、そうして儚く散っていった。


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mokuji
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